さよならアバンチュール (8万字)

 清乃は灰色の青春を送ってきた。

 黒髪ロングに色白の肌。白いワンピースが似合うと誰かに言われたことはあるけれど、スカートは制服以外は身につけたことがない。

 清楚だけが取り柄で、純潔も保ったまま。逆に言うと処女を失うほどの魅力がないだけである。

 彼氏いない歴=年齢。高校では馴染みの友達すらおらず、常に一人。周りでカップルができる光景を、羨ましげに見つつ、私は関係ないと目をそらす。学校の授業で活躍することもなく、成績は平凡。常に目立つことなく日々を過ごしてきた。

 そして大学生になった今日も、同じように一人。知り合いはできたけど、特にこれといった出来事は起きない。高校と同じように勉強に専念するだけだ。空き時間は広々としていて自由ではあるけれど、やることがなければ暇なだけだ。

 夏休みもまたなにもすることがなくなるのだろう。暇をつぶすために本でも買いに行こうか。あくび混じりの考えていると、テーブルのあたりに影が伸びる。


「ねえ」

 声がかかる。

 顔を上げると見慣れた女生徒の姿があった。明るい髪をポニーテールにした者で、鮮やかな色のカジュアルファッションで身を包んでいる。誰がどう見ても陽の者。今日も大学生活を満喫しているのではないかと思わせるオーラをまとっていた。

「日和、なんの用? あんたはあたしなんかに構ってる暇はないんじゃない?」

 本を閉じて、視線を向ける。

 すると相手は苦笑して、近寄ってきた。長年の友達のような馴れ馴れしさ。実際に、彼女とはそういった関係である。中学では一緒で当時は大した関係ではなかったが、彼女は誰とでも仲良くできるため、清乃のような存在にもちょくちょく構ってくれた。高校では別だったが、大学で再会。こうして今日もちょくちょく関わりを持たれているわけだ。

「海に行かない?」

 いきなり相手が切り出す。

「海?」

 清乃は片眉をひそめる。

「三泊四日の旅行に行くんだよ。美穂も連れて」

 美穂。華やかな女性だ。清乃がまだ高校のムードを引きずっている中、彼女はすでに大人の仲間入りをしている。酒も嗜むし、男と男女の関係を持ったことがあると噂されるほどだ。実際にモテているのだろう。とにかく宝石とドレスが似合う女性なのだ。

「私、海なんて行ったことないんだけど」

「行ったでしょ? 宿泊研修で」

「それはレジャーよ」

 まさか彼女は本気で自分を連れて行くつもりなのだろうか。清乃は訝しむ。

「待ってよ。いきなりせがまれたって、どうしようもないわ」

「えー、清乃は海も似合うと思うんだけどなー」

「似合うとか、似合わないの問題じゃないわ」

 そっけなく返す。

 また本を手に取り、読み始める。

「私は行かない。そう言っておいて」

 特になにも考えずに口に出す。

 友達と一緒に過ごすよりも、一人のほうが自由だし、居心地がいい。彼女は孤独のままでよかったし、友達を必要としていない。流行に迎合する気もなければ、多数派につくことに固執しない。

「そっか。清乃が嫌なら仕方ないね」

 あっさりと言い、背を向ける。

 彼女が足を動かし、部屋から出ていく。

 廊下へと消えていった日和の姿を本の隙間から見て、また目をそらす。


 断ってしまって本当によかったのだろうか。少なくとも日和は善意でこちらを誘ってくれた。ただ、自分が行っても誰かの役に立つわけではない。日和も美穂と一緒に水入らずの時間を過ごしたほうが楽しいではないか。なんて、二人は別にパートナー同士でもなんでもないのだが。

 ただ、二人なら付き合いが取れると思う。そこに自分が入り込んでしまったら、なにかが崩れる。グチャグチャになるのではないかという懸念がある。

 なんて、結局は言い訳だ。自分が行かなくても済むような理由を探している。一人で過ごしてもいいと思い込もうとしている。寂しくないと、今の生活が正しいと信じたいだけだ。

 心がくさくさとする。なにかが気にかかり、刺さっていた。


 気にはしながらも、以降は日和も関わって来ることはなく、周りには平穏な時が流れていた。このまま夏休みに突入しようというとき、急にある人物が姿を現した。

「ちょっといいかしら」

 美穂だった。

 豊満なボディをぱりっとしたシャツで覆い、スタックスを着こなす、脚の長い女性。少女という段階はあっという間に飛び越しており、学生と言われなければ信じないほどの貫禄を放っている。

「彼女と一緒に海に行ってあげて」

 いきなり接触を求めに来たと思えば、それ。今さらなになのだろう。やや顔をしかめつつ、彼女を見上げる。

「強いるわけではないのよ。ただ、彼女の思いを知ってほしいと思ってね」

「彼女の、日和の思い?」

 見当もつかない。

 日和は困っていることなんてないだろうし、友達を誘うにしてもほかにいる。わざわざ自分ごときを選択肢に入れる必要はないはずだ。

 清乃がいつまでも首をかしげていると、相手はため息をつく。彼女は彼方を見つつ、口を開いた。

「こんな言い方をすると失礼かもしれないけれど、あなたは常に一人でじょう。充実した日々を送っているようには見えないわ」

「単刀直入な言い方でむしろありがたいです」

 間接的な嫌味ほど苛立つものはない。清乃はフォローなんて必要としていないし、事実を事実として受け入れるつもりだった。

「そのままではいけないと思うのよ。せっかくの夏。いい思い出を作るべきでしょう。それに恋も」

「恋……」

 声を落とす。

 恋なんてしたことがない。リア充とは違うのだ。

 清乃は眉を曇らせる。

「余計なお世話だと思ったかしら? 放って置いて欲しいもの感じたかしら。なら好きにすればいいわ」

「まだなにも言ってませんよ」

「ええ。あなたがどのようなあり方をするのも自由よ。あなたの選択も自由。ただ、これだけは知っておいて。彼女はあなたを思っているの。友達としてね」

 言いたいことを言いたいだけ言うと、美穂は踵を返し、離れていった。

 スタイルのよい彼女の後ろ姿を見送って、視線を戻して、息をつく。


 日和は確かに誰に対してもよく接してくれた。どんなに小さな、ミジンコのような存在にも目をかけてくれる。そんな彼女の厚意を無下にしたとなっては、良心も痛むというもの。

 思えば彼女は自分を誘ってくれたのは、善意によるものなのだ。確かに自分は存在価値がないものとはいえ、気にかけてくれなければ、声をかける意味もない。わざわざ声をかけに来た時点で、そういったことを考えなければならなかった。

 うつむき、本を伏せて、考え込む。自分はいったいなにをするべきなのかと。


 じっくりと思考を重ねた。寝ている時も湯槽に浸かっている時も、授業の最中も、常に夏のことで頭をいっぱいにしていた。おかげでなにをしていても集中できない。これでは成績も落ちるばかりで身に入らない。

 解答をするまでの間にテストも挟まったが、おそらく点数は前回よりも落ちていることだろう。

 早急に片付けてすっきりせねばならないと感じた。

 意を決してから数日。自分から声をかけることは稀で緊張する。何度も予行練習を重ねた。頭の中でセリフを作って、口の中でつぶやく。声をかけて、自分の意思を伝えて、また次のセリフを用意する。大丈夫、大丈夫。日和のことだ。なにをしても許してくれる。そんな甘い期待をしつつ、清乃は動く。

 彼女はやってきた、日和のいる教室に。

「あの、海に行く件なんだけど」

 声を張り上げる。気合を入れすぎて、上ずった。

 ん? と日和は視線を上げ、こちらを見た。周りには友達が大勢いる。しまった。二人切りの時に来ればよかったと思いながらも、後には引けない。顔が熱くなり、発汗し、鼓動が速まる。

 舞台に上がったような緊張の中、必死で心を落ち着かせ、深く息を吸い込む。

「行くよ、海に。私も連れて行って」

 ハッキリと、ゆっくりと、意識して話した。

 周りの友達がきょとんとこちらを見ている。ほか数名にいたっては、無視して自分たちの作業を続けようとしている。その中で空気を読まず、日和は言う。

「本当? よかった。あたし、あんたのために人数を空けておいたんだ」

 そう声を明るくして、嬉しそうに言うのだ。

 途端に肩から力が抜ける。

 日和が喜んでくれた。それだけで救われるものがあった。

「じゃあ、さっそく準備しなきゃ。日時は八月一八日。集合場所は朝六時のバス停前ね。なにかあったらLINEで教えて」

 喜々として話し出す。

 清乃はついていくので精一杯。

 汗をかきながら、うんうんとうなずきながら、相槌を打つ。

「準備は早めにね」

 友達を連れて席を立つ。自分の教室へ戻ろうとする彼女。慌てて清乃は呼び止める。

「あの、旅費は?」

「そんなもの美穂が全額払うわよ」

 当たり前のように解答する。

 そんな……。

 美穂なら確かにやってくれそうではあるが、本当に丸投げしていいのだろうか。いいや、旅費なんて大きすぎて払えないのだから、潔く余裕のある者に頼ったほうがいいのだ。

 首を横に振り、またうんと頷く。

 清乃はテーブルに背を向け、歩き出す。彼女もまた廊下へ出て、別の教室へと戻るのだった。


 夏休みに入る。

 行くと決めたのだから楽しまねければ損だ。夏を名一杯、満喫する。そのための準備に労力は惜しまなかった。

 そして前日、カバンに物を詰め込み、足りないものがないかを順番にチェックしていく。

 着ていくための服を四着。白いワンピースに、キャミソール・ハーフパンツなど。どれも薄着で夏にふさわしい出で立ち。コーディネートの雑誌を読んで研究し、自分に合うものを選びぬいた。ほかにはお泊り会セット。髪や体を洗うために小型の洗浄剤やトリートメントセット。菓子や化粧品も大きなカバンに詰め込んだ。

