第8話 勇者エリコ

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 しばし時間はさかのぼる。


「勇者エリコ、ここがどこだかわかりますか?」


 そんな呼びかけを耳にし、エリコの意識がふっと覚醒された。

 自分が今たたずむ場所は、コロッセオほどの広さがある、真っ白な神殿の中だ。

 周囲には大理石の円柱が巨木のように建ち並び、それらは天を覆い尽くす雲の向こうへ突き抜けている。

 円柱同士の間には白い霧のようなものが漂っていて、その向こう側はなにも見えない。

 エリコはそんな神殿の中心に立っており、目の前では女神様が見下ろすように宙を浮いていた。


「ここは……あたしが転生前に女神様と会った神殿――」


 エリコは視線を巡らすようにそう答えた。

 この場所には一度だけ訪れたことがある。

 異世界に転生する前、この神殿で女神様からいろいろな話を聞かされた。

 自分が交通事故で死んだというのも、ここに来てはじめて知らされた。

 そしてエリコは女神様から特別な力を授かり、異世界へ転生したのである。


「そうです。あれからもう十五年が経ちましたね」


 女神様は翠眼を細めて優しく微笑んだ。

 綺麗に編み込まれた銀髪の上には、髪と同じ色のティアラを載せている。

 身に着けるローブは白一色で、ほっそりとした右手には杖が握られていた。

 見た目は二十代、だが語り口は壮齢の女性のように穏やかだ。


「あれ……? あたしの体……元に戻ってる……?」


 視線の高さに違和感を覚え、エリコは自身の体を確かめた。

 異世界に赤子として転生し、十五年。

 本来、自分は十五歳であり、髪の色はブロンドだ。

 それなのに今の外見は、転生する前の状態に戻されていた。

 黒髪のポニーテールに花柄のワンピース姿、二十一歳で死んだときのままである。


「勇者エリコ、あなたは異世界での役目を果たしました。ですから私は、あなたを元の姿でここに連れ戻したのです」

「役目を果たした……それって、どういうことですか?」

「あなたは四大陸におけるすべての魔王を討伐し、異世界各地に平和をもたらしました。当面の驚異は取り除かれたと言っていいでしょう。それが、役目を果たしたということです」


 女神様の言うとおり、エリコは四大陸すべての魔王を討伐していた。

 東の大陸を支配する、魔王カーリア。

 西の大陸を支配する、魔王クルドラ。

 南の大陸を支配する、魔王ヨステス。

 北の大陸を支配する、魔王ムロナダ。

 それぞれの魔王は、各国が束になっても太刀打ちできない驚異であり、異世界は暗黒時代の真っ只中に置かれていた。

 その四大魔王を倒し世界を救ったのが、勇者エリコだ。

 もちろん一人の力ではない。

 同じ目的を持った仲間と協力し、ときには戦闘で仲間を失い、艱難辛苦を乗り越え大いなる敵に打ち勝ったのだ。


「じゃあ、女神様。あたしはこれからどうなるんですか?」

「それはあなたが決めることです。異世界に戻りたいのであれば、そうすればいいでしょう。元いた世界――つまり日本に戻りたいというのなら、その願いを叶えることも可能です。勇者エリコ、どうしますか?」


 その選択を迫られ、エリコに迷いはなかった。


「日本に戻してください。できればあたしが死ぬ直前の世界に戻してください」

「それはおすすめできません」

「どうしてですか?」

「過去に時間軸を戻す場合、どうしても二人のあなたが存在してしまいます。一人はここにいるあなた、もう一人はトラックに轢かれて死ぬ運命のあなたです。もし過去の自分に干渉し、その運命が生きる方向へと変えられた場合、今のあなたの存在が消滅してしまいます。あなたはトラックに轢かれて死んだからこそ、今のあなたがいるのですから」


