第一章 賢者は異世界で幸せをつかむ①

「――ということがあったわけなのよ」

「大変だったんスね」


 かれこれ一年も前のことだ。

 世間話がてらに、この世界にやって来た経緯を話すと、変声前の少年のようなソプラノで、本日のお供であるモスくんが相槌を打った。


 深緑の天井から、はらはらと舞い落ちる木漏れ日を浴びながら、私たちは二人――正確には一人と一匹で照葉樹の森を進んでいる。目的の沢までもう少しだ。


「そのジドーシャとかいうのに轢かれて、あねさんは死んでしまったんスか?」


 足下をぽてぽてと並んで歩くモスくんが、首を反り返らせて私を見上げた。


「轢かれてはいないよ。間一髪で、こっちに召喚されたから」


 いやー、確実に死んだと思ったんだけどね。

 それなのに気がつくと、私は教会っぽい建物の中にいた。

 神々しいステンドグラスをバックにし、ローマ法王みたいな純白の法衣を着たおじさんが、引くほど高いテンションで「選ばれし者よ!」と叫んでいたのを鮮明に覚えている。


 なんでも、私には類まれな魔法の資質が備わっていたらしく、その力の強さは世界を超えて感じ取ることができるほどだったとか。最初は半信半疑どころか一切信じられなかったけど、事実、半ば強引に連れ出された魔王討伐の道のりで、私は賢者と崇められるほどに力をつけた魔法使いになった。


「召喚ッスか……。相手の都合なんて、お構いなしなんスね」

「無許可だったけど、そのおかげで命拾いしたわけだし、怒るに怒れないかな」

「姐さんは人が良すぎッス」

「ま、過ぎた話をくどくど言うつもりはないの」

「器がでかいッスねー」

「お役目も果たしたことだし、私はここで第二の……第三? どっちでもいいか。今度こそ、夢にまで見たもふもふライフを満喫するって決めたから」


 この世界での人生目標を高らかに宣言し、熱を帯びた視線をモスくんに落とす。

 モスくんの姿を一言で表すなら、ネコとしか言いようがない。くるみ形の大きな目と丸みのある耳、そしてダックスフンドのように短い足は、マンチカンという種類に似ている。

 灰色の毛並はモコモコしていて触り心地が素晴らしく、隙あらば飛びついて頬ずりして喉をゴロゴロしてやりたい欲求と、私は常に戦っている。


「姐さんを召喚したのは、バロル教団の大神官スか? 眉毛と鼻と唇が異様に太い」

「そうそう。モスくん、大神官のこと知ってるんだ」


 動物と当然のように会話が成立しているけど、この点について説明は不要かと思われる。

 何故なら、ここは異世界なのだから。

 動物が言葉を話すのも、その言葉が通じるのも、気にしたら負けだ。

 とはいえ、こっちでも喋る動物――魔獣が珍しいことに変わりはないそうな。

 私たちは、深い訳あって隠遁生活をしているので、目立ってしまうのは都合が悪い。仲間内以外では、普通のネコの振りをしてもらっている。


「十年くらい前に、教団を率いてオイラの棲み処に攻め込んできたことがあるんス」

「モス君のところに? それは無謀というか。十年前なら、勇者不在だよね?」

「そッスね。その頃は、勇者もまだ子供でしたから」

「返り討ちにしちゃった?」

「いえ。連中の攻撃なんて蚊に刺されたほども効かないんで、無視してたら、そのうち諦めて引き上げていきましたね。人間はか弱いッスから、手を出さずに済んでよかったッス」

「モスくんは優しいなあ。女の子にモテるでしょ?」

「や、全然そんなことないッス。いつも適当にあしらわれてばかりですし。贈り物をしても、受け取ってもらえたことがないッス」

「あー、リヴちゃん?」

「ッス……」

「うーん。モスくんほどの紳士、私は今までお目にかかったことないんだけどな。モスくんの彼女になれる子は、絶対幸せだと思うよ」

「そ、そういうお世辞は苦手ッス」

「お世辞じゃないって。もし私がネコに生まれていたら、絶対に立候補していたと思うし」

「オイラ、ネコじゃないんスけど。……でも、本当ッスか?」

「本当本当。モスくん、超頼りになるもの」


 こっちの世界じゃ、私はまだまだ世間知らずだ。なまじっか力があるせいで、勇者みたいに国家間のあれやこれやに巻き込まれる可能性は大いにある。既に一度、魔王討伐なんてものに巻き込まれているし、自分が無知なせいで、これ以上いいように使われるのは御免だ。

