#4 小旅行
草平は今年で十になった。
響きの幼さとは裏腹に、十と言えば一日駆け回って遊ぶだけの体力がようやく備わってくるし、大抵自分の好きな遊びがなんとなくわかってくる。何より、数が二桁だ。
草平はこの頃、途方もない夢想をするようになった。それは、見知らぬ草原に一人で横たわっている自分の夢だった。原因ははっきりしている。家に長らく放置してあった真っ黄色の自転車、その使用許可がとうとう草平に下りたのだった。
もちろん、自転車で遠くに行きたいなどと言えば反対されるのは目に見えている。それでなくとも親からは学区を跨がぬように注意されているのだ。それで草平は、計画をこっそり決行することに決めた。
日曜日。家近くの交差点で足を止めた彼は、これからの冒険を予感して心を踊らせていた。いつもならうんざりするくらい長い赤信号が、今日はまるでレーシングのスタートサインのようにすら感じた。
青になった瞬間、草平はペダルをこぐ左足に力を入れた。彼の小旅行が始まった。
草平は賢明ではないが、臆病な分別くらいは弁えている。絶対にたどり着けない、帰ってこれないような場所を目的地に設定したりはしない。だから小旅行と言ったって、小学四年生が一日で行って帰ってこられるような程度の遠出だ。具体的には電車で三駅程度。大人なら毎日通っているくらいの距離でしかない。それでも、行ったことのない場所ではあったから、その事実は彼の意気を挫くには全然当たらなかった。
行きはよいよい、だんだんと増える馴染みの薄い景色は彼の関心を惹いた。ペダルをこぐ足取りも軽い。
途中で寝転ぶにはちょうどよい草むらがあって、草平は自転車を停めてそこに横になった。彼の夢想が叶った瞬間であり、それは想像よりはいくらか物足りないものではあったが、ただ経験したというだけでも、彼にはもはや十分な気がした。
やがて、昼を過ぎて少しした頃、自転車は目的地へとたどり着いた。草平は駅の近くに自転車を停めて、空腹を静めようと歩き出した。昼食のあては、まれにしか食べられないファストフードだった。その店があるということ自体が、実は彼に目的地を決めさせた大きな理由の一つだった。
なけなしのお小遣いをはたいて、彼は立派なセットを注文した。いつもと同じ平凡な味のはずだったが、はじめての体験から来る気分の高揚が、味をよくわからなくさせた。そのことも含めて、概ね彼には満足の行く食事だった。
時刻は15時になっていた。体力の消費を考えてもそろそろ帰らないと夜になってしまう。親に怪しまれずに家に帰りつくのは、今後の日々の安寧のためには絶対条件だ。草平は少し気分がハラハラとしてくるのを感じた。
大丈夫、今から帰れば途中で休憩したって十分門限までには帰ってこられる。
自分に言い聞かせるようにそう考えた彼は、しかし、いざ自転車を引き出そうとして激しく当惑した。
彼が自転車を停めたのは有料の駐輪場であった。そのことに、決して気付いていなかったわけではない。しかし、どうしたことか。昼食を食べるときにはすっかり忘れてしまっていたのだ。
草平は慌てて小銭入れを取り出した。中から出てきたのは五十円玉と一円玉が一枚ずつ。駐車料の百円にはわずかに足りなかった。これでは、自転車を取り出すことはできない。
身体がぐわんと揺れるような心地になった。まずいことをした、という感覚が彼の身体を駆け巡った。自転車を諦めて歩いて帰るか? しかし、自分の足だけで家までたどり着けるだろうか。そもそも、そんな足取りで夜までに家には戻れまい。
草平は完全にパニック状態だった。頭の中はどうしようかという不安で一杯になり、有効なアイディアは何一つ浮かんでこなかった。
その時、狼狽して立ち尽くす草平に誰かが近付いてきた。
「坊主、金ねえのか」
それは厳しい顔をした中年の男性だった。彼もまた草平と同様、自転車を引き出そうとしているようだった。
「いや」
