第三話 雨の日


——数日後。


 雨の降る日だった。

 彼女は再び話しかけてきた。


「貸してくれた本、面白かったよ」


 そう言って微笑む彼女の瞳の奥を覗き込む。

 やっぱり、同情から話しかけているのだろうか。


「よかった」


 なんとかこれだけ返事をした。


 それから僕と彼女は、長いあいだ校庭を眺めていた。

 湿った風が通る。

 教室のカーテンが揺れる。

 ときどき彼女は僕の方を見た。

 僕も彼女の方を見やる。


 彼女はいつもの通りの顔のはずなのに、ふとした瞬間、悲しげなように見えた。


「何かあったの?」


 僕がそう言うと、彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの優しい顔に戻った。


「ううん、ちょっと疲れただけ」


 それだけ言って、校庭を眺めた。その瞬間、彼女の頬を涙がつたうのを見た。僕にはその涙の意味も、理由もわからなかった。あらゆる言葉が僕の口から出ることを拒んでいた。僕たちはただ、ひたすら雨の降る校庭を眺めていた。


 そうして僕と彼女は次第に共に時間を過ごすようになった。昼休み、下校道、放課後など、色々な時間を過ごした。初めのうちはよく話した彼女だったが、最近では彼女の方がふらりと僕のところに来て、そのまま黙っていたり、ときたまあの涙を見ることがあった。どこか以前よりも暗い影のようなものを感じた。


 彼女との時間は、あらゆる不幸を忘れさせてくれた。何よりも彼女と過ごす時間は心地よかった。時折僕もわけもなく涙した。彼女は優しく「大丈夫だよ」と言ってくれた。


 彼女は光だった。

 遠く眩い、光。

 ただ、僕は彼女の本当の姿をまだ知らない。


 僕の目を通すと、どうしても彼女という光は、万華鏡を通したように幾重にも跳ね返され、歪められ、ありもしない過剰な美しさを醸し出していた。あの涙や暗い何かは真実の姿の一部だろうか? 僕はいつしか、万華鏡に映る美しい虚像よりも、ありありとした真実の姿を眺めてみたくなっていた。


 * * *


 家では相変わらず父の拳が飛び交ったが、頻度は以前よりも少なくなっていた。ただ、父の飲酒量は脳を萎縮させないか心配になるほどだったし、アルコールで真っ赤になりリビングで寝ている姿は、どこかしたいを思わせて不安になった。ひそかに呼吸を確認したこともあった。そうすると、いつも生きている。


——人は少しの労働と食事と、あとは呼吸だけで生きていけるのだ。


 それを確認するたびに、また近いうちにこの人の拳が母親を殴るのだろうと思った。


 * * *


 今日もまた、彼女と放課後の時間を過ごしていた。今日は後者の中庭のベンチにふたり腰掛けている。彼女は相変わらず無口なまま、ただ僕のそばに座っているだけだった。僕は話すことが苦手なこともあり、取り立てて何かを話そうとは思わなかった。


 今日は春にしてはやたら暑かった。彼女は暑さに絶えかけて腕まくりをした。そのとき、彼女の腕に僕のものと似た深い傷跡と酷い火傷の跡のようなものも見てしまった。すぐに袖が落ちて見えなくなったけど、確かに僕は見たのだった。そして彼女はふと、僕にこんな話をもちかけた。


「ねぇ、殺人鬼に同情しちゃうことってない?」


 何気ない会話のようで、薄気味の悪い質問だった。


「それは、ちょっとわからない……」


 何か人を殺したいほどの怒りを覚えているのだろうか? あの優しい彼女が? 想像はつかない。それに、本当に僕には同情するかわからなかった。


 彼女はまた口を開く。


「親のことはどう思ってる? 正直、私は頼んでもないのに産まさせられて、なんていうのかな、自分勝手だなって」


 僕は驚いた。僕のような人に話しかける社交的な人の発する言葉ではないと思った。あまりの唐突な彼女の言葉に打ちひしがれ、何も言えなかった。


 彼女は返事を求めることもなく、また空を見上げた。僕はどう声をかけていいのかわからなかった。


 彼女の目線を追ってみると、遠くの方に流れる、真っ黒な雲を見つめていた。

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