第18話 ピュルテ
ピュルテがドウトの森に来たのは遠く、昔のことだ。
ピュルテが物心つくころ、トラレイトの花の群生地を見つけた母が今の棲み処の場所に寝床を作った。
「ほら、ピュルテ~。見て見て綺麗な花でしょう?」
まだ小さいピュルテの顔の前にトラレイトの花をかざし、嬉しそうに笑う母の顔は今思い出しても綺麗だった。
ピュルテが思う理想的な人物というのはそれすなわち母のような人物である。
父親については今なお知らないままだが、それでも十分だと感じるほどに、母から愛情を注がれた。
母はキレイな女性だった。
美しく、よく笑う、花が良く似合う女性だった。
ピュルテは、そんな母が大好きだった。
「お母さん、またお話して!」
「ふふっ、また~? いいわよ、どこまで話したっけ?」
母にはいつもこの森の外の話をねだった。
見たことのない、聞いたことのないものを母の口から聞き、頭の中で考えるのはこの森の景色しか知らないピュルテにとってとても楽しい時間だった。
オサのところや、森の中では感じられないものを感じることができた。
何度も何度も話をせがむピュルテのことを、母はいつもにこにこと微笑み。
どれだけしつこく聞いても、その度、うれしそうに話をしてくれた。
母はどんな時もピュルテを第一に考え、優しく、寄り添ってくれたように思う。
しかし、そんなやさしい母が唯一ピュルテの話を聞いてくれない瞬間が存在した。
「ごめんね、今は、少し待ってね……」
それはあの花園を見ている時間。
母は不意にトラレイトを、ぼーっと何かを考えるように見つめる癖があった。
その時だけはピュルテの声にも反応することなく、いくら話しかけても生返事が帰ってくるだけだった。
ある時、なぜそんなに花が好きなのかと聞いたことがある。
すると母は妙に困ったような顔を見せ、恥ずかしそうに笑うのだ。
「ここはね、おかあさんの大事な、大事な場所なの……。ピュルテもここが大好きでしょ?」
そう話す母は慈愛に満ち溢れたような顔で、にっこりとピュルテに話しかけてきた。
生まれてからずっと、ピュルテはこの花園で育ち、この花園で遊び、この場所で母と暮らしてきた。
こくりと頷くピュルテを見て、母は満足そうに笑い、また思案気な顔をする。
自分の知らない何かがあることはわかっても、それを教えてはもらえなかった。
ピュルテは見たことのない母の顔を見て、不満げな顔をするしかできない。
「きっと……あなたも――――――――」
ここではないどこか、誰かに囁きかけるように声を漏らす母を見て、まだ小さいピュルテは寂しい気持ちが自分の中にたまっていくのを感じていた。
結局、あの時何を考えていたのかはわからないまま、母は病にかかり。
ずっと、母にくっついて生きてきたピュルテは一人、この森に取り残されてしまった。
森の中はずっと獣の声や、葉が揺れる音がしていたはずなのに、母がいなくなってから急に森が静かに感じるようになった。
それからずっと、ピュルテは花園に座っていた。
母を埋葬してから、ずっと。
身体の中にある力が抜け出るように、何もやる気が起きなかった。
時々、じいが何かを話しに来たが何も覚えていない。
するすると音が抜け出るようにオサの言葉は耳を通り抜けるように出ていってしまった。
ずっと。
ずっと、ずっと。
お腹が空けば身体が勝手に獣を狩り、近づいてくる魔獣は全て殺した。
何をしても、何を食べても、何も感じない。
そうして、ただ時間だけが過ぎていく。
もうどれだけそうしているのかピュルテにもわからなくなっていた。
そんなある日、聞き慣れない言葉が聞こえた。
言葉、というより声。体の内の何かがざわつくような、不思議な感覚。
その声の主は人間、ヒトと呼ばれるものだった。
母とは違う薄い気配。
だが、姿形はピュルテ達と同じ。
そんなヒト達がやけに喜ぶような声を上げながら、花園へ入ってきたのだ。
彼らは辺りを見回しながら声を発している。
何故だかとても興奮しているように見えた。
「ここがトラライトの花園か」
黙って座り込むピュルテは返事もせず、花園へ入ってきた未知の存在を観察していた。
彼らは座り込むピュルテに気づくと何事か声を掛けてきたが、だまりこんだまま声を発しないピュルテに肩をすくめた。
そしてすぐに興奮を抑えきれないと、トラレイトの花々に近づいていった。
「すげぇ、どれだけあるんだ!?」
「まさかこんなところにあるなんて!」
「守護者もいないみたいだし、噂は本当だったんだ……!」
何故だか、ピュルテには目から入ってくる光景が本物とは思えなかった。
確かに視界に入っているはずなのに。
現実と切り離されたように、夢の中にいるように。
呆然と彼らが花に近づいていくのをただ見つめていた。
「やったぜ、これで俺たちも将来安泰ってか?」
「何言ってんの、まだまだこれからでしょ!」
「ほら、しゃべってないでそろそろ準備しろって」
「はいはい」
その気配があまりに薄かったせいか、無意識に自分に害をもたらすようなものではないと脳が判断していたのかもしれない。
だからその存在が何をしようとピュルテには関係ないと見過ごしていた。
「じゃあ、さっそく刈り取るぞ!」
ーーーーその言葉を聞くまでは。
耳に入った言葉が意味を成し、意味を成した言葉が空っぽの体に浸透していく。
今、あの男たちはなんといった?
