第9話 【終点平野駅】


【終点平野駅】1


平野区は1974年(昭和49年)東住吉区より分区した。昭和35年以降急激に人口が増大したのである。35年当時9万人だったものが50年には倍増して20万人になった。


平野の地名は平安時代末期にまで遡ることが可能で、古くは摂津国住吉郡平野庄と呼ばれた。平野郷は戦国時代、堺と並ぶ自治都市で、自衛や灌漑、洪水等の調整池としての役割を持たせるために、町の周囲に環濠によって取り囲んだ。いわゆる「環濠都市」である。戦災で焼かれなかったので、今もその面影を多く残している。

水陸の交通の要所として、活躍する商人も多く、江戸時代には河内木綿の集散地として数多くの問屋が軒を並べた。


健吾の家も味噌、醤油を代々作る家柄であった。健吾の父、義一は商業学校を出て家業を継いだが、生産や営業の仕事は番頭達に任せ、帳簿を見るのをもっぱらにした。何年も修業を積んだその道の者に任せておけばいいという考えであった。

午前中、帳簿を見終え、番頭達から報告を聞くと、午後からは外に出た。行先はもっぱら新世界で、映画を見たり、食事をしたりであった。それから日本橋にあった株屋に時折顔を出した。


義一のお伴をするのは幼かった健吾であった。株屋は退屈だったが、映画や洋食を食べさせて貰うのは楽しみであった。義一は妻お花を連れだって出かけることはなかった。連れだっては、十日戎の時ぐらいである。お花はもっぱら住み込みの職人の〈おさんど〉に忙しくしていた。

お花はこの家の女中として来た。さっぱりした気性と、てきぱきとした働きぶりを義一の両親に見染められたのである。お花のやることは結婚前と変わりがなく、ただ呼び名が〈お花どん〉から〈若おかみ〉に変わっただけであった。

健吾は母と云えば女中と一緒に台所で立ち働く姿しか思い浮かばない。


兄の智治と健吾は11才違う。兄はよく勉強が出来、健吾が小学校上がる時に智治は旧制の大阪工業大学(現在の阪大工学部)に入った。そして市役所に勤めた。義一はひそかに跡継ぎと期待していたようである。健吾に跡を継ぐことは無理と見たのか、同業の者に事業を売ってしまった。

義一は何事にも無理をしない人であった。また、人にも無理を強いなかった。「頑張れ」という言葉を、健吾は聞いたことは無かった。努力は大切だが、無理は為にならない、人には持って生まれた分というものがあると云うのである。日本の戦争にもそのような見方をしていたようである。


そのお金で辞めて行くものには何がしかを払い、智治には帝塚山に居宅を、健吾には敷地に一部を割いてこじんまりした居宅を作った。そして、自らはお花の実家のある若狭に隠居をした。戦時の統制下での事業が嫌になったのと、妻にいつまでもえらい目に遭わせるのを気遣ったのである。少しの田を作り、もっぱら好きな海釣りを楽しんだ。

義一は「戦争はいつまでも続くものではない」と云っていたが、日本は負けるだろうと見ていたようである。「戦争中も大変だが、終わった後がもっと大変…、どうなるかさっぱりわからん。歳だしな、あがらってはよう生きん」と云った。

事業を売ったのは正解であった。戦後の物資不足では原材料の豆の手配も大変で、買った先も事業をやめてしまった。

義一は昭和30年、70歳で亡くなり、母お花は郷里若狭で90歳まで長生きした。


健吾は商業学校を出たが、電車の運転手になりたいと云った時も義一は別段反対するでもなく、「どこの会社に入るのか」と聞いた。健吾が「南海電車で、出来れば平野線を運転したい」と云うと、「ほほー、そうかい」とほほ笑んだ。

義一は平野線に乗る時は座らなかった。いつも運転席の後ろの衝立に捕まり、前方を見ていた。当然健吾も父の手を取り、運転席を見ることになる。いつしか少年はそれを自分で運転してみたいと思うようになった。

運転していて、父義一の〈とんび〉*を着た姿が思い浮かべられるのである。



『終点平野駅』2


連れて行かれた当時の『新世界』の賑わいはきらびやかで、健吾には名前の通りまるで新世界を見るようであった。

新世界の成り立ちのきっかけは明治36年に開催された第5回内国勧業博覧会である。この博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況であった。

明治42年に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となり、西側の約2万8千坪が大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、ここに新世界の開発が始まったのである。


この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なった。当時は高層ビルなどなかったので、高さ73メートルの通天閣からは四国まで展望できたと云う。

通天閣とルナパークの間には日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。ルナパーク内にはメリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂、不思議館、展望塔(白塔)、大衆演舞場、動物舎、および瀑布渓流、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールが設置されていた。大人も子供も楽しめる当時としてはもっとも尖端的な遊覧場であった。


通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、大正4年には東に隣接する天王寺公園西部に天王寺動物園が開園、大正7年には南東に隣接して飛田遊廓が開設、その翌年には新世界に大阪国技館が建設され、周辺地域を含め一大歓楽街として大阪の人々に認識されるようになったのである。

しかし、そんな中でルナパークは振るわず、大正12年に閉園となり、跡地は大阪市電天王寺車庫に転用された。


太平洋戦争下の昭和18年、通天閣は敵軍による空襲の標的にされやすいことに加えて金属類回収令による鉄材供出のために解体された。加えて昭和20年3月の大空襲で新世界も被災・壊滅した。

戦後、ジャンジャン横丁が先ず復興し、昭和31年には現在の二代目通天閣が開業した。庶民的な繁華街として親しまれてきた新世界だが、高度成長期に入ると大手私鉄のターミナル駅がデパートを中心に隆盛を誇るようになり、次第に衰退していった。

しかし、その庶民性と「昭和の名残」を感じさせるレトロな街の雰囲気が、現在は却って気安く行ける観光資源になって、外人客も多く、名物串カツに舌鼓を打っている。


かつての新世界は、その独特の雰囲気で人々を惹きつけ、多くの小説・漫画の舞台ともなった。父義一に連れられて行った頃から、平野線の運転手として働いたときを経て、廃止になり退職するまで、その栄華の変遷を見て来た健吾には心懐かしい街である。


平野にはJRの関西線の駅と平野線の駅の二つがある。南北に離れた距離にあり、天王寺には関西線が近いのであるが、南側の住人は平野駅を利用した。駅舎は六角堂と呼ばれるモダンな建物であったが、実は八角形であったことを知る人は少ない。

行き止まり式の2線切欠きホーム*で、駅舎に一番近いほうが2番線で天王寺行が、奥の切欠き線が1番線で恵美須町行が発着した。1976年以降、平野線で唯一の有人駅となり、乗車券類の発売が行われ、また、乗務員詰所や宿泊施設もあった。運転終了後の夜間当駅泊となる車両のために、専用の行き先板が備えられていた。

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