第6話 【股が池停留場】【田辺駅】
【股が池停留場】
文の里の次は股が池停留場で、JR(当時は国鉄)阪和線*と交差した橋脚の下にホームがある。『桃が池』がすぐ目の前に見える。昭和に入って沿線は住宅地になったが、それ以前は農村地帯でこの池は溜池として使われていたという。沿線で唯一見える水のある景色で、貸しボートがあり、車窓からはカップルが浮かべるボートが見られた。
江戸時代には「百ヶ池」の表記が見え、明治大正頃には「股ヶ池」が定着していたが、昭和初期に市が整備し、都市計画公園として開園するにあたり、字が分かりにくいなどの理由で、公園名には同じ発音の「桃」の字をあてたという。駅名は開設当時の字体を使っている。
公園内にはハナモモやサクラの木が植えられ、季節には近在のちょっとした花見の名所となる。
【田辺駅】
停留場ではない、駅である。駅のホームは千鳥式* 2面2線、中間駅には珍しく駅舎があって、かっては駅員が常駐し切符も売られたが、中間駅は全て無人駅になり、車掌が切符販売をした。
小学校の裏にあり、片側は商店街になっており、踏切を渡る人も多く発車には注意を要した。その発車間際に電車を止められたことがあった。
ばたばたと走って来る女生徒が発車間際の天王寺行に飛び乗った。車掌は発車の合図をした。遅れて追いかけて来た中年の女性が、電車の前に立ちふさがって両手を広げた。顔を見て驚いた、酒屋の定さんではないか。横を見ると末娘の桜ちゃんまでが母親と同じように手を広げている。健吾は横窓をあけて「危ないじゃないですか、何事ですか?」と怒鳴った。
「家出娘がその電車に乗ったのよ。降ろさせるからドアーを開けて!」と叫んだ。
後ろを振り返るとセーラー服を着た娘の菊子さんが息咳切っている。最後に飛び乗って来た客である。細かい事情を聞いている暇はない。健吾は車掌に云って娘さんを降ろさせた。
定さんの元木酒店は小学校の東横にある。健吾の好む銘柄がここにしか置いてなくて、取りに立ち寄っていた。気になったので帰りに寄った。
定さんは養子を取って跡を継いでいる〈ちゃきちゃき〉の元気おばさんである。立ち飲みもやっていて、酒を取りに行ったときは健吾も客になった。あるとき、酔った客が他の客にいちゃもんをつけた。定さんが注意するとごねた。定さんはスッパーと立ち飲みを止めてしまった。
「はやっていたのに惜しいね」と健吾が云うと、
「酒を売っていて、酔客はお断りと書けへんやろう」と答えた。定さんの話をご馳走の立ち飲み客は残念がった。
「定さん朝はどないしたんね」
「どうもこうもないわよ。あの娘、色気つきやがって、学校行ってるのに男と付き合ってるんだよ。それを注意したら、鞄に身の回り品を詰め込んで『お世話になりました』と云って飛び出すんよ。あの子は一本気だから、ここを逃しちゃ終わりだと思ってね…」
「そうだったのか、必死の形相だったもんなぁー」
「あんたで良かったよ。おおかた轢かれるとこだった」
「学校に行ってると云っても、来年卒業だろう。歳には申し分ないけど」
「嫌だね。あたしゃ嫌だよ!けじめをつけられない奴は嫌なんだ」
「それで、菊子さんはどうしてる?」
「ああ、座敷牢に閉じ込めているよ。3日は飯抜きだ」と、酒を置く倉庫を指差した。
それから、暫くして菊子さんはセーラー服で電車に乗って来て、
「おじさん、この間はすいませんでした」と神妙に謝って、女学校のある文の里で降りた。どうやら定さんには勝てなかったようである。
定さんとはこんな思い出がある。あの菊子さんの結婚が決まった。
「あのね、健吾さんにお願いがあるんだよ。聞いてくれる」
「僕に出来ることなら…」
「娘にね、最後になんでも聞いてやるから願いごとある?て聞いたら、家から花嫁姿で出たいって言うんだよ。それも式場までは通学で6年間通った思い出の平野線の電車で行きたいって・・式場は天王寺なんだがね、ついては、花嫁と親戚縁者の貸切電車を出して貰われへん」
「うちは貸切やってませんよ」
「だからあんたに頼んでるんだよ」
「頼まれてもね…それは上が決めたことで」
「だから、あんたが上に頼めって言ってるの!バスだって貸切があるんだよ」
「バスと電車では違いますよ」
「何よ、4両や5両の電車では貸切出来ないだろうが、たった1両の田舎電車だよ。田舎の友達も言ってたよ〈なんだ今時、大阪で1両の電車が走ってるのかい。田舎でも2両だ〉ってね、バスと同じみたいなものさ。そんなこと言ってるから営業不振になるんだよ」
「えらい言われようやなぁー。一応上には言うだけ云ってみますけど、責任は持てませんよ」
電車を止められたことを思い出して、健吾は〈無下にすると何をされるかわからん〉と思ったのである。
あに図らん、上は「面白い、テストしてみるか。貸切とは書けないから、臨時便としょう」となったのである。田辺駅から花嫁と縁者を乗せた臨時便が出た。文金高島田の花嫁姿と羽織袴を乗せた電車を駅のホームの人たちは「何事?」と見た。
幸せいっぱいの花嫁を乗せて走る天王寺までの直行便、運転していて、健吾はなんだか爽快な気分になってきた。〈定さんには勝てない〉と思った。
料金は一人100円と云う訳にはいかないので、10倍として、35人、3万5千円とされた。平野線で運転された唯一の貸切電車*であった。
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