第2話
「あんたのせいだ……あんたがお母さんを殺したんだ!」
妻が自殺した事実と午後に葬式が行われることを告げると、明日香は怒号を上げ、私を睨んだ。
その目は純粋で、疑う余地のないほどの殺意を表していて、身震いするほどに冷たく鋭利だった。経験はないが、ナイフを喉元にあてられているような気分だった。
そんな目を向ける娘が怖くて。何より、妻を死なせてしまったという事実を受け入れたくなくて。私は、視線からも事実からも逃れようとすることばかりを考えていた。うずくまり、怯える自分の肩を抱きながら。
「どうしてお母さんが死んで、あんたが生きてんだよ! あんたが死ねばよかったのに!」
嗚咽が入り混じっている娘の声は、ひどく震えていた。
僕が死ねばよかったのか……。
言葉を発しようとしても、喉元にセキュリティがかかっているみたいに閉ざされていて、何も言葉にすることができない。何も言わない私に、明日香は、嗚咽を殺すような声で言葉を続ける。
「私、おばあちゃんのとこ行くから。二度とあんたの顔見たくない。お母さんの葬式にも来ないでいいから」
私の返答を待つ間も置かず、玄関の扉が開かれ、扉が閉まった後にほかの音が聞こえてくることはなかった。
時計の秒針が刻む音だけが残るこの部屋を、顔を上げ見渡す。当然に誰もいなくて、力が思うように入らない足ですべての部屋を開け、守ってきたはずで、明確にあって当然にあったはずのものを探す。
けれど、それは一方的な思い上がりに過ぎず、自分が守ってきたはずの“家族”の中には何も入っていなくて、欠片すらありはしなかった。
妻の葬式には結局参加することにした。
妻の両親に合わせる顔も、参加する資格も当然ないけれど、行かないことによって後に起こることを考えたら、参加しないという選択肢を選ぶことはできなかったのだ。
随分と長い時間考えていたせいか、開始時刻を過ぎようとしていて、今から家を出ても間に合わない。けれど、急ぐ気にはならなくて、気の抜けた体で目的地へと向かった。
開始時刻20分を過ぎて、葬式会場に到着した。
中に入ると、お焼香が行われていて、注目を集めないように端の席へと座らせてもらったが、妻の親族たちにばれてしまうという緊張感から、大きな音を立ててしまった。
ここにいる、ほとんどの人たちが私に視線を向けたのと同時に、セーラー服を着た娘が、足音を立てるようにしてこちらに近づいてくる。
「ねえ、なんであんたがここにいんの?」
鉄パイプの椅子に座る私の前に立ち止まり、見下ろしながらに、私を睨む。
またあの目だ。今朝と同じ、殺意に満ちた鋭利な目。
何も言えず、黙っていると、娘は怒鳴り声を上げる。
「どうしてあんたがここにいんのか訊いてんだよ!」
娘の怒号に、静寂に包まれていた葬式会場に緊張感という別種の沈黙が流れる。
そんなことを気にも留める様子もなく、明日香は言葉を続ける。
「来なくていいって言ったよね? 二度と顔を見せるなって言ったよね? 出てけよ! あんたの顔なんてお母さんは見たくねーんだよ!」
「明日香ちゃん、もうその辺にしよう。みんなびっくりしてるから。ほら、お父さんだって驚いてる」
喪服に包まれた森山千鶴──妻の幼馴染で親友。が娘に言った。
私の記憶の中の彼女は化粧っ気のない女性で、肩よりも少し長い髪を後ろで束ねるだけで、いつもけだるげだった。しかし、久しぶりに見る森山千鶴は、控えめな化粧をしており、おそらく長い髪は、しっかりとまとめられていた。たれ目な彼女の瞳は、泣いたのだろう少し赤い。
「こんなやつ、父親でも何でもない! こいつが……こいつが、お母さんを殺したんだ! あんたさえ……お前さえいなければお母さんは死なずに済んだんだ。あんたが死ねばよかったんだ!」
今朝にも、似たようなことを聞いた。私が妻を殺した。これは明日香の言うように真実で、避けることのできぬ事実なのだ。先ほどまで怖くて仕方がなかったはずなのに、なぜだか少しだけ動く勇気が出ていた。
