第一章 賢者は異世界で幸せをつかむ②

「あったあった」

「リヴさんは――……まだ来てないみたいッスね」


 沢に到着。さらさらと涼やかな音を奏で、山水が緩やかに流れていく。

 川幅は五メートルくらい。深い場所で、私の脛までといったところかな。水流に手を浸してみると、季節が春に差し掛かっているとはいえ、まだまだ刺すような冷たさがある。


「この川の水で大丈夫そうッスか?」

「うん、ばっちり」


 ここへ来たのは、田んぼに引き入れるための水源を確保するためだ。

 稲作をしようと思ってね。日本人だもの。お米が食べたいのよ。

 雨が山の中に染み込み、腐った枯れ葉の養分を吸い込んだ自然の水は、人間が飲めるように薬品を入れて消毒している水道水と比べて、何倍も稲の育ち方が違ってくる。


「お米、最後に食べたのはいつだっけな。半年くらい前か」

「オイラは食べたことないッスね」


 食文化の違いか、この世界にも稲作はあるんだけど、向こうの世界ほど普及してはおらず、ごく一部の地域で細々としか作られていない。購入しようと思えば、必然的に高級品になってしまう。そのため、旅の道中に安価で手に入れた種籾たねもみを使い、自作してみることにした。


「ああー、炊き立ての熱々ごはんに生卵を乗せて、醤油と一緒にかき混ぜたい」

「美味しいんスか?」

「究極の一品だよ」

「姐さんがそこまで言うなんて。食べてみたいッスね」

「上手くいけば、秋には食べられるよ。お手伝いよろしくね」

「任せてくださいッス」


 山の麓にある我が家のすぐ近くに、だいたい三〇坪くらいの田んぼを作った。

 もう粗起こしは終わっている。あとは水を入れて代掻しろかきをすれば、土作りは完成。

 種籾からの苗作りも順調だけど、田植え機なんて無いから大変な作業になるだろう。


「姐さん、リヴさんが来たッスよ」


 今後のスケジュールを頭の中で確認していると。

 どんぶらこ。

 どんぶらこ。

 上流から、ボストンバックくらいの、もっちりとした白い塊が流れてきた。


「おーい、リヴちゃーん、こっちこっちー」


 穢れなき純白の体毛が美しい、彼女の名前はリヴ。

 こんなことが実現しちゃっていいの? 私死ぬの? と幾度となく己の幸運に慄いた。

 なんとリヴちゃんは、私が愛してやまず、そして家族に迎えることを諦めざるを得なかった海棲哺乳類――ゴマフアザラシの子供に瓜二つな姿をしているのだ。


 私とモスくんの姿に気がつくと、リヴちゃんは前ヒレで、ぺったんぺったんと水面を叩き、跳ねるようにして岸に上がってきた。


「待たせてしまったかしら?」


 透明度の高い氷のように、凛々しくも澄んだクリアボイス。

 私を含め、その美声に惚れこむ者は後を絶たない。マーメイドやセイレーンに間違えられることもあるというエピソードにも納得だ。


「今来たところだよ」

「リヴさん、お疲れ様ッス!」


 ハンカチで顔の水気を拭いてあげながら、下顎のお肉をたぷたぷ弾ませると、リヴちゃんはモキュ、モキュと可愛く鳴き、黒曜石のように真っ黒な瞳をくすぐったそうに細めた。


「それ、いつもやっているけど、楽しいのかしら?」

「超楽しい」

「よく飽きないわね」


 やってみればわかる。至高だと。

 リヴちゃんの頭からお尻にかけて、硬くて短い毛がぎっしりと生えており、お世辞にも撫で心地がいいとは言えない。だけど、この愛撫により引き出されるあどけない表情と鳴き声は、それを補って余りまくって溢れ出る愛らしさがある。