 女神様の言うとおり、エリコはトラックに轢かれて死んでいた。

 異世界転生が目的だったわけではない。

 トラックの前に飛び出した子どもを助け、そして自分がトラックに轢かれて死んだのだ。

 そもそもこの神殿に来るまでは、異世界の存在じたい知らなかった。


「女神様、それでもいいから過去に戻してください。あたしはどうしても心残りなことがあるんです」

「心残りとはなんでしょう?」

「あたしを轢いたトラックの運転手のことです」


 エリコを轢いたトラックの運転手に罪はない。

 彼はただ青信号で交差点に進入しただけなのだ。

 そこへ小さな女の子がトラックの前に飛び出してきた。

 そしてエリコがその子を助け、トラックに轢かれて死んでいた。

 あの咄嗟の出来事では、運転手が事故を回避するのはむずかしい。

 だからこそエリコは、過去に戻ってあの運転手を事故から守ってあげたかった。

 現在の彼は今頃どうしているのだろうか。

 十五年も経てば普通に暮らしているのかもしれないが、あの事故を機に彼の人生が変わってまったことは想像に難くない。

 なにせ人を轢き殺してしまったのだ。

 心の傷は一生消えることはないだろう。

 それだけにエリコは運転手のその後がとても気になった。

 

「女神様、運転手は事故のあと、どうなったんですか?」

「彼は死亡事故の加害者となり、免許と仕事を失いました。そして人殺しとなった人生に絶望し、肥溜めに頭からダイブして入水自殺しています」

「そ、そんな――」


 エリコはあまりのショックで言葉を失った。

 まさかあの運転手が自殺しているとは思いもしなかった。

 それも肥溜めに頭からダイブして入水自殺したのだ。

 よほどの罪悪感がなければ、そのような死に方をできるものではない。


「しかも彼は三十五歳だというのに、彼女を一度もつくったことがありませんでした。さらには童貞という悲しいおまけ付きです。交通事故が不運というよりも、彼の人生そのものが不運としか言いようがありません。なにせ三十五のおっさんのくせに童貞なんですから。プッ」


 女神様は最後に軽く吹き出したようにも見えたが、おそらくそれは気のせいだ。

 プークスクスと人を小バカにして笑う駄女神がいるはずがない。

 それはさておき、エリコは頑なに決意した。

 過去に戻り、あの運転手を必ず助けなければならない。

 その結果、因果律に矛盾が生じ、今の自分の存在は消滅してしまう。

 それでもエリコは、自らの意思を貫き通す覚悟だった。


「女神様、あたしを過去に戻してください、今の自分が消えてしまっても、あたしは彼を守ってあげたいんです」

「勇者エリコ、あなたの寛大な心に私は胸を打たれました。その願い、叶えてあげましょう」

「ありがとうございます女神様。これであの人を救えます」

「あの人とは、あなたを轢いた運転手のことですか?」

「ま、まあ……」


 エリコは言葉を濁した。

 運転手を救いたい気持ちは確かだ。

 しかし、あともう一人、救いたい人がいる。

 それは、異世界で知り合った命の恩人。

 その人はもうこの世にいない。

 なぜなら、エリコ自身のミスが原因で、彼は命を落としているからだ。

 つまるところ、交通事故さえ回避できれば、自分は異世界へ転生することはない。

 異世界へ転生しなければ、命の恩人に出会うこともないし、彼を死なせずに済む。

 それがエリコの選択した、己の命を代償とした過去改変である。


「それと勇者エリコ。もうひとつ忠告しておきます」

「はい、なんでしょう」

「過去に干渉することで、本来の歴史の流れにいくらかの差異が生じますが、それでもかまいませんか?」

「はい、かまいません」


 過去に干渉するのだし、多少の差異はしかたがない。

 巨大隕石が落ちて地球が滅亡しなければ大丈夫だ。


「日本に戻るにあたり、服装などの希望はありますか?」

「できればもっとラフな格好がいいんですけど……」


 正直、今のワンピース姿は自分には不釣り合い。

 異世界では冒険者として旅を続けていたのだ。

 しかし、日本で革鎧姿など変質者そのものである。

 ゆえにエリコは、シンプルなTシャツとジーンズ、それとスニーカーを所望した。

 