私は鉄パイプの椅子から立ち上がり、妻の遺影に視線を送る。満面の笑み、という言葉をそのまま体現したかのような笑顔だ。それはかなり前の写真で、結婚したての頃だ。妻との思い出の場所で、あまりに笑顔が綺麗だったから、写真に収めた記憶がある。
懐かしい……。この感情自体抱くことが懐かしく、久しく過去を振り返ることも、妻との写真や思い出。そして、娘との思い出さえも残せないほどに、余裕がなかったことに今更気づいた。何一つ見えてやしない。本当に情けなくて、最低な話だ。
もう……ここにいてはいけない。行くべき場所は決まったから。お別れにお焼香をしようと考え、遺影のある場所へと向かおうとしたのだが、娘の怒鳴り声に足が止まる。
「お前なんかがそんなことすんな! お前にそんな資格もないし、ここにていい資格もないんだよ」
娘の方を振り返ると、明日香は流れる涙を手で拭い、言葉を続ける。
「お願いだからもう帰ってよ……あんたの顔なんか見たくないんだよ……」
その声は、先ほどまで怒鳴り声を上げていた声とは違い、繊細で、それでいて、怒鳴り声と同様の純粋さを兼ね備えていて。力のない声なのに、力強い。純粋な嫌悪と怒りは、言葉にする必要がないくらいに、私の胸を締め付けた。
娘から視線を外し、遺影へと戻す。すると、鈍い鈍痛が私の右頬を襲う。その場で転倒し、視線が地面に落ちる。見上げると妻の父親が顔を真っ赤にして、私を心底憎んでいるような目で睨んでいた。
唐突な痛みに狼狽し、目を丸くすることしかできない。立ち上がる手順さえも頭に浮かんでこない。けれど、殴られたことだけは理解できた。上体を起こせぬまま、視線だけは妻の父親に向ける。
「帰れ……」
たった一言、怒鳴るでもない声で、妻の父親は私に言った。その目には涙が浮かんでいて、拳を強く握りしめていた。
私に背を向け、どんどん離れていく。その後に妻の母親がつき、彼の肩に手を添える。痛みで潤んだ私の瞳には、いつまでも強く拳を握りしめ続ける彼の姿を映し続けていた。その間、考えていた。あの握られた拳にどれほどの感情が詰まっているのだろうか、どれほどの我慢がそこにあったのだろうか、と。
自分がとても情けない。娘にはひどい言葉を吐かせ、妻の──未来の父親にあんなことまでさせて。私はなんて最低なんだ。本当に。
ようやく立ち上がる力を取り戻し、上体を起こすと同時にふっ、と笑ってしまった。自嘲な笑みだった。無様で滑稽な自分を笑う汚いものだった。
結局、何を言うこともなく頭を下げることもなく、私は葬式会場を後にした。視界は帰路だけを映し、他のものにピントが合うことはなかった──いや、自らがそうしていた。
外を出ると、頭や体が冷たくなっていく。雨雲が空一帯を覆いつくし、妻の死を悲しむように雨が降り注いでいる。雲の隙間には、妻の心を表現したような鮮やかな群青が顔を覗かせていた。
傘を持ってきていないので、雨に打たれながら帰るしかない。けれど、普段なら鬱陶しく感じる雨ですら、今の私には気にならなかった。むしろ、このまま体温をすべて奪い去り、私を殺してくれ、とすら思っていた。
「待って!」
後ろから誰かの声が聞こえ、足を止める。振り返ると、そこには妻の親友である森山千鶴がビニール傘をさし、走ってきたのだろうか、肩で息をしている。小さい雨音にコツコツと鳴る彼女のヒールの音が混ざる。森山千鶴は、さしている傘を私の頭上に近づける。気持ちはありがたかったが、今の私にはその雨粒ひとつひとつに意味があって、冷たい雫たちに打たれないわけにはいかなかった。撫でられることを嫌う猫のように、頭を引っ込める。
「そのままだと風邪ひくよ?」
私と接する今の彼女は、最後に会った時と変わらない態度、声色だ。そのことが不気味で仕方がない。妻と一番の親友だったはずの彼女が怒らないはずがない。それに、森山千鶴が怒る時はとても感情的で、口調も荒くなり何度か胸ぐらをつかまれたことがある。
