#9 灯らない



 特にない。

 それが趣味を聞かれたときの僕の回答だったし、そして、あいつの回答でもあった。

いや、もしかしたらそう思っているだけかもしれない。なにせ、サークルでもゼミでもそんなことを聞かれたことは、一度だってなかった。

 それでも、これがまったく根拠のない推測ではないと信じたい。なんたってあいつの生活に一番精通しているのは、僕なんだから。あるいはむしろ、これこそが根拠のない推測だったりするのだろうか。


「え」

 あいつが俳優になったという話を聞いたのは、大学へ向かう途中の交差点を渡っている時だった。あまり仲良くない奴と話していて、気の利いた返事だけを考えていた僕は思わず言葉に詰まった。心ここにあらずだった意識が現実へと向けられた。早く渡れと急かす交差点の電子音声が聞こえている。顔を上げた僕の目には、青信号がやけに眩しく見えた。

「知らなかったのか」

「あ、うん。いや、そんなことを前に言ってたような気もする」

 もちろん、嘘だ。見栄を張りたかったのもあるかもしれない。しかしそれ以上に、彼について自分に知らないことがあり、しかもそれが案外重大なことだという事実に気が付きたくなかった。それは、自分の世界を揺るがすことだ。

 へえ、と横尾が言った。彼はどうやら、僕の発言を疑ってはいないようだ。大して興味がないだけかもしれない。とにかく、僕は今すぐこいつと別れたかった。

 正門をくぐってすぐ、その時は訪れた。横尾の最後の一言はさっきの会話でぐらついていた僕の心を、ほんの少しではあるが慰めてくれた。

「俺は全然聞いたことなかったわ。じゃあな」


 ●


 授業の間、僕はずっとあいつのことを調べていた。先輩の一人があいつの話を知っていたから、芸名、と言うのだろうか、俳優としてのあいつの名前はすぐに聞き出せた。ネットで調べれば、とある事務所のプロフィールページがヒットする。そこにはたしかに、ユージ、と僕がいつも呼んでいる男の顔が映っていた。

 一体、いつの間にこんな事務所に所属していたのだろうか。というか、いつからこんなことを考えていたのか。そしてなぜ、僕はそれを知らないのだろうか。

 自分にとって関心があるのは一番最後の問いの答えであるということは、改めて考えてみるまでもなかった。他にこのことを知っている人はいるのだろうか、さっき情報をくれた先輩に聞いてみる。たぶん私くらいじゃないか、というのが先輩の答えだった。僕は正直安心した。

 今日会えませんか、そう打ちかけて、一瞬指が止まった。ユージの話を聞いてどうするというのか。彼が先輩にだけ打ち明けた話を聞いて、僕の人生が何か変わるわけじゃないのだから。

 それでもしばらく迷った挙げ句、僕は先輩にアポを取り付けた。少なくともこれからのあいつとの付き合いには関わってくるはずだ、強引にもそんな理由付けをして。


 僕がユージと知り合ったのは、去年の夏のことだった。久しぶりに顔を出したサークルの飲み会に、たまたま先輩が別のサークルの後輩として、ユージを連れてきたのだ。俳優になるくらいだから、あいつは顔が良かった。そのくせ、冷めた感じで先輩の下らないジョークを流す感じが好印象だった。やがて学部が一緒だったのが判明して、大学の近くにあるあいつの家によく遊びに行くようになった。大抵は酒を買い込んで、下らない話をしながらゲームするだけだったが、三年になってゼミも同じになると週の半分程度は一緒に過ごすほどの仲になっていた。

 それだけ一緒にいれば、自然と相手の日常のサイクルもわかってくる。バイトは火木土だとか、月曜だけは一限があるとか、大抵ユージのいる場所はわかっている、はずだった。

「お前らカップルみたいだもん」

 ジントニックを注文し終えた先輩が茶化すように言った。

「よく言われますよ」

 苦笑いしながら僕は答える。結果的に言えば、僕はあいつのスケジュールを把握してはいなかった。当たり前のことだが、今回の件でようやくそのことが事実として把握できた。

「就活の調子はどうですか」

 意趣返しのつもりで僕は言った。先輩は四年生だった。さすがにこの五月は相当忙しかったようで、何かにつけて飲もうと誘われるLINEもほとんど動きがなかった。今度は先輩が苦虫を噛んだような顔で、ちょうど運ばれてきたジントニックを軽く煽った。

「それで、ユージの話な。何が聞きたいんだっけ」

 その問いかけに、僕はすぐには答えられない。僕は何を聞きたいのだろう。たぶんそれは、ユージが先輩にどんな風に話したのか、だと思う。それを聞いて何になるかと言えば、あわよくば、先輩が強引にその話を聞き出したという言質を引き出したいのだ。つまり、僕が彼に相談されなかったという事実を否定したい。そうすれば、僕と彼との関係は決してかりそめなんかじゃないという認識を立て直すことができ、安心できるから。僕の気持ちは随分と暗くなった。

 回答は、ユージへの疑念を隠すように遠回りする。

「先輩はいつから知っていたんですか? その…ユージが俳優になるとか、なりたいとかって」

「なるって聞いたのはついこの間だけど、なりたいってのは私はかなり前から聞いてたよ。あいつが大学入った頃からかな、将来の夢というか、目標として持ってるってさ」

 確定事項を垂れ流しているだけのように、先輩の口ぶりは軽い。しかし、夢、その言葉はめまいがするほどに強く響く。ユージがそんな前向きな言葉を使っていた記憶は、出会ってから皆無と言ってよかった。

