矛盾聖夜
オセロット
第1話
成熟した大人の思考を"正常"であると定義するならば、きっと未熟な子供の精神は、矛盾に満ちている。
その子供が空想する世界があるならば、それもまたきっと、矛盾に満ちた世界だろう。
一:矛盾風景
降るはずのない雪が降る中、ひたすらに走っていた。
町の様子はクリスマス一色という感じだ。
そこら中の家がイルミネーションに彩られ、まるで世界が極彩色に染め上げられているように感じる。
積雪は十センチを超えていて、足を動かす度に転びそうになる。
そもそも身体が凍え切っているので、呼吸をするのも億劫だ。
疲れはどんどん溜まっていく一方で、今にも僕は立ち止まってしまいそうだった。
けど、止まるわけには行かない。
だって止まったら、きっと殺される。
有り体に言って、僕は化け物に追われていた。
四本脚で駆けるそれは、一見して狼のような姿をしている。
だが、一メートル以上もあろうという尻尾の先には鎌のように反り返った刃が光っているし、そもそも顔に、目が一つしかついていない。どう見たって既存の動物ではなかった。
そんな異形の怪物はどうやら僕にご執心らしく、脇目も振らずに追い縋ってくる。
「
唐突に、背中に鋭い痛みが走った。化け物が尻尾を伸ばし、その先の刃で切りつけてきたらしい。
その衝撃で足が滑り、こんな不安定な足場で体勢を保てるはずもなく、僕はなす術もなく前のめりに雪の中に突っ込む。
「うっ……!」
転んだ時の痛みと雪の冷たさに小さな悲鳴を上げながら、僕は必死の思いで身体を起こし、背後に目をやる。
化け物は僕が転んだことで獲物を追い詰めたものと満足したらしく、二メートルほどの間を開けて、涎を垂らしながらこちらを見ていた。その様子はやっぱり、狼に似ていた。
藁にも縋る思いで、僕は周囲に視線を走らせる。
ここはどうやら、住宅街の中にあるT字路らしい。
と言っても左には同じように道が続いているだけだし、右の道の突き当たりは川だ。どちらにしろ、助けを求められるような人はいない。
というか、そもそもこの辺り一帯は廃墟のようだった。
走っている時に見えた家々はどれも明かりの一つも点いていなかったし、どの建物もかなり年季の入った寂れ方をしている。この町全体、全て打ち棄てられているかのようだ。
化け物が、やおら姿勢を低くする。こちらに飛び掛かろうとしているのは明白だ。
"——ああ、くそ。死にたくない"
身体が凍えていたので、言葉を発することは出来なかった。口から吐き出されるのは白い息だけ。
だからそんな情けない願望は、心の中にだけ留まった。
僕は、死にたくない。
だって僕は、まだ——、
「——アイツを、殺してない——!」
——闖入者が現れたのは、その時だった。
化け物と僕の間に割って入るように誰かが降って来て、惚れ惚れするような無駄のない動きで不安定な雪の上に着地する。
——その姿は、鮮烈なほど美しい少女のものカタチをしていた。
彼女は僕と化け物の間に割って入り、こちらに背を向けている。つまり化け物と相対しているのだ。
君は、と訊こうとして、しかし僕の声は怪物の咆哮に遮られた。
化け物が、俊敏な動きで跳躍する。その動作もやはり狼のようで、僕は思わず目を閉じそうになる。
が、次の瞬間、今度は驚愕に目を見開いていた。
——化け物が地面へ叩き付けられ、悶えている。
それは、目の前の少女が繰り出した踵落としを食らった結果だった。
「ギッ——!」
潰れた鼠のような断末魔が上がる一瞬の中で、彼女はさらに跳躍し、空中で一回転すると、落下の勢いのまま両足で化け物の腹を踏みつけた。
ヒト一人の全体重が掛かった圧力は、果実を圧搾するように化け物の身体を潰し、絶命させた。
——しかしそんなグロテスクな光景より、僕は、化け物の屍体の上に立ってこちらを見下ろす少女の姿に目を奪われていた。
年は僕より上に見える。
見るからに日本人離れした、燃えるような赤目赤髪。その肌は陽光の気配をありありと感じさせる小麦色で、何というか常夏を象徴するかのように活発な容姿だ。
加えておかしいのは、彼女の格好だった。
吐く息は白く染まり、身も凍えるこの銀世界の中、少女の身を包むのは一枚のランニングシャツとホットパンツのみ。しかも上半身を包むシャツは、胸の真ん中辺りにまで捲し上げられている。あれでは下着以下の防御性能だろう。
これ以上なく扇情的かつ華麗な出で立ちは、彼女の存在感を際立たせ、周りの景色と比べると、まるで世界から孤立しているかのようだった。
その存在感は、雪の中を追ってくる化け物より遥かに異様だ。
「あ——ありがとう。助けてくれて」
恐る恐るといった口調で、僕はともかく礼を述べた。
少女は答えず、黙ったままこちらに歩み寄ってくる。
その眼差しは氷のように冷たいのだと、僕にも分かった。
彼女は目の前にまで近づくと、物色するようにこちらをジロジロと見てきた。訝しげなその表情すらとても綺麗で、僕は年相応にどぎまぎしてしまう。
少女は一通り僕の全身を見回すと、ようやく顔を遠ざけてくれた。そして一つ、いかにも鬱陶しそうな溜息をつくと、
「——で。あんた、誰?」
そんな風に、彼女は凛然とした声で誰何した。
答えようとして、あれ、と思う。
——僕は、誰だっけ?
「……分からない。僕、誰だろう」
「はあ?」
正直に答えると、少女は眉を顰めた。が、僕がふざけているわけではないと分かったのか、いかにも不機嫌そうだった表情はすぐに引っ込む。
代わりに彼女は、また面倒臭そうに溜息をついて、頭を掻いた。
「……ああ、もう。放っておくわけにもいかないか。付いて来て」
そう言って少女は手を差し伸べてきた。
僕は躊躇いながらも、その手を掴む。
——こんなに気温が低いのに、随分と暖かい手だった。
クリスマスのイルミネーションが燦々と輝き、降るはずのない雪が降る中、僕はそうして、彼女と出会った。
その景色を見て、ふと思い出す。
今日の日付は八月九日。かつてこの国に、死の雨が降った日。
それはこの日本という国では、どの場所でも絶対に雪など降らない一日だった。
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