第2話
:矛盾精神
一
少女は
先日十八歳になったというが、僕にはもっと若く見える。というより、幼い、だろうか。
霧花が案内してくれた先は、僕が化け物に襲われていた場所からすぐのところにあるマンションのうち、最上階の一室だった。
と言ってもどうやら建設途中の建物らしく、ほとんどの部屋はコンクリートが剥き出しになっている。
要するに、廃墟だ。
その中で一番仕上がっていた部屋を拠点に選んだそうなのだが、そこも他との違うのは窓ガラスがはめ込まれているくらいで、内装も何もあったものではない。どこから持ってきたのか、机や椅子など一通りの家具は存在していたが、およそ人間が暮らすような場所ではなかった。
「あんたには寒いだろうけど文句は言わないでよ。私一人が暮らすにはこれで十分なの。まさか客を招くことなんて、あると思わなかったし」
そう言いながらも、霧栄は部屋の奥から一枚の毛布を引っ張り出して、片隅に座り込んだ僕に寄越してくれた。
こちらとしても右も左も分からない身なので、雨風をしのげる空間というだけでありがたい。文句など出るはずもなかった。
「——で。何か思い出したことは?
訪ねられて僕は、いいや、とかぶりを振った。
結局のところ頭の中が整理されても、僕が思い出せたのは二つだけだった。
一つは、名前。
僕はムラサキという名前らしい。
群衆の「群」に花が咲くの「咲」で、ムラサキと読む。
霧栄には変な名前、と言われたが、僕もそう思った。なんなんだろう、この変な名前は。
二つ目は、……役割、だろうか。
「何か」をしなければならない、と無意識の奥底で叫ぶ声がある。僕は絶対に遂行しなければならない「何か」があるという、そんな確信があった。
もっともその内容も全く思い出せないので、これまた霧花は、「何それ」と眉を顰めていたが。
そんなわけで、客観的に見ると僕こと群咲は、全くもって不審者としか言いようがなかった。
そんな身元不明の少年を助けてくれて、その後も見捨てないでくれたのだから、霧花はきっと優しい人なんだろうと思う。
「しかし本当、珍妙な格好してるわね。……歳も覚えてないんだっけ」
腰に手を当ててそう言いながら、霧栄はこちらを見下ろしてくる。その立ち姿はやっぱり色々と魅力的すぎて、僕は目のやり場に困ってしまう。
ただ、珍妙な格好、というのには僕も同意せざるを得なかった。
僕の身体の大きさから二十センチ以上逸脱したブカブカのロングコートに、これまた僕の足には大きすぎる古びた革のブーツ。この装備が、化け物に追いかけられている時に走りづらかった大きな原因だ。
そして、それらに身を包んだ齢十五かそれ以下の白髪の少年。それが今の僕の風体だった。
「何でそんな格好してるのか、っていうのも覚えてないのよね」
「……うん」
そんな質問に、僕は首肯を返した。
どうして僕がこんな、身体に不釣り合いな服を着ているのか。どうして僕があの道を走っていて、化け物に追われていたのか。
——何もかも覚えていない。
「でもね、群咲。記憶が無くても今日この日に外をほっつき歩くなんて、あなたの頭の程度が問題としか言えないわ。"雪の日"は化け物が増える。サファリパークを徒歩で行くようなものよ」
「……あの化け物っていったい何なの?」
「正体は誰も知らないわ。ただ、この町でクリスマスが始まってからずっと——」
「クリスマスが始まる?」
「……驚いた。何も覚えていないばかりか、何も知らないの?あなた」
霧栄は今までツンとしているだけだった表情を崩して、呆けるように目をぱちくりとさせた。
「駅ビルの住人ってわけでもなさそうだし、……まさか部外者?またあのピエロの仕業かしら。
あのね、群咲。簡単に言うと、この町は
霧花の説明はこうだった。
十年前——この町こと
この町全体が十二月二十五日という一日に固定され、四季が巡るはずの日本という国にありながら、どれだけ月日が過ぎても気温が上がらず、花も芽吹かなくなった。
この町には春も夏も存在しない。一年を通して平均気温は十度未満で、週に一度ほどという頻繁さで雪が降るため、ほとんど常に銀世界という有様である。
さらに奇特なのは、あくまで冬のある一日ではなく、
クリスマスというものは、ただ日付が十二月二十五日だというだけでは成立しない。