「まじか…」

 思わず、僕の口からは正直な感情が漏れでた。もはや、僕のユージに対する、あるいはユージとの関係に対する幻想は、完全に打ち砕かれていた。

 夢、目標、その言葉が誰かの口から語られるとき、その内容はおおむねその人の本質に関わる。もし人がだれかのそれについて知らないなら、その人はそのだれかの本質を知らないも同然だろう。つまり、僕はユージを本質的には知らないということだ。そしてそれは、これまでつるんできた一年もまた、本質的ではなかったということでもある。

 二の句の継げなくなった僕を見て、先輩はしばらく考え込むようにして黙っていた。しかしやがて、そうした沈黙はむしろ無意味だとでも言うように首を振った。

「まあ、気にすることではないよ」

 こういう時、先輩はやけに親身になった。ちょっと穿った言い方をすれば、相手のことを真に気遣う態度を取るのが上手かった。なんとなく大学で人と馴染むのが下手だった俺にしてみれば、こういう振る舞いのおかげで、先輩との関係が続いているということなのだろう。

 しかし、だからといって僕の立ち直りが早まるかといったら、それは別の問題だ。

「いやでも、やっぱりショックです。そんな大事なことを言われてなかったっていうのは」

「まあ、そうかもね」

 絞り出された僕の泣き言は、先輩にすげなく受け流される。もちろん、これは僕とユージの問題(というよりも、僕の問題と言った方が正確かもしれないが)だ。あまり干渉すべきではない、という気持ちもあるのかもしれない。

 それからは単位とか就活とか他愛もない話をして、その日は散会となった。去り際、ばつの悪そうにしていた先輩が、吐き捨てるように言った。

「将来の話とか、そんなにするものかね」


 都心と言えど、深夜の国道は意外に静かなものだ。もちろんそれは相対的なもので、郊外や田舎と比べれば騒がしくは聞こえるのだろうけれど。

 居酒屋からすぐ近くの駅で先輩と別れた僕は、家までの直通がある別の駅まで歩くことにした。この辺で飲んだのは初めてだったから、道には若干の不安があった。それでも5分くらい自分の方向感覚を信じて歩いていると、大学近くの見覚えのある道に出てきた。

 角にコンビニのある交差点で、直進すれば駅だ。そして、交差点を渡らずに左折すれば、ユージの家だ。

 ふと、このままあいつの家に乗り込んでやろうか、という考えが頭をよぎった。

 なぜ今まで思い付かなかったのだろう。あいつの回りでうだうだ煩悶するくらいなら、本人に直接真意を確かめてやれば良いのだ。ちょうど、交差点の信号は赤だった。それはまるでこちらに、交差点を渡るな、逃げずに立ち向かえ、そう訴えかけてくるように印象的に光っていた。

 いっちょやってやろうか、少し気の大きくなっていた僕は、アポなしの訪問に胸を膨らませる。しかし、まさに一歩足を左に踏み出したそのとき、先輩の言葉がリフレインする。


『将来の話とか、そんなにするものかね』


 はたと、足が止まった。

 なぜだかはわからない。そのときの僕の頭には、『趣味は何ですか?』という、よくあるアンケートの質問が思い出されていた。

 こう聞かれたら、特にない、そう答えるだろう。これは、たぶんユージの回答だし、たしかに僕の回答でもある。でも、そもそもどうしてそう答えるんだろうか。

 例えば、僕はゲームが好きだ。空きコマには無駄に古本を買い漁ってみたりするし、休日には喫茶店を巡ってみたりもする。僕はそれをなんとなくやってはいるけれど、好きでやっていることではあるし、習慣的にやっていることでもある。であれば、人によっては、それを趣味と呼ぶんじゃないのか。とどのつまり、僕には趣味がないのではなくて、あえて言わないだけなのだ。それをわざわざ、強く意識することをしないだけだ。

 すぐに、ユージが夢を僕に語らなかったことを思い出した。もしかするとユージも、これと同じ心情だったのかもしれない。そう考えると、僕とユージとは大事なことをただ語らないのではなくて、語らずにいられる関係なんじゃないのか。

 夢や目標があったとして、それを知らないからといって興味がないわけではないし、言わないからといって意識していないわけではないだろう。ただ、そういうことばかりに関わっていたくはないだけなのだ。だから、僕たちは一緒にいたのかもしれない。僕はそれを、実際には既にそうやって生きていたけれど、頭では理解していなかったのだ。


 僕は踵を返して、交差点を渡り始めた。

 今はユージに会う必要はない。なぜなら、きっと明日も会えるからだ。ユージのことで、僕にとっても喜ばしいことが一つあった。それは、表面上は避けていたとしても、大事なことは別に僕たちの手元から離れたりはしないらしい、ということだ。これは一つ、先の見えない僕を安心させる話ではある。

 機嫌もそこそこにまっすぐに家まで帰る。見ると、一件のLINEが入っていた。なんと、ユージからである。

『信号無視すんな』

 どうやら、さっきの交差点で見られていたらしい。しかし、あんなに印象的だった赤信号に気が付かないなんて。

 まあでも、そんなものだよな。

 僕は、特別「意識する」こともなく、スマホをコートのポケットにしまった。

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信号 むい @muisse

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