第一章 賢者はもふもふライフに憧れる

 ――長田おさだ青葉あおば

 後に賢者と呼ばれ、勇者と共に魔王を倒す英雄の名である。



 はい、長田青葉です。

 この名前をもじり、同級生の男子から〝オッさん〟と呼ばれ、女子からは〝オバちゃん〟と呼ばれていたこと以外、特筆することもない平凡な学生時代を過ごしてきました。

 彼氏はいません。いたこともありません。告白したことも、されたこともありません。

 平凡というか、平坦というか。

 山もなければ谷もない。自分の胸部が人生にまで浸蝕したかのような、圧倒的平野。

 平野は言いすぎかな。ちょっとくらいは、いや、うーん、大差ないわ。


 そんな私も社会に出れば何かが変わるんじゃないかと、せめて期待だけでも胸を膨らませ、地元にあった農学系の大学を卒業した後、22歳でJAに就職し、安いアパートを借りた。

 貴重な学生時代に青春を味わいそこなった分を、新生活で取り戻すたの一人暮らしだ。

 人間関係が一新されたことで、もしかすると、素敵な殿方との出会いがあるかもしれない。そして恋愛結婚。長田姓と、大義名分の下におさらばする。


 ――などという未来予想は泡沫の幻想にすぎないのだと、社会人二年目に入る頃には現実を見るようになった。

 大学で農業を学んだことと、実家で畑仕事を一通り経験していることを買われて、農産物の生産指導業務にまわされた。農家のハウスや畑を回り、作物の栽培状況にアドバイスするのが主な仕事だ。

 自慢じゃないけど、若いのに的確な指示を出すと、高い評価をいただいております。

 自分の経験やスキルを活かせる仕事はやりがいがある。


 あるんだけど……。

 これが予想以上に忙しくて、仕事以外に時間を割く余裕がない。

 相手が農家だと決まった休みなんてないし、野菜も成長を待ってくれない。作物によっては土日どころか、盆や正月だってない。完全週休二日だった学生の頃と比べると、異世界にでも迷い込んだのかと思ってしまうほどだ。

 唯一の楽しみがお給料だけど、振り込まれる際に出資金やら組合費やらが控除され、さらに定期積立金やら共済掛金やら車両保険代やらがちまちまと引かれていき、手取りがずいぶんとささやかになる。他にも、職員は農業新聞の契約を義務づけられていたりするしね。

 そんなわけで、あまり贅沢をするわけにもいかない。


 幸いと言っていいのか、私にお金のかかる派手な趣味はなかった。せいぜい、月一くらいで一人カラオケとか一人焼肉をしたり、たまの休みには、自家製の納豆やら手打ちうどんやら、凝っているわりに、色気のない料理を作ったりして時間を潰している。

 そんな感じで、ファッションにお金をかけた記憶がない。

 一度も染めたことのない黒髪は、整える手間を省略するためだけにショートに切りそろえ、一七五センチの高身長は、可愛い系の服や小物を寄せつけない。加えて仕事相手になる農家の人たちが軒並ご年配だったせいか、美容を気にする環境じゃなかったというのもある。

 農家を回っていれば、うちの孫の嫁に、なんて話もそれなりに出てくるけど、公私混同するのもどうかと思うので、そのあたりは世間話程度に流すことにしている。


 こんな意識の低さだから、良い出会いが訪れないんだろうか。

 確かに一理あると思う。でも、言わせてほしい。

 私、本気出したら凄いと思うんです。


 …………。


 いや、だからね、その気になれば出会いの一つや二つ、楽勝じゃないかなって。胸が無くて背が高いのも、いわゆるモデル体型ってやつだし。私ってば、磨けば光るはずなんですよ。

 というわけで、そろそろ攻めていこうと思います。乞うご期待。


 とか言って調子に乗っているうちに、27歳になった。

 その間、出会いは皆無。

 仲の良かった友達は、後輩も含めて全員結婚し、独り身は私だけになった。浮いた話が全くないことに遠慮されているらしく、同窓会の話がこなくなった。これは辛い。


 けど、まだ大丈夫。

 晩婚化が進んでいる昨今、27歳は全然焦るような歳じゃない。

 女性の結婚平均年齢は29歳だとテレビで言っていた気がする。私はメディアを信じる。

 あれでしょ? 今年中に優良物件を見つけて28歳で結婚すればいいんでしょ? それなら文句ないよね? できますよ。来年にはセレブになって、ザマスザマス言ってるはずだから。


 なんて寝言をほざいているうちに、29歳になった。ザマァないッス。

 諦めた。

 これ無理だわ。自分に旦那様がいるヴィジョンがまるで見えないもの。


「もういいや……」


 終身共済にも加入したし、このまま貯蓄を続けて定年まで働けば、自分一人の老後くらいはどうにか賄えると思う。両親に孫の顔を見せてあげられないのは、少しだけ申し訳ないけど、ごめんなさい、ギブです。

