第二話 光

 次の日の昼休みも、彼女は話しかけてきた。


「何を読んでるの?」


 彼女は無邪気に僕の本を覗き込む。僕は「草枕」とだけ告げて、再び口を閉ざした。彼女は「へぇ」と興味深そうに僕の顔と本を交互に見た。


「確か夏目漱石の本だよね? 文学少年だね。私はそういう本はあんまり読まないから、おすすめとかあったら教えてね」


 僕はまた口を噤んだ。社交辞令なのだろうか。そうだとして、こちらも社交辞令として本を薦めないといけないのだろうか。そもそもどんな本を薦めたら良いのだろうか。友達のいない僕には、わからないことだった。


「うーんと……どんなジャンルが、その、好きなの?」


 ようやく僕の口が開いたので、彼女は少し明るい顔になる。そうだなぁと言って考え始めた。


「ライトノベルかな。知ってる? リセブンっていうんだけど」


 ライトノベルの存在自体は知っていたが、全くわからなかった。それよりも気を引いたのは、彼女の返答の速さだった。自分には絶対に真似ができない。嫉妬か羨望かわからないような複雑な感情が渦巻いた。


「ごめん、わからない……」


 言ってからすぐ、自分が無意識に謝っていることに気がついた。頻繁に父の拳が飛び交うので、すぐに口をついて出てしまうのだ。

 彼女は苦笑してふと外を眺める。


「じゃあ、とりあえず草枕、読んでみようかな。面白い?」


 彼女は微笑む。窓から差し込んだ光を受けたその繊細で長い髪、つややかな唇、そして触れたら壊れてしまいそうな繊細な顔は昨日と同じく神秘的だと言う感想を抱かせた。


 容姿、社交性、性格の良さ……僕とはまさに正反対の人なんだと思った。僕の醜く歪んだ世界から見える、唯一の光だと思った。僕の疲れた瞳からは、その光さえもが歪んで見えているに違いないけど、きっとそのお陰で、かえって万華鏡のような美しさを彼女に見出させたのだとも思った。


「草枕、面白いよ。僕は何度も読んだから、その……よかったら、読む?」

 少し手汗をかいていた。彼女に本を手渡す。


「ありがとね。読んだら感想と一緒に返すから待っててね」

 そう言うと他の生徒に呼ばれて僕の目の前を立ち去った。


——隠キャのコミュ障って最悪。


 僕の中に、孤独と自己嫌悪という二つの感情が渦巻く。人と話せば話すほど、僕の欠点が露わになっていく。僕の欠点はそのまま人との遠い距離を表していて、それはそのまま人間失格の烙印のように思えた。


 彼女は、僕が人間失格だからこそ優しくしているのではないだろうか?

 そんな被害妄想で、僕の心はかき乱されていた。


 同時に彼女についての心配事も、僕の心を埋め尽くした。彼女のような良い人は僻みや妬みの格好の餌食のように思えた。高校生活を長くするうちに、彼女はいじめられたりしないだろうか? そんな恐怖が、じわじわと僕の心を蝕む。


 だからといって、僕には何もできない。

 僕は自分自身でさえ救えないんだ。どうして誰かを助けられるのだろうか。

 そもそも、僕は彼女のためを思って心配をしているのだろうか?

 それとも、自分のため……?


 * * *


 あっという間に学校は終わり、帰宅する。

 今日は家の中が静かだった。

 父の勤務表を見ると「夜勤」と書いてあった。

 つかの間の平和が訪れたのだ。

 でも、どうしてだろう。

 嵐の前の静けさのような、そんな不気味さがあった。

 

 僕は寝る前になると、音楽の授業で習ったショスタコーヴィチの交響曲五番を聴いた。暗澹としたこの曲と彼女とは正反対のはずなのに、どこか似ているような気がした。僕にはなぜだかわからなかった。


 僕は眠りの奥底で、彼女が泣いている夢を見た気がした。

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