 後は財布。中には千円札が二〇以上は入っている。クレジットカードを使うのは怖いため、小遣い程度に留めておく。買いすぎも防ぐのだ。


 よし。

 十分だろう。

 ファスナーを閉じ、カバンをしまう。

 ちょうどあたりは暗く、窓には夜空が見えていた。就寝時刻だ。清乃は潔くベッドに寝転がり、部屋の電気を消すのだった。




 朝早くからバス停にやってくる。ベンチに座ると荷物をおろして、カバンのファスナーを開ける。中から文庫本を一冊取り出して、ペラペラとめくり始めた。何度も読んだ内容の話だけど、一字一字噛みしめるように読み耽る。

 周りには日和や美穂もいる。彼女たちは鮮やかな格好をしている。日和はデニムのハーフパンツに、オレンジのTシャツ。美穂は黒のトップスに赤のミニスカート。とても似合っていて羨ましいと感じた。私なんて、ただの白いワンピース一枚。清楚なだけで、なんの魅力もない。色気もなければ華もない。それが清乃だから仕方がないのだけど。

 モヤモヤと考えながらまた、本をめくる。読書をしながら時間を潰していると、バスがやってきた。目の前で停車し、乗り込む。グレーの足場を通って、窓際の席に着いた。客が乗ったことを確認すると、バスはエンジンの音を鳴らし、動き出した。行き先は碧陽。碧陽と呼ばれる地の、碧陽海岸である。

 バスは高速道路を経由して、県外へ出た。高速を下りてからは普通の道路を通り、バス停で停まった。

 バスから下りて、徒歩で海に向かう。ビーチに近づくにつれてさざなみの音がよく聞こえるようになってきた。カンカンと照りつける日差しを麦わら帽子で抑えながら、サンダルで石でできた道を歩く。日焼け止めはばっちりとしてきた。普段よりも白くなった肌は紫外線などたやすく弾く。

 ほどなくして見えてきたのは一面の碧い海だった。水平線より上に広がる空よりも鮮やかく、太陽のギラギラとした光を反射して、鏡のように輝いている。手前の砂浜はさらさらとしていて、時折風に持ち上げられ、舞っていた。

 これが海。久しぶりに着たけれど、やっぱり違う。周りに集まる水着姿の人たちの姿も相まって、観光地に着たという実感が湧く。本当に自分は海に着たのだ。そう思うとドキドキとして、胸が熱くなってきた。

「さ、行こう」

「ええ」

 いつの間にかビキニ姿の日和と美穂が隣にいた。日和が黄色、美穂が黒。健康的な体と豊かなボディを見せつけ、胸を張って立っている。

 いったいいつ着替えたのだろうか。もしくは服の中にビキニを仕込んでいたのだろうか。戸惑う清乃に対して、二人はノリノリだ。さっそく砂浜を駆け出し、海へと迫る。裸足で水の近くまで行くと、波が足首をさらっていった。

 涼しげだ。近くで水しぶきが立っている。

 清乃は一人、立ち尽くす。とてもではないけれど、ビキニ姿になる勇気が出ない。演劇の舞台に立つよりも緊張する。なによりも、この熱気。自分一人だけが場違いで、陰気な雰囲気を醸し出しているようで、いたたまれなくなる。

 胸に手を当てて、縮こまる。

 日陰で一人、様子を伺う。

 このままではせっかく連れてきてくれた日和や美穂に申し訳がない。彼女たちは自分を思って声をかけてくれたというのに。二人の厚意を無下にはできない。だけど、どうしても、一歩を踏み出せない。白い衣を脱ぐ決心がつかなかった。

 やはり、自分には無理なのだろうか。他の人たちのように明るく振る舞うことはできない。皆のように夏を謳歌することはできない。いままでも一人、クーラーを効かせた涼しい部屋の中で引きこもっていた。勉学に励み、遊びや娯楽の時間を切り捨ててきただけの日々。暗い場所にしか縁のない女が今更、普通の女のように振る舞うことはできない。

 本当はその気になればできると思っていた。キャピキャピとした若者のように、活動することが。その気になれば。だけど、現実はこの始末。より、陰キャらしい部分を自覚するだけになる。

 こなければよかったのだろうか。ポツリとそんなことを考える。家で自由な時間を過ごせてさえいれば、今頃もっと充実した日々を送れていただろうに。うっかり、海に来てしまったことで、またロスを重ねてしまった。ああ、嫌だ。無駄でしかない。首を激しく横に振って、ため息をついた。

 もういいや。諦めよう。

 肩から力を抜こうとしたときだった。

「なにやってるの? さあ、行くよ」

 気がつくと手前に日和が立っていた。彼女は水に濡れた手でこちらの腕を掴むと、引っ張った。

「え? ちょっと待って」

 いきなりのことで戸惑う。

 目をパチクリとして、相手の目を見る。

 日和はニカッと笑った。

「せっかく準備をしてきたんでしょ? もったいないよ。さあ、脱いで」

「脱ぐ!?」

 瞠目し、絶叫にも似た声を出す。

「なんてハレンチ。いくら女同士だからって」

「別にいやらしいことじゃないよ。まさか、着てきてないなんてこと、ないよね」

 日和はからかうように笑う。

 分かっている。

 分かっているのだ。

 彼女がこちらを気遣っていることくらい。ろくな思い出も作れなかった女にチャンスを与えてやろうとしていることくらい。だけど、鼓動が張り詰めて、たまらない。まだ、心の準備ができていないのだ。ピリピリとした嫌な緊張を感じる。

 ああ、嫌だ。早く終わってほしい。解放されたい。

 不満の言葉が心の奥底から湧いてきた。

 けれども、日和はぐいぐいと清乃の腕を引っ張る。彼女が動くと、釣られて動く。抵抗できない。そのまま相手に引っ張られるような形で、海の元まで着てしまった。


 ワンピースのボタンを開けて、中を開くと、白い素肌が表に出た。

「うー、恥ずかしい」

 潮風に怯えたように、体を縮こませる。

「いいよ、似合ってる」

 日和は軽やかに笑う。

 実際に彼女の清楚さに白い水着はよく似合っていた。水着といっても競泳水着のようなものではない。スカートタイプのビキニだ。

 パレオも用意していたのだが、それはなし。それは男子には受けが悪いとかなんとか。そんなことを今更気にしても仕方がない。どうせモテるわけがないのだから……。清乃はそう思ったものの、日和がいうのならと受け入れてしまった。

 それにしても自分に自信がないのにビキニだなんて、どうかしている。自分では内気だと思っているだけで、本当は"見られたい"のではないか。いいや、そんなはずはない。そんな気取った成分は自分にはないと信じている。

「大丈夫だよ。なにも変なところはないよ。下手にダイビングスーツみたいのを着てきたほうが、浮くでしょ」

「それはそうだけど」

 歩きながら口を動かす。

「せっかくかわいいのを選んだんだし、もっと胸を張りなよ」

 明るく呼びかける。

「うん。分かってる」

 今はただ頷き、答えるしかなかった。

 そうこうしている内に足首が水に浸かる。波が寄せては返し、涼しさが身に伝わってきた。対照的に天には太陽が激しく輝き、熱い日差しが注ぐ。ああ、夏だ。腕を目の上にかざしながら、天を睨む。日焼け止めをしてきてよかった。ほっと息を吐く。

「よそ見してる!」

 不意に声がした。

 瞬間、水をバシャっとかぶる。

 振り向くと腰に両手を当てて立っている日和の姿があった。彼女はいたずらっ子のような顔をして、歯を見せる。得意げな態度だった。

 清乃は負けじと水面を叩いた。波が立って、飛沫が舞う。

 簡単な水遊び。猫の喧嘩のような感覚で行われるそれは、なぜか懐かしく、楽しいような、複雑な気分になる。まるで子どものころに戻ったような。なんて、今でも大人とは言い難いけれど、とにかく自分という存在が水の中に溶け込むような感覚がした。

 そう、溶け込んでいる。最初は浮いていると思っていた。海という熱気に満ちた空間に、自分はふさわしくはない。陰キャならそれらしく部屋に閉じこもっていればよかったのにと。だが、こうして遊んでいると、きちんと観光客になり切れているような気がした。夏を満喫、充実している。きちんと遊べている。久しく、このような感覚を抱いたことはなかった。

 遊ぶのは疲れる。体を動かすのも。だけど、充実感が体を包む。自分は生きている。この場所でイキイキと活動をしている。そんな感覚が全身を満たしていた。

 海で遊ぶのも悪くはないかもしれない。おもむろに感慨に似た感情を抱いたとき、いくつかの影が迫りつつあった。

「君たちも観光客?」

 軽い声。

 男のものか。まだ若い。年齢は大学生くらいと見た。高校生よりは大人びているものの、社会人のような堅い雰囲気がない。

 振り返ると予想通りの顔があった。髪を茶色に染め、片耳にピアスを揺らす彼は、夏にふさわしい出で立ちをしていた。

「君、かわいいね。黒髪ロングに色白の肌。おとなしそうな顔。今どきこういう娘は珍しいな。どうだい? 一緒に?」

 唐突な誘い。

 自己紹介もなしにいきなり声をかけられては、戸惑うばかり。

「あの、あなたは……?」

 眉をひそめて尋ねる。

「ああ、そうだった」

 思い出したように彼は口に出す。

 照れ隠しをするように、男は笑った。

 その顔はやけに爽やかで、軽い態度も雰囲気にあっているように感じた。職場や学校ならともかく浮ついた場には彼のような者のほうが、ふさわしい。少なくともこの海には合っている。