「モスも一緒だとは思わなかったわ。何をしに来たの?」

「姐さんの護衛ッス」

「護衛? 魔王を倒した賢者に、そんなの必要ないと思うのだけど」

「私もてっきり、留守番が嫌だから一緒についてきたんだとばかり」

「にゃん……ですと……」


 ここまでずっとナイト役をしてくれていたのかな。ごめんね。タスクエイプみたいな雑魚、やろうと思えば、指先一つで消し炭にできちゃいます。

 なんだか申し訳ないので、お詫びに、モスくんの喉をゴロゴロして機嫌を取ろうとするが、おかしなことに、余計ヘコませてしまった。


「リヴちゃん、泳いできたんだね。水、冷たくない?」

「なんてことないわ。アタシは今まで氷の大陸で暮らしていたんですもの」

「ああ、そうだっけ。もしかして、暑いの苦手だったりするの?」

「それを聞いてどうするの? アタシの弱点を探って、いずれ討伐するつもり?」

「リヴちゃんを討伐? アッハハハ、ありえないから。リヴちゃんを討伐しろ、なんて命令を強要してくるようなら、私は教団の方を潰すわ」

「本気っぽい目ね」

「ガチだよ」


 可愛いは正義なのです。

 今の会話から想像できるように、リヴちゃんもまた、モスくんと同じく四帝獣の一柱だ。

 彼女の一薙ぎは津波を起こし、大陸を飲み込むとさえ言われている。

 七つの海を統べる者【リヴァイアサン】

――それが魔物としての彼女を表す呼称だ。


 そりゃね、無差別に人を苦しめたりする魔物だったら、私だって黙ってはいない。

 だけど、モスくんも、リヴちゃんも、良い子なんだよね。討伐する理由がないのよ。


「魔王様の遺言がある以上、アタシも、あなたと事を構える気はないわ」

「私も、リヴちゃんとは毎日一緒にお風呂に入りたいし、お布団の中でむぎゅむぎゅ抱きしめながら寝たいって思っているよ」

「そこまで求めていないわね」

「遠慮しなくていいのに」


 ツレない性格と、愛嬌全開の見た目とのギャップがまた良し。


「それで、どうだった? 川の水、使ってもいいって?」


 この森にはぬしがおり、麓の村人たちも恐がって足を踏み入れようとしない。若い娘を生贄に捧げるようなことはないけど、結構な量の供物を要求されているらしい。

 もし勝手に木を切ったり、狩猟採集をしたり、用水路を作ったりしたら、主の怒りを買い、お世話になっている村にも被害が及ぶ。そのため、リヴちゃんに交渉をお願いしていた。


「許可は取ってきたわ。対価を求めてきたけど」

「対価?」

「賢者と四帝獣がぬしの傘下に入ること、だそうよ」

「ふーん、了承したの?」

「収穫物の一部を納めるくらいなら考えてもよかったのだけどね。二度とナメた口をきけないように教育しておいたわ。定期的に、森の幸を届けてくれるそうよ」

「それはありがたい。食卓が潤いそうだね」

「さすがはリヴさん、仕事が早いッス!」


 使用許可が下りたということなので、早速、沢の水を田んぼに引く作業にうつる。

 ここから分流させるといっても、途中に勾配が無いわけではなく、新たに用水路を作ろうと思えば水車の建設など、大掛かりな灌漑かんがい工事が必要になる。


 普通なら。


 その点については魔法使いの特権というか、横着させてもらおうと思います。

 ブーツを脱いでズボンを膝の上までまくり上げ、冷たい水を我慢して川の中に入っていく。


「……あれ? そんなに冷たくない」


 むしろ、温かい。


「あなたの周りだけ、少し水温を上げたわ」

「うわー助かるー」


 ――液体操作。

 水の流れを操るだけじゃなく、水温を変えて一瞬でカチコチの氷にすることも、ボコボコと沸騰させることも自由自在。空気中の水分を集めて浴槽をいっぱいにすることだってできる。この能力で、リヴちゃんには毎日お世話になっています。


「可愛いだけじゃなく、気配りまでできるなんて、リヴちゃんはいいお嫁さんになれるね」

「アタシのことより、自分の心配をしなさいな。適齢期を過ぎたのでしょう?」


 そして、この刃のような返し。慣れると癖になる。


「姐さん、リヴさん! オイラにも何か手伝えることはないッスか!?」

「今はないかなー」

「大きな声が耳障りだから、少し黙っていてくれる?」

「……ッス」


 好きな子の前でカッコイイところを見せたかったんだろうな。ドンマイ、モスくん。

 川岸から一メートル、いや、一・五メートルくらいかな。その範囲を指で切り取るように、くるりと水中で円を描く。すると、蛍光ペンで線を引いたみたいに、指先の軌跡がぼんやりと光を帯びた。


「マーキング完了」

「もう終わったんスか?」

「うん。あとはこれと同じことを、田んぼの近くに作った貯水槽でもやるだけ」


 そうすると、マーキングした二つの地点が距離を無視して繋がり、川の水を引き込むことができるという寸法なのです。ちなみに、貯水槽はモスくんが、ここ掘れにゃんにゃん、と土を掘り起こして作ってくれました。


「空間魔法は使い手がほとんどいないくらい難しいと聞くけど、大したものね」

「思わず惚れちゃいそう?」

「そこまで言っていないわ」


 私自身、こんなことができるようになるなんて、思ってもみなかった。向こうの世界では、特に秀でた能力もない、平々凡々な人間だったのに。


「姐さんのいた世界では一切魔法を使えないって、本当なんスか?」

「本当だよ。向こうには魔素が全然無いからね」


 ――魔素。

 空気中に限らず、海中、土中、生物の体内に至るまで、ありとあらゆる場所に存在している魔法の源だ。この魔素を利用して、炎を発生させたり、風を巻き起こしたり、私がやっているように空間を歪めたり、様々な現象を引き起こすことができる。その過程でどんな化学反応が起きているのか、それは誰も知らない。とうの昔に匙を投げられたそうだ。


 魔素を操る力のことを〝魔力〟と呼ぶんだけど、ネーミングに捻りがないね。

 わかりやすく例えるなら、魔法使いは料理人で、魔素は食材かな。で、料理の腕が魔力。

 いかに腕の良い料理人でも、食材が無ければ美味しい料理は作れない。私が向こうで魔法を使えなかったのは、そういった理由があるみたい。


「そろそろお昼だし、戻ろうか。リヴちゃん、抱っこする?」

「結構よ。自分の腹で這えるわ」


 自分の足で歩けるわ、みたいに言われてしまった。

 モスくんがトコトコと軽快に歩き、リヴちゃんがボヨンボヨンと弾みながらそれに続く。

 その様子をうっとり眺めがら、家で待ってくれている、あの子のことを思い浮かべる。

 そしてしみじみと思う。


 ああ、私……。

 今、かなり幸せだわ。

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