第8話

『本日、ついにデカデカリボンちゃんのデカデカなお乳に触れられたのである! 協力感謝するのである!』

『死ね』

 髪留めスターから送られてきたLINEに端的なる返信をし、私は帰途につくことにしました。山際をなぞるようにして架けられた桐生大橋を渡り、せっせと自転車のペダルを回すのです。

「ただいまであります」

「顔でも洗ってきたまへ」

 帰ってきた私を迎えたのは「おかえり」ではなく、思いやりの感じられない日本語でした。なんと素っ気ない。愛する娘が祭りの夜に目元を腫らして返ってきたのですよ? 理由を尋ねられてみてはいかがですか?

「いいから早ようせんか」

「はーい」

洗面台に取り付けられた鏡に映る私の目元は、なるほど確かに真っ赤っかでございました。紅顔の美少女というやつです。……紅顔なる言葉が少女にも適用されうるのかは、私のあずかり知らぬところですが。

 ともあれ、私は大人しく顔を洗い、そのまま手早く入浴を済ませました。何故かと言いますと、私は体の内より湧き起こる衝動に侵されていたのです。より直接的に言うならば、具体的に言うならば、私はトランペットが吹きたくて吹きたくて堪らなくなっていたのです。

「お父上、トランペットは何処でありますか!」

 私はかつてないほどやる気に満ち溢れておりました。今日の私はパレードや八木節祭りでこれでもかというほど市街を練り歩いたはずですが、しかし、その疲れなど吹き飛んでしまったかのようです。

「お父上、どうすればトランペットを上手く吹けるのですか!」

「知らぬ」

「何故ですか! 私になど教えないというのですか! ずるいずるい! 母上に先日父上が駅前のキャバクラに入っていったと告げ口してしまいますよ!」

「群馬にキャバクラがあるわけないだろう!」

「は、不覚!」

「……ともかく、トランペットについて訊きたいのであれば、祖母に尋ねるとよかろう。そもそも我にトランペットを教えたのも祖母であるのだから」

「はーい」

 そうして、私は祖母の部屋へ駆けていったのです。

 後になって振り返れば、それは本当に偶然の出会いでありました。私がパレードでミスをしなければ、リボンちゃんが金賞を逃して泣き崩れなければ、髪留めスターがリボンちゃんと二人きりになる好機を見捨てて私を引き留めていれば、折り子さんが彼女の身体に引っついていた私を引き剥がして、眼球をハート型にしてイケメンにアタックを仕掛けにいかなければ、私はもう少しお祭りを楽しんで、帰宅する時間も遅れていたことでしょう。本来予定していた帰宅時間であれば、祖母もとっくに就寝していて、それは起こらなかったのです。

 ともあれ、その偶然は、私の人生において大きな転機となるべき衝撃を、私に与えたのです。

「おばあちゃん! 私にトラっ――」


「――――――」


 音質は決して良いとは言えませんでした。所々ノイズも雑じっております。

 しかし、それはどこまでも伸びやかで、豊かな音色でした。聴いているだけで胸が締め付けられるほどの思いが込められていて――そして、その音色を一瞬耳にしただけで確信してしまうほど、上手な演奏でした。

「……誰なのですか、演奏者は」

「この前も話したであろう。我が一世一代の大友人、桐生嬢によるものだ」

 私は、祖母の部屋でレコードから流れるトランペットの演奏を、偶然耳にしてしまったのです。

 どうやら私は、もう一度顔を洗い直さねばならないようでした。

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