 ぱっちりと開いた澄んだ瞳に、整った眉。薄い唇。

 よく見れば見るほど、本当に端正で、ドラマに出演する役者のようだと感じた。

 ああ、なんて。気がついてしまった。

「俺の名前は誠司。青葉ってところの大学に通ってる。よろしくな」

 遠慮なく手を差し出す。

 となりに立つ黒髪の青年はいかにも硬い顔立ちをしていた。つまらなさそうな顔でそっぽを向いた。シャープな顔立ちをしていて、怖そうな印象を受ける。反対に誠司のほうは柔らかく、気安い。正反対な彼らだが、どのような因果で一緒にいるのだろうか。訝しむように両者を見比べる。

「こっちはりょう。同じグループの奴でさ。連れてきたんだよ」

「ああ、よろしく」

 快い態度を見せる彼に対して、涼は冷たい態度。

 仲は悪くはなさそうだが、なんともいえない。

 それにしても涼。文字通り涼しげで、かっこいい。読みも凛とした雰囲気があって、羨ましかった。

「きゃー、どっちもイケメンだよぉ! ねえねえ、このあたりでお近づきにならない?」

「落ち着きなさい。上辺に騙されては駄目。肝心なのは中身なのだから」

 勝手に盛り上がって高い声を上げる日和を、美穂は諌める。

「へー、分かってるじゃないか」

 対して誠司は気を良くしたように、軽やかに口にして、寄ってきた。

「でも、そう人を悪いやつみたいに言わないでくれよ。確かに俺ぁ、品行方正じゃない。でも、逃がすのは惜しいと思わないか? ちょうど今は彼女もいないし、遊ぶにはうってつけだと思うがね」

 ペラペラと口を動かす彼。

 隣で涼が眉間にシワを寄せた。友達の軽い態度に思うところがあるのだろうか。険しい顔つきになったが、口は頑なに閉じたまま。詳細は語らなかった。

 清乃は一人、誠司を見澄ます。確かに、美穂の言う通りだ。外見に騙されてはいけない。真実は自分の目で確かめなければならない。だけど、彼のよい雰囲気、軽くも温かさのある空気感が、心を惑わす。

 彼に近づきたい。

 ドキドキと、心臓が音を奏でる。ときめきに似た響き。恋のバラード。

 照りつける日差しの下、両手を胸の前でクロスした。

 なにかが変わる。この夏で。激しい焦燥にも似た予感が、体を駆け抜けていった。


 それから五人は揃って海辺を歩いた。

「そっちの大学はどう?」

「暇だよ。学びたいものは自分で学べって主義でさ。スケジュールは自分で埋めなきゃいけないわけ。じゃないといろいろと崩れちゃう」

 誠司の問いかけに、日和が明るく答える。

「清乃は計画的にやってるよ。よく図書館にこもってるのを見た」

「でも、勉強ばかりというのはもったいないわ。大学生活では遊びも肝心なのに」

 つくづくもったいない。

 ため息まじりに美穂は語る。

 対して誠司は感心したようにつぶやいた。

「真面目でいいじゃん」

 それは褒められているといっていいのか。なんだかよく分からなくて、清乃は身をすくめた。

 以降も涼を交えて会話は続いた。

 清乃は静かに皆の話を聞いていた。会話に混ざりたい。そんな欲はあるものの、口を開けない。なんと話せばよいのか。話のタネは。色々と頭をめぐらせてはみたものの、彼女には話せるものはなかった。

 勉強勉強。常に一人。ろくな思い出もない彼女では、打ち明けられる秘密もなにも、ないのだ。

 周りのみんなは盛り上がっているのに、一人だけ縮こまっている。まるで見えない壁に阻まれ、隔離されているようで。自分という存在が果てしなく空気に思えてならない。どこか存在感を見せなければ。

 努力をしようと試みても、断念。唇を開いたところで、飛び出す言葉は一つもなく。

「ああ、そうだ」

 悶々としていると、急に誠司は言い出す。

「俺たち三泊四日でここに着たんだ。君らもそうだろ?」

「うん。実はそうなんだ」

 次に飛び出す誘いを予感したのか、日和の顔がきらめく。

「どうせなら一緒に動かないか。宿も同じだろ?」

「そうね。そうしたほうがいいよ」

 拳を握り彼に迫る。

「ちょっと。一人で盛り上がってるんじゃないわよ」

「えー? いいじゃん。美穂は嫌なの?」

「あたしは別に構わないけど」

 渋々といった雰囲気で答えてから、視線を清乃に向ける。

「私も、構わない」

 素直に口に出す。

 別段、誠司に興味があるわけではない。これは友達に従っているだけなのだ。そう自分に言い聞かせて、周りに合わせる。

「じゃあ、決まりだな!」

 元気よく口にし、ニカッと笑う。

 本当に嬉しそう。

 彼の機嫌がよくなったのが分かって、こちらもほっとする。

 よかった。彼の思い通りになって。

 なんて、本当は全て自分のためなのに。自分が彼と一緒に過ごしてみたいからなのに。結局は言い訳。日和の積極性に頼っただけ。依存している。そんな自分に嫌気が差す。

 知らず知らずに心が曇る。

 けれども、本番はここからなのだ。せっかく掴んだチャンスは逃してはならない。選んだ獲物は必ず捕まえる。今度こそだ。いままでろくな思い出も得られなかったのだから、今こそ掴み取る。宝石を輝かせるように、キラキラと。

 そんな輝かしい思い出をいつかフィルムに収めるのだ。

 熱い決意を胸に秘め、顔を上げる。

 力強く砂浜を歩く。

 まだ、日は落ちない。一日目はこれからだった。



「そら、行くよ!」

「ええ」

 ビキニ姿の日和と美穂がコートの内側に入って、試合をしている。

 日和はビーチボールを持っていて、彼女がトスを上げると、美穂も合わせて、スパイクを打つ。けれどもそれは男子二人にたやすく打ち返され、ボールが返ってくる。日和は目で追い、美穂も素早く動こうとするも、間に合わない。ボールはあっけなく砂に沈んだ。

 まずは一点。試合の様子を日陰で眺め、心の中でつぶやく。

 この試合は十分前から始まった。本当は私も混ざりたかったけれど、人数が三対二ではこちらが有利になる。だから私が外れて、今は見物している。特になにも言われてはいないのだけど、審判のような役割を担っているのだと思う。

 のけものにされているとは思っていない。ここに集まっているメンバーはからりとした性格だし、彼女たちが自分を思ってくれていることも、理解している。それに、スポーツは得意ではない。日陰で涼めるのもいい気持ちだ。おかげで汗をかかずに済む。だけど、私は本当にこれでいいのだろうか。楽をできるのはいいのだけど、この祭りのような状況に関われずにいる。いつまでもこうして眺めて蚊帳の外なんで、悔しい。なんとなく、モヤモヤとした気持ちが胸の底に溜まり、自然と口がへの字に曲がった。

「このままじゃ負けちゃうよ。美穂、いい策はない?」

「そうねぇ、人数を増やすのはどう?」

 焦って言い出す日和に、涼しい顔で提案する美穂。彼女は指を一本立てて、こちらを見た。私をメンバーに加える気だ。

 でも、今更なんだろう。公平を期して人数を分けたのではなかったのか。それを撤回するのはいかがなものだろう。複雑な心境になる私に対して、向こうはノリノリだった。

「いいねぇ。そうしよう」

 テンション高く日和は言う。

「へー、プライドがないんだな」

 涼やかな声が鼓膜を揺らす。

 彼の声に反応して日和と美穂は揃って、前を向いた。

「そうだぞ。お前たちにプライドはないのかな?」

 ヘラヘラと笑いながら、誠司がからかう。

「そうよ。勝つためならなんでもするわ」

 堂々と美穂が主張する。

 ここまですると潔くと、好感が持てる。

 そう、他人の振りをして傍観していると、日和が近寄ってきた。彼女はこちらの腕を掴むなり、力強く引っ張る。気がつくと勝手に足が動いていた。「ああ」とか「わぁ」とか言っている暇はなく、清乃はコートの内側に立つ。

「これで人数は揃ったね」

 前方で誠司が明るい顔をする。よいハンデだと思っているのだろう。実際にはこちらはハンデにもならないだろう。清乃は身体能力が優れているわけではないので、戦力にはならない。つまるところいてもいなくても同じ存在である。本当にそんなもので大丈夫だろうか。訝しむような目で二人を見るも、彼女たちは自信満々な顔で、正面を向いている。

 どちらにせよこちらに拒否権はない。やると決まったからには全力を尽くすまでだ。清乃も前を向く。さあ、第二ラウンドの始まりだ。


 試合が始まる。

 ビーチバレーはおろか、バレーなんて久方ぶりだ。高校の授業でやった切りだっただろうか。うまくボールを扱えるのか不安になる。だが、やるしかない。清乃は両手を重ねて、腰を低く構える。