 それもあって、俗世から離れた田舎暮らしを選んだわけだけど、不安は尽きない。


「そんなわけで、これからもよろしくね。奇妙な縁だけど、モスくんたちが一緒で心強いよ」

「こちらこそ。オイラにできることなら、遠慮なく頼ってください」


 はにかみ、かりかりと頬を搔こうとしているが、その手が顎までしか届いていない。

 モスくんの仕草と純な反応にきゅんきゅんしていると、ガサガサッ、と風もないのに頭上で葉が不自然に擦れる音がした。

 見上げるより早く、それは樹木のアーチから飛び降りてきた。

 ズズンッ……!!

 と間近で着地された衝撃で、私の足が地面から一瞬浮き上がってしまう。


「ウホッ、ウホホッ!!」


 私の身の丈を優に超える巨影。荒い息遣い。鼻を寄せなくても届く濃い獣臭。

 名前は【タスクエイプ】……だっけ?

 サーベルタイガーやセイウチみたいな牙を生やしたゴリラと言えば想像しやすいかな。


 森に入って、これでもう三度目の遭遇だ。

 一年前の私なら、こんな猛獣と檻を隔てず向き合っただけで、腰を抜かしてちびっていたに違いない。こっちの世界に来たばかりの頃は……まあ、何度かね。

 前の二頭と同じく、その剛腕で私たちをプチッとミンチにし、手ごねハンバーグにでもして美味しく召し上がってやろうか、とでも言いたげな目が怪しくギラついている。


「ウッホッホ!!」

「邪魔ッス」


 ペシッ。

 ドラミングで進路を遮っていたタスクエイプの足首に、モスくんがネコパンチ。


「ウボオオオオオオォォォォォォォ――――――……(キラッ☆)」


 ハエを払う程度の一撃だった。

 にもかかわらず、タスクエイプの巨体がフリスビーのように高速回転しながら空の彼方へと消えていった。体格差とか、絵面とか、そういう常識は完全に度外視で。

 こういうのはもうね、深く考えずに「異世界だなー」で済ますに限る。


「好戦的な奴が多いッスね」

「そうだね。村の人たちが、森に入ろうとしないのも納得だよ」


 ご覧のとおり、モスくんは性格がイケメンなだけでなく、べらぼうに強い。

 頼りになると言ったのは、何も生活面でのアドバイザーというだけじゃない。


「大神官たちは、攻め入ったのが温厚なモスくんのところで命拾いしたね」

「当時の話、何も聞かされてなかったんスか?」

「聞いてないなー。相手にもされなかったなんて、恥ずかしくて言えなかったんでしょ」

「なんか、すみませんッス。適当にやられた振りをしておけば、姐さんが駆り出されることもなかったかもしれないのに」

「モスくんが気にすることじゃないって。もし召喚されていなかったら、今頃私はお墓の下にいるんだから。結果オーライってやつよ」

「そう言っていただけると」

「まーでも、辛かったのは事実だけどね」


 主に精神的に。


「十代のパーティーで、自分だけが一回りも年上な心境、想像できる?」


 女子高生グループに、一人だけアラサーが混じったような居心地の悪さといったらもう。

 私の立ち位置は、完全に引率の先生だった。そんな環境で一年ですよ?

 というか、旅の途中で30歳になったし。アラサーじゃなくて、ジャストサーだ。


「し、心中お察しするッス」

「一応は教団に命を救われた形になるわけだし、義理で勇者のパーティーにも入ったけどさ、あの子たちの個性が強すぎて、唯一常識人の私がいつも割り食っていたんだよね」


 勇者、武道家、僧侶、そして魔法使いの私。四人で旅をしていて、常々思っていた。

 正直、ついていけないって。

 戦力的な意味じゃなく、なんて言えばいいのか…………ノリ?