 そもそもの話、そこまで結婚願望があったかというと、そうでもなかったりする。

 負け惜しみじゃないよ。だって、男いなくても生きていけるし。

 そうすると、結婚って本当に必要なのかな、なんてことを考えてしまうわけで。

 人生に面倒臭さが加わるだけなんじゃないの? とかね。

 昔からいまいち恋愛事に踏み込んでいけないのも、根っこのところでそういう考えがあったからなのかもしれない。今にして思えば、周りの友達が結婚していくから、とりあえず自分もしておいた方がいいかな、くらいの世間体しか考えていなかった気がする。

 だから自分には無理だと決めてしまうと、意外にもあっさり生涯独身を受け入れられた。


「まーでも、子供は欲しかったかなー」


 その場合、絶対女の子がいい。溺愛しちゃう。美味しいものをいっぱい食べさせてあげて、可愛いお洋服も着せて、休日は手をつないで公園を散歩したい。

 あとね、あとね、「ママ、大好き」って言われたい。

 うああああ、いいなあああ……。

 最近やたらと忙しいせいか、仕事を終えて帰宅する道すがら、そんな妄想に耽ってしまう。

 四季に関係なく辺りはとっくに真っ暗だ。テナント募集になっているコンビニ跡を通ると、ガラス窓にくたびれた女の顔が映っている。


「ハァ……」


 鬱ってほどじゃないんだけど、溜め息の数は年々増えている気がする。残りの人生、ずっとつまらない毎日の繰り返しなんだろうかって思うと、どうしてもね。

 結婚に関しては、もうすっぱり諦めたから、そこはいいとしても、出迎えのない家に帰るとふとね、寂しいなー……と感じてしまうわけで。

 いっそ、今の仕事を辞めて、実家の農業を継ごうかとも考えている。

 だけど、両親がいなくなったら? そうなったら、いよいよ自分は独りぼっちだ。

 まだまだ先のことだとしても、いつか必ずその日は来る。


 何か対策を講じたい。

 前提として、この仕事は継続。やっぱり厚生年金の安心感は手放したくない。

 旦那は別にいらないけど、子供は欲しい。だけど結婚はできない。

 なら、どうすればいいか。


「これはもう、ペットを飼うしかないよね」


 決定。

 どうしてもっと早く決断しなかったのかと悔やまれる。

 飼うなら鳥類や爬虫類じゃなくて、もふもふした毛並の哺乳類がいい。モフみ大事。


 まずはイヌ。イヌは外せない。

 トイプードルやポメラニアンみたいな小型犬もありだけど、私的にはグレートピレニーズやゴールデンレトリバーみたいな大型犬に寄りかかって、その包容力を堪能したい。


 そしてネコ。ネコも外せません。

 イヌ派、ネコ派と分けてしまうなんてもったいない。どっちも可愛いでいいじゃない。

 種類にはこだわらない。とにかく正面から抱っこして、その腹肉に顔を埋めたい。


 それと、ウサギも飼ってみたい。

 ウサギがエサをハムハム食べる姿、あの得も言われぬ愛くるしさは筆舌に尽くし難し。

 特に垂れ耳のロップイヤーなんて悶絶必至だ。三日三晩でも愛でていられる自信がある。


 あと、ちょっと変わり種なところで、アザラシとか好き。

 ゴマフアザラシの赤ちゃん見たことある? 激ヤバですよ。天使の翼みたいな純白の体毛に一発で心奪われちゃうから。さすがに飼うのは無理だけどね。プールなんて用意できないし、大人になると体重が一〇〇キロ超えたりするし。


 ここだけの話、ペット可な物件には既に目星をつけていたりする。ぶっちゃけ結婚情報誌を取らずに、アニマル雑誌ばかり読んでいましたから。敷金はちょっと割高だけど、家賃自体はそんなに高くないので、その分ペット用品を充実させたい。


「思えば、これが初めての大きな贅沢かもね」


 我ながら渇いているというか、色のついていない、無味乾燥な人生を送ってきたものだ。

 次に休みが取れたら、一緒に暮らすペットを――……。

 ううん、家族を探しにいこうと思う。善は急げだ。


 心なしか歩調も軽やかに、街灯の光が届かない、薄暗い交差点に差し掛かった。

 ぼんやりと不気味に浮かんでいる信号は、生憎の赤色。車通りが少ないくせに、この信号はやたらと赤が長い。体感では、八割強の高確率で引っかかっている気がする。気持ちに余裕がなければ、イライラして電柱に愚痴の一つも吐いたかもしれない。

 だけど今は「美人が通りかかったからって、そんなに赤くならなくてもいいのに。あらら、こんなに硬くなっちゃって。緊張しているのかしら?」なんて小芝居を、無機物相手に演じてしまうくらい、もふもふライフに心をときめかせている。


