仮面 —改訂版—

みょん

第一話 出会い

 教室の窓をちらりと眺めると、桜の花は散り、木々たちは緑に染まっていた。


 ざわ、ざわ。昼休みの教室はいつもと同じように騒がしい。そして僕も、いつもと同じように本を読んでいる。本を読むことはためになる、と云われる。果たしてそうだろうか? もし、僕がこの喧騒や孤独から逃げるためにそうしているのだとしたら? 子供の頃から僕は物静かな子供だった。ヒーローに憧れたり、シールを集めたり、男児ならば通ったであろう道は、僕にはなかった。


——学校にも家にも、居場所はない。


 いつからだろうか、そんな思いをかき消すように、ただひたすらに本を読むようになったのは。くだらない回想をしていると、ふと目の前に人が立っていることに気がついた。


「急にごめんね。君っていつもそんな感じだけど、ひとりが好きなの?」


 見上げるとそこには、ひとりの少女が立っていた。窓から差し込む光は彼女の繊細な顔のパーツを鮮明に照らした。とても神秘的だ、と思った。口調から察するに、純粋な疑問のようだった。僕は返事をしようと口を開いた。


「それは……」


 でも、言葉にできなかった。どんな言葉を選んでいいのか、わからなかった。どんな表情をすればいいのかさえ、僕にはわからなかった。


——隠キャのコミュ障って最悪。


 以前そんなことを誰かに言われたっけな、などと考えているうちに、彼女の顔には疑問符が浮かんでいた。


「変な質問しちゃってごめんね。邪魔しちゃったかな? また来るね」


 そう言って彼女はもといた女子のグループに戻っていった。クラスメイトに笑われているような気がした。


 人間関係の柱となるのが意思疎通だ。それは僕が一番わかっていることだ。僕にはその柱が欠けている。だから人間関係が、否、それどころか世界の内も外も、あらゆる場面が支えをなくしてぐにゃりと歪み、ひどく醜いものになっていた。さっきの女子との会話だってそうだ。


 ——隠キャのコミュ障って最悪。


 いつかの声が頭にこだまする。

 きっと僕は、ずっとこのまま独りなのだろうな、と思った。


 * * *


 午後の授業はあまり頭に入らなかった。学校が終わると急いで帰路につく。畑に挟まれ、ところどころがひび割れた歪な下校道。ぽつりぽつりと歩く生徒たちも、僕のように人々の輪から取り残された人だろうか。それとも僕だけが……


 右、左、右、左。

 自分の足の単調な運動は、明日へと続く僕の人生そのものでもある。

 変化のない学校生活。何も成し遂げることのない日常。


——本当に、このままでいいのだろうか?


 夢もない。

 ただ、その日を消費するだけの毎日。

 本能と呼ぶべきものに操られる人形のように、ただ突き動かされている。

 その行き着く先は誰でもが知っている。

 死だ。


 こんなくだらないことを考えている場合なのだろうか。

 自己嫌悪がじわりと広がり、心を締め上げた。


 * * *


 家に着くと、得体の知れない動物のようなうめき声が聞こえてくる。母が殴られている声だ。まだ夕方になったばかりなのに、父はかなり酔っている。アルコールで真っ赤になった顔を歪めながら、汚い台所に母を押し付ける父。もう僕はこんな光景には慣れてしまっている。


「私が悪かった、悪かったの、だから、許して、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 母は殴られて腫らした目から血の涙を流しながら、父に訴えていた。


「お前の目が俺が悪いって言ってるんだ、お前の目がそう言ってる」

 そう言って父は、そのやせ細った腕で再び殴り始めた。劈くような悲鳴を背に、僕は自室へと入っていった。


 ドアにもたれかかる。

 疲れが体にまとわりついてくるような気がした。


 もう、彼らに何を言っても無駄なのだ。

 僕には人を助けることも変えることも、何もできない。

 日々激化する暴力に、僕は危機感を覚えないわけではない。


——母はいつか殺される。


 そう思った僕は、相談所や警察を勧めたことがある。


「あんた、そんなこと世間にバレたら大ごとになる。絶対にそんなことしたらダメ、絶対に」


 そう言う母は、殴るときの父と同じ目をしていた。


 あれはいつだったか、痣だらけになった母が台所で倒れていた。

 僕は咄嗟に電話に手を伸ばしていた。


 ふと振り返ると、母がこちらに這ってきていた。


「あんた、なにをするつもりだ、あんた、あんた」


 そう繰り返しながら、母の手には包丁。

 母はさっきまでの怪我が嘘のように立ち上がり、僕に包丁を突きつけた。

 腕で守る。

 冷たい感覚と、遅れて痛みが走る。


「ごめん母さん……ごめん……」

 僕はそう言って、そのまま部屋へと逃げ帰ったのだった。


 あれから僕は、もうこのままでいいのだと自分に言い聞かせることにしたのだった。

 今日もあの日と同じように、眠るまで母のうめき声と泣き声が聞こえていた。

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