#6 二人行



 最近、なんだか楽しいことがなかった。

 特別嫌なことだとか、ストレスのかかることがあったわけではないように思う。ただ、いまいち気分の乗らないことが多くて、端的に言えば、私は謎の疲労感に苛まれていた。

 そんなある日の深夜、どうしても寝付けなかった私はこれといった目的もなしに家を飛び出した。ちょっとした深夜徘徊だ。コンビニにでも行って、気を紛らわそうとしたのかもしれない。しかし実際、私はどこへも行かなかった。それは、道の途中で立ち止まってしまったからであり、目的地のない放浪においては、ある意味そこが終着点になってしまったからだ。

 私は家からほど近い交差点で、どうしたことか立ち止まってしまっていた。

 いや、信号が赤ならば何ら不思議なことはない。だが、信号が青になっても私の足が動き出すことはなかった。その時の私の意識は、横断歩道の一歩目の白線へと一極集中して向けられていたのだった。

 そこは歩行者のために用意された道でありながら、車道だ。今、私たちにはその道の通行許可証がたしかに与えられている。しかしやがて信号が赤になったならば、そこはすぐさま危険地帯へと早変わりするのだ。こんなことは幼稚園児にも理解できるし、改めて確認するまでもないことだ。だけどその時の私には、このことが特別な意味を有するように思えて仕方がなかった。

 いっそ、危険地帯へ飛び込んでやろうか。ふと、そんな突拍子もない誘惑が頭をよぎる。信号が赤になり、車が見えたら一歩踏み出すのだ。何バカなことを、冷静な理性は私にそう告げている。しかし一方で、それは不思議な興味をかきたてられる妄想でもあった。無意味で仄暗い想像が、停滞する私の心を熱くさせるのだった。

 そうこうしている内に、信号が数度切り替わった。ふと顔を上げると、信号は再び青になっていた。次だ、ふとそんな言葉が私の心の奥底から沸いてきた。そっか、次の赤か。私はその後で言葉の意味を頭で理解した。次に信号が赤になったら、私の内にある不健全な試みを実行に移すのだ。心臓がきゅっと冷たく締め付けられた。しかしすぐに、それだけおそろしいことを考えているのだということが、かえって私の胸は興奮に沸き立たせた。

 青信号が点滅を開始した。見れば、遠くの方から一台の車の接近してくるのが見える。赤い車体が街灯を反射した。これから私はアイツに―――飛び込むのだ。

 青い明滅が収まった。さあ、カウントダウンだ。三、二、一で行こう。

 黄色信号が赤へと移り変わる。三、二、一、ゴーだ!

「あの!」

「わっ!」

 しかし、私の挑戦はすんでのところで差し止められた。いつの間にか私の背後に立っていた誰かが、私を呼び止めたからだ。

 予想外の出来事に、私は思わず大きな声を出してしまった。驚きのあまり心臓が止まるかと思ったほどだ。今の私には、さっきとは全く違う現実的な緊張が到来していた。

「何してるんですか…?」

 振り返るとそこには、私とほとんど変わらない年頃の少女の姿があった。彼女もまた少し怯えたような表情をしながら、私にそう問いかけた。

「…いや、ぼうっとしていただけだけど」

 私は少し迷って、結局曖昧にごまかしたような返事をすることにした。彼女の質問は私を我に帰らせて、客観的な視点へと連れ戻した。私は、自らにのめり込んでいるところを見られた羞恥心と、それを自覚させた彼女に対するお門違いな反発心を抱いた。だから、それ以上彼女に対して何かを取り繕うという気にはならなかった。

「その…青信号なのになかなか渡らないようだったから」

 お互いにとって居心地の悪い沈黙がしばらく続いてから、彼女がそう切り出した。余計なお世話だ、そう切り返しそうになって、私は無闇に刺々しい自分の態度を自省する。深夜に交差点に立ち止まっている人間がいたら、それは立派な不審者だ。おかしいのは私であって彼女ではない。

