第7話 お巡りさん
その後、文太郎は注意深くハンドルを握っていた。
制限速度の八十キロを厳守し、前方や路肩の警戒を怠らず、いついかなるときも対処できるよう目を光らせている。
綾部パーキングエリア、そこでおじさんからアドバイスを受けたのに、先ほどはそれがすっかり頭から抜け落ちていた。
だから危うく女の子を轢いてしまうところだったのだ。
この戦いは言わば人生を賭けた一発勝負。
人を轢いたら自分も死ぬ覚悟で立ち向かわなければならない。
文太郎はそう肝に銘じ、山陽自動車道という名の戦場にトラックを走らせていた。
そんなとき――。
『前を走るトラックの運転手さん、トラックを路肩に止めてください』
後方からパトカーのサイレンが鳴り響き、拡声器を通した男性の声で指示が出された。
警察二十四時とかでよく目にする光景だ。
すなわち、これはお巡りさんに怒られるパターンを意味する。
刺客は転生志願者だけかと思っていたのに、こんなところにも刺客が潜んでいた。
「文ちゃん、スピード違反でもしたの?」
「いや、スピードは守ってたんだけどな……」
「じゃあ、なんでパトカーに止められるのよ?」
「俺にもわからん……なんでだろうな……」
文太郎もお叱りを受ける理由がわからない。
自分は一キロたりともオーバーしていないのだ。
ならば考えられる可能性はアレしかなかった。
そのアレも警察二十四時でよく目にする光景だ。
「エリコ、おまえ変な薬でもやってるんじゃないのか? 末端価格とかのやつはシャレにならんぞ?」
「あたしがそんな薬やってるわけないでしょ! だいだい、あたしは風邪薬だって飲んだことないんだから!」
エリコは目に角を立てた。
違法薬物とは無関係のようだが、それとはべつに心配になることがある。
「風邪薬飲んだことないって、逆にそれはヤバいんじゃないのか?」
「それのどこがヤバいのよ!」
「バカは風邪を引かないって言うけど、
「あたしは九九を間違うほどバカじゃないわよ!」
「
「九九を覚えたての小学生じゃあるまいし、なるわけないでしょ! ていうか、文ちゃんのほうこそ飲酒運転でもしてるんじゃないの!」
「バ、バカ言うな! 俺が飲酒運転する大バカ野郎に見えるのか! それに俺はいま禁酒中なんだぞ! 酒とは無縁の生活を送ってるんだ!」
ムキになって否定する文太郎の言葉に嘘偽りはない。
飲酒運転など一度も経験したことはないし、禁酒中なのも事実である。
なぜ禁酒しているのかというと、先月キャバクラの子に告ってフラれたからだ。
それがある意味トラウマとなり、その苦い思い出とともに酒を断ち切っている。
『運転手さん、指示に従ってください。今すぐトラックを路肩に止めてください』
エリコと言い争っている間に、さっそくお叱りを受けてしまった。
ひとまず、速やかにトラックを路肩に止めると、その真後ろにパトカーも停車。
一人の警察官がトラックの方へ近づいてきた。
「お巡りさん、お叱りの理由はスピード違反ですか? でも、トラックのメーターじゃ問題なかったんだけどな……」
文太郎は運転席のウインドウを下ろして訊いてみる。
窓の下からこちらを見上げるのは、ヘルメットをかぶった交通機動隊の男性だ。
三十歳そこそこかと思われる。
「いえ、スピード違反ではありません。ちょっと調べたいことがあるんです。とりあえず運転手さん、免許証を見せてもらえますか?」
こればかりは義務なのでしかたがない。
文太郎は運転席から「どうぞ」と免許証を提示した。
そこにはまるで犯罪者のような自分の顔が写っている。
「免許証の住所は北海道になっていますね。ということは運転手さん、あまりこの付近を走ったことがないのでは?」
「そうですね……いつもは地元の旭川で仕事してるもんで……」
「わかりました。ひとまずこれはお返しします」
警察官が免許証を返却してきたので、文太郎はそれを受け取った。
「それと運転手さん、そのままトラックを止めて待っていてください。まだ調べることがありますので」
そう言って警察官はトラックの下に潜り込んだ。
こんな経験は文太郎もはじめてだが、もしかしたら整備不良でも調べているのかもわからない。
そして、数分ほど待機していると――。
警察官が慌てた様子で車体の下から転がり出してきた。
「運転手さん、大変です! 私の睨んだとおり、このトラックには時限爆弾が仕掛けられていました!」
「な、なんですとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
文太郎はふだん使わないイントネーションで驚嘆の雄叫びを発した。
「時限爆弾にはタイマーがセットされています! タイミリミットは残り三十分を切っています!」
「デジタルが一秒一秒減っていく、あのヤバいやつですか!」
「そうです! あのヤバいやつです!」
「なんでそんなデンジャラスなものが俺のトラックに!」
「最近この付近では、トラックに時限爆弾が仕掛けられる事件が多発しているんです!」
そのような大事件は耳にしたことがない。
しかし、文太郎は北海道在住の地方民。
地上波放送が七局という限られた中、見るのはもっぱら北海道のローカルニュースと決まっている。
もちろん、BS放送はアンテナを設置していないので映らない。
そんな試される大地の田舎者に、最新の全国ニュースが聞き届くはずもなかった。
ゆえに文太郎は、警察官の言うことを百パーセント信じることにした。
「ならお巡りさん! 今すぐ時限爆弾を解除してください! 俺の予想では緑のコードが正解です! 赤のコードだけは絶対に切っちゃダメだ!」
もちろん、文太郎の発言に根拠はない。
色のイメージでそう決めている。
赤はヤバい。
「爆発物処理班でなければ爆弾の解除は無理です!」
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか!」
「このままでは他の車を巻き込む恐れがあります! ですから大至急、高速道路を下りてください!」
「そのあとはいかに!」
「そして、
「わかりました!」
文太郎はバシっと敬礼し、猪突猛進の勢いでトラックを急発進させた。
現在地は兵庫県、三木小野インターチェンジを過ぎたばかりだ。
ゆえに次のインターチェンジまで、いくらかの時間を要する。
そこから高速道路を下りて、安全な場所までトラックを移動させなければならない。
時限爆弾のタイムリミットはすでに三十分を切っている。
警察官の言うとおり、一分一秒の猶予すら許されないのだ。
すると――。
キュイーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!