「それでは勇者エリコ、お行きなさい。汝に女神の祝福があらんことを」


 女神様は慈愛に満ちた眼差しを浮かべ、宝石がはめ込まれた杖をエリコに向けた。

 するとエリコの体が金色の光に包まれ、やがてその輝きは消え入るように霧散する。

 それと同時に視界が渦巻き状に歪み、エリコは過去の世界へと送られた。




 エリコが次に目にした光景は、月明かりを受けた港と思しき場所だった。

 岸壁には大きなが船が横付けされ、周辺はだだっ広い駐車場となっている。

 自分はその中心に立っていて、身に付ける服装もTシャツとジーンズに変わっていた。


「あたし……本当に帰ってきたんだ……」


 街中でもないし大きな建物があるわけでもない。

 それでも駐車場を照らす照明灯や、地面を覆うアスファルトを見ると、ここが異世界でないことはよく理解できた。

 一番それを実感できるのが、まばらに駐車された普通車やトラックである。

 ナンバープレートには札幌や旭川の地名が表記されているので、ここは間違いなく日本だ。

 そんな故郷の景色を目の当たりにし、エリコの瞳から涙がポロポロとあふれ出た。

 生まれ育った本当の故郷は熊本でも、日本にいることじたいが郷愁で胸を打たれる。

 ただ、エリコは孤児院の出ということもあり、両親に対する情はない。

 自分にとっての本当の両親は、異世界でのお父さんとお母さんだ。

 異世界や日本、いろいろな意味で感傷に浸ったのち、エリコはふと疑問を覚えた。


「ここって北海道……? なんであたし北海道にいるんだろ……」


 駐車された車のナンバーを見る限り、現在地はおそらく北海道。

 自分がトラックに轢かれた場所は熊本なので、遙か反対方向に転送されたことになる。

 それに着岸した船を見るとあれはフェリーだ。

 たしか北海道のフェリー乗り場は三ヵ所、函館と小樽と苫小牧である。

 そのいずれかにいることになるのだが、港の風景だけでは判断がつかなかった。

 

「カレントロケーションスキャン」


 試しにスキルを発動してみる。

 このスキルは現在地を教えてくれる優れものだ。

 するとエリコの胸元に透明なウィンドウが出現し、そこに『小樽』という二文字が表示された。

 異世界と同じく、魔法やスキルを発動することができるらしい。

 その類いのスキルを使うと、目的の人物はすぐに見つかった。

 すぐそこに丸太を積んだ大型トラックが止められている。

 あそこに自分を轢いた運転手が乗っているのだ。

 彼はここからフェリーに乗船し、熊本までトラックを走らせるのだろう。

 そして歴史の流れのとおり、彼は熊本にいる別の自分を轢き殺すことになる。

 ならば、素性を隠してトラックに同乗したほうが話は早い。

 熊本の事故現場、そこで交通死亡事故を回避すればいいのだ。

 ただ、エリコには一つだけ気がかりなことがあった。

 とんでもなくエロいおっさんだったらどうしよう、という懸念である。

 しかし、罪の意識に苛まれ、肥溜めで入水自殺する人物が、そんな輩であるはずがない。

 エリコはそう信じ、それでも一応警戒は怠らず、ヒッチハイクという形でトラックに乗せてもらうことにした。

 

「てか、あの人なにやってんの?」


 丸太を積んだトラックをよく見ると、後方の車輪の前で寝そべる人の姿が見えた。

 おそらく、あれは転生志願者で、トラックに轢かれようとしているのだ。

 トラックの運転手は早くも危機に立たされていた。


「しかたないわね。教えてあげるか。そのほうが好都合だし」


 これでヒッチハイクの口実ができた。

 エリコは運転手との対面に少し緊張しながら、コンコン、とトラックのドアをノックした。



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