「ねえ、影郎。未来は本当に……」
言いよどんだ様子で、最後まで口にはしなかった。だから私は、自分自身に現実であることを認識させる意味も含め、あえて口にする。いや、違う。抑制された欺瞞でしかない、彼女の不気味で気色の悪い優しさを壊してやりたいのだ。取り乱して感情のままに、まるで動物のように怒り、私の心をズタズタに引き裂いて欲しかった。
「そうだよ。僕のせいで未来は自殺したんだよ」
しかし、森山千鶴の表情は変らない。どうやら、彼女の表情を崩すにはまだ足りないようだ。
言葉を続ける。
「自分の思い通りに何でもしたかったんだ。でも、思い通りに何かいかなくて、そのことがとても気に入らなかった。それに、仕事のストレスもあって、イライラしていたんだ。だから僕はストレスのはけ口として未来を困らせた。というより、専業主婦で楽をしている彼女が純粋に妬ましくて、憎らしかったんだ」
彼女の仕事を辞めさせたのは私自身で、未来が叶えた、幼稚園の先生になるという夢を奪ったのだ。思い通りにいかせるために、諦めさせて。
なのに。それなのに、腹を立てたり、妬んだり憎んだりして、本当に矛盾した話だ。
「だから僕は言ったんだ。君と出会ってから、僕はどんどん不幸せになってくよ、って」
ようやく彼女の表情は崩れ、私の胸ぐらを掴んだ。怒った彼女の表情を見るのは、随分と久しぶりだ。
「ふざけんな! 不幸せ? どこがよ! あの子に助けられた、あんたのどこが不幸せなんだよ。不幸せだったのはあんたじゃなくて、未来じゃないか。未来がどれほどあんたのことを信頼していたかわかる? どれだけ大切に思ってたか知ってるのかよ!」
「……」
「未来、言ってた。あんたはとても優しくて、人の痛みを知っている人だって。だからこそ、私が幸せにしたいんだ、って……。あんたのことを優先して、仕事も辞めて。そんなに思われて、尽くされて、どこが不幸せなんだよ! 信じてたんだ、あの子は。あんたの優しさを。だから、あたしは応援したのに。なのに、何で未来が自殺なんかしなきゃいけないの?」
「ああ。僕は大きな間違いを犯した。君の言う通りだよ。僕は大変なことをした。だから。だから、僕も──」
自殺する、という言葉は森山千鶴によって遮られ、先ほど未来の父親に殴られて、まだ痛みが残っている右頬に、雨音すらも静かに聞こえてしまうくらいに、大きな音を立てるビンタが炸裂する。
私はその衝撃でしりもちをついた。じんわりと広がっていく痛みは、雨で奪われた体温を取り戻すように、徐々に熱くなった。
「自殺なんて絶対許さないからな! そんなことをしたら、あたしはあんたを一生許さないし、死んでもなお呪い続けてやるから」
「じゃあ僕にどうしろっていうんだ! どれだけ反省しても、後悔しても、謝っても未来は帰ってこない! なら死ぬしかないじゃないか……」
「そんなの自分で考えなよ。あんたが思っている以上に罪は重い。あんたが死ねばちゃらになる話じゃない。あんたが死ねばはい終わり、なんてあるわけがない。でも、だからって、あんたが何をしても罪は消えない。どうするかはあんたが決めな」
そう言って、森山千鶴は去っていった。
しばらくその場からは動けなかった。帰宅途中、コンビニで吸えもしない煙草と、飲めもしないお酒を買って帰った。
いつもの光景。いつも開けているドア。扉を開くと、以前とは違い、光のない家の中は真っ暗でひんやりとしている。自分の家なのに、自分の家ではないような気がした。物音もない家の中は不気味だ。おかえりと出迎えの声も、テレビの音も明るい光さえもない。