 鼓動が速まる。大会に出場しているかのように緊張するし、ミスしたらどうしようと不安になる。だけど、やるしかない。そう自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。仮に失敗をしてもフォローしてくれる。こちらも二人のために全力を尽くせば、許してくれるはずだ。日和と美穂はそういう人たちなのだ。清乃は頷く。

 そして、そんな思考を練っている間に、試合は動こうとしている。要するに暇はないのだ。

「清乃、行くよ」

「え、私?」

 ここは美穂ではないのか。

 聞き返している暇はない。日和がトスを上げる。私はとりあえずジャンプをする。腕を上げた。その手が空振り、ボールが地に落ちた。

「あちゃー」

 自滅である。

「点数もーらい!」

 誠司がニカッと笑って、白い歯を見せる。

 弱いものいじめ、楽しそうでなによりだ。

 それはそれとして、なんだかへこむ。せっかく点数に繋げられるチャンスだったのに、無駄にしてしまったような気分だ。全てが自分が不甲斐ないから悪いのだ。こんなことならもっと体を鍛えておけばよかっただろうか。

 そんなことを考えていると、向こうが煽ってくる。

「おーい、そんなものかよ。もっとやれるはずだろー?」

 左手の人差し指の側面を口の端に当て、右手で手を振りながら、呼びかける。

「三対二じゃハンデは足りなかったか? だったら、ギリギリまで付き合ってやるよ!」

 そしてまた大きな口を開いて笑うのだ。

 本当に楽しそう。いい大人げゲームで子どもを任していびっているようでもある。対して隣の涼は不遜げな顔をしている。友達の態度が気に食わないのだろうか。もしくは大人げないと思って、遠慮しているのか。そちらのほうはありがたい。

 それにしても、なんたる言い草か。こちらはせっかく参加しているというのに。でも、まあいいか。所詮は自分なのだ。清乃はおのれのことを評価していない。勉強も運動もできない娘にはこういう扱いが妥当なのだ。だから、そう、どうでもいいことなのだ。誰になんと言われても自分なら受け入れられる。そういった人格を持つ彼女であるがために、平気な顔をしていられた。

 しかしながら友達としてはそうはいかなかったらしい。

「とんでもない奴らね。いいよ。こうなったらやってやろうじゃんか!」

 口をへの字に曲げ、拳を握りしめて、ブルブルと震わす。

「美穂! あたしたちで力を合わせて、やるの。ぎゃふんと言わせてやるんだよ」

「言われなくてもそうするつもりよ」

 熱意を燃やす日和。

 落ち着いて言葉を返す美穂。

 どちらもやる気だ。

「ねえ、あんたもそう思うよねぇ?」

 今度は清乃のほうを向く。

「え、うん」

 釣られてうなずく。

 本当はどうでもよかったのだが、別に……とは言いづらい雰囲気だった。

 清乃の態度を見て、日和はますますやる気を出したらしい。

「じゃあ、行くよっ!」

 勢いよくトスを上げる。

 美穂が素早くネットに迫り、スパイクを繰り出す。

 誠司はボールを目で追いながらも、見逃し、相手側のコートに一点が入った。

「よっしゃぁ!」

 大きな声を上げてガッツポーズを取る日和。

 美穂も満足げに微笑んている。

 清乃は一人、真顔で立ち尽くす。実際にこのターン、彼女はなにもしていなかったため、自分の手柄でもないことを素直に喜べなかった。否、ここは同じチームとして歓喜するべきだったか。

 勝手に反省している中、相手もまたニヤリと笑う。

「へー、やるじゃないか」

 ニヤニヤと立っている。彼はボールを打つ構えを解いている。完全に手を抜く体勢に入っていた。まるで挑発しているかのよう。それならばそれで乗ってやろう。心に闘志を燃やした日和がふたたびトスを繰り出す。

 相手がヘラヘラとしているのに対して、こちらは真剣だ。

 ここからが反撃。快進撃の始まりだ。

「ほらほら、どうした」

 笑いかけている間にも点数がどんどん加算されていっていることに、彼は気づかない。

 隣では涼が「そろそろまずいのでは?」と眉を曇らせているが、あえて口に出していないようだった。

 誠司はあくまで遊んでいるつもり。ならばその油断を利用するまで。少なくとも完全なる勝利を許すまでは付き合ってくれるのだろう。今の点数を塗り替えたほうが勝ちということになっているのだから、そこまで着実に点を重ね、追い越せばいいだけだ。

 さあ、やろう。

 女子チームは何度もボールを打ち込んだ。時折繰り出される向こうのスパイクにも食らいつき、ボールを打ち返す。粘り、勢いでせめて、試合の流れをものにする。

 いつの間にか点数が追いついていた。

「なあ、おい」

 ついに涼が声をかける。

 そのころになるとさすがに誠司も気づき始めたらしい。

「大丈夫大丈夫。次で決められなければいいのさ。俺は日和ちゃんに注目するから、お前は美穂さんをさ」

 完全に警戒の対称から外れている。

 それならそれで都合がよい。

 清乃は一歩、踏み込んだ。

 そこにボールが飛んでくる。

 彼女は地を蹴り、飛び上がる。腕を上げ、ボールに触れた。懇親の力を込めて、ボールを打つ。

 シュート。

 流星のごとく勢いでボールが宙を切り、コートに入った。

 一点、獲得。

 これが最後の一点となった。

 四〇対四一。女子チームの逆転勝利だ。

「おおっ!」

 真っ先に日和が歓声を上げ、目をきらめかして。

「やったね、美穂! 清乃!」

「ええ、よく頑張ったわね」

 女子三人は盛り上がり、ハイタッチを交わした。

 それをネットを挟んだ向こう側で見ている男子は、しょんぼりとした影を背負って、立ち尽くしていた。

「なあ、お前」

「俺はずっとまずいと思ってたぞ」

「そうじゃなくてさ」

 じとーっとした目で彼を見る。

「勝つ気なかったよね?」

「やる気がなかったからだ」

 平然と言ってのけた涼を横目に、誠司は壮大にため息をついた。

「そういうところ、よくないと思うんだけどな」

 本気でそう思っている、彼のことを思って口にしているというように、彼は訴えかける。

 なお、誠司にだけは言われたくないと、涼も思っているだろう。

「舐めプしていた奴の言うこと? ぷぷー、かっこ悪い」

 口に手を当てて、嘲笑う。

 すると彼は肩をすくめた。

「ああ、悪かったよ。舐めてかかったのは失礼だしな」

 思いのほか素直な言葉が返ってくる。

 舐めていたことと、それが悪かったということは認めるらしい。

 なにはともあれバレーも終わり。勝利を収められたことで気分は晴れやかになった。最後には点を決められたし、勝利の決め手になれたのなら、これまでの不遇も払拭できた気分だ。


 撤去は男子がやってくれた。女子では動かすのに苦労する器具も、彼らならあっさりと持ち運べる。鍛えられた小麦色の肉体も相まって、この瞬間だけは彼らが頼もしく思えた。

 同時にいいなという憧憬の気持ちも湧いてくる。自分も彼らのように力のある者だったらよかったのに。そうすれば皆のように活躍できただろうに。なんて、結局は暗い性格が足を引っ張るから駄目か。なにを考えても無駄なこと。

 清乃は首を横に振り、髪を乱した。

 それから片付けを終えて、五人で歩き出す。バレーをしたことによって、距離が縮まったような気がする。並んで歩いていても気にならないし、気安くなったような雰囲気がする。

 和気藹々と試合の感想を述べたり、日和の動きがよかったとか、美穂のサポートも抜群だったとか、様々な会話が繰り広げられた。その話についていけずに、黙って歩く羽目になっているのが清乃だ。だけど他のメンバーの仲良くしているという雰囲気が気持ちがよい。自分のこの輪の中にギリギリ収まっているような、そうでないような。どちらでもいい。とにかく見ているだけで楽しめる。それだけで海に着てよかったと実感した。

 でも、まだ自分は彼らに近づけていない。友達にすらなれていない。

 不意に懸念が心をよぎって足を止めた。

 自分は近くにいるだけ。そばで眺めている。心はそれで満足している。これ以上は求めても火傷をするだけだと受け入れて。だけど、本当にそれでいいのだろうか。このまま、なにも関わらないままで終わっても。本当の自分が意義を唱える。

 影は一歩も動かぬ間に前の影は進む。皆との距離が離れていく。構わず清乃は思考を続けた。

 焦燥が心を貫いていた。汗が頬をつたう。

 高まる鼓動と一緒に彼への思いが加速し、体が熱くなった。

 嫌だな、離れたくはない。彼との別れのときを想像すると、心に冷たい風が吹き抜けるように、寂しくなった。荒野に一人ぼっちに置き去りにされたような気分。実際は三人で帰るのだから一人になるわけではないと、分かっているはずなのに。

 まだ、時間はある。今は三泊四日の最初の一日に過ぎない。今日から一緒に行動することになったのだ。近づくチャンスはいくらでもある。関係を深めるタイミングならあるはずだ。

 それなのに、心が落ち着かない。

「清乃、はやくー!」

「もう、マイペースなんだから」

 前方から声が聞こえる。

 いつの間にか距離が開いていた。

「うん、すぐに行く」

 言葉を返して、砂浜を蹴る。

 走り出す清乃の背後で、日が沈む。空は暮れつつあった。



 清乃たち五人はいまだに海辺に留まっている。吹き抜ける風は涼しく、潮の匂いも運んでくる。落ちる日の光は眩しいながらも暖かみがあった。夕日に染まった空は鮮やかなオレンジ色。いや朱の色も混じっているだろうか。端のほうは藍色に染まりつつある。その幻想的な光景を前にして、感動すら覚えた。これぞ、リゾート地。