「驚かせてしまってごめんなさい」

 私の形式上の謝罪は、思っていた以上に機械的な声色になってしまった。しかしそのことは彼女の気には触らなかったようだ。

「いえいえ!」

 やや大仰に彼女が顔の前で手をパタパタと振った。そして、胸を撫で下ろしながら、まるで自分自身に言い聞かせるように一言ぼそっと呟いた。私はそれを、聞き逃さなかった。

「よかった」

 言葉自体も不可解なものではあったけれど、それい以上に私の注意をひいたものがあった。それは、彼女の表情だ。

 彼女はその言葉とはちぐはぐに、とても痛々しくてぎこちない笑みを浮かべていた。私はその感情をよく知っていた。私の世界ではそれは、自嘲と呼ばれる笑みであった。


 次に信号が青になって、私たちはすぐに別れた。さっきまでの交流が嘘のように、私たちは自然とその場を解散して、それぞれの家路へとおそらくは帰り始めた。

 彼女が最後に浮かべた自嘲の意味は、玄関の扉を開けて自室へと潜り込む頃にはもうわかっていた。あの瞬間には気が付けなかっただけで、考えてみれば変なことはいくつかあったのだ。

 なぜ彼女は、私が『なかなか渡っていない』ことを知っていたのか。彼女がそれを知っているためには、一度のみならず数回にわたって信号が変わるのを私と一緒に見届けていなくてはならない。少し変だなと思ったくらいではわざわざ交差点で立ち止まろうとはしないだろう。それでは、なぜあの交差点で立ち止まっていたのか。

 そして最大の疑問は、なぜそんな不審な私に声をかけようと思ったのか。数度信号を見送る私も不審なら、そんな人物に深夜わざわざ声をかける彼女も十分に不審だ。このことをあの自嘲と繋ぎ合わせて考えた結果、私は容易にひとつの想像へと辿り着くことができた。


 結局、彼女もまた私と同類だった、そういうことだ。


 彼女も私と同じように、あの交差点で『しでかそうとした』一人だったのだ。彼女はわざわざあの交差点で立ち止まったのではない。そもそも、あの交差点が目的地だったのだ。

 彼女がいつ、どういう経緯でそうしようと思い立ったのかはわからない。ただ、私の姿を見て勘付くくらいには、彼女はこうした機微に精通していたことは確かだろう。だから、私の姿を見て思わず声をかけた。私の顛末を自分の想像と重ねて見ていたから。

 声をかけた瞬間の私の姿は、ひどく滑稽に見えたに違いない。そして、その姿を見て彼女はむしろ自らを嘲るに至った。滑稽な私の内に、同じようなことを考えていた滑稽な自分自身を見たのだ。

 少なくとも今の私に、あのとき感じていたような誘惑は再現できなかった。それは絶対安全な家に帰ってきたということもあるだろうが、やはり、彼女の行動も大きかった。私もまた私なりに、彼女を通じて私を見た。きっと私は、誰かが赤信号に飛び出そうとしていたなら、彼女が私にしたように思わずそれを止めるだろう。そう考えるとしばらくはあの馬鹿らしい空想には、付き合う気にはなれなかった。


 翌日、私は例の交差点を渡ろうとしていた。今度は深夜ではない。学校からの下校中、夕方のことだ。当然、それに見合う歩行者があった。

 ふと顔をあげて、私は一つの可能性が正しかったことに気が付く。横断歩道の向こう側、こちらへ渡ってこようとする数人の人影の内に、彼女が居たのだ。

 たぶん今日まで気が付かなかっただけで、きっと毎日こうしてすれ違ってはいたのだろう。交差点をで毎日誰とすれ違っているかなんて、普通は誰も気に留めないことだ。

 やがて、対岸の彼女もこちらに気が付いたようだ。なんとなく目があって、私たちは互いになんとなく会釈をする。どうしようか、何か挨拶でもした方が良いだろうか。思わずそんな懸念が私の頭をもたげた。

 しかし、そんな配慮は信号が青になった瞬間にどこかへ飛んでいってしまった。

 私と彼女は他の通行者に紛れながら、ほとんど同時に歩き出した。そうか、私はひとり得心がいった。

 一人で信号を渡る場合ならまだしも、こと誰かと信号を渡るという場面においては、私たちは互いに通行許可証を突き付け合う。それはもはや『渡って良い』ではなく『渡りなさい』という強制といっても差し支えない。私たちは誰かと交差点を共有する以上は、ほとんどの場合、渡らざるを得ないのだ。

 今、私は彼女に、彼女は私に横断を強要する。

 二人の距離がどんどんと縮まり、やがてゼロになると同時に、再び開いていく。すれ違った時、私たちの指先が、微かに触れあったような気がした。それでも、私たちは何らそのことには注意を払わなかった。わざわざ立ち止まるようなことは、一つとして起きていないのだから。

 そして私たちは立ち止まることなく、今日も生きていくのだった。

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