第3話
「次の方どうぞ!」
張り上げるような声で、書店の男性従業員が言う。その掛け声とともに、またひとりと僕のもとへ近づいてくる。握手会が開かれる前に、大量にサインを描いておいた本の束から、一冊取って準備する。
視線を正面に戻し、見上げる。数瞬、時が止まった。いや、本当に時が止まってはいない。これは比喩だ。
嘘だろ……。
目の前には、もうこの世にいるはずのない未来がいる。若き姿の彼女がここにいる。
どういうことだ? いや、そんなわけがない。けれど、僕にとっては、同じくらいの存在だ。もう一生会えないと……会うことはない、と思っていたから。
12年ぶりに再会した娘は、若き日の妻にそっくりだ。妻はおしゃれよりも動きやすさを重視していて、ズボンのベースはいつもデニムで、パーカーを好んできていて、夏用に半袖のパーカーも持っていた。明日香は水色のデニムと白のパーカーを着ており、妻と服装までそっくりで、瓜二つだ。唯一違うのは、身長が少し高いくらいだろう。
「はじめまして、お義父さん。立花(たちばな)はじめといいます」
娘の右隣に立っている男が、落ち着いた口調で言った。髪は短く、青のシャツに黒のズボン。爽やかな印象だ。
僕をお義父さんと呼ぶということは、娘の恋人なのだろう。
「明日香さんがよくお母さんの話をしていたんです。お義父さんとよく行った場所、かけた言葉。与えてくれたものについて。たまたま買った小説を読んで、もしかして、と思って、彼女にこれを渡したんです。そうしたら、この題名が亡くなったお母さんの名前であったことを知りました」
彼の口ぶりはトリックを明かす探偵のような口ぶりで、何だか自分が容疑者にでもなった気分だ。彼の言う通り、僕の描いた小説は僕と未来が出会ってからの話と、いつしかの夜に見つけた、彼女の心情がつづられた日記をもとにして描いた話だ。
あの日の夜から、死ぬことの許されない自分に何ができるのかを考え、たどり着いた答え。
妻から奪ってしまった時間。もし、今も生きていたら、彼女はもっと様々な人に出会い、多くの人が未来を好きになっていたはずで、彼女自身も、未来に触れた人も、幸せになっていたと思った。
だから、僕は彼女の生きた証を残すという方法をとった。未来はもうこの世にはいないけれど、多くの人に彼女という存在がいたことを知ってほしかったのだ。そして、もう一つ。それを知ることによって、彼女を自殺に追い込んだ私──僕を、死ぬことの許されない僕自身を糾弾してほしかったのだ。
後ろの列を一瞥し、再び視線を戻す。このまま私情を話してしまうと、握手会に来てくれた人たちの時間を奪ってしまうので、明日香たちに後で時間を作ることを伝え、終了まで待ってもらうことにした。
握手会が終了し、今日来てくれた人たちに改めて感謝の言葉を伝える。けれど、次回作も期待してます、という彼らの問いには答えられなかった。
「待たせたね」
お店の控室を借りることができ、そこで話をすることになった。
紙コップに入ったコーヒーに口をつけ、言葉を待つ。
「いえ。すみません、お時間をとらせてしまって」
「いや、そんなことはない。本題に入ろうか。挨拶をしに来ただけではないだろう?」
僕は決して娘と世間話をするつもりはないし、できるはずのない関係だ。本来の親子関係とは別種な道のりを歩んできた僕らにとって、交わす言葉に余計な前説なんていらない。本題だけでいい。
あってからじっと僕の言動ひとつひとつを疑うような目で見ている娘を一瞥し、言葉を促すように彼に視線を向ける。
「はい。お義父さんのおっしゃる通り挨拶をしに来たわけではないんです。ただ、2つだけ確認を取りたいことがあったから来ました」
首肯で応える。
「明日香。これは君が話すべきだよ。そう決めただろう?」
娘は先ほどから僕に向けていた視線から彼に移し、うなずいた。
「ねえ、お母さんのこと本に描いてお金稼ぎできて幸せ?」
予想していたし、何度も考えた内容だ。今更戸惑うこともない。僕は微笑み答える。
「確かに明日香からしたらそう見えるだろうね。もちろん、お母さんを知る人たちは。でも、はっきり言える。それは違う」
これだけで納得するわけがないことはわかっているし、言葉足らずだろう。案の定、明日香は疑いの目をやめてはいない。一言で理由を説明することも当然にできる。けれど、証明問題には過程が必要であるように、金もうけではないということを証明するためには、僕の12年間という過程を話さなければならない。
