#5 知らないことばかりだから
学校から家までの道には信号が三つあった。
どの信号も特別長いというわけではなかったけれど、家に帰るときには大抵どこかひとつの交差点で待たされることになった。私はそれが、嬉しかった。
今日もまた赤信号によって私たちの足が止まった。私はちらと横を歩く彼を見た。私の目に映ったのは、その感情を伺うことができないくらいに、いつも通りの横顔だった。
彼と私はいわゆる幼なじみというやつだった。家の方向が近かったから高校に入学して以来、お互いに部活のない日にはいつもこうして一緒に帰ることになっていた。私たちの間に多くの会話があったとは言いがたい。けれど、それは概ねほどよい静寂だった。
いつもぼうっとしていて基本的には活発でない私と違って、彼はいつも人の輪の中にいた。人気者というほどではないけれど、気が付けばいつも彼のそばには誰かがいた。それでいて彼自身も、誰かが一人で居るなら、その誰かを気にかけてしまうような人だった。
私はいつも彼に気にかけてもらう側の人間で、彼には、こっそり決まりを破った時の緊張とか、何かを成し遂げた時の達成感とか、友達を作ることの温かさとか、たくさんの新しい世界を見せてもらった。
だから、私が彼を好きになるのに、時間はほとんど要らなかった。
今日はこうして一緒に帰る最後の日だ。明日からは春休み。それが終われば、私たちはそれぞれ違う未来へと歩み始める。
想いを、伝えなくてはならない。
考えすぎて、もはや命じられているかのようにそう思う。でもきっと、何も言わなければ私は後悔する。それは十分に行動を起こす理由になるはずだ。
意を決して、口を開く。肝心の一言を告げようとする。不器用な私に気の利くことは何一つ言えない。だからただ一言だけ、正直な気持ちを伝えよう。
「あのさ」
緊張して、少し掠れたような声が出た。変に思われたかもしれない。一瞬、不安が胸中に去来する。
「ん、どうした?」
しかし、彼がこちらを向いた瞬間、私の不安は吹き飛んだ。安心した、というのではない。むしろその逆だ。その不安以上に大きな動揺が、私の心を支配したのだ。
彼が私を見る顔は本当にいつも通りで、私を心から心配してくれている、あの愛しい優しさそのものだった。もし私が何事か告げれば、この関係は崩れ去る。そのことに気が付いた途端、私の思考はフリーズする。
君のことが愛しくて、そして、愛しいからこそ、怖い。
もう二度と君のその顔を、私は見られなくなるかもしれない。そう思ったらもう私の決意なんてかたなしだ。こんな恐怖を抱えながら、それでもなお一歩を踏み出す勇気なんて、私にない。
信号が青になった。
「な、なんでもないや」
結局、私の口から出たのはそんなごまかしだった。彼からの疑念を退けるように、そそくさと交差点を渡り始める。彼は少し首を傾げていたけれど、すぐにまあいいや、と呟いて私の後に続いた。
私は彼に顔を覗き込まれない程度に、歩く速度を上げた。感情の整理が付くまで彼のことを意識したくはなかった。
これで良かったのかもしれない。
私はふと、そんなことを思った。想いは必ずしもすべて明らかにされなくてはいけないわけではないし、本人に届かなければいけないわけでもない。ただ胸にしまっておくだけの気持ちだって、あって良いはずだ。
家が近いんだ。私たちはきっと、数日の内にまた顔を合わせるだろう。進路が異なったって、ふとした瞬間にばったり出くわすこともある。私が余計なことをしなければ、そんなときにまた私たちは笑い合えるだろう。それもまた、悪くない未来じゃないか。
私はそんな考えを矢継ぎ早に思い浮かべて、大きくため息をついた。
すべて言い訳だ。そんなことはわかっている。負け惜しみ、いや、負けることすらできなかった私の、見苦しい言い逃れだ。
弱いな、私は。
ちょっとした恐怖ですぐに身を竦ませて、何かあれば一目散に殻に閉じ籠る。自分で引いた防衛線から一歩だって外には踏み出せない。しかも、こんな惨めな姿を自覚していながら、それでもなお何も変えることができないのだ。本当に私は、いくじなしだ。