刈り取る?
何を?
それは当然、興奮しきっている彼らの目を見れば花を狙っているのは見てわかる。
だが頭の理解が、今見てる光景がうまく認識できない。
母の大事な花たち。
ピュルテの、大事な花。
むしり取ろうというのか。あの男たちは。
奪おうと言うのか、わたしから。
胸の中をふつふつとせり上がる感情が暴れまわる。
何もなかった自分の中を満たすように、膨れ上がった感情が体の中を支配していく。
「……させ、ない」
自然と言葉が溢れ、身体は意識するだけで滑らかに動いた。
地を滑るように移動して不快な音を出す物体に接近する。
正面に驚いた表情の男が写るのと同時に手刀を振りかざした。
獣を裂く時とは違い、耳障りな絶叫が耳を汚す。
動揺した男の仲間は固まったまま、目を丸くしている。
遅れて聞こえて来た悲鳴が頭を揺らす。
頬に飛ぶ生ぬるい血液。
切り裂いた男の体温が手に移ったかのように熱い。
嗅ぎ慣れないヒトの匂い。
全てがひどく、不快だった。
消さないと、この汚い声を……。
仲間の死をようやく理解した奴らが動くよりも早く、胴に腕を突き込む。
また一つ、音もなく肉の塊が地面へ転がった。
そうしてピュルテは不快な音を一つずつ、丁寧に消していった。
取りこぼしのないように、慎重に。
そして、血だまりに沈む水音が一つ鳴り終えると、辺りにはまた森特有のざわめきが帰ってきた。
いつもの場所が戻って来たような感覚。
この場所を脅かす存在を消し去ったことで、ささくれだっていた気持ちが落ち着いていき、自分の居場所が帰ってきたような安心感に包まれる。
肉を引き裂いた感触が手に残るまま、見下ろす視線の先。
真っ赤に染まった手のひらを見て、その時思ったのだ。
ここを守らなくてはならないと。
この獣よりも醜い獣達から母の、私の大事なものを守らなくてはならないと。
『ここは私の大事な場所なの…………』
母の言葉が頭をよぎる。
母の為に、この聖域を荒らす害獣達を近寄らせない。
わずかに踏み荒らされた花園が目にはいり、ピュルテは強く決心した。
それから、
時に並外れた怪力をもって力任せに、
時に堅牢な盾を構えて持久戦を、
時に身の速さをもってしてかく乱しようと。
実に様々な人間がピュルテに対し、勝負を仕掛けてきた
ピュルテはそれらすべてを跳ね除け、撃退し、あるいは殺した。
誰にも触れさせないように。
誰にも奪わせないように。
どれだけ手間がかかろうと。
守りきった花を見れば、母が笑ってくれるような気がして。
空っぽだった心は侵入者への敵意で埋まり、ピュルテの体に再び活力が戻った。
花園を守り続け、街で何やら花の守護者だなんだと呼ばれるようになった頃。
一人の男がピュルテに対し大きな変化をもたらした。
一言で言ってしまえば、それは変な男だった。
獣を連れて、今までの人間たちとは醸し出す雰囲気が明らかに異なっていた。
だが、他のヒトと同じくその男の目的は多分にもれずトラレイトの花だった。
多少、今までの奴らよりも戦闘に長けてはいてもその本質は変わらない。
これまでの経験から、ピュルテはそう考えた。
少し戦えるくらいで……!
