すべて君になる Perfume into You

「理科の実験、補習に出ておくように」

 そう言われて理科室に行ってみると数人の生徒が「たりー」と文句を言いながらフラスコやビーカーの準備をしていた。その中には意外な顔ぶれもあった。

「あれ。牧村も休んだんだ? 優等生が珍しいな」

「あなたとミルクティーの染みた服を洗っていたでしょう」

 そうでした。でもサボることになった原因はぜったいあたしじゃない。こいつだ。

 牧村があたしを見て目を細める。

「体育の格好のままなの?」

「汚れてもいいかなって」

「ちょうどいいかもしれないわ」

「何が」

「まずはお花を摘みに行きましょう」

「なんであんたなんかと。だいたいトイレはさっき行った」

「違うわ。今日の実験は花を使うの。本物の」

 というわけで体育のランニングに続いて額に汗して花を探したのだけれどめぼしい花は漁られてしまった後のようで、園芸部が廃棄しようとしていたほとんど黒に見える紅バラをもらってきたのだった。しおれかけだったけど。

「こんなちょっぴりでいいの? 足りなくない?」

「なら、あなたがこの花を使えばいいわ」

 牧村が自身の分を差し出してきた。受け取ろうとして手が止まる。こいつの親切ごかしにはさんざん痛い目に遭わされている。

「あんたはどうすんのさ」

「私は違うものを使う」

「違うもの?」

「運動着を寄越しなさい。洗ってあげる」

 さらに親切めいた言葉にあたしは警戒を露わにする。

「……今日の実験、洗濯だっけ?」

「ジョウリュウ」

「ジョウリュウってなんだ。川で洗濯をしているとどんぶらこっこと?」

「ばかね。理科で洗濯はないでしょう。そっちのじゃなくて、お酒とかの方の

「お酒、作んだ?」

「ほんっとばかね。高校生にお酒なんか造らせるわけがないでしょう。実験の課題は『花から香水を作る』よ」

 教室に戻ったところでホワイトボードを見ると確かにそんなことが書かれていた。

「ふうん。って、あんた、あたしに花くれちゃったら実験できないじゃん!」

「だから、代わりに運動着を寄越しなさい」

「へ?」

 嫌な、すごぉく嫌な予感がした。

「……一応聞くけど、運動着をどうするつもり?」

 牧村の口の端がにいっと上がる。

「わかっているだろうけれど答えてあげるわ。あんたのその汗をたっぷり吸った運動着から——」

 体育は持久走で牧村の言う通り運動着は絞れそうなくらい汗を掻いていた。

「わーっ。言うな! それ以上聞きたくないっ。てか、絶対嫌。そんな用途に着てるもの貸すとか無理だから。無理無理無理っ」

「あなたのものは私の――」

「ガキ大将みたいなこと言っても無理っ」


 結果としてあたしは運動着の上下を奪われて素肌に白衣を羽織るというおかしなことになっていた。これはあれだ。えっちな漫画にしか出てこないお色気女博士スタイルだ。

 なんでそんなことになったのかといえば先日のタピオカ・チャレンジを記録した動画のせいだった。牧村はあろうことかそれをすでにネットに予約投稿していて、あたしが服を差し出さなければそのまま公開されてしまうと言う。従うしかなかった。しかもスマホに残った分の動画を見ると、ぎりぎりで隠れていたはずの胸の先がもろに写っていた。格差と言ったのが根に持たれているのかもしれない。リベンジポルノってやつだろうか。

 打ちひしがれてあたしはとぼとぼと実験を進める。フラスコと渦巻きストローをガラスに閉じ込めたような器具で花の蒸留をするあたしたちの中で牧村ひとりだけが大鍋であたしの服を蒸らしていた。

 他の子たちはさっさと香水を作って帰っていった。教室は花の香りでいっぱいだ。あたしの蒸留機も渦巻きガラスの端からバラの香りを吐き出し始めていた。蒸気に晒されたバラは次第に色を薄れさせていく。

 ――これは面白いかも。

 ちょっと良い気分になったのも束の間、むっとする臭いが鼻先に漂ってきてあたしは顔をしかめる。いや、あたしには臭いらしい臭いは感じられなかったのだけれどそれでも熱気とともに人の気配のようなものが濃く漂い始めた気がしたのだ。

「あは。くっさぁい」

 牧村がガラス管の端に顔を近づけ、手のひらでぱたぱたと風を送って運動着から蒸留する臭いを確かめ、鼻筋に皺を寄せていた。フレーメン反応を起こした猫の顔のようでもある。

 つらい。これはつらい。

 汗だらけの服を奪われ目の前で臭いを絞り出されるというのは。

 ——つらたにえん。

 とっくに廃れてしまった流行語が頭をよぎるくらいつらかった。

 やがて渦巻きガラスの一番下に透明な液体が溜まり始めた。

「さすがに精油は取れないかしら」

「……精油と香水って何が違うんだ」

 あまり聞きたくなかったけれど訊いてみる。

「揮発油の成分が精油。こうして液体になったものが十分に冷えて落ち着くと油の上澄みと水溶液に分離するの」

 つかぬことを伺いますが、と恐る恐る訊ねる。

「その、蒸留した汁――香水は何に使うの?」

「夜、寝るときにのよ」

「は? 着る?」

「シャネルのNo.5ってとこね」

 昔の美人女優が「ベッドでは何を着るか」と問われて返したのがそんな名前の香水だったはずだ。

「マジ勘弁……」

 もちろんそんな言葉で赦してくれるような牧村ではなく、あたしはあたし汁が蒸留されていく過程を見守ることになった。


 翌朝、登校するとおキレイ秀才グループが盛り上がっていた。

「じゃあ、まっきーも香水作ったんだ」

「ええ。嗅いでみる?」

「嗅ぐ嗅ぐー。えー、なーにーこれ? うっすら甘いような。どっか知ってるような」

「ふふ。なんだと思う?」

 まさか、と冷や汗が出る。牧村が手にしていたのは可愛らしい花柄のアトマイザーで手の甲に噴きかけて仲間に嗅がせていた。あたしを見つけたらしい彼女の口元が禍々しく歪む。