 表情をだらしなく緩ませ、新しい家族をモフるシミュレーションをしていると、闇夜に佇む一匹の小動物が、じっとこちらを見つめていることに気がついた。

 黒ネコだ。

 咄嗟にニヤけ面を隠すが、黒ネコは私の奇行にも興味を示していない。横断歩道の向こうで三つ指をついたように大人しく座っている。夜だから黒目が大きくなっており、実に私好み。


「君、どこの子?」


 周囲には他に誰もいないので、遠慮なく声をかけた。

 しかし、黒ネコは私を無視して、うにゃうにゃと顔を前足でこすっている。そのネコ特有の仕草が、私の心臓をズキュンと射抜き、ガッシリと鷲掴みにする。

 いいなー、ネコいいなー。それ、私の膝の上でやってほしいなー。


「この辺りでは見たことない子だけど、飼いネコなのかな」


 野良だったら、今すぐマイファミリーに勧誘する。

 そして明日の朝一番で無理やりにでも半休を取って、動物病院に連れていって、引っ越しが終わるまでは仕方ないから実家に預けて。あ、本当に野良なのか、警察や保健所に迷子届けが出ていないか確認もしないとだ。

 勝手に縁談を進めていると、黒ネコがおもむろにお尻を持ち上げ、横断歩道に入ってきた。


「こらこら、まだ青じゃないよ」


 注意するも、やっぱりガン無視。

 ま、ネコは自由だからしょうがにゃいかー。


「可愛いにゃー。可愛いにゃー」


 語彙を消失させながら温かい目で見守っていると、不意に黒ネコが立ち止まり、三角の耳がピンと立った。一拍遅れて、私もその原因に気づく。


 ブアン、ブアン。


 肺活量の限界に挑戦したラッパ音のように、思わず耳を塞ぎたくなる騒音が近づいてくる。

 静かだった夜をねじ切る唸り声は瞬く間に大きくなり、鼓膜を震わせるまでになった。

 改造車だ。迷惑な。

 その手の例に漏れず、速度制限を大幅に逸脱したスピードを出している。

 違法マフラーによる怪音がクラクション代わりだとでも思っているのか、暴走車は減速することなく交差点を突っ切るつもりのようだ。

 一方の黒ネコは、焦る素振りを見せずに優雅な歩みを再開した。どうせ、相手の方が勝手に避けていくだろう、とでも言わんばかりのマイペースで。


 いや……でも、これ、ダメだよね?

 君、全身真っ黒だし、絶対相手に見えてないよね?


「ちょ、は、早く……早く渡ってしまいなさい!!」


 身振り手振りを交えて叫ぶが、黒ネコは意に介さない。

 思ったとおり、暴走車は黒ネコに気づいておらず、信号が変わる前に通過してしまおうと、さらにアクセルをふかした。どうせ信号なんて無視するくせに。


「ああ……もうッ!!」


 焦燥に駆られた私は、自分でも信じられない行動をとった。

 暴走車のハイビームが交差点に侵入したのと同時に、私もまた横断歩道に飛び出していた。


 一歩目で、取り返しのつかない馬鹿なことをしてしまったと嘆いた。

 二歩目で、誰にともなくごめんなさいと謝った。多分、両親と職場の人たちに。

 三歩目は、コンマ一秒でも早く黒ネコの所へ。それだけを考え、力いっぱい踏み込んだ。

 ここで見殺しにしたら、この先一生、私にもふもふを愛でる資格はない。


 暴走車には何食わぬ顔をしていた黒ネコも、真っ直ぐ自分に向かってくる私に驚いたのか、フシャーッ、と毛を逆立てて威嚇している。手を出したら噛みつかれそうだ。

 構わない。私は黒ネコのお腹を、下からすくい上げるようにして掴み上げた。

 案の定、袖の上から手首に噛みつかれ、爪も立てられた。

 でも、それ以上に温かくて、柔らかくて、手放すのが惜しくなるもふもふ感。

 そして、トクトクと、人間よりもずっと早い鼓動――生命の躍動が掌に伝わってくる。


「着地は……自分でしなさいね」


 おそらく、今生(こんじょう)最後になるであろうもふみを味わった私は、できる限りそっと、道路の脇に黒ネコを放り投げた。そのまま倒れ込むように、もふみとは真逆の、ひんやりと冷たくて硬いアスファルトに手と膝をつく。

 ここでようやく、遅すぎるブレーキ音がけたたましく鳴り響いた。

 目と鼻の先まで迫ったハイビームが車体を覆い尽くし、衝突の瞬間を悟らせない。


「あーあ……」


 もふもふライフは来世までおあずけか……。

 視界を真っ白に染める光に飲み込まれ、私の退屈な人生は幕を下ろした。

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