第7話 敵地で戦うということ

 敵のホームグラウンドで戦うというのは容易ではない。


 そのむかし、私たちが他の学区へ遊びに行く時には、自転車を藪の中や公園のトイレの裏なんかに隠しておいて、散り散りになって帰ってきたものです。

 他の学校の話ですが、20人くらいで別の市の学校を訪問した。

 帰ってみると一人足りない。

 翌日、彼らが校長室に呼び出されて知ったことには、そいつは逃げ遅れて袋だたきに遭い校庭の砂場に埋められていたそうです。

 それくらい敵地で戦うというのは危険なことなのです。


 今回、私は初めて関東の大学が関西の大会で戦うところを見たのですが、つくづく大変だと思いました。

  私も団体戦での決勝戦というものに何度か出場しましたが、やっている当人は必死になっていますから、会場の声援などそれほど気にならない。 むしろ、先鋒としての自分の試合が終わり、後に続く選手たちを応援する時の方が、会場の歓声に圧倒される。


 しかし、なんといっても辛いのは審判 (員)でしょう。観客の歓声と、「ウォー」という体育館を揺るがすようなどよめきは、審判にとって最大の敵にちがいありません。 

 関西というのは、言葉は関東に比 べて丸いのですが、自分の感情を表現するのは関東よりも直線的です。 でかい声で、素直に自分の心を表現する。「大阪のおばちゃん」的なんですね。


 私が座って観戦していた席は、関西のある大学のブースだったらしいのですが、選手や関係者はみな別のところにいるらしく、ガラガラでした。

 私の後ろの席には2人の若い男性(関西人)がいて、一人は日本拳法の事情通らしい。

 「関学には谷という名の選手が二人おってな、一人は同志社のTと・・・・なんや」なんて話している。その辺りまでは静かだったのですが、明治と龍谷の決勝戦が始まると、途端に声がでかくなる。

 初っ端の先鋒戦で「相打ち」の場面、主審は明治の旗を揚げたのですが、副審が異議を唱えたらしい。3人で集まって協議している。

 後ろのお兄さんは「あれは絶対龍谷や、龍谷 ! 間違っても、どんなに間違っても、相打ちや、相打ち !」と大きな声で叫んでいる。

 関西人というのは、同じ言葉を必ず二回言うんですね。これが彼らのあくの強さというか、確実に自分の意思を伝えようという彼らのコミュニケーションスタイルが感じられます。


 結局、判定は明治。

 その時の会場に沸いたどよめきを代表するかのように、この人は「ちがうやろ ! 違うって !」なんて、絶叫してました。


  まあこういうことは、ライブで観戦する際ひとつの楽しみともいえることなので、私はつい(不満ではなく)興味本位で後ろを振り向きたくなったのですが、こ の場でこの間合い、そしてこのタイミングで下手に目が合ったりすると、「なんやお前、明治の回し者(もん)かい ?」なんてことになって、砂場に埋められてしまうのではないかと思い、絶対に後ろを振り向きませんでした。

 (しかし、この人はたいしたもので、副将戦の時、「あ、これは格が違うで。見ててみい、1分でカタがつくで。」なんて言ってましたが、本当にそうなりました。)

 おそらく大相撲の時でも、両国国技館よりも大阪場所(同じエディオンアリーナ大阪)の方が、飛ぶ座布団の枚数はずっと多いことでしょう。


 この大試合の主審をされている方は数年前から同じ人らしく、非常に落ち着いて審判されていらっしゃいました。

 龍谷のある選手が、終わりの礼の時、床をどんと殴りつけて立ち去ろうとすると、彼を呼び戻し、明治の選手ともう一度きちっと礼をさせているところを見て、武道らしさ、大学日本拳法らしさを感じました。(もちろん、この選手は審判の判定に腹を立てたのではなく、自分自身に対してであったのでしょうが。 )


 もし、あの行為を単なる感情表現ではなく、パフォーマンス(相手や周囲の人に対するメッセージ)であると考えるならば、関西ではこういうパフォーマンスを街のあちこちで見ることができます。これは南北朝鮮人という外国人との付き合いが長い土地柄故でしょう。

  関西人(のお年寄り)は関東や東北に比べてオレオレ詐欺に引っかかる人が少ないという統計があるそうですが、今まで無数の権力者による抗争で町を破壊されてきた歴史から、言葉は丸いし人当たりは良いのですが、そう簡単に人を信用しない。

「日本で最大の暴力団は警察」という意識があるくらい、権威というものを疑ってかかる。 「京都人」がその典型でしょう。

(「でも、還付金詐欺には引っかかりやすいんや、大阪のおかんは」と、スーパーのレジの女性が言ってました。)

 

 また、この主審は延長戦に入る時、選手の名前が張られたボードの前で学連の人と1分間ほど何事か話をされて、対戦する両校の選手がともに大将戦で戦ったため、その回復を助けるために「時間稼ぎ」をするという、粋な行為もされていました。

 あんな大試合の主審というプレッシャーのなかで、そんなゆとりを持てるというのは、さすがに場数を踏んでこられただけのことはあるな、と感心しました。

(もちろん、これは私の勝手な推測なのですが。)


  細かなことはわかりませんが、ああいう場で、両校の選手がそれぞれ自分の場をしっかりと作り上げ、のびのびと 自分の拳法をされている姿に、また、怒濤の歓声の中、自分(たち)の場を見失うことなく、試合を公明正大に差配・進行された方々に対し、私には敬意しかありません。

 

 2018年12月5日

 平栗雅人

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