ターボのエンジン音を轟かせ、パトカーが猛スピードでトラックを追い抜いていく。
時限爆弾を見つけてくれた警察官のパトカーだ。
そのフェアレディZのパトカーは、十秒とかからず視界の中から消え去った。
爆発物処理班に応援を求めに行ったものと思われる。
「ねえ、文ちゃん。なんかおかしくない?」
そこでエリコが沈黙を破った。
こんな緊急事態だというのに、オタオタした様子さえ見られない。
文太郎は半ばパニックで、両手と両足がしっちゃかめっちゃかになっている。
「おかしいに決まってるだろ! 時限爆弾が仕掛けられてるんだぞ! これ以上おかしいことがあるか!」
「その時限爆弾って、本当に仕掛けられてるの?」
「あたりまえだろ! 嘘つきは泥棒のはじまりなのに、お巡りさんが嘘ついてどうする! それともなにか!? あのお巡りさんは偽物だとでも言うのか!?」
「そうは言ってないけど……」
「当然だ! 普通の車があんなアホみたいなスピードでかっ飛ばせるか! 交通機動隊のパトカーはめちゃくちゃ速いんだぞ! おまえ警察二十四時見てないのかよ!」
文太郎は唾を飛ばしてまくしたてた。
8ナンバーかどうかまでは見てないが、あれは間違いなく本物のパトカーだ。
ちなみに、ナンバープレートの地名の横に表示された、800の数字。
それが8ナンバーと呼ばれ、パトカーや救急車といった緊急車両を意味する。
農業作業車などの特殊車両も8ナンバーだ。
ただ、最近の覆面パトカーに関しては、ナンバーで見分けがつかない。
3ナンバーの覆面パトカーも多いので、油断していると違反切符を切られることになる。
ゆえに、ドライバーの皆さんは交通ルールを守りましょう。
以上だ。
「それにしてもやっぱり変よ。時限爆弾なんてどうしても信じられない。一度トラックを止めて確かめてみたら?」
「そんなことに時間を使ってられるか! お巡りさんも言ってただろ! スピード違反なんか気にしないで光の速さでトラックを走らせろってな!」
「光の速さとは言ってないわよ……」
「とりあえず一キロだってスピードを緩めることはできん! 時限爆弾が爆発する前に、トラックを人のいない場所まで運ぶ必要があるんだ! だから俺はトップギアで走り続ける! うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
文太郎は暴走機関車の勢いでトラックを走らせた。
今なら何人でも轢き殺せそうな気がする。
そんなとき――。
「文ちゃん! ブレーキ! ブレーキをかけて!」
エリコが前方に指を突きつけ、鼓膜が破れそうな音量で叫び声を上げた。
ブレーキをかけるなど愚の骨頂。
今の文太郎は誰にも止められない暴走機関車だ。
しかし、エリコが発情した猿のように叫ぶので、文太郎はひとまず前方を注視する。
すると――。
「ど、どうなってる! あれはパトカーじゃないのか!」
文太郎もこれには驚きを隠せない。
なんと、前方からパトカーが逆走してくるのだ。
しかもサイレンとヘッドライトを消し、闇に溶け込むようにして突っ込んできた。
照明灯のおかげでなんとか認識できるが、あの流線形のボディはフェアレディZ。
先ほどかっ飛ばしていった警察官のパトカーだ。
「文ちゃん! もう間に合わない! ぶつかっちゃう!」
「そうはさせるか!」
文太郎はとっさにハンドルを右に切った。
大型トラックにおける最高スピード、リミッターが作動する少し手前。
九十キロ弱での急ハンドルだ。
さらには荷台に丸太を満載しているので、トラックの車体が一気に右側へと傾いた。
「うおッ!」
「きゃあッ!」
文太郎の見える世界が四十五度にひっくり返り、エリコは運転席の方へ倒れ込む。
シートベルトをしていても、二人は元の姿勢を維持できない。
その刹那――。
シャッ!