突然の問いかけに草平はすっかり驚かされた。彼が優しそうな人相をしていなかったことも、その動揺に拍車をかけた。
「大丈夫です」
咄嗟に出た言葉はそんな虚勢だった。
言った瞬間、彼はしまった、そう思った。つまらぬ焦りと見栄から、せっかくの助けを求める機会をふいにしてしまった。自分は誰かに助けてもらわねば、ここから動くことすらままならないのだ。
「そうか」
男はじろじろと草平を見回した上でそう言った。
今からでも訂正して助けを乞おう、彼はそう思って、駐輪場を出ていこうとする男の背を目で追った。
しかし、やっぱりお金がないのです、そう言おうとして、彼は不思議な不自由を感じた。プライドがそれを妨げるのだ。たった一言を絞り出す勇気が、彼にはなかった。結局、彼は口をパクパクさせるだけで、何一つ音に出すことができなかった。
彼は目線を地面に落とした。自分は無能だ。お金を準備していなかったことだけではない。この差し迫った局面ですら、ちっぽけな自尊心にかまけて、人に助けを求めることすらできないのだ。彼にはもはや動揺はなかった。代わりに、無力感と後悔とが彼の胸中を埋め尽くし、彼を一歩も動けなくさせてしまったからだ。
不意に、草平の頭にかかったそんな暗い雲を、チャリン、という音が晴らした。
その音は、彼の数歩先に小銭の落ちた音だった。無論、ひとりでに銭が落ちるわけはない。それは当然、前を行く男の落としたものだった。
男は、落ちた金に見向きもしなかった。慌てて草平は叫んだ。
「あの!」
男は草平の声に振り返り、そして、地に落ちた百円玉を見た。彼はあたかもそれを初めて発見したかのように、深いため息をついた。
「やる」
短く、しかしずっしりとした重さで、彼は言った。それでも草平が、え、と聞き返そうとすると、それを遮って彼は続けた。
「腰が悪くてな」
男はそれだけ言うと、静かに駐輪場から去った。
呆気に取られた草平が、それが男の小銭を拾わない理由だ、と気付いた時には、そこにはもう草平一人しかその場には残されていなかった。そしてその時には、もちろん男がわざと小銭を落としたことにもなんとなく察しが付いていた。
草平は帰り道を急いだ。
もっとも、少し駐輪場で時間を取ったとはいえ、もう十分門限までには帰れそうな地点まで戻ってきていた。
自転車をこぐ彼の頭には、先程の男の行為があった。もし男が親切にお金を渡そうとしたのなら、きっと自分はそれを強く拒絶しただろう。彼は、草平のプライドを保ちつつ、草平を救ったのだ。
そのぶっきらぼうな施しは、彼の心に強く響いていた。その優しさを知った一歩分だけ、自分が大人に近付いたような気がした。誰かに無償の親切をしてやりたい、自分も彼のような大人になりたいという気持ちになって、それを知らなかった今朝より、もう既に自分が成長したのだとすら感じた。
やがて自転車は、出発地点であった交差点へと立ち戻ってきた。いつもと違う方向から帰宅したので、その交差点もまた馴染みの薄いように感じた。いつもの光景が違って見えるということもまた、彼にとっては非常に満足のいくことだった。
草平はふと、電柱に白い傷を認めた。それは以前からある傷だった。昔は高いところにあると思っていたのだが、最近では草平の背が伸びたことでちょうど目の高さくらいに当たっている。おもむろに、彼は電柱に肩を寄せた。
やはりその傷は、彼の目の高さにあった。
少年は肩透かしを食らったような気分だった。実感と現実との相違に、なんだか落ち着かない違和感すら覚えた。言い訳をしようとしても電柱の傷が変わらずこちらを睨むので、仕方なく現実を認めるしかなかった。
きっと自分にはまだ何か足りないのだろう。草平はそう思い直して、青になった交差点を渡った。
西陽は彼の背後に、立派に高い影を伸ばした。しかし草平はそのことに気付く由もなかった。
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