第3話 僕は前に進む
ここは見知らぬ貴族屋敷の寝室。
大きな窓から、夜の青白い外光が差し、低い位置に置かれた幾つかのランプの炎が、淡い赤で室内をムーディーに照らし出している。
通常ならば、心安らかに落ち着ける環境だ。
目覚める前まで青年が暮らしていたはずの、アパートの一室の面影はどこにも無い。
「よっよし……いま分かっている現状、このおかしな現実世界のことを整理しよう」
ある思い、他人に真顔で話せば『夢見すぎ』の一言で蹴散らされそうな……あり得ない可能性が、すでに青年の頭に浮かんではいた。
しかし、その結論に飛び込むにはまだ早い。
奇妙な理屈が合点するためにも、順序というものがある。
自分の名前を思い出せない青年は、意識を取り戻した天蓋ベッドの上で、上半身を起こし身を任せたまま。
とりあえず先ほどの執事という人物との会話を復唱した。
「僕はこの屋敷、常識人が付けたとは思えない妙な名前、カピバラ家の新しい主人。それで、昨日の夕方にこの家に到着してすぐ倒れたらしい。気絶した僕を、あの執事がベッドまで運んでくれた。すでに医者にも診せ、体に異常はないらしい……」
まじめに考え自分で始めた考察だが、思わずバカらしさが込み上げてくる。
「おいおい、待って。執事って、当たり前のように口にしてるけど、執事ってなんだよっ、そんな人、現実に今まで話したことも、見たこともないよ!」
笑い声を上げたくなったが、その後の静けさが怖くなって首を振った。
「もう、それはいい。そういうレベルは考えだせばきりがない……もう少し違う角度で考えよう」
青年の見解の整理は続く。
彼が置かれている、このシチュエーションについて考えてみた。
目覚め以前の過去の世界、青年が暮らしていた日本国が存在する世界。
ここはそこと同じ世界なのか? 例えば、どこかの映画スタジオの一画で、あの美しいエルフの執事は役者の特殊メイクだろうか?
確かに、この部屋は薄暗い。昼間の明るさの中、もしくは煌々と照らされたライトの下で会ったわけではない。
そのために、あたかも本物と見間違えたのか?
間近で見た、きめ細やかな肌。あの瞳、深く美しい緑、虹彩はまるでみずみずしいキウイフルーツ! 全くもってリアルだった。
その上……決定的な一打、ココが単なるニセモノではないという証拠。
気づいただろうか、あの違和感に……その裏にある、驚愕の事実に。
自問自答の自己完結サイクルの中、もう一人の自分に問いかける。
青年は思いだす。あのルシフィスという執事は……。
「『日本語』を話していた」
いや、正確を期すなら少し違う。
青年には、日本語に理解される言葉をだ。
普段、吹き替え版の洋画等を見ているとき、巧みな声優のテクニックにより、まるで外国の俳優が、そのまま喋っているかのごとく違和感がない。
しかし、注意深く、その一点に注視しながら映像を見たなら……違和感に囚われるのではないか?
あのエルフのほっそりとした顔の骨格で、あのような心地よい男性の声を。はっきりとした日本語を、もっといえば青年の住む世界のいかなる国の言葉をも、発せられるのだろうか?
繰り返すが、青年の頭には既に浮かんでいた。
幼き頃はいざ知らず、けっしてアウトドア派とは言えない彼。ファンタジーな映画、小説、アニメ、そしてゲーム! そんな夢と希望の世界を生活の良き糧として生きてきた彼にとっての、ある確信が芽生えていた。
認めざるを得ない。
どれだけあり得ない突拍子もない思い付きだろうが……。
ココは、つまり……。
「あの『異世界』なんだ!」
その言葉を出すと同時に、青年の体はゾクゾクっとする、何とも形容しがたい喜びとも恐れともいえない感覚で満たされた。
「……」
疲労感が彼を襲う。
考えるのはもう止め、このままシーツを被って眠れるなら眠りたい。もう一度目覚めた時には、もしかしたら……。
「……」
青年は、今一度立ち上がって思考迷宮の階段を上りだす。
「この世界が、異世界だとしても、まだ分からない問題がある。……このモザイクがかった記憶……なぜ僕は自分の名前を思い出せない?」
彼はふと不気味な考えを思いつく、それは逆の視点。
「ま、まさか……。実はあの執事の言うことが現実、真実で、僕は本当はカピという名の貴族の御世継で……この頭の中の『日本人の青年の誰か』という方が、気弱な若様の現実逃避の妄想なのだろうか!?」
暑くはないのに、額に汗が浮かぶ。
「こんがらがってくる……けど……、この世界こそが真で、地球が、日本が存在するという宇宙が虚。僕の頭の中の想像世界……異世界なのだろうか?」
「……」
「……」
「……」
首を大きく振る。
「無い無いっ! それはない!」
彼の記憶の世界が真で、こちらが異世界。青年はいわゆるトリップしたのだ。
「そう……、記憶の混濁、欠如は、転移した時、こちらへやって来た時に受けた、何らかの影響だ……」
彼は軽く広げた両手を見つめる。少し震えていた。
ぎゅっと握りしめ、こぶしを作る。
「そろそろ、腹を決めよう。前に……前に進むべきだ」
怖い。
とても奇妙で、何も分かっていないこの状況。周りは、かつての常識とはかけ離れた妙な世界。
「上等だよ。どこにいたって未来は分からない。……一寸先は闇なんだから」
むろん、全て吹っ切れたわけではなかった。
夜眠れないとき、思い悩むこともあるだろう。ふと何気ない日常、交わす会話の中で何か心に引っかかる出来事やワードに触れるにつれ、過去を思い、考え込んでしまうときもきっとある。
でもこのような事は、結局どの世界に生きていても、同じではないか?
ならば一歩を踏み出そう。殻に閉じこもるのではなく。
そう『カピ』は思った。
カサッ。
何かが落ちた。
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