「どこから話せばいいだろうか。とにかく僕は、あれから自分を責め続ける毎日を送っていたよ。もちろん、自殺したいと何度も思った。でも、それは最も贖罪とは遠い逃避だ。だから僕は死なないというより死ねなかったという方が正しい。わからなかったんだ。何が正しいのか」
長話は得意ではない。それに、今日はたくさんの人と対話をした。口がよく乾く。コーヒーに再び口をつけ、言葉を続ける。
「ただ生きているだけでは、罪の償いにはならない。まず初めに行ったのは目の前のことを必死にやることだった。つまり、仕事に打ち込むことにしたんだ。休みの日も仕事を持ち帰ってやったり、残業を自らしたり、人の何倍も仕事に打ち込んだと思う。けれど、それは長くは続かなかった。すぐに無理がたたって体を壊したよ。情けない話さ。だけど、体を壊して死に近づいている自分が少し嬉しかった。でも、死ねなかった。入院しては退院してを何度か繰り返した」
何度も繰り返すうちに頭がおかしくなりそうだった。拷問を受けているような気分だった。死ぬぎりぎりまで追い込むのに、一思いに殺してはくれず、ある程度回復させては、また死ぬぎりぎりまで追い込まれる。気が狂わないわけがない。
「これが僕への罰なのか、と納得することもできたけど、僕は死んではいけない理由があるのではないか、と考えるようになった。そこで、原点に返ってみることにしたんだ。一番この世で大嫌いな父親に会ってみることにした」
明日香も未来も僕の両親に会ったことがない。僕は両親と縁を切っている。だから、会わすことはなかったし、明日香には話すことはなかった。
どんな人だったかを知ってもらうために、僕は明日香に両親の話をすることにした。
僕の父親は、亭主関白で、僕の母を召使のように扱う人だった。自分勝手で、独裁的。思い通りにいかないことが大嫌いで、いつも怒鳴っていて、僕の母に皮肉を言うことを楽しむ最低な人間だった。母はいつも怯えていて、例えるなら、自分では生きるすべを持たない子犬のような人だった。何もかも言いなりのままで、息子である僕すらも見えていなくて、いつも父親を優先していた。久しぶりに会っても相変わらずで、やせこけた母は見ていて胸が痛くなった。
「同じなんだ。大嫌いな父親と。自分がこの世で大嫌いな存在になっていた。なりたくない大人の姿があった。どれだけならぬまいと意識していても、実際になっていても気づけない。臆病な僕を変えてくれた未来を召使のように扱い、自殺までさせてしまった」
本当に許せなくて、嫌いたくても切り離すことのできない自分自身。嫌悪しても結局、それは僕だ。はぎ取れない僕は僕自身によって糾弾されなければならない。
「どれほど困らせていたのか。どれほど未来の信頼を裏切っていたのか。未来の時間をどれほど奪っていたのか……」
目頭が熱くなるのを感じる。喉が詰まる違和感を飲み込み、言葉を続ける。
「僕は未来の生きた証を残したかった。生きていればもっと多くの人を喜ばせたはずだから」
彼からハンカチを渡されるが、手で制し自身のハンカチで涙を拭う。
「世の中に彼女の存在を伝えるのは難しい。世界の真ん中でどれだけ叫ぼうとも中身なんて伝わらないし、おかしなやつと思われ、それだけにスポットライトが当たるだろう。ならどうすればいい、と考えて辿り着いた答えが小説だった。まあ、読書ばかりしていたからというのもあるけどね」
話の最後に自嘲笑いを浮かべる。鋭利だったはずの明日香の目は、やすりがかけられたかのように柔らかい印象へと変わった。
「ふーん。そっか。なら、よかった……」
そう言って微笑み俯く姿は妻にそっくりで、口元がほころんでしまった。懐かしくて、とてもかわいい微笑。長らく見ていなかったし、もう見ることさえできないものだと思っていたけれど、今こうしてこの光景を目にすることができたのは、妻のおかげだ。どれだけ時が経っても、もうこの世に未来がいなくても、今もなお、僕は彼女に救われ続けている。そんなことを思った。