家々がイルミネーションに彩られ、街路樹の天辺にベツレヘムの星が飾られ、町にクリスマスソングが流れてこその聖夜だ。
だからこの町では、イルミネーションが絶えることはないし、町のスピーカーからは煌びやかでどこか切ないラブソングが流れ続けている。
「それを止めようとする人は、殺されるのよ。あの化け物に」
先ほど僕を追ってきたあの怪物のことだ。
例えばイルミネーションを取り外そうとか、例えば流れる楽曲を止めようとか……ともかくそういう、"クリスマスを終わらせる"ような事をすると、問答無用で襲いかかってくるという。事実それで、十年前には何も知らず片付けをしようとした人が何人も死んだ、とか。
「……でも僕、そんなことはしてないよ?」
「あの化け物はね、簡単に言うとある男の手下なの。
そいつはクリスマスを終わらせたくないと思ってる。ただそれとは別に、人間が苦しむのが大好きなクソ野郎でもある。だから、何もしなくても人を襲うのよ」
「
「多分、この町をクリスマスに閉じ込めた元凶。……少なくとも私は思ってる」
何というか総じて現実味のない話ではあったが、少なくともクリスマスが異常に続いているというのは僕の時間感覚が正しければ間違いのないことだし、化け物の存在に関しては自分自身の目で見てしまったから信じるしかない。
それに、霧花の話す様子はあまりに真剣味に満ちていて、冗談らしさがこれっぽっちも感じられない。
多分その"圧"のようなものに押されたのだろう、気付けば僕はほとんど彼女の話を真実として受け止めていた。
「いったい何者なの?そいつは」
「分からない。十年前に突然現れて、この町がおかしくなってからはずっとここにいる。……名前も素顔もわからないけど、魔法みたいな力を使えることは確かなの」
それが化け物を操ったり、クリスマスを続けたり、ということなのだろう。
町には一定の気候のサイクルのようなものがあるらしく、七日に一度ほど雪が降る日には、化け物たちが活発化するという。
なので基本、今日のような日にはこの町の住人は外に出ないそうだ。
だからさっきも人っ子一人見かけなかったのか、と僕は肩を落とす。どれだけ縋る思いで助けを求めても無駄だったわけだ。
「化け物の習性なのか、あいつら建物の中には入って来ないの。だから基本、雪の日は拠点でじっとしていれば安全。覚えておきなさい」
「……じゃあこの町にも、普通に人は住んでるんだ」
「普通に、とは言えないけどね。
十年前から、私たちは町の外に出れなくなったの。町の外の方に行くと化け物が大量に居座ってて、誰も通れないのよ。だから自治体としての機能はほとんど死んでる。電気水道は何故か通じているんだけど、無駄にはできないから、みんなで助け合って集団生活をしてるわ。化け物のことを考えると、その方が安全だし」
「なら、この辺りにも人は沢山いるの?今は隠れているだけで」
不安が多少和らぐことを期待しての質問だったが、霧花はかぶりを振った。
「この周辺に人はいない。住んでるのは私一人だけよ」
「……どうして、って訊いても?」
「別に。私が嫌われてるだけ」
嫌に沈鬱な顔でそんなことを言われて、僕は何も言えなくなってしまう。
……それにしても。
周囲を見回してみて、ふと古ぼけた机に卓上カレンダーが置いてあるのが見えた。日付までは分からないが、開かれているのは確かに八月のページだ。
しかし視線を動かして窓の外を見れば、今も深々と雪が降り続けている。
十年もクリスマスが続いている、なんていうのはどう考えてもあり得ない話だ。
しかし、僕の周囲の世界は少なくともそれを事実として証明し続けている。
世界の法理というものを逸脱した現象だが、信じるしかなかった。——何よりこの心まで冷え切るような寒さは、間違いなく本物だ。
ぶるりと身を震わせて、僕は再び霧花の方に視線を戻した。
赤色の髪や瞳は相変わらず燃えるようだし、薄褐色の肌はあまりに健康的で、どちらもこの極寒の世界からは完全に独立しているかのように見える。
軽すぎる服装も変わらずで、下から見上げる今の構図だと胸の大部分の面積が見えてしまう。
……どうして彼女は、こんな格好をしてるんだろう。
この気温で肌の露出面積が水着以上というのは、冗談抜きで命に関わる暴挙と言える。