絶対に花は渡さない、そう思いながら拳を振るった。
そして苦戦しながらも意識を刈り取り、始末しようとしたとき。
首元をえぐろうと手を振り上げたところで腰に森人がぶつかってきて――――。
男は森の民の恩人だった。
それから諦め悪く隙を伺っては花を狙う男には、森で起きている異変にかこつけてそれの手伝いをさせることにした。
これまで嫌っていたヒトという存在。いくら森の民が恩人と慕っていても心のうちに嫌悪感はある。
それでも男に、共に行動することを許したのはなぜか。
それは男には目的があったからだ。
いなくなった人を探すため、旅をしているのだという。
その人物は男にとって家族のような存在であり、トラレイトが欲しいのもそれに関係する事らしい。
ピュルテは家族という単語に、自分自信を錯覚した。
大事な人の為に行動する部分に親近感をみいだしていたのかもしれない。
――――きっと、適当に言っているだけ……。どうせこいつも他の奴と同じ……。
正直なところ、この時はまだこの男のことを全く信じていなかったと思う。
報酬として花を渡すようなことを言ったが内心では適当なところで追い返そうとしていた。
だが、同じヒトでも理由があって花を欲しがっていることだけは理解できた。
今思えば、この時から少し自分の中でこの男――――ファンに対する心情というのは今まで見てきたヒト種とは違うと感じていたのだ。
ファンはこの森の外、今まで旅してきた場所での話をたくさん持っていた。
半ば無理やり聞き出すようにしてせがんだら次から次へと知らない話がポンポンと出てくる。
それらはすべて、とても興味深く、未知の話だった。
自分の心が湧き立つのを強く実感した。
そして、森の中を共に歩き、共に飯を食らい、共に戦った。
同じものを共有するうちに、それまで頭にずっと残していた敵意が、だんだんと当初の敵対心が小さくなっていった。
ヒトに対する敵対心が薄くなっていく中、決定的だったのが森の民の子供を助けるために円棘獣を追って食物地帯へ入り込んだ時だ。
あの時ピュルテは子供たちの死体を見て激高し、無謀に突っ込み、返り討ちに合った。
そんな真似をしでかしたピュルテを見て、逃げる選択肢も当然あったはずだ。
あの場面。ただ怒りに任せて突撃し戦闘不能に陥る連れなど放っておき、逃げた後、自身の目的を果たすために花園へ向かう、そんなことだってできたはずだ。
だがあの男はそんな苦境をも打破して見せた。
身動きのとれないピュルテをかばうように前に立ち、立ち向かう姿勢をとった。
ところどころの意識は朦朧とし、記憶の曖昧なところもあるが
あの男が見せた覚悟はしっかりと目に焼き付いている。
失態を見せたピュルテを見捨てず、勝機の薄い賭けに飛び込み、何とかしてしまった。
ただ見ているしかできなかった自分をよそに、一人で……。
…………。
………………。
森の民の儀式が終わった後、半ば強引に街に連れ出された。
「街で食べた料理の美味しい店、一緒に食べに行こう!」
とてもそんな気分ではない。そういって断ったが、
強張った顔、はたからみても不慣れな様子で私を誘ってくるファンの勢いに押し切られる形で、私は森の外へ出ることになった。
一度断ったもののいざ街に入ってみれば、人生においてこれほど胸が躍ることはない、そう言いきれるほど街の景色は良いものであふれていた。
見たことない建物から食べ物、そしてヒトの暮らし。
心の隅にしまっておいた感情が歓喜するように、あらゆるものに目を奪われた。
それまでのことを一時的に全て忘れ、全身で未知の場所の空気を取り込み、練り歩く。
久しく感じていなかった興奮が体から留めなく湧き出て抑えきれずにいた。
ファンはそんな私をみて、どことなく安心したような顔を見せた。
なぜそんな顔をするのか、ピュルテには分からなかったが、それが自分のためになにかした上での感情だということだけはしっかりと伝わった。
この僅かな期間だけで、 そんなことがわかるくらいにはファンという存在を自分の中に認めていたのだ。
数日間、ファンとともに行動したことによっていつの間にかファンに対する嫌悪感はなくなり、
初めて出会ったときのあの敵対心が嘘のようになくなった。
今まで遭遇してきたヒトという存在に対しての認識を、ファンは一変させたのだ。
ただの害獣としてしか認識してこなかった種族にこんな人間がいるとは思いもよらなかった。
これまで目の敵にしていた「ヒト」は悪だけではない。
ファンに出会ったことでそれを知ることができた。
そして、それ故に。
ヒトという存在を自分の中で認めたが故に。
少女に衝撃を受けた。
酒場の少女に逢い、話を聞いた時自分の中の何かがざわつくのをピュルテは感じ取った。
それは初めてヒトを見た、あの男たちの時とは違うざわめき。
自分と同じような境遇。年は長寿の自分とは異なるまだ幼い少女。その心持ちに、その生き方に。
胸が苦しくなった。
親を亡くしても、商人の道を目指さんと塞ぎ込むことなく、不満を適度に解放させながらも定めた目的へ突き進もうとする少女。
眩しいその姿を見て、ふと自分を振り返る。
仲間も守れず、逃げるようにヒトの街へやって来て呑気に酒を飲み、店を覗き、身勝手に楽しんでいる。
果たすべきことも放棄して、呑気に。
――――恥ずかしい。
未知の場所で未知の経験に、未知の景色を見て浮足立っていた自分が情けないと、感じた。
今、本当にこんなことをしてて……。
心に浮かんだ負の感情は少女と別れてからもずっと心の中に重く居座った。
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