 澄んだ海は空と同じ色になり、キラキラとした輝きを放つ。

 清乃たちはすでにビキニから私服に着替えている。実際はただワンピースやTシャツを羽織っただけで、ホテルに入ったら、即入浴して着替えるつもりでいた。

 それはともかくとして、この情景を映さずしてどうする。デジタルカメラを構えて、空と海に見える。液晶モニターには絶景が映る。若干暗く、狭いが、それでもなお、情景の美しさは損なわない。

 清乃はシャッターを押した。フラッシュ音の後、情景が固定される。

 それから何枚か撮ったが、プロではないため、ベストなものが撮れているのか分からない。ただ、間違ってはいないのだろう。悪い景色ではないはずだ。清乃は満足げに頷くと、静かにデジタルカメラをカバンにしまった。

 いよいよ日が沈む。あたりが暗くなり、街には明かりがつき始めた。夕日と似た光を振りまく電灯を追うように浜辺から上がり、市街地に出る。ホテルへと歩く途中、色々な会話を耳にした。

 これからの予定だとか、海がきれいだとか、次の日も海に行けるといいね、など。会話に入ることはなかった。黙ったままでいることにもどかしさを覚える。いい加減に切り出してみないかと自分にイライラしてもいた。ただ、自分なんか、仕方がない。このまま空気になっていたほうが、場を乱さずに済むのではないか。どうせ、なにもうまいことは言えないのだから。

 なんてことを考えて、せっかく開けた唇を閉ざし、心に宿した炎も消化してしまう。駄目だと悟った。このままでは彼の元に近づけない。自分の理想とする夏を実現できない。せっかく海に着たのに。ジリジリと焦燥が重なる。自分はいったい、なんのためにここにいるのか。思い出を作るため、青春を満喫するためだ。ここで怖気づいて、奥手になっていてはいけない。せっかく、素敵だと思う人と出会えたのだからアタックなり挨拶なり、するべきなのに。

 どうしても勇気が出なかった。このまま友達になれればそれでよいのか。多くを求めるべきではないのか。葛藤が心をよぎる。ついにはもういいかとなかば、やけになる。自分は所詮、そんなものなのだから。

 だけど、本当の気持ちはどうなのだろう。清乃はいままで恋というものをしたことがない。テレビの前の芸能人に惹かれて、応援しようと思ったことがある。その好きな芸能人の出る番組だけを集中して見たり、その人の一挙一動で盛り上がったりへこんだりしたことがある。それでも、清乃は相手と恋人になろうと思ったことがなかった。第一、なれるわけがない。相手は特別な人間でこちらは一般人。そりゃあ、一般の相手と結婚したという報告を聞くことはある。だが、それとこれとは別だ。清乃は芸能人とは縁遠い。小学生に通っていたころ、テレビに出演するような人は幻だと思いこんでいた。実際にそんな人は存在しないのだと、信じていたのだ。

 それでも芸能人は実在する。スポーツ選手はきちんと現実でトレーニングを積んでいるし、不倫をするし、薬物に手を染める。理想を追い求めても仕方がない。それで何度幻滅したか、覚えられないほどだ。

 周りにいる異性に対してもそうだ。「好きな人は誰か?」と聞かれたことがある。その時は「いない」と言った。事実だった。だけど、クラスメイトは彼女の答えを信じなかった。絶対に隠していると踏んで、ネチネチと掘り下げようとする。挙句の果てには「もういい。嫌い」と捨て台詞を残して、去っていく。

 清乃は好きな相手がいなかった。一目惚れをした記憶はないし、初恋の相手など知らない。恋とは縁遠い人間だ。だから乙女脳の女主人公が登場する漫画には触れないし、恋愛小説を読んでもイマイチ共感できない。ただ、その男女の関係というものはロマンチックで羨ましいと感じる。憧れと言い換えてもいい。清乃からかけ離れたもの、自分には手に届かない領域が恋愛だ。だから今度こそ、それを手に入れなければならない。掴まなければならない。意思を強く持って前に進もうとしているのだけど、結局のところ、想うだけでは駄目なのだ。それではなんの解決にもならない。目標を達成できないではないか。

 でも、自分の抱いている感情が本物か否かなんて、誰にも分からない。彼にときめきを抱いているのは事実。だが、それは果たして恋なのか。

 悶々とする。これではまるでピエロだ。相手には分からないところで一人で悩み、モヤモヤとしているだなんて。完全に踊っている。一人で、なんて惨めで滑稽なのだろうか。

 頭をかきむしりたくなった。

 そんなとき、不意に隣に影がやってくる。チラリと視線を上げて、見た。明るい色に染めた髪をさわやかにセットし、精悍な顔立ちをした青年。鍛えられた肉体は小麦色に焼けていて、男らしい色気すら感じた。誠司だ。彼が隣にやってきた。意識すると急に体が熱くなる。慌てて目をそらす。顔には汗が受かび、全身の血が沸騰するかのような感覚に陥った。自分はいったい、どうしたいのか。彼に対して、なにを思っているのか。自分で自分が分からない。

「君、無口だね」

「おとなしいってよく言われる」

 それは褒め言葉ではない。現実世界では積極的なほうが好まれる。というより、消極的だと損をするというべきか。例えば、目の前に好きな相手がいるとする。彼を手に入れるために躍起になるか、自分には無理だと悟って退くか。幸せになれるのは前者だ。そして、清乃は後者。今まさに自分では無理だと決めつけて、勝手に諦めようとしている。それは悪いと知りながらも、それでも現実を知っているから、無謀な挑戦には踏み込めないと。そう、安全な場所に隠れ、なにも得られぬまま帰ろうとしている。それが彼女だ。

「君みたいな子、好きだよ」

 瞬間、唐突に信じられない発言が鼓膜を揺らした。驚いて彼を見上げる。誠司は柔らかく微笑んでいた。その目に嘘は見られない。本気でそう、言っているのだろうか。好きだと。

 いいや。首を横に振る。彼はおとなしい子でもいいところはあると言っただけだ。それを好意だと勘違いするだなんて、早とちりにもほどがある。なんて勘違い女か。少しでもよくしてくれたら相手は自分に恋をしていると勘違いするようなバカさ加減。否、それそのものだ。

 そう思うと急に恥ずかしくなってくる。今の自分の思考ごと、なかったことにしたかった。せめてもの救いはこの勘違いを口に出さなかったことだ。一瞬で間違いに気づいて軌道修正ができた。それだけは自分を褒めてもいいと思う。なんて、そんなことで慰められなければならないほど、バカな存在になったとは思わないのだが。

 自分も自分だが、彼も彼だ。好きだなんて、簡単に言うものではない。それも、誠司のような美男子が。これでは勘違いを誘発してしまう。そう、自分は悪くはない。

 先ほどまでさんざん自分を詰っていたのを撤回して、彼を責める。我ながらひどい性格だと自覚した。

 ああ、だけど。

 自分がここまで動揺するのは、彼が彼だからだ。ほかの男が相手ならあっさりと受け流すか、否定するだろう。彼に肯定されたことは嬉しい。それがたとえ気休めでも、お世辞のようなものだったとしても。

 そしてそれを誠司には撤回してほしくはなかった。彼には自分のよさを知っていてほしい。認めてほしい。肯定してほしい。それだけで自分は救われる。自分にもよいところがあるのだと受け入れることができる。逆にいえば彼に否定されたら最後、自分は暗闇の底に落ちるようなショックを受けるだろう。

「次の日も一緒に遊ぼうよ。涼もいいってさ」

「あれ、許可取ってなかったの?」

 きょとんと尋ねる。

「ああ。でも、『いい』って言うと思ってさ」

 彼もせっかちなことをやるものだなと、清乃は思った。

 今日は結果的に本当に『いい』と言ってくれたからよかったものの、もしも涼が断ったら友情に亀裂は入るところだっただろう。というより、涼が拒否しなかったことが意外だった。彼はどう見ても孤独を好むタイプだし、女子に付きまとわれることを嫌っていそうに見える。

「あいつ、ノリはいいんだよ」

「ふーん」

 明るく答えた彼に対して、清乃は生返事を繰り出す。

 涼に関しては特に興味を持てない。彼は明らかに態度が硬いし、心に来る感覚がないのだ。彼も顔立ちだけは整っているけれど、一緒にいて楽しいとは思えないし、自分によくしてくれるような気がしないのだ。なんとなく近づきがたい感覚もある。実際はそれほど悪い人ではないのだろうけれど、怖さすら感じる。それだけは確かなものだ。

 ああ、だけど。今ので分かった。自分は彼に恋をしている。この夏で彼に惹かれてしまった。最初からその感情だけは確かなものだった。情熱的な炎が燃えている。彼に対して、ときめきを覚えている。一緒にいて安心感がある。彼と一緒なら守ってくれるし、最高の夏が手に入る。少なくとも、当初の目的は達成できる。そう思うと、彼と出会えてよかったと思えてくる。

 だけど、それもじきに終わる。この海の旅にも終わりが訪れる。一日目が終わろうとしている今、残りの時間はどれほどか。四日目の昼には旅立つだろうし、意外と短いのかもしれない。そう、タイムリミットが設定されているのだ。彼と一緒にいられる時間は短い。それまでに思い出を作らなければならないし、やりたいことを済ませておく必要がある。できるのだろうか、そんなこと。この、内気な自分に。色々と考えて、表情が曇る。でも、やるしかない。大きくうなずき、前を向く。