電気をつけることなく、リビングのテーブル席へとつき、煙草に火をふかす。けれど、人生で一度も煙草を吸ったことなどないので、大きくむせた。煙を吸った途端に呼吸器官がふさがれ、防衛本能が働き、異物の侵入を防ぐために大きな咳を何度もして、外へと出す。咳はなかなか収まらず、ようやく止まった時には、目に涙が浮かんでいた。妻が死んでしまった事実に対して涙を流すことはなかったのに、こんなことであっけなく涙が出るとは不思議なものだ。
乱れた呼吸を整え、テーブルに広げたお酒と書かれた缶を手に取る。体に良くないことはわかっているけれど、缶チューハイを一気飲みする。炭酸とアルコールで喉が焼けそうなくらい熱くて、とても痛い。喉を抑えながら言葉とは言えない声を出す。足をばたつかせ、苦しむ私の姿はバカ丸出しで、醜態と呼ぶに相応しかった。
とにかく自分の体を汚したかった。妻を自殺にまで追い込んだ自分自身が許せなくて、その罪滅ぼしで死ぬことも許されないことが、苦しくて仕方がなかった。
2缶飲みほしたぐらいで酔いは体中に回り、吐き気を催す。平衡感覚は乱れ、リビングにある本棚やタンスにぶつかりながら、キッチンにある水道で嘔吐する。昨日の晩から何も食べていないこともあり、胃が拒絶しているのだろう。収まっては吐き、を3度繰り返したところで、ようやく吐き気は収まった。
吐いたことで汗をかいていた。汗で体が冷え、少しの肌寒さを覚えながらも、ソファへ向かう。相当の体力を使ってしまったこともあり、風邪を引いたときに似た感覚がした。
先ほどぶつかって、本や置物が落ちている。その中には、妻が大好きだった顔がアンパンでできたキャラクターのぬいぐるみもあり、そのキャラクターは、何も知らぬ顔でほほ笑んでいる。かがんで拾おうとしたが、酔いは抜けていなくて、よろけ、転ぶ。手元を見ると見覚えのない、ぶ厚いB5サイズのノートが目に入る。
上体を起こし、座って1枚ページをめくる。
すると、そこに書かれていたのは日記のようなもので、筆跡は妻のものだった。パート24と書かれていて、今年の1月の内容が書かれている。パラパラとめくっていくと3月31日──妻が自殺した日。で終わっていた。自殺する前に書いたってことか。
酒のせいではなく、外に響いてしまうほどではないかというくらいに、心臓の鼓動が早まるのを感じる。妻の描いた文字は丸まったような字で、書かれた文字列を横に辿る。
そこには、
3月31日。
影君に私と出会ってから不幸せになっていくと言われた。影君を幸せにするために頑張ってきたのに、空回りだったみたいだ。私は最低だ。嫁として失格だ。影君を笑顔にするどころか、どんどん幸せから遠ざけてしまって、怒らせてばかりで、本当にごめんなさい、影君。それに、優しい心を持ってて、人を傷つけることが嫌いだった影君に暴力をふるわせてしまうなんて、私は本当にダメだ。これ以上、影君を苦しめないために、私はここにいてはいけないんだと思う。だから、勝手でどうしようもないけど、死のうと思う。
千鶴、怒るかな。お母さんもお父さんも悲しむよね。
明日香、お母さんはあなたのためにもここにいてはいけない。勝手なお母さんをどうか許してね。
影君、大好きだったよ。本当に愛してた。幸せにできなくてごめんなさい。さよなら。
と、にじんだ文字が混ざりながらに書かれていた。
読み終えた私はなぜだか笑っていた。狂ったように涙を流しながらに。自分の心臓を握りつぶすように胸を握りしめて。泣いて、泣いて、泣いて。子供のように泣きわめいて。
私は一体どれほどの彼女の大切な有限である時間を奪っていたのだろう。ずっと信頼してくれていて、いつしか優しさを取り戻すことを待っていてくれて。彼女の夢も、時間──未来も奪ってしまっていた。どれほど私は彼女に救われていたのだろう。
どれぐらい泣いていたかもわからないが、気づくと泣き疲れて眠ってしまっていた。
その時にみた夢は今でも鮮明に覚えている。
妻と思い出の場所で談笑した夢を。
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