と、金属がこすれる音をともない、パトカーがトラックの下をくぐり抜けた。
片輪走行による車体下の空間、パトカーはそこを通り抜けていったのだ。
正面衝突をギリギリで回避したものの、トラックは横転待ったなし。
どうあがいても、ハンドル操作でそれを立て直すのは不可能だ。
文太郎は体が横倒しのまま、胸の前で「アーメン」と十字を切った。
神に助けを乞うたのではない。
これは死にゆく者が、今生に別れを告げるためのアーメンである。
ちなみに文太郎の宗派は浄土真宗だ。
「文ちゃん! あきらめちゃダメよ!」
「エリコ……もう無駄なんだ……。ここまでトラックが傾いた以上、重力にはもう逆らえない……」
「まだ望みはあるわ!」
「バカ言うな……。マイケルジャクソンじゃあるまいし、重力に逆らえるはずないだろ……。ましてや俺は盆踊りしか踊れないんだぞ……」
「最後まであきらめちゃダメ! だからしっかりハンドルを握ってて!」
エリコは必死に励ましているものの、トラックはより傾斜角を増していく。
彼女まで道連れにして申し訳ないのだが、文太郎はもうすべてをあきらめた。
次の瞬間――。
ブワッという強風を受けるようにして、車体が左車輪の方へ押し戻されていく。
ひっくり返った世界は徐々に水平を取り戻し、文太郎自身も体勢が立て直った。
やや遅れて、左タイヤと路面がドスンと接触。
トラックは左右の車輪でしっかりと支えられ、本来あるべき運動力学を取り戻した。
「文ちゃん! ボケッとしてないでハンドルを操作して!」
「お、おう!」
エリコの言うとおりだ。
口をポカーンと開けて呆けている場合ではない。
突風で奇跡的に横転は免れたものの、トラックは高速域での走行を続けているのだ。
しかも直進方向が右にずれている。
このままでは中央分離帯に激突してしまう。
文太郎は減速と同時にハンドルを操作し、トラックを走行車線へと引き戻した。
「しかしビックリしたな……。さっきのお巡りさん、なんでライト消して逆走してきたんだ……」
「あの警察官は転生志願者だったのよ。だから文ちゃんのトラックに突っ込んできた。トラック転生するためにね。それしか考えられないわよ」
「てことは……時限爆弾も嘘だったってことか……?」
「あれは文ちゃんを嵌めるための罠だった。文ちゃんがスピードを出せば出すほど、あの人は死ねる確率が高くなるんですもの。なんならトラックを止めて確かめてみる? 時限爆弾なんて仕掛けられてないはずよ」
そこまで的確な推理を展開されると、文太郎もエリコを信じざるを得ない。
爆弾の有無を調べる必要はないだろう。
それによくよく考えれば、免許証を提示した時点で嵌められていたのだ。
この付近に住む人なら、爆弾事件がないことぐらい百も承知。
それゆえ、地方のトラック運転手、つまり、文太郎が標的となってしまった。
「だから文ちゃん、これからはどんなことがあってもパニックにならないで」
「はい……すみませんでした……」
「ちゃんと冷静になって考えれば、なにが正しくてなにが正しくないのか、それがわかるはずだから」
「はい……おっしゃるとおりです……」
文太郎は先生に怒られる小学生の心境で、シュンと小さくうなずいた。
男気あふれるジェントルメンとしてはなにかとつらいところだ。
その後、エリコはなにか考えごとをしているのか、口をひらくことはなかった。
エターナルロード(山陽自動車道)の先を見据えるように、どこか遠くへ目を向けている。
彼女の身の上について、文太郎はなにもわからない。
わかっていることといえば、二十一歳であるということ、そして熊本になにか用事があるらしいという、その二つだけだ。
ただ、彼女のその横顔はどこか達観しており、実年齢以上に大人びて見えた。
精神的にも、同年代の女性よりは成熟しているのではなかろうか。
これまで接してきた中で、少しずつ印象が変わっただけかもしれないが、そんじょそこらのギャルと違うことだけは確かだ。
文太郎はそんなエリコにずっぽりと惚れ込んでいた。
もっと具体的に表現するなら、『I LOVE YOU』の最後にハートマークが付く。
頭の中でチャペルの鐘がガンガン鳴るほど、エリコのことが好きになっていた。
しかし文太郎はあくまでも三十五歳のおっさんだ。
相手はひと回り以上も年下だけに、軽々しく己の想いを口にはできない。
星の数ほど失恋経験(告ってフラれた)のある文太郎でも、心の中で密やかに想いをぶっちゃけることしかできなかった。
以下、文太郎の心の声。
二十一歳とか全然余裕っしょ!
しかも顔よし性格よしおっぱいよし!
こんな女に惚れるなってほうが間違ってるっちゅーの! だっちゅーの!
エリコと結婚できたらマジ最高だな!
あなた、ご飯にする? お風呂にする? それとも、あ、た、し?
なんちって! ムッハー!
文太郎はエリコのおっぱいを横目に、ムハムハと鼻息荒くトラックを走らせた。
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