#5 ピテカントロプスの恋



 ここに一揃いのヒトの化石がある。

 ただ化石として価値がある以上に、この人骨には極めて固有の特徴がある。

 それはこの男の、他人と比べればいくぶんか少数派である指向に深く関わっている…。


「おれはこの石器と結婚したいと思う」

 男が愛用の握斧を握りしめながらそう告げたのを聞いて、長はすっかり仰天してしまった。

これが他の男だったならば何をバカなことを、と一蹴したに違いない。しかし今眼前に立つ男は、物静かで少し変わったところがあるものの、実直で職人気質の信頼のできる若者だった。腕にもなかなか目を見張るものがあり、ゆくゆくは族を率いる長老衆にも加えられるだろう。そんな男が一時の冗談やおふざけでこんなことを言い出すとは長には思えなかった。

困った長は御年九十になろうというムラのシャーマンにお伺いを立てた。さしもの彼女もその相談を受けて一瞬たじろいだが、すぐに居直ってそれらしいことを下ろし伝えた。

「もしや長年愛用した道具の霊が憑いたのかもしれぬ。下手に刺激して災厄を招いてはことじゃ。ここは穏便に取り図られよ」

 霊の仕業と聞いて納得した長は、ははあと承ってすぐさまそれを男に伝えた。男はその結果に大変満足して、早速一人立ちして握斧との二人暮らしを始めた。

 ムラの衆の反応も、大抵は長と同じ顛末を辿った。霊の憑いているかもしれない男を誰も下手に刺激しようとはせず、かといって放置するでもなく、結局はこれまで通りに彼に接するのだった。

 男は幸せだった。一日に三回はしっかりと自分の妻を磨いてやり、日中には夫婦共同で仕事をこなす。そして夜には、両の手に彼女を強く握りしめて眠りに就くのだ。彼と彼女は片時も離れることがなかった。これ以上に幸せな夫婦は居るまい、男は喧嘩の絶えない周囲の夫婦を鑑みて、心から自分の生活に満足していた。

 さて、いかに人生に満足であろうと不満足であろうと、彼が人である限り、その命はいつか尽きる。彼にとって、そしてある意味周囲にとっても救いだったのは、彼の愛が本物だったことだ。彼は結局終生その石器を愛し、生涯を終えた。あまりに彼の態度が変わらないものだから、ムラの周囲の者も多少風変わりな男という程度に捉えて、最後まで彼を受け入れることができた。


 さて、本来ならば彼の物語はそうして終わり、誰に顧みられることもなく歴史の内に埋もれていく定めにあった。しかし現代になり、なんと彼の化石が発掘されるに至って、この物語は新たな展開を迎えることとなった。

 研究者チームが幾人かのスポンサーを従えて意気揚々とかつてムラのあった地域から掘り当てたのは、何やら切なげに胸に手を押し当てる男の化石だった。なんてことはない、かつて男が死んだときには、その手中には彼の妻が収められており、それが時の経過の内に抜け落ちたというだけのことである。

骨になってなお後世の人間に切なさを表現する男の愛は実に末恐ろしいものではあったが、今回はかえってそれが仇になった。研究者達のスポンサーは、これが金になると踏んだのである。

 考えてもみよ、はるか昔に死んだはずのヒトが、まるで現代人とまさしく同じように何かに恋焦がれているのだ。しかも化石は死んでいる。まるで恋煩いの果てに死んだようにすら見えるではないか。スポンサー達は話し合って、この化石を『ピテカントロプスの恋』と名付けて展示することを決めてしまった。きっと大衆はこれに大きな関心を寄せ、博物館へと押し寄せるに違いない。

 その頃、研究者たちはすぐに近くから彼の妻たる石器を見付け出し、どうやらそれが男の化石の手からこぼれ落ちたものらしいことを突き止めていた。しかし、時すでに遅しであった。スポンサー達はさっさとヒトの化石だけを持ち帰り、大々的に宣伝を開始してしまっていたのだ。彼らは研究者達の報告を聞いたが、そんな真実では大衆は喜ばない、そう考えて、彼らの意見を無視することに決めてしまった。

 こうして、『ピテカントロプスの恋』は人々の好奇の目に晒されることとなった。スポンサー達の予想通り、連日多くの化石目当ての来館者があった。人々は化石の当時の状況に思いを馳せた。きっとその最後が悲しいものであったと予想して、涙を流すものさえあった。化石の手は空洞であったが、今や誰もその事を気に留めるものはいなかった。


 しばらく年月が経過した頃、良心に耐えかねた研究者チームの内の一人が、事の顛末を世間に暴露しようと決意した。彼は、雑誌やネットなど彼に出来うる限りの各種メディアを用いて、その化石のおそらく幸福に満ちていたであろう人生を発信しようと考えた。そして、彼はとうとうその通りに事実を公表するに至った。

 しかし、世間はその事実に対してさして関心を払わなかった。多くの関係者は依然それを黙殺した。メディアは一時的にその話題を取り扱ったものの、数日もしたらすっかり興味を失ってしまっていた。

 研究者はその段になってようやく気が付いた。ピテカントロプスの恋は、現代人にはまだ早かったのだ。今回のようなことは、もはや驚くべきことでもないのだ、ということに。

 件の男が妻と共にこの世を去ってから、ちょうど100万年が経過した頃だった。

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