自己嫌悪を振り切るように、私は下を向いたままさらに速度を上げた。ずんずんと、もはやかえって不審に見えるくらいに早足で進んだ。構わない。いっそのこと、このまま家まで帰ってしまおうか。そうすれば数日は頭を冷やす期間を作れるのだから。
「待て!」
不意に、彼の叫び声が聞こえた。それと同時に、彼の手が私の腕を掴んだ。
驚いた私は顔を上げて、そしてその理由を悟った。
「信号、赤だから…」
彼が息を整えながら言った。
私たちは既に帰宅路の最後の交差点まで来ていた。そして、その信号はたしかに赤く灯っていた。なんで再び信号にひっかかったのか、そんな疑問は抱いたと同時に、彼と私の荒い息によって解決される。
そうか、こんなペースで歩くと二回も信号にひっかかってしまうのか。
私が前も見ずに先を行っていたから、彼も心配して追いかけてきてくれたのだ。
彼がようやく、私の掴んでいた腕を離した。と同時に私は、自分が少し残念な気持ちになったことに気が付いた。
そうか、こんな気持ちも、彼に出会って、恋をして初めて知った気持ちだ。彼に教えてもらうまで、私はこんな感情は知らなかったんだ。
「知らなかったんだよ」
気が付けば、私は思わず口を開いていた。彼が顔を上げる。私たちの目が合った。だけど、今度は私は怯まない。
「君のこと、幼なじみだから何でも知っていると思ってたけど、君が教えてくれるのは、いつも知らないことばかりだった」
私は臆病だから、新しいこととか初めてのこととかはあまり得意じゃない。自分から自分の世界を広げることは、今まであまり好きじゃなかった。
でも、君に会って変わった。知らないことを知るのも悪くないって、挑戦することも案外楽しいことだってわかった。
だから私は、君に対してだってそうありたい。
「好きだよ。何にでも楽しそうに立ち向かえる、君のことが」
言ってしまった。でも、これだけはっきりと言えたのだ。これでもう君に会えなくなったって、それはきっと悲しいことだけど、ちゃんと立ち直れる気がする。
私の言葉を聞き終えた彼は、それを受け止めるように一呼吸置いた。そして、くるりと背中を向けて言った。
「それなら、これは知ってたか?」
彼の目線の先には、私たちの歩いてきた道があった。
「学校の裏門あるよな、ちょっと深い森になってる。あそこにさ、狭いけどちゃんと人が通れる抜け道があるんだ」
「う、ん。それが?」
抜け道の存在は初耳だったけれど、そのことが今の状況に何の関係があるのだろう。私は彼の発言の意図が掴めず、急かすようにそう返す。
「森の抜け道だからさ、信号なんてないんだよ。だから歩くの早い人だとさ、正門から出るよりも早く目的地に着けたりするんだ。こっち信号多いから」
彼が、私が理解できるようにゆっくりと説明する。それは場違いなほどにいつも通りの口調だったけど、私には少し、緊張しているように聞こえた。
その理由は、もうなんとなくわかるような気がした。
「その抜け道さ、どこに続いていると思う?」
彼がようやく振り返って、照れ臭そうにそう言った。その頬は、わずかに紅く染まっているのが見てとれた。
彼の質問の意味はすぐに理解できた。
彼は森、なんて呼んだけれど、少なくともこの辺りの男の子にとって、あそこはそんな大層なところじゃない。私はあまり行ったことはないけれど、その『森』は、彼らにとっては小学校時代の遊び場に過ぎないからだ。そして、こと彼にとってはもはや『裏庭』と言っていい。だってあそこは、
彼の家の裏にまで続いているのだから。
「じゃ、じゃあ、どう、して…」
君は私と帰ってくれていたの?
続く言葉を最後まで口にすることはできなかった。気が付けば、私の頬を涙が伝っていた。その涙で彼の姿が少し霞む。私はそれが嫌で、必死に袖で顔をぬぐった。
「お前と帰りたかったからだよ。やっぱり知らなかっただろ?」
この帰り道も、学校の裏側のことも、自分の気持ちも、はては、君についてすらも。
よく知っているとばかり思っていたがどうやらそうではなかったらしい。そのせいか、いたずらっぽく微笑む彼の顔は、いとも容易く私の心に焼き付いた。
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