第十六話

 当たり前の話であるが、結納の当日になって突如花嫁が家を飛び出したところで、はいそうですかと、それで簡単に婚姻が破談になるだなんて、そんな都合のよい事は起こらないのである。

 どうせ数時間後には関係者によって桐生家の邸宅へ連れ戻されるというのがオチであろう。その後、花嫁はともかく、少なくとも私あたりは惨たらしく暴力でも受け、もしかしたら家族もろとも村八分なんて目に苛まれるのかもしれなかった。

 しかし私たちの歩みは止まらなかった。減速するどころかむしろ加速すらしており、つまりは私たちの間に後悔など一つとしてなかったのであった。

 私たちは登る。関東平野の境界を踏み越えて、トンビ岩よりもさらに高く、私たちは頂上を目指すのである。

「このまま頂上まで行って、そうしたら、何をしたい?」

「そうであるなあ、様々なことをしたいのである!」

「ふふっ、何よそれ」

「もっと様々なところを観光してみたいのである! 桐生嬢も言っておっただろう、諸国漫遊である! 桐生市を出て、色々なものを見に行こうではないか!」

「それから?」

「そうさなあ……まあ、桐生嬢が? どうしてもと言うのであれば……その、他にもあるという様々な雑誌を、覗いてあげなくもないのであるよ?」

「変態」

「ええいもう何とでも呼ぶがいいのだ!」

「それから……?」

「……桐生嬢のトランペットを……もう少し、聴いていたかったのであるなあ」

 会話を経るごとに私たちの語気は弱まっていった。精神の高揚が薄れて、現実が押し寄せてきたのである。それと反比例するかのごとく標高は上がり、遂に私たちは吾妻山を踏破して、頂上へ辿り着いたのである。

 頂上からの眺望は、トンビ岩からのそれよりも遥かに雄大なものであった。さすがに頂上となると街の灯りの一粒一粒を見ることは適わなかったのであるが、しかしそれが逆に、見える景色の広大さを何よりも雄弁に物語っていたのである。

 桐生嬢は背負っていたトランペットケースを下ろし、その中から黄金色の楽器を取り出した。

「……じゃあ、ここまで連れ出してくれたお礼に、トランペットだけは吹いてあげる」

 そう言って、桐生嬢は私に向かって向日葵を咲かせた後、八木節祭りに湧く桐生市街へ向き直って、トランペットを構えたのである。

 その後ろ姿はどこか物悲しくて、寂しくて、

「――っ」

私はつい、桐生嬢の背に抱き着いてしまったのだ。

「ちょっと、トランペットを吹けないじゃない」

「……桐生嬢~うう」

「泣かないでよ……っ」

 自然と目頭が熱くなって、気づけば私の目からは涙が零れ落ちておった。そんな私をからかうような桐生嬢の声もしかし震えており、私たちは二人仲良く涙を流し始めたのである。

「何が『トランペットだけは吹いてあげる』であるか……『もうトランペットしか吹けない』の間違いであろうに」

 このまま桐生家へ連れ戻されれば、桐生嬢は太田市長のご子息とやらに嫁ぎ、太田市へと去ってしまう。そうなれば、もはや外国を周遊することも、破廉恥な雑誌を購読することも、そして何より、こうして二人で会って遊ぶことも、適わなくなってしまうのであった。

「嫌であるううう……これでお別れなど嫌なのだあああ」

「でも……どうしようもないじゃない!」

 吾妻山の頂上には無力な者たちの泣き声が木霊していた。



 それからどれほどの時間が経っただろう。落ち着きを取り戻した桐生嬢は指で涙を拭うと、背中に抱きつく私にも構わずに、トランペットを吹き始めた。


「――――――」


 その曲は桐生嬢の大のお気に入りで、彼女がトランペットを取り出してまず初めに吹く曲で、そして今日、桐生嬢が家を飛び出す際に父に向かって題名を叫んだ曲であった。

「Nezávislost a Sebevědomí」――意味は、独立自尊。

 その夜に聴いた桐生嬢の演奏はこれまでのどれよりも素晴らしいものであった。何十年経とうと忘れえない、そんな演奏であった。もし携帯できる蓄音機があったならと夢想せずにはいられない、そんな演奏であった。そして、おそらく私が聴くことのできる、最後の生演奏であった。

 私たちは無力である。親の意向には逆らえず、自らの進路すらまともに決められぬ、力なき存在である。あと数時間と経たずに私と桐生嬢は離れ離れにされ、桐生嬢は望んでもいない婚姻を迫られるのだ。

 だから、このトランペットは私たちの反抗である。私たちは無力であったが、しかし、私たちは今、ここにいる! ここにいるのだ! 関東平野の境界線を踏み越えて、トンビ岩よりもさらに高いところから! 桐生の街を見下ろして、私たちは独立自尊を高らかに掲げるのである!


「――――――」


 響け、響け、トランペット。

 どこまでも伸びやかに、遠くへと飛び立つような音色で。

 八木節なんか掻き消して。

 独立自尊を歌うのだ。

 響け、響け、トランペット。

 どこまでも伸びやかに、未来へと羽ばたくような音色で。

 万感の思いを込めて。

 独立自尊を謳うのだ。

 響け、トランペット。

 響け、響け――

 ――鳴り響け。

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