「私さ、ずっと恨んでた。お母さんを殺した最低最悪の父親だって、ずっと思ってた。だから、はじめからこの本を渡された時は本当に許せない気持ちでいっぱいだったんだ。だって、自分が自殺に追い込んだくせに、それを話のネタにして本にするなんて許せないでしょ? でも、はじめにしっかり読んでくれ、ってしつこいくらいに言われたし、真剣さが伝わったから仕方なく読んでみたの。本当に嫌だったけどね」
そう言って彼を睨む娘にはどこか暖かさが感じられて、あはは、とごまかすように笑う彼の表情に、確かな愛がそこにあるような気がした。
「まあ、読んでくうちに美化してないこともわかったし、ちゃんと気にしてることもわかった。だから本心が訊きたかったの。しっかりと、自身の口で。そしたら、ここで握手会が開かれるっていう情報を見てさ」
「俺は明日香が殴りかかったりしないかひやひやしてたけどね」
「し、ま、せ、ん! 人を暴力女みたいな言い方するのやめてもらえます?」
笑いあう二人の暖かいやり取りを見ているのはとても楽しくて、何だかこちらまで暖かくなる。
だが、懸念すべき問題があり、少量の緊張で手のひらの汗は止まらないでいた。
「ところでさ、確認したいことが2つあるって言ってたけど、今ので終わりでしょ? まだ何かあるの?」
やはりというべきか。このまま終わりを迎えさせてはくれない。当然だ。僕は最低最悪の罪人なのだから。
「うん。これは少し自信がなかったから、言うべきか迷ってたんだけど、今お話を聞けて確信したよ」
明日香は状況が呑み込めていない様子で、首を横に傾けたのを横目で確認し、視線を彼に戻す。震えてしまう手で拳を握りながら。
「どうしてあなたは死のうとしているんですか?」
え? と驚いた声で言ったのは明日香だった。その様子からは、彼から何も聞いていないであろうことがわかった。
「何言ってんの、はじめ。死のうとはしてたけど死ねないって言ってたじゃん」
「うん。昨日まではね」
「なに? 昨日? 言ってる意味がわかんないだんけど……」
「おそらく、今日の握手会がお義父さんにとって、最後の日にしようとしていた日なんだ。だって、今日は3月31日──明日香のお母さんが自殺したとされる日だから。ですよね、お義父さん」
すべてを見破られていることに焦りや不安、怒りのような黒い感情ではなく、僕が抱いたものは感心だった。とても素直で純粋な驚きと聡明である彼を尊敬すらしたくなる。
「まさか読み解かれることがあるとは思いもしなかったよ。別に、におわすように書いたわけでもないからね。どこで気づいたのかな?」
彼は鞄から本を取り出すと、スピンを掴み、挟んでいたページを開く。
「ここの部分です。
──彼女の終着点は私によって阻まれ、私にとっての終着点もまた、自分自身によって阻まれた。終着点という理想を目指すために、私がかつて失い、奪ったものを取り戻さなければならない。いずれ来る理想に到達したとき、そこが私の終着点になるだろう。
あなたの理想はこの本を世に出すことで、自分自身を嫌ってもらうこと。もっと言えば、最低な人間だとさげすんでもらうため。疎まれる存在になって自殺することで、死後も自分自身が最低な人間だと思われ続けることができる。それがあなたの終着点を指すんですよね?」
完璧だった。指摘する部分も補足する部分もありはしなかった。
「……まったくその通りだ」
「何で? 私があんたが死ねばよかったって言ったから?」
身を乗り出すように、怒りに似た表情で明日香は言った。
「それは違うよ、明日香。明日香は何も悪くないし、ましてや、ほかの誰が悪いわけでもない。悪いのはすべて僕なんだ。僕一人なんだよ。はじめ君の言う通り、僕の理想は死してなお嫌われ者であり続けることだ。これが僕にとって、最大にして最高の贖罪であり、罰なんだ。だからもう──」
「ふざけんな!」
明日香の大きな怒号が言葉を遮る。怒っているときにする表情だということはわかるのに、何故か瞳は切なくて、胸が締め付けられるような感覚がする。
「なに悲劇ぶってんだよ! みんながあんたを嫌いになる? うぬぼれんな! そんなのあんたの自己満足だ!」
「そうかもしれないね。でも、そうだとしても僕は……僕の理想を目指すよ」
「ふざけんな……。絶対にさせない。そんなことをしたら、私はあんたを一生許さない。絶対……」
