第十一話

 そして、国語や歴史などの座学よりも、裁縫や体操などの実技よりも何よりも、桐生嬢はトランペットが上手であった。いやまあ、そもそもトランペットを個人で所有し演奏する人物を、私は彼女以外に知らないのであるが。

 桐生嬢はどこへ行くにしてもケースに収納したトランペットを背負っていた。桐生嬢がトランペットを吹き、私がそれを聴き、感想を述べる――それが私たちが別れ際に行う習わしであった。

「お父様が買ってくれたものなの」

 渡良瀬川の河川敷にて演奏した際、桐生嬢ははにかみながら教えてくれたのである。

「一つくらいは西洋の楽器も体得しておいたほうが良いだろうって、それで何がいいかって訊かれたから」

「桐生嬢はトランペットを望んだわけであるな」

 コクリ、と頷く桐生嬢。

「花形で、かつ一番難しいのを選んだの。簡単に吹いたり弾けるような楽器って、つまらないでしょう?」

 それは何とも桐生嬢らしい選択の仕方であった。

「いつか、トランペットを片手に世界を周遊したいの。桐生から出て、色んな世界を見てみたい、触れてみたい。言葉が通じなくても、音楽なら世界中の人と通じ合えるのよ? それって、とっても素敵なことだと思わない?」



 また、桐生嬢には一つお気に入りの曲目があった。彼女はトランペットをケースから取り出すと、決まってとある曲目から演奏を開始するのである。

「一体何という名前の曲なのであるか?」

 ある日私がそれとなく桐生嬢に尋ねると――それは確か木の葉の燃ゆる秋、私たちが二年生の頃のことであった。桐生嬢の部屋にて、私は椅子にもたれかかりながら彼女の演奏にうっとりとしていたのである――桐生嬢は題名に悩む素振りも見せずに答えた。

「『Nezávislost a Sebevědomí』」

「英語は分からないのである」

「チェコ語よ」

「ま、まあ敢えて知らない振りをしていただけである……」

「チェコのヤーヒム=クルムロフが一八七七年に作った曲なの」

一八七〇年代当時、チェコはオーストリア=ハンガリー帝国の一部であった。支配下にあったと表現したほうが適切かもしれぬ。

「彼は祖国独立の願いを込めて、この曲を作ったと言われているわ。意味は……独立自尊」

「『独り立ち、自らを尊ぶ』であるか」

「素敵でしょう?」

 桐生嬢は誇るかのように私を見つめて言った。窓から差し込む夕日がつくる陰によって、私は桐生嬢の表情を窺うことは適わなかったのであるが、しかし、桐生嬢のトランペットがどこまでも伸びやかな音色であるその理由の一端は、ひょっとするとこの独立自尊という題名にあるのやもしれぬと、私はそれとなく感じ取ったのである。

「おお、忘れておった。どれどれ……」

「何をしているのです?」

「いやあ、先ほど桐生家の執事を名乗る者から蓄音機の使用法を学んだのでな、試しに桐生嬢の演奏を録音してみたのである」

「ちょっと、勝手なことをしないで! 恥ずかしいではないですか!」

「まあまあ、別に減るものでもなし。良いではないか良いではないか」

「私は時代劇のおなごではありません!」

 このようにして、私たちは中学生活での多くを共に過ごしてきたのであった。これほどまでに楽しかった日々は後にも先にもこの時だけであった。交流を深める度に、私たちはお互いの相性の良さに気づき、そしてより交流が深まっていった。端的に言えばウマが合ったのである。私にとって、桐生嬢はまさしく一世一代の大友人であった。

 しかし、私はもっと思案を深めるべきだったのかもしれない。

 中学一年生の頃の八木節祭り。どうして桐生嬢は八木節に参加もせずに吾妻山でトランペットを吹いていたのか。

 どうして桐生嬢は独立自尊という曲の題名に惹かれていたのか。

 桐生嬢との交流に浮かれて、私は考えることを放棄した。別に考えていようと結末が変わったわけでもなかろうが、しかし、私は事の起こる直前まで何も知らずに日々を過ごしていたのである。

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