 牧村グループが花の名前を挙げはじめたけれどあたしの想像通りなら絶対に当たりっこなかった。その中で誰かが言い出した。

「あ、これ、あれに似てる。なんだっけ。デオコの制汗剤!」

 おじさんでも若い女子の匂いになれるとネットで噂の商品が挙がる。男の娘にも人気、という話もあったのではなかったか。

 ——ある意味、当たり。

 冷や汗が倍増する。昨日、目の前で蒸留されている時もつらかったけれど何も知らないクラスメイトに嗅がれてしまうのも大概つらい。牧村の「惜しい。デオコじゃないけど、女の子がつければさらにもてちゃうかも」という言葉に耳を塞ぎたくなる。

 ——ごめん。それはもてない香水。カレシなんていたことない。

 ノリの良い子が「かけてかけて今日デート」と言いだし牧村がにこやかに応じる。あろうことか「あたしも」なんて声がいくつも連なり、一人また一人とあたしの運動着の臭いを纏っていく。

 ああ、もう見ていられない。

 最上位カーストグループの、あたし以外の誰にも受けの良い牧村が惜しげもなく香水を振りまいて歩く。教室中を練り歩き、あたしの前に来た牧村が華やかな笑みを見せる。あたしと二人きりの時には絶対に見せない種類の笑顔を。

「あなたも試してみる?」

 アホギャルにも優しいところをアピールしてみせたけれどあたしは首を振る。くすくす笑いとともに牧村はアトマイザーを一吹きして離れていった。

 ——自分の臭いを上重ねしても嬉しくねーぞ。

 あたしは溜息を吐く。

 ふと気づくと机の上に小さな紙袋があった。牧村が来る前にはなかったはずだ。あたしが気づかなかっただけであいつが置いていったのだろう。ファンシーショップで小物を買ったときなんかに入れてくれるような紙袋にはアトマイザーとメモが入っていた。

 メモの内容は仮面優等生が不良品であることを示していた。

 “昨晩は素敵だったわ”

 昨晩ってなんだ? 素敵ってなんだ? そういえば「着る」とか「シャネル」とか言ってなかったか。メモの言葉が牧村の声になってあたしの頭の中を駆け巡る。駆け巡りすぎた牧村像は「昨晩はお楽しみでしたね」とか抜かす実際にはどこにもいそうにもない宿屋の女将さんに化けていった。


 始業のベルが鳴り、オネエ英語教師が現れた。彼は昨日の牧村のように鼻に皺を寄せて顔を引きつらせ「今日は一段と女くさいわねぇ」と呟き窓を開けさせる。きっと教室中にあたしの臭いが充満していたのだろう。ゲイであるらしい彼には相当きついに違いない。

 オネエ先生でなくともつらい。

 想像してみてほしい。

 自分の体臭のする女の子が教室にみっしりと詰まっている状況を。

 その臭いをまとった子たちが帰りの列車であちらこちらにばらまかれていくことを。

 自分の臭いのする子が彼氏といちゃつく様を。

 人生が終わったような気はしないだろうか?


 ぼんやりと授業を聞きながらあたしは手の中のアトマイザーを弄ぶ。

 ――そういえば昨日、もうひとつ蒸留してた……。

 何を蒸留していたのかは知らない。あたしは自分の運動着を取り返すとすぐに退散した。最後まで一人で残った牧村は洗濯ネットのようなものに包んだ何かを新たに蒸留しようとしていたかに見えたけれど。

 手の中のアトマイザーを見下ろす。

 絶対に試すべきではないと直感が赤文字の警告を点滅させていた。

 これまでの経験が後悔するぞと理性に訴えかけていた。

 けど、あたしは気になってしかたなかった。

 ティッシュを取り、霧が周りに飛び散らないよう噴霧口に押しつけた状態でアトマイザーを使う。そっと鼻先に近づけてみた。

 ――!

 これといって刺激の強い匂いがしたわけではなかった。具体的にどんな匂いか訊ねられてもうまく説明できない。それでも、なんとなく連想するコーヒーの匂い、あるいはごくごく薄めたカビの匂いやえぐみを思い起こさせる乳酸の匂い、微かに帯びた金属臭はこれが何を抽出したものなのかあたしに悟らせた。

 ――あのクソ女、マジ最悪。

 猫でも馬でもないあたしの唇が勝手にめくれ、鼻筋に皺が寄る。腹立たしさとともに心拍が上がり顔が火照った。がたんっ、と大きな音を立てて立ち上がる。

「先生、おしっこ!」

「えぇ? そういうのは休み時間に済ませておいてちょうだいよねえ」

 追い払うような仕草だったけれどオネエ先生はトイレに行かせてくれた。教室を出しなに牧村を睨みつけるとあのクソ女はこっそり中指を立てて見せた。あたしが催したのは尿意でも、まして便意でもなかった。

 ——マジFUCK。

 十分後、丹念に手を洗い(まともな)制汗剤を吹きまくって教室に戻ったあたしは一日が終わった後のようにぐったりしていた。

 そんなあたしに追い討ちをかけるように小さなメモの手紙が回ってきた。あたし宛だ。

 アトマイザーに付けられていたメモと同じ筆跡で“お楽しみでしたね?”と書かれていた。

「……まじ最悪」

 香水の材料は絶対に訊くものか、と心に誓った。

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