 空はいよいよ藍色に染まりつつあった。


 二日目


 その日はホテルに泊って、一夜を明かした。女三人で同じ部屋に入り、鍵を閉めると、三つ並んだベッドの上で横になる。テレビを見たり恋バナをしたり、ギリギリまで盛り上がった。気がつくと日付が変わりそうになっていたため、あわてて電気を消して、眠りについた。

 清乃はじっと目を閉じて、寝よう寝ようと意識した。旅行を満喫するためにはすっきりと疲れは取っておかねばならない。だから睡眠時間はきっちりと取っておきたかったのだが、目が冴えてしまい、全く寝れない。いつの間にかほかの二人は寝息を立てている。眠れていないのは清乃のみ。

 ぐるぐると視界が回る。ついには羊を数え始めた。それでも無理だったので諦めて妄想にふける。誠司と一緒に過ごせたらどうなるだろう。二日目は三日目は。シミュレーションをするように何度も、頭に映像を流し込む。そうしている内にいつの間にやら意識は暗闇に吸い込まれるのだった。


 夜が明けた。窓の外は明るい。眠気眼をこすりながら起き上がる。それから歯磨きをして、パジャマを脱いで、私服に着替える。今日のファッションは半袖のブラウスに花柄のスカート。自分に合うように選んだものだ。それなりにかわいらしい装いになったと思う。

 ひとまずは満足しつつ、廊下に出る。すでにそこには日和や美穂がいた。彼女たちは清乃よりも早めに起きていたらしい。寝坊してしまったようだ。髪はなんとかまとまっているし、隈もない。まあ、多少は乱れていても元がよくないため、関係はない。化粧などをしてごまかしたところで悪あがきだ。ここは開き直って、素の状態のまま攻めるしかない。

 さあ、本番は今日からだ。拳をグッと握りしめて、前を向いた。

 まだ朝なのであたりは涼しい。だけど彼女の心は燃え上がっていた。なにせ、今は気になる相手と出会えた。彼とお近づきになりたくて、仕方がない。連絡先を交換しようか、そのためにはどのような言い方をして付き合えばいいか。そもそも、相手の方から近づいてくれるかもしれない。否、一方的に期待をしても、裏切られる場合がある。ただ、待つよりもこちらからアプローチを仕掛けたほうがいいだろう。

 うんと頷き、決意を固めた。



 そんな中、美穂がなにやら険しい顔つきでこちらを見ているのに気づいた。なんだろうとそちらを向く。自分の顔になにかついているのだろうかと、頬に触れる。だけど肌は相変わらずすべすべとしていて、特に問題はなかった。

「ああ、ごめんなさい。あなたが悪いんじゃないのよ」

 目を伏せ、美穂は口を開く。

「じゃあ、なんの話?」

「彼のことよ」

 美穂は顔を上げ、クールな目をして、こちらを見据える。

「あなたが彼に目をつけているのは分かるわ」

「私、そんなんじゃ……」

「嘘。分かるもの。あなたは彼に恋をしている」

 まさか気づかれていたとは。指摘されると急に恥ずかしくなって、赤くなる。慌ててごまかそうとしたけれど、さすがは歴戦の女。通用しなかったようだ。

「あなたが盛り上がる気持ちは分かるわ。でも、ひと夏の恋はまやかしなの。すぐに終わってしまうもの。夏が終わると冷めてしまうものなのよ。よく考えたほうがいいんじゃない?」

「そうだとしても、私は……」

 反論を繰り出そうとして、口ごもる。そもそも自分は彼のことをあまり理解していない。今回の旅が初対面だし、たまたま接触しただけで、深く互いのテリトリーに組み込んだわけではない。ただ見た目には魅力を感じるし、彼のオーラには惹かれるところがある。一緒に過ごしたい。そんな気持ちが心の底から湧いてきた。ただ、それだけなのだ。

「だから、駄目とは言ってない。そう言ってるでしょ?」

 柔らかな声が鼓膜を揺らす。顔を上げると美穂が表情を緩めてた顔で、こちらを見ていた。

「これはあくまで忠告。どうしたいのかはあなた次第よ」

 そう言って、彼女は歩き出す。スリッパの音も立てずに離れていく。その姿を見送って、清乃はその場に立ち尽くした。



 しばらくの間、ぼうっとしていた。ひと夏の恋は終わってしまう。そう、恋愛上級者らしい美穂に突きつけられたことが思いのほかショックで、我を失ってしまった。だからいつの間にか日和の姿がそばにいることにすら気づかず。

 清乃は一人になった。慌てて歩きだし、彼女も食堂へと走り出す。

 その途中、涼とばったり出くわした。髪はボサボサでまだ眠そう。やる気のなさそうな表情をしている。まだ、弱いのだろうか。

 その顔を凝視していると、急に彼が口を開いた。

「誠司のことならやめておいたほうがいいぞ」

 いきなりなにを言い出すか。清乃はきょとんと首をかしげた。

「どうして?」

 尋ねる。

 友達だったらむしろ紹介してくれてもいいのに。

 とはいえ、涼のことだ。彼は色恋には興味がなさそうだし、期待するだけ無駄だろう。

「別に」

 突き放すように口に出して、そっぽを向いた。

 深く追求しても特に話してくれない。モヤモヤする。いったい、なにが言いたいのだろうか。少しばかりイライラする。否定するだけでろくな情報を落とさないのはたちが悪い。

 苛立ちが表に出ていたのか、渋々彼は口を開いた。

「あれはお前の理想とする男じゃない」

 断言する。

 でも、あの人はそれほど悪い人間には見えなかった。

 ようやく断片的なものが語られてもいまだに理解ができずに、きょとんとするだけ。

 眉を寄せる彼女に対して、ダメ押しとばかりに彼が告げる。

「狡いんだよ、あいつは」

 それっきり彼はなにも語らず、黙って歩き出す。

 それに続くように清乃もまた、廊下を進んだ。



 食堂に入っても、清乃は悶々としていた。

 プレートに載った朝食――ふっくらと焼いたパンと、色鮮やかなサラダ、香ばしい焼き目のついたウインナーなどを眺めながら、考え事をしている。少なめだが、もともと少食なので、数は問題ない。

 いちおう美味しそうだから雑に詰め込んで食べてはいるんだが、妙に味がしない。集中できない。自分の恋愛について考えているせいだろうか。

 手を引いたほうがいいと美穂は暗に示している。ひと夏の恋はひと夏で終わってしまう。長続きしない。先ほどの忠告をふたたび頭の中で巡らせる。

 やはり、諦めたほうがいいのだろうか。葛藤が渦を巻く。

 よい結末が見えてこないのなら、高望みはしないほうがいい。そもそも、本当に彼と恋人になれるかどうかすら分からないのだ。ああ、どうすればいいのだろうか。

 やけになったようにパンにかじりつく。バターのよい香りが鼻をかすめた。

 そうやってちんたらと食べている間に他のメンバーは食事を終えている。外の景色も青々として、明るい。気温も上がって汗ばむような時間帯。この調子でのんびりとしていると、昼になってしまう。清乃は急いでプレートの中身を食べ、コーヒーを飲み干し、席を立った。

 自分の中で考えは固まりつつある。別にこの思いが報われると思っているわけではない。もちろん、諦めたいわけでもない。ただ、そうなった場合は潔く現実を受け止めるだけ。人生なんてうまくいかないほうが多いのだ。だから清乃は今できることをしようと思った。そう、自分にできることはトライしてみる。それが彼女の出した結論だった。



 三人は食事を終わらせて、表に出た。夕方になるとふたたびこのホテルに戻ってくる予定だ。昼間は近所をぶらぶらとする。ちょうどこのあたりは観光地。オシャレな場所は多いし、土産物店も豊富だ。期待を込めて、集団で動こうと決める。一方――

「あ、君かわいいね。よかったら俺たちと一緒に行かない?」

 横切った三人の女性に、誠司が声をかける。彼女たちはきれいめなファッションを身に着け、肩には大きめのカバンを下げていた。こちらと同じ観光客だろうか。

「間に合ってます」

 女性の一人が笑って、手を振る。他のメンバーは視線を合わせもせずに、歩き去る。三人は離れていった。

 誠司はポツンとその場に取り残され、肩を落とす。その姿を見ていると、モテない男のようだった。実際に誠司はモテないのだろうか。見た目だけはイケているが、軽い性格がわざわいしているのか。

 別に構いやしないのだが、こちらが必死に思考を巡らせているのに、彼は浮ついている。なんだかもやもやする。清乃はむっと唇を尖らせた。

 それはそれとして、誠司は誰かれ構わず声をかける。海でのナンパは自分が特別だったわけではない。ただ、たまたま彼の視界に入っただけだ。なんなら日和や美穂でもよかったし、今は彼女たちに意識が向いている可能性のほうが高い。そう思うと自分の挑んでいる勝負がどれだけ分の悪いものなのか、思い知る。競争率が高いのだ。清楚さだけが取り柄の自分は果たして、勝ち残れるだろうか。否、彼の目に留まるか否か。ドキドキしてきた。