これは単に暑がりだからなどという理由では流石に説明できない——つまり、今この町を取り巻く環境と同じような「異常」であるように思えた。
「霧花はさ、こんなに寒いのに、何でそんな服を着てるの?」
「……ちょっと待って。あなた今、私のこと何て呼んだ?」
僕の質問は無視され、代わりに霧花は目をジロリと細めると、こちらにピンと人差し指を向けてそんなことを言ってきた。
「自分の歳を覚えてないのは仕方ないとしても、どう見たってあなた、私より歳下でしょ。その辺りの線引きはきちんとしてもらわないと困るわ。友達じゃないんだから」
「あ、ああ……そうだよね、うん、ごめんなさい」
どうしてだろう。考えてみれば、僕は彼女に対して「歳上に対する接し方」というものを一切していなかった。
記憶はなくても、流石に敬語の使い方くらいは分かる。なのに何故だか、僕は霧花にそれを使おうとは思わなかった。
何というか——歳上、という感じがしなかった。……口に出したらますます彼女は怒りそうなので黙っていたが、多分それが原因だ。
「えっと、それで……霧花さんは、どうしてそんな格好を?」
「……っ」
言葉遣いを改めて問うと、どういうわけか
それから彼女は雑念を振り払うように頭を振ってから、こちらに向き直った。
「……この町がクリスマスに閉じ込められた時、私の身にも異変が起こったの。
——私、体温がいつも四◯度以上あるのよ」
それを聞いて、僕は思わず「え」と訊き返してしまう。
四◯度というと、人間が活動できるほとんど限界の体温だ。インフルエンザに罹った患者の平熱じゃないだろうか。
「それって……辛く無いんですか?」
「ううん。熱だけだもん。他に体調を崩すことは無いから、たぶん病気とかじゃ無いんだけど……ただ十年前からずっと、暑くて暑くて仕方がない。だからこんな薄着なのよ」
霧花さんは腰に手を当て、水着モデルが体躯を強調するようなポーズをとった。
「それだけじゃ無いわ。さっきあなたを助けた時みたいに、普通じゃ無い動きが出来るようになった」
「普通じゃ無い、っていうと……足が速くなったり?」
「大雑把に言えば、そういうこと。身体能力が馬鹿みたいに高まったの。それに耐久力もね。今の私は、この部屋から地上に飛び降りても平気だから」
言いながら彼女は視線を動かし、窓の外——地上十階からの景色を俯瞰する。目元が翳っていて、こちらからその表情は見えなかった。
「髪と目が赤くなったのもその時よ。最初は驚いたけどね、もう慣れたわ。
この辺りには人がいないから、この格好を恥ずかしいと思う必要も無いし。あなたも子供だしね」
「子供……」
確かに彼我の歳の差を考えると間違っていないのだが、不思議と僕は違和感を覚えた。
……多分やっぱり、まだ頭が混乱しているのだろう。
僕は額を手のひらで小突いて、それからふと、卓上カレンダーの置いてあった机に小さな写真が飾られているのに気付いた。
写っているのは、小さな男の子だ。おそらく小学校に入る前の、真の意味での子供。
「その写真は?」
気になって尋ねてみると、霧花さんは僅かにその表情を物憂げなものに変えた。
「……弟よ。
「その人って……」
「十年前に、死んだ。まだ七歳だったけど」
それって、と僕は訊き返す。
さっきの話を聞いた後だと、残酷な過去を想像してしまうのは仕方のないことだろう。
しかし霧花さんは、寂しそうな笑顔で首を横に振った。
「化け物に殺されたんじゃないわ。弟が死んだのはクリスマスが始まる前よ。昔から身体の弱い子でね。
……でもあの子は毎年クリスマスを楽しみにしてた。それがこんなことになるなんて」
霧花さんが拳を握り締めるのを見て、僕は思わず目をそらす。
クリスマスを楽しみにしていた弟。彼がそれを迎えられなかったなら、後に残され一人クリスマスを迎えた姉の哀しみは、果たして計り知れない。
そしてそれが、こんな矛盾したカタチに歪曲された怒りも——また、僕なんかには計り知れない。
それは余りある悪意による、酷い皮肉のようにも思えた。
もう一度、机の上の写真に目を戻してみる。
そこに写っている少年は、いかにも気弱そうな顔で、精一杯の笑顔を浮かべていた。
何だかそれは、今の僕に似ているようにも思えた。
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