第1話
「起きて! 目覚まし鳴ってる」
なんと目覚めの悪い朝なのだろうか。
不愉快な妻の声とスマホのアラーム音が重なり、騒がしくて耳が痛くなる。仕事の激化で、最近はまともな睡眠がとれていない。いつもなら起きられるはずのアラーム音でも、スヌーズ機能が働いても私を目覚めさせることはできなかったようだ。
私を揺らす妻の手が鬱陶しくて、手をはじく力が強くなる。
「うるさいな! わかってる!」
体を起こし怒号を放つ。すると、妻はびくっ、と肩を震わせ、はじかれた右手を抑える手を少し強めて「ごめんね。いつも5時に起きてたから……。朝ご飯できてる」と無理して作ったような笑みを浮かべ、寝室から出て行った。
朝食を済ませ、シャワーを浴びた後、スーツに着替える。白いワイシャツに袖を通し、用意されているネクタイが水玉模様の青のネクタイであることに気づく。
「おい! ネクタイがないじゃないか!」
「え? 出してあると思うけど……」
「僕がつけようとしてたネクタイじゃないって言ってるんだよ。そんなこともわからないのか! だいたい今日は大事な会議があるっていうのに、こんなのつけれるわけないだろ! 君、バカなんじゃないのか?」
用意されたネクタイを床に叩きつけ、妻を睨む。目を泳がせ、たじろぐ妻に舌打ちをかまし、「早く違うのを持ってこい!」と怒号を放ってやると、小動物が天敵から逃げるように妻は寝室へと消えた。
時計を見ると、いつもよりも10分のロスがある。本当役立たずだな、あいつは。
妻に対する苛立ちは足の先に表れ、右の足で貧乏ゆすりをするように、小刻みに床を叩く。
「ごめんなさい。会議あるの知らなくて……。これで大丈夫かな? シンプルな奴にしたか──」
「なんだその言い方は」
自分の眉がぴくっと動くのを感じる。彼女の手に握られたネクタイを乱暴にとり言葉を続ける。
「伝えなかった僕が悪いとでも言いたいのか?」
「ごめんなさい……。そんなつもりじゃ……」
言葉ひとつひとつがイライラして、耳に入れたくない。私はこれ以上の雑音を聞くと苛立ちが増しそうで、ネクタイを付けるべく洗面所に向かう。リビングの扉を開くと、あと1週間ほどで中学2年生になる娘の明日香(あすか)が、睨むような目つきで立っていた。
「なんだ起きていたのか。お父さんは仕事に行くから」
娘が中学生になってからか。仕事が激化したこともあり会話もろくにしていない。まあ、娘も娘ですっかり反抗期だ。思春期の娘を持つ父親なんてそんなものだろう。
しかし、いつもと様子が変だ。いつもなら私を視界に入れたくもない様子ですぐに部屋に行ってしまうのに、先ほどから動く気配がない。それどころか、より一層私を睨む目が鋭さを増している。
「ねえ。朝からうるさいんだけど」
睡眠を妨げられたことに怒っているのだろう。明日香は妻と同じくらいに短い後ろ髪をもむようにつかみ、言った。
私は大げさにため息を吐き、リビングにも届くであろう声で言う。
「それは悪かった。でも、それはお母さんに言ってくれ。苛立たされているこっちの身にもなってほしい」
娘は眉をぴくっとさせ、眉間にしわを寄せる。その表情は明らかに怒っている様子だ。どうやら怒りと連動して眉毛が動くのは私に似たらしい。
「は? なんだよそれ。てめえが自分じゃなんもできねーからお母さんがやってくれてんだろ? 嫌ならてめえでやれよ。やってもらってるくせして文句言うとかだせーんだよ」
娘の反抗的な言葉に一気に顔が熱くなるのを感じる。その熱が私の感情に火をつけた。
「父親に向かってなんだ、その口の利き方は!」
生意気なことを言う娘を黙らせるために、右手を大きく振り上げる。
「誰のおかげで学校に行けていると思ってるんだ!」
娘の頬をはたこうとしたが、娘に届くことはなかった。
「お、お母さん!」
妻は左のほほを赤くし、目に涙を浮かべながらもまっすぐに私の目を向ける。
「影(かげ)君。それだけは、だめ……」
なんだよ、その目は。不快だ。
これ以上この場にいると怒りでどうにかなってしまいそうで、妻を肩でどかし玄関へと向かった。
「お母さん、大丈夫……? ちょっと! お母さんに謝れよ!」
「……」
謝る?