困ってしまって言葉が出ない。どんな言葉を伝えれば、自殺することを許してもらえるだろうか。考えてもその答えはでない。反対に、自殺したい理由を僕が仮に誰かに話されたとしても、それに納得して許可を出せる理由なんて思いつかないし、そんなものがあるような気はしなかった。
「まだお気づきにならないんですか?」
「え?」
「誰もあなたが死ぬことを望んでいないんですよ」
望まれていない? 何を言っているんだ? 僕は妻を殺したも同然の罪人なんだぞ。
「今日の握手会に来たファンの方々を思い出してくださいよ。あなたの作品を──あなたの人生をみんな好きになったんです。人として……親として、あなたは最低だったのかもしれない。大切な人を自らの行いで失って、多くの人を傷つけて、その分、自分も傷ついたあなただからこそ、多くの人の心を動かしたんだと僕は思います。自殺するために世の中に出た作品で満足して死ぬなんて、未来さんが望むとはとても思えない。それに、それは明日香の言う通り自己満足でしかない。本当に罪を償う気があるのなら、その手段をあなたが勝手に決めていいものではない。してしまった罪は一生消えないんです。だから、今度はファンの方々のために生きてみてはどうですか?」
話の最後に見せた彼の微笑は、どこかいたずらをするような子供のような憎たらしさを持っていた。
「目的を達してもなお、君は僕にまだ罰を与えるというのか……」
これで解放されると思っていたのに、まだ僕に生きろというのか。
「いいえ。僕だけじゃありません。未来さんが関わった人たち。明日香。僕。そして、あなたの本を読み、未来さんを……あなたを認識して、あなたを嫌った人たちや、反対にあなたを好きになったファンの人たちのためにあなたは生きるんです。それが、僕たちがあなたに与える最大の罰なんですよ」
彼の言葉に目頭が熱くなる。その熱が瞳に集中し、涙となって頬を伝ってこぼれていく。雫が3滴ほど垂れた後、ストッパーが外れたように泣いた。みっともなく声を出して泣いていた。
彼の言葉は明らかな詭弁で、明らかな搾取だ。けれど、今までの苦しみよりもずっと軽くてそれでいて暖かく、背負っても悪い気のしないものだ。
心が軽い。救われた気がしたんだ。救わることのない人生だと思っていた。そうあらなければならないとさえ思っていた。そのはずなのに。
嬉しい。
死ぬことを望まれた私。
死ぬことを望んだ僕。
両者の願いは一致していて、生きるなんて選択肢はなく、与えられることもないものだと思っていた。
生きろという言葉が頭の中で何度も反芻する。バスケットボールがバウンドするように。
生きろという手段は僕にとって罰であるはずなのに、いつしか未来の親友に言われた「生きろ」とは違って、認められたような、救われたような。そんな気がした。
「ありがとう」
泣き終え言うと、彼らは目に涙をためながらに首を横に振った。
「今度お母さんの話聞かせてよ。ほかにも訊きたいこといろいろあるし、さ」
「……ああ」
「ゆっくり行こう。それに、新しい家族が増えるんだ。だから、いいおじいちゃんになってよ」
そう言って、明日香はお腹のへそのあたりをさすり、微笑む。母になる──母になった明日香に対し感嘆と祝意の気持ちから、僕は笑顔で頷いた。汚れのない潔白で自然な笑顔で。
心の中にずっとあった曇り空は、気づけば雨が降りやみ、厚い雲に覆われていたはずの太陽が約20年ぶりに顔を出した。それと同時に動くことを忘れた秒針が、思い出すかのように時を刻んだ。
僕はこれからも十字架を背負い続ける。彼の言う通り妻を自殺させたという罪は消えないし、消すつもりはない。
後悔や罪悪はいくつもあって、悩んで死にかけたこともたくさんあった。けれど、僕は生きている。
もう、死が終着点では決してない。命が終わるという意味ではそうだが、肉体がなくなったからといえど、かかわっていた人々の心には大なり小なり記憶として生きている。だからこそ、停滞した印象で終わらせてはならず、自分の望む理想の人格を取り戻した今の自分から、またもとに戻らないように学習したのだと、自分自身を更新し続ける必要がある。なりたくない大人の姿にならぬように。
これから先、僕は証を残し続ける。妻はもうここにはいないけれど。彼女の面影とともに僕は歩み、自分自身の証を……彼女の証を残し続ける。
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