蛇釣り

きのみ

蛇釣り

 蛇釣りに行くというのでついて行った。私は蛇がこわい。けれども、例えば田んぼの傍や河川敷なんかでちいさなシマヘビの子供などを見かけた場合、近寄って模様を調べたり、うねうねする様子を珍しがったりする。すると私がこわがっている蛇というものがなんなのかわからなくなってくる。だから蛇釣りについて行こうと思った。


 彼について私は何も知らない。彼の名前も知らないから、彼と呼ぶほかない。気温が体温のような数字になる日が続いていた頃に喫煙所で会話したのが事の起こりだと思う。あまりに見かけるものだからもののはずみでこちらから声をかけた覚えがある。狭い空間で何度も同じ顔を見たせいで彼我の境が曖昧になっていたのだろう。そうでもなければ知らない人に話しかけない。

 最初の言葉が何であったか定かではないし、もう誰にもわからない。きっと月並みな社交をした。月日とともに会話が堆積して、社交らしくないことが始まったのはツクツクボウシが聞こえ始めて風が薄くなってきてからだった。

 「ここには煙草が吸いたくなったから来ているの?」と脈絡の見当たらないことを聞かれたので「うん」と前後も考えもない答えを出した。彼は私の答えに反応を示さないで、こちらを見ずにこんなことを言った。

「煙草が吸いたいと思うときは煙草が吸いたいわけでなく、お酒が飲みたいと思うときは別にお酒が飲みたいわけではないのだけど、芋けんぴを食べたいときは芋けんぴを食べたくて、アイスクリームを舐めたいときはアイスクリームを舐めたいんだ」

私は彼が煙を入れて、出すのを待った。細く出てきた煙が膨らんで消えてしまっても何も言わないのでこちらから聞いた。

「じゃあなんで煙草を吸うの?」

「タールで以て空気を肺に固着せしめ、肺に地図を描くために。これは殊に外国でやると胸がすくような気分になるんだよ」

こっちを見て、すこし笑いながら言ったので冗談だと思った。冗談でなければ嘘だったかもしれない。

「外国へ行ったことがあるのか」

「あるけど、別に感想はないな」

「私はいつもメキシコとスペインのちがいがわからなくなる。中原中也と北原白秋、乙女の祈りとユーモレスクも常にどっちがどっちなのかわからない」

「こわいのとあぶないのとのちがいは?」

「それもよくわからない。わからないけど、蛇はこわい」

「蛇を見たの?」

「しばらく見てない。見なくても、いると思うだけでこわい。見たらどうなるかわからないな」

「じゃあ見に行こう。ちょうど蛇釣りをするつもりだったんだよ」

 それで蛇釣りについて行くことになった。


 蛇釣りの日はとても良い天気だった。太陽にまだ夏を終わらせない気概が感じられて、頼もしくて疎ましくてたまらなかった。

「まったくの蛇釣り日和だ」と気にならない程度の遅刻をしてきた彼は言った。「どのあたりが?」と尋ねても「全体的に」としか答えなかった。

「蛇釣りというのをやったことがないのだけど、それで釣るの?」

彼は2メートルほどの木の棒に金属の鉤がついただけの道具を担いでいた。

「うん。この先のところに引っかけて、釣る。蛇釣り、蛇釣りって言うけど実際は蛇かけに近い。わかった?」

棒をくるくる回したりなんかして揚揚とした調子だったので私もその気になってさらに聞いた。

「釣り方はわかった。釣った蛇を捕まえておく箱とか籠とかは?」

「蛇釣りというのはつまり蛇を釣り上げる活動のことだから、その目的は釣り人次第で千変万化する。釣り上げた蛇に用事のある人も、釣ること自体に重きを置く人もいる。あるいは蛇が釣れてもそうでなくてもどうでもよくて、単に外に出るための動機に使われることもある。今日は蛇を見に行くだけ。……どういう蛇を釣るのかという観点からは話が枝分かれしすぎる。昔のひとは藪蛇という言葉をつくってくださった」

 こわくなってそれ以上質問するのをやめた。


 垂れた頭の色がそろそろ変わりつつある稲であふれた田んぼのまわりをふたりで蛇を探しながら歩いた。歩きながら急に話し出したり黙ったりした。

「これだけ田んぼばかりあるともう海だな。田んぼの海だ」と彼が言った。

「ああ、わかるわかる。もっと途方もなく広がったらいよいよ海になるね」

田んぼの海の端に見えるのが水平線なのか地平線なのかは彼にも私にもわからなかった。


 「こんな時間に誰かと一緒に行動するのは久しぶりだな。普段は太陽にも月にもまつろわない生活をしているから。そういう生活を好んでしているわけだけど、望んでしているわけじゃないんだよ」

ほとんど彼の独り言に近くて、気に掛ける必要のない発言だったけれども聞き捨てならない内容だった。

「わかる。私も似たようなことをしていて、今日は久しぶりに時計を見た」

「時計を見慣れていないから遅刻してしまった」


 ひと通り田んぼを巡っても蛇はいなかったので近くの山に向かった。中学校に隣接した、山というよりはちょっとした森のようなものだったが、それでもはっきりと嵐気としか言いようのないものがあって緊張した。草の陰に、木の根元に、そこかしこの薄暗がりすべてに蛇がいるような気がして、人の気配を感じたくなってむやみに喋った。

「ここには絶対に蛇がいると思う。いないはずがない。自分で来ると決めたから今ここにいるのに、やっぱりこういうぼんやりした不安は身体に悪い」

「自分で決めたことだからっていうのは理由になるのかな。少なくとも自分で決めたことが原因で我々はここにいるわけだけど。……ぼんやりした不安には正体のない安心をぶつけるしかないだろう。この棒持っとく?」

わかるようなわからないようなことを言われて困ってしまって、とりあえず棒は受け取らなかった。


 結局蛇は見つからなかった。思いつくままにお城の石垣や病院の近くの河原などにも探しに行ったけれど、棒の出番はなく、石垣の隙間でとぐろを巻く蛇、河原の草むらを滑るように進む蛇は想像のままで、うっすらと秋を思わせる夕陽が沈む前に彼と別れた。彼がその後どこに行ったのか知らない。せいぜいどこかに寄り道して家に帰ったことだろう。

 蛇なんかどこにもいやしない。

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蛇釣り きのみ @kinomimi23

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