なぜ私が謝らなければならない。悪いのはすべてアイツなのに。
ここまで私を感情的にさせ、これまでの人生で人に対して暴力をふるったことのない私に、そんな行動をさせるほどに怒りを蓄積させたアイツが悪いのだ。
早くこの場を去りたいのに、靴紐を結ぶ手が震えて革靴の紐がうまく縛れない。焦れば焦るほどに増して。
「おい! 聞いてんのかよ!」
「明日香ちゃん、大丈夫だから」
「でも……」
「本当に。大丈夫だから。ありがとう、明日香ちゃん」
妻の声は先ほど明日香に暴力をふるうことを注意したとき同様に力強かった。
ようやく靴紐を結び終えたが震えは止まっていない。足跡が背後から近づいてくる。
「あの、ネクタイ……」
妻の声で自分の胸元に視線を移しながら手で確認をし、ネクタイをまだつけていなかったことに気づく。いつの間に落としたのだろうか。妻からネクタイを受け取り、ネクタイを急いで結ぶ。
「行ってらっしゃい……。その、ごめんなさい」
震える声で妻は言い、鞄を差し出す。私を見る妻の目は先ほど同様にどこかまっすぐで不愉快だ。だからこそ、攻撃的な言葉を放ってやりたかった。
「君と出会ってから、僕はどんどん不幸せになってくよ」
どんな表情をするのだろうか。あの不愉快な瞳を歪ませられるだろうか。気になって、妻の表情を確認すると、口を小さく開いて瞳を大きくさせた。今までに見たことがない顔だったから、だと思う。反射的にその表情から目を背けてしまった。妻の表情からは驚いているようにも、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。どれを言葉に定め当てはめても、それが正解であるような気もするし、どれも不正解であるような気さえしてくる。それほどまでにわからない表情だった。
妻と初めて出会ったのは、18歳の頃で、大学1年生の時。それから7年後の25歳で結婚をし、今ではもう17年が経つ。長い時間を共にしてきたけれど、初めて見る表情だった。
最寄り駅に向かっても、通勤電車に揺られてもしばらくは心臓の鼓動がうるさいままだった。
その夜、仕事から帰ると妻の姿はなかった。どんなに遅く帰っても、妻は私の帰りを起きて待っていたから違和感を覚えたのだ。寝室には彼女の姿はなく、代わりにベッドの上には寂しそうに妻のスマホが取り残されているだけだった。
コンビニでも行ったのだろう。そんなことを思い、用意された夕飯を食べたり、風呂に入ったりしたけれど、妻が帰ってくる様子はなかった。
ふと、今朝のことを思い出す。
──君と出会ってから、僕はどんどん不幸せになってくよ。
本心であった言葉だが、どちらかと言えば恣意的に出た言葉でもあった。
家出したのだろうか。妻が行ける場所はおおよそ検討がつく。県外にある実家か。少し離れたところに住む彼女の幼稚園の頃からの親友である森山千鶴(もりやまちづる)のところだろう。妻の両親は当然だが、両者ともに面識がある。けれど、正直なところ、どちらも苦手だ。連絡もとりたくない。それにアイツはすぐに帰ってくるはずだ。私がいないとアイツは生きていけないのだから。
その日はなかなか寝付けず、何度も目を覚ました。そのたびに夢を見ていたのだが、起きた時にはすでに忘れていて、思い出すことはできなかった。
結局深い睡眠はとることができず、時刻3時を回ったころ、諦めて起きることにした。幸いなことに今日は休みだ。日中に寝ても問題はない。
リビングのソファに座りながら、インスタントコーヒーを飲んで読書をする。普段できない贅沢な時間を過ごしていると、窓からは朝日が差し込み、いつの間にか夜が明けていた。
時刻6時を過ぎたころ、家の電話が鳴る。テレビもつけていないリビングに鳴り響く軽快な旋律はどこか不気味で、体に緊張が走った。電話をかけている相手は、妻の両親か親友。いや、きっと本人だろう。出ない理由もないので、子機を手に取る。
聞こえてきた声は聞いたことのない男の声で、警察からの電話だった。
「荻原影郎(おぎわらかげろう)さんでお間違いないでしょうか?」
「はいそうです」
「荻原未来(おぎわらそら)さんですが……」
起伏のない単調な声で、そこに感情があるようには思えないくらい冷たい声で、男は衝撃的な事実を私に告げた。
妻の未来(そら)が自殺したという事実を。
この出来事が、後に私の人生を大きく変えることになる。1つの命が終わり、1つの人生の終わりを迎えた。そして、1つの人生が再び始まる物語。
彼女の終着点は私によって阻まれ、私にとっての終着点もまた、自分自身によって阻まれた。終着点という理想を目指すために、私がかつて失い、奪ったものを取り戻さなければならない。いずれ来る理想に到達したとき、そこが私の終着点になるだろう。
もう一度言おう。これは、命の終わりと人生の終わりから、人生の始まりを迎える物語だ。
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