 口を開けば、死がボクらを分かつまでだの、目指すは世界最強だの、恒久的世界平和だの。

 中二病やら、脳筋ゴリラやら、頭お花畑やら、とにかくキツかった。


 そりゃ、頼もしい仲間たちではあったし、仲が悪かったってこともないけど、巷で噂されているような〝固い絆〟云々はデマだ。そんな恥ずかしいことを堂々と言ってのけていたのは、熱血を絵に描いたような勇者だけだった。


 私は「ごめん、暑苦しい」と一蹴していた。

 僧侶は「あ、はい……」と苦笑いを浮かべていた。

 武道家は「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」と無関心だった。


 近くにいるだけで、体感温度を5℃くらい上げる勇者。

 修行と言って、大量の魔物をトレインしてくる武道家。

 目を離すと旅の費用を全額教団に寄付してしまう僧侶。

 私が一番年上だったのもあるけど、自然とまとめ役をやらされていたというか、やらないと話も冒険も進まないというか。あのパーティーに必要だったのは、後衛火力なんかじゃなく、お目付け役だったのは間違いない。


「私、たくさん働いた。だからね、少しくらいご褒美があっていいと思うの」


 モスくんの小さな体を正面からひょいと持ち上げ、じっと訴えかけるように見つめる。

 対してモスくんは、決して目を合わせまいと視線を泳がせた。


「えと、その、姐さんの苦労は想像に難くないッスけど」

「けど?」

「言ってみれば、姐さんたちの活躍で魔王様は倒されてしまったわけですし、その配下であるオイラの立場からすると、仇討ちを考えこそすれ、ご褒美というのは何か違う気が……」

「あーあ、モスくんが、もうちょっと上手く教団をあしらってくれていたらなー」

「それは気にしなくていいって言ったじゃないッスか!」

「記憶にございません」

「汚い大人ッス!」

「モスくん、言ってくれたよね? 遠慮なく頼っていいって。すごく嬉しかった」

「にゃ、にゃふぅぅ……」

「モスくんの体で癒してくれる?」

「そういうのは良くないッスよ!」

「別に減るものじゃないでしょ。それに、初めてでもないんだし」

「同意したことは一度もないッス!」

「やだな。それだと、私が無理やり襲っていたみたいに聞こえちゃうよ」

「まさにそう言ったつもりッス!」


 両脇を抱えることで、でろん、とモスくんの体が縦に長く伸びている。そして目の前には、無防備にさらされた、柔らかそうな腹肉が。ごくり、と思わず喉を鳴らしてしまう。


「ごめん、もう我慢できない。だから、ね? ここでいいでしょ?」

「ちょ、やめ、ダメッス! 絶対ダメ! ふにゃ、にゃにゃーーーーーッ!!」


 了承を待たず、モスくんのお腹に、モフッと顔面を埋めた。

 顔全体が動物の体温に包まれ、さわさわと体毛に肌をくすぐられる。

 モスくんは、三日に一度の頻度でお風呂に入る綺麗好きなので獣臭さは全くなく、代わりに赤ちゃんみたいに可愛らしい匂いがする。控えめに言っても極上です。


「ス~~~、ハ~~~、ス~~~、ハ~~~」

「はにゃッ!? 深呼吸やめてください!」

「この瞬間のために生きていると言っても過言ではないよ」

「姐さんの生き方は、一度見直した方がいいッス!」


 私はもふもふのためなら命を懸けられる女。実際、それで死にかけたわけだしね。

 てしてしと頭を叩かれまくっているけど、優しいモスくんは、さっきと打って変わって力を込められず、絶対に爪も立ててこないので、肉球サービスにしかなっていない。


「ありがとうございます」

「抗議の声が届かないッス!」


 三十秒くらいかな。短いながらも至福のひと時を終え、モスくんのお腹から離れた。

 私は今、最高に晴れ晴れとした顔をしているに違いない。気力が充溢し、心身豊かに生きるための栄養を補充できたのが、ありありと感じられる。


「満ち足りた」

「それは何よりで……」


 逆にモスくんは、私にごっそりと体力を吸い取られたかのように、ぐったりしている。


「こうして見ていると、普通のネコちゃんにしか見えないよね」

「そッスか……」

「あ、勘違いしないでね! 馬鹿にしたとか、そんなつもりは全然ないからね!? モスくんは普通のネコちゃんより断然可愛いよ! 超可愛い! だから自信持って!」

「雄に可愛いは褒め言葉じゃないッス」


 そういうものなのか。まあ、さすがにネコ扱いは失礼だったかも。

 この優しくも愛くるしい紳士はネコの姿をしているけど、その実体はネコにあらず。

 真なる姿の彼の歩みは大地を揺るがし、息吹は森をなぎ倒す。

 魔王軍最高戦力である四帝獣の一角。


 ――進撃の巨獣【ベヒモス】だからね。


 最初聞いた時、どっかのアニメのパクリみたいな二つ名だと思ったのは秘密だ。

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