 同時に思う。彼はやはり自分以外の誰かとでも、いいのだろう。なんだかショックだ。清乃は肩を落とした。



「ほら、頑張りなさい」

 不意に背中を叩かれる。チラリとそちらを向くと日和が笑って、こちらを見ていた。

「あと三日しかないんだよ。一度決めたのなら、諦めちゃ駄目だって」

「別に諦めたわけじゃないよ」

 難しいとは思った。厳しいとも感じる。そこまで現実が見えていないわけではない。ただ、今のままではどうしようもないのが現状だ。日和もそれは理解しているはずだった。

「でも仮に告白をしたとしても、本気になってくれるかな?」

 おもむろに口に出す。女なら誰でもいいのだろう。こんな自分が思いを伝えたところで、玉砕するだけだ。

「失敗してもいいでしょ」

 と、日和がとんでもないことを言い出した。

「な、なんで? 日和が私が恥をかくところを見たいの?」

「まさか、そんなことはないよ」

 日和は笑った。

「でも、清乃ならうまくいくと思うんだ。一生懸命な姿を見せるだけでも効くと思うよ。それに誠司くんから声をかけてきたんだよな。その時点で脈アリだとは思わない」

「確かにそうだけど……」

 だけど、誠司に関しては違う。彼は堅い男ではないし、その気になればあっさりとこちらを見放すことだってできてしまう。要は手が届かない相手。なにを考えているのかも分からないし、目を離せばどんどん置いてけぼりを食らう。時折気まぐれのように振り返ってくれるだけだ。どうしようもない。

「少しは彼のことを信じて上げてよ」

 熱意を持った口調で、彼女は言う。

「そうだね……。そうかもしれないね」

 仮にも好きになった相手だ。彼に振り回されるのは悪くない。彼の態度の一喜一憂するのも、ときめきを抱くのも、嫉妬するのも。でも、少しくらいは自分に返ってきてもよくないか。

 玉砕か。当たって砕けろ。

 口の中で日和の言った内容を含むように、言葉にする。やってみる価値はあるだろう。少なくともこの夏においては。それを意地でも完遂する。覚悟を胸に清乃は顔を上げた。


 そう、すでに覚悟を決まっている。何度も言って聞かせるものではない。もう分かっていることなのだから。

 清乃はまた歩き出す。さあ、二日目の始まりだ。





 宿から出て、商店街を歩く。あたりには日の光がまぶしく差し込み、東の方角からは潮の香りが漂う。そちら側を向けば碧い海が広がっている。波打つ音はかすかに聞こえてきた。まるで、耳元に巻き貝を当てているかのようだった。

 歩いていて心地のよい場所だ。普段は山にいるため、海は見えない。その分も新鮮味も感じる。朝にも関わらず熱気を感じる。それはエネルギッシュな太陽のせいか。だけど、その鮮やかな青い空に浮かぶ光は、清乃たちに活力を与えているのだった。


 ふと、足を止める。なにかに気づいて顔を上げて、壁のほうを向いた。それはなんの変哲もない庶民的な店だ。飲食店だろうか。和風の料理を提供しそうな雰囲気がある。その木製の壁にチラシが張っている。『花火大会開催のお知らせ』。日付は八月二〇日で、ちょうど明日だ。

 どうしよう。真っ先に考えたのは参加するか否かだ。いままで花火大会などのイベントに参加した経験はない。別に興味はなかったし、休日は家で過ごす方を好む。そちらのほうが有意義で自由な時間を過ごせると思ったからだ。だけど、今は違う。夏を満喫しようと努力をし、もっといえば誠司への想いを叶えたいと思っている。せっかく花火大会の旅行の日程が被ったのだ。このチャンスを生かさずしてどうしようか。

「あ、いいね。それ、あたし浴衣とか着ていきたい」

「レンタル料金なら貸してあげられるわよ」

 さらりと心強いことを言ってくれる美穂。日和はノリノリだ。清乃がその気になれば、本当に浴衣を着て、会場に赴きそうな勢いだ。つまり、全ては清乃次第。彼女はいまだに顎に指を添えて、立ち止まっている。

 今一度、考える。別に祭りが好きなわけではない。友達が行くというのなら付き合うし、逆らう気もない。ただし、それは自身の意思ではない。嫌々参加するだけでは駄目。誰かに流されて動くのでは意味がないのだ。ここは自分の意思で決定づけなければならない。清乃は拳を作り、ギュッと手を握りしめた。


「私は行きたい」

 大きく口を開けて、はっきりと宣言する。すると、他の二人は驚いたように目を丸くした。

「意外だわ。あなたってこういうキラキラとした場所、嫌いでしょう?」

「にぎやかなのも駄目だって言ってたわよね。静かな場所でのんびりしたいって」

「そう。図書館にこもって読書をするくらいでちょうどいいと」

「確かに、そうだけど」

 だけど、自分は変わったのだ。この夏を謳歌するためには、普段は行かない場所に足を運びたい。それに、確かに一人なのは自由でいいけど、せっかくのイベントなのに参加しないのはもったいないではないか。

 だから、この選択に迷いはないし、撤回する気もなかった。

 さて、肝心なのはここからだ。参加するとは決めた。浴衣もすぐに用意できるだろう。だけど、女三人で行くのでは、意味がない。そりゃあ、それだけでも友情が芽生えるし、楽しめる。しかし、本当の目的はそこではない。彼との仲を深めるための祭りでもある。それを忘れてはならない。

 分かっている。そうだと。でも、勇気が出ない。元より奥手なのに、どうやって誘えというのだろう。ああ、情けない自分に腹が立つ。覚悟を決めたのだからもっと積極的に動かなければならないはずなのに。ちんたらちんたら。頭の中で言い訳を重ねて、逃げようとしている。そんな自分が許せなかった。


「お、君、きれいだね」

 そんなことをしている間に、なにやら軽い声が聞こえてきた。

 声のした方角を向くと、少し離れた位置で、二人の男子が女子を呼び止めていた。女子といっても成人を越えていて、学生のような青臭さは感じない。ふっくらとした胸をした男にしてみれば魅力的なボディをした女たち。相手は彼女たちに一目で夢中になり、声をかけた。いわゆるナンパだ。

 そして男の方は間違いなく誠司その人。明るい髪色にピアスといった軽い見た目を裏切らない振る舞いに、ある意味で安心する。そういえば自分もナンパを受けたのだったと。

 仮に自分が恋人だったら苛立ちを覚えるかもしれないが、今はただ見初められた程度。しかも、相手からしてみれば、くどいただけ。リップサービスだ。だけど、なんだかな……。

 視線を下げて、ため息をつく。

 露骨にがっかりしている清乃をよそに、女たちは共に顔を見合わせし、苦笑いをこぼした。


「間に合ってます」

 女の一人はあっさりと告げて、「行こ」と他のメンバーの腕を引っ張り、歩き出す。彼女たちがまっすぐこちらに向かってきて、すれ違う。ちらりと目で追って、遠ざかっていく女性たちの姿を見送った。

「はー、なかなか引っからないな」

「当たり前だ。夏で脳が溶けた奴ばかりとは限らないからな」

 ショックを受けたように、大げさに肩を落とす誠司。

 彼を諌めるように涼は言い、腕を組んだ。

「でも、俺は本気でいいなって思ったんだぜ」

「だからいけないんだ」

 冗談のように口にした彼を、真面目な顔で咎める涼。


 そんな彼らのやり取りを離れた位置から眺めていた日和と美穂は、揃って眉をひそめた。

「ねえ、清乃。本当にあんなのがいいの?」

 訝しむような目をしていた。

「モテない男ね」

 ピシャリと切り捨てるように、美穂が言う。

 確かにそうかもしれない。誠司は外見だけは整っているけれど、モテるような要素がない。要は中身が残念なのだ。だけど、そんな彼がいいと思ってしまっている自分がいる。なぜだろう。これが恋というものなのか。自分はすっかり魔力にとりつかれてしまったようだ。

「いいの」

 ただ、はっきりと言い、一歩を動かす。

 そして三人は歩き出した。





 街を歩いている内に昼になった。観光地というだけあって、ただ歩いているだけで、楽しめる。ただの民家にもカメラを向けては、勝手に映し、世界遺産を見るように眺めた。記念撮影をする可能性も思い浮かんだが、まだ早い。それをするならもっとふさわしい場所があるはずだ。例えば、石碑の前だとか。それはさすがに地味かもしれない。また海に行ったときに五人で並ぶべきか。否、撮影は誰が行うのかという問題がある。カメラを向けるのは間違いなく自分になるだろう。自分がフィルムに映ったところで仕方がない。清乃は勝手に納得し、結論づけた。

 空を見上げると鮮やかな青が視界に飛び込む。なんて清らかな青さ。自分のように透明なだけではなく、力強さすら感じる。そうした中、急にぐうっと重たい音が鳴る。空腹音だ。鳴らないように力を入れていたのに、恥ずかしい。一方、そんな音に気がついているのか否か、美穂はニコッと笑って、近くにある建物を指す。

「そろそろお昼にしましょう」

 指の指し示す先には木製の建物が建っている。普通の民家よりは広めだがレストランに比べると、こじんまりしている。入口のあたりには色とりどりの花が植えられた花壇と、看板があり、客を歓迎するムードが漂っていた。そばを通るだけで香ばしいよい香りが食欲を誘う。

 五人は吸い込まれるように入口をくぐった。中に入ると暖色の照明が彼らを出迎える。制服を着たウェイトレスが水をトレーに乗せて、通路を歩く。席はほとんど埋まっており、かろうじて手前の客が去って、空いた。五人はそちら側に入って、テーブルの前にやってきた。

 と、なにやら騒がしい声が鼓膜を揺らす。

 レジの前の少し空いた空間にテレビゲームがある。その前に二人の子どもがいて、彼らはゲーム機を握りって、プレイ画面を見つめていた。液晶に映っているのは二体のキャラクター。赤と青。くわしくはないため、よく分からないのだが、格闘ゲームだろうか。

 赤いほうが青いほうのキャラクターをボコボコにしている。何度目かの勝負。片方はめげずにトライを繰り返すも、相手にはまるで相手にされない。

「情けねぇな。ほら、もう一回かかってこいよ。勝てるわけねぇだろ。お前みたいな泣き虫が。そんなんだからゲームでも弱っちぃんだよ」

 赤いキャラクターを操作している少年がツバを飛ばしながら、煽る。

 ついには青いキャラクターを操作していた側が泣き出してしまう。場にはなんともいえない、空気の悪さが広がっていた。

 さて、どうしたものか。今のところ、相手側との関係は薄い。今回はたまたまこちらに寄っただけで、助ける義理はない。だけど、弱い者いじめは見過ごせないのではないか。かといって、清乃はゲームが苦手で、難易度の低いRPGすらまともにクリアができない。ましてや格闘ゲームなんてやった経験もない。なにより二人のピリピリとした仲に割り込むのは、子どもとはいえど、恐ろしい。勝手にビクビクとして、様子を見てしまう。

「しょうがねぇなぁ」

 そんなとき、急に誠司が席を立って、通路に飛び出していった。彼はテレビゲームの前にやってくると、困惑する少年をよそにゲーム機を取り上げた。

「おい、なんなんだよ、お前は」

 指さし文句を言ういじめっ子。誠司は彼と目を合わせて、爽やかな顔をして、次のように切り出す。

「勝負しよう」

「はぁ?」

「いいからやってみろって。強いんだろ。俺にだって勝てるはずなんだろ。それとも逃げるのか? それじゃあ臆病者の烙印を押されるだけだぜ。さあ、やってみろよ。敗北者以下の烙印を押されたくなかったらなぁ!」

 するすると煽りの言葉が飛び出してくる。

 口を動かす彼は妙にテンションが高くて、楽しげだった。

 そして彼の敗北者以下という言葉が少年の地雷を踏み抜いたらしい。彼はまたたく間に真っ赤になり、ぐぬぬと口を震わせる。

「いいぜ。やってやろうじゃないか!」

 勢いよく宣言するなり、ゲーム機を握り締める。

 両者は前を向いた。

 液晶が対戦画面を映す。いよいよ戦いが始まろうとしていた。

 なお、勝負は一瞬でついた。誠司が一方的にボコボコにした。瞬きをした瞬間に、赤いキャラクターがステージに倒れている。これには少年も呆然とし、観戦していた方の少年ともども、驚きを隠せない。

 それでも負けじと勝負を挑み直す。これはなにかの間違いだ。もう一度やれば、今度こそ勝てると。だが、結果は変わらない。戦いに挑むために少年のキャラクターに秒で倒され、ステージに沈む。対して相手はダメージを全く受けていない。攻撃を一度も食らわずに倒したのだ。

「ほら、もう一回かかってこいよ。もっとやれるだろ?」

 一方的に自分のキャラクターで相手を殴りながら、挑発を繰り出す。

 少年の方も闘志を失ってはいないのだが、なにをやっても敵いはしない。実力の差が明白なのだ。ついには彼は泣き出してしまい、声を上げて、顔を濡らした。これにはテーブル側から観戦していた女子二人も「あーあー」と呆れる。

「大人気ないわね」

 その通り。

 さすがに引く。

 これではただの弱いものいじめだ。いじめっ子とやっていることは同じ。だけど、その弱い者いじめをする誠司の姿は実に楽しそうで、イキイキとしている。変にまともぶったりするのではなく、自分のやりたいように振る舞い、その行いに迷いがない。だから、彼の行いには一種の気持ちよさがあった。とてつもなくめちゃくちゃでろくな人間ではないとは分かっている。だけど、それなりにいいところはある。別段、正しいことを遂行するために善行を働くわけではないし、人格者でもない。それなのに、彼に魅力を感じてしまう。やはり自分は普通の人間と感性が違う。ひねくれているし、天邪鬼。

 一方で、子どもが泣いて勝負にならなくなったため、誠司もゲームをやめて、機材を元の持ち主に返した。少年はゲーム機を戸惑いながら受け取り、顔を上げて、青年を見上げた。

「あの、ありがとう」

 彼はすでに泣き止んでいた。その口元は緩んでおり、満足そうに見えた。

 とにかく自分の代わりにリベンジをしてくれたようで、気が晴れたらしい。それは本当によいことだ。清乃も安心して、運ばれてきた喫茶店のメニューに手を出せるのだった。





 喫茶店で食事を終わらせてから、席を立ち、会計を済ませて、外に出る。五人は地図を見つつ道を進み、観光のルートを歩む。炎天下ゆえに汗が流れる。日焼け止めを塗ってきてよかったと、つくづく思う。その上、直射日光は刺すように熱く、日よけが差が欲しくなる。熱中症で倒れないように、スポーツドリンクを飲み、水分補給をする。流れた汗はきちんと拭き取り、清潔にしておく。何度も休憩を挟んだため体力に問題はないが、そろそろ甘いものが食べたくなってきた。清乃は甘いものが好きだ。資金に余裕さえあれば、毎日のように菓子パンを食べたいくらいには。

 とはいえ、さすがに暑い。涼を得に水族館の中に吸い込まれていく。館内は空調が効いていている上に、青と基調とした背景のため、より気温を低く感じる。透明な水槽の澄んだ水には、色鮮やかで小さな魚が泳いでいる。細長い形をした銀色の魚も群れをなしていた。彼らの洗練された動きに思わず見入る。奥の方に進むと哺乳類も多く見られた。大きな体を白い毛で覆われたシロクマ、可愛らしい姿をしたペンギン、そのモノクロは対照的で、隣立つのに合っていると感じた。もっとも、実際の生息域は被っていないのだが。

 水族館を満喫して、また外へ出る。ちょうど近くには神社があるらしいため、そちらへ向かう。長く積み重なった石段を昇り、朱色の鳥居をくぐった。凛と群生した竹やぶを突っ切れば、本堂が見えてくる。苔むした岩と鯉の泳ぐ池も相まって、和風の雰囲気が漂う。賽銭の前で願うは恋愛運。この夏で確かな思い出を築くべく、神仏の力も借りる。目を閉じ、両手を重ねて、ひたすらに念じた。とはいえ、なにをやるにしても、一歩を踏み出すのは自分の力。神頼みだけではなにも果たせない。そんな努力もなにもしない者では神も微笑んではくれないだろう。だからこそ頑張らなければならない。熱く思い、決意をして、清乃は両のまぶたを開けた。

 石段を下りて、町に下りる。民家の並ぶ通りを抜けると、商店街にやってきた。中年の男女が店の前に現れて、客に向かって呼びかけている。キーホルダーが吊るしてある店も見えた。ここが土産物店だ。さっそく手前の店に入って、それぞれで別れて、品を選ぶ。どれも美味しそうで目にも鮮やか。資金の余裕がないため、一つの店で買えるものは限られる。悩んだすえに清乃はまんじゅうとクッキーを選んだ。例によって食べ物だ。少しは形に残るものを買おうかと思ったが、冷静に考えるとほしいものは特にない。交友関係が狭いため、土産ものを分け与えなければならないという相手もおらず、選ぶのは楽だった。

 会計を済ませてから皆と合流する。他の四人は紙袋を山程下げていた。まるで、ファンに差し入れをもらったスターのようだった。それに引き換え清乃は紙袋一つで足りてしまう。なんともしょっぱい気分を味わう。

「ねえ、アイス」

 日和が箱を取り出して、開く。中にはパッケージ詰めをされたアイスキャンディーが六本入っていた。

「やっべ、すぐに溶けるぜ」

「大丈夫だよ。これは溶けないアイスだから」

 焦る誠司に明るく言い放つ日和。

 彼女は順番にアイスを配った。無言でアイスの棒を持って立ち尽くしている他のメンバーをよそに、日和は最初に袋を開けて、口をつける。それを見て、清乃もアイスを食べる。オレンジの色を裏切らず、味は爽やか。もっちり、しゃりっと不思議な食感。市販のものよりもオシャレで和風な雰囲気がする。できるだけじっくりと味わおうとしたのだが、気がつくとなくなっている。空っぽになった棒を持ち、もう一本ほしいなと口の中でつぶやいた。

 ちらっと日和のほうを見れば、彼女はまだ箱を持っていた。中には一本だけ、アイスが残っている。薄紅のもので味はおそらく苺味だ。

「ねえ、最後の一本はどうするの?」

 こちらが口に出すよりも早く、日和が呼びかける。彼女の声に反応して、三人の視線がこちらに集まる。

「じゃんけんでもしよっか」

「公平をきすにはそういうことでいいわよね」

「俺はいらんぞ。勝手にやってろ」

 各々で意見を出し合い、涼は一人退く。

 アイスを食べたいのはこちらも同じだ。じゃんけんには自信がないが、やるしかない。確率は四分の一だ。それに賭けようと思ったとき、急に横から腕が伸びる。

「なにやってんだ? 早いもの勝ちだぜ」

 なんのためらいもなくいちご味のキャンディーを掴み、袋を開けると、噛み付いた。

「あ」

 誰かの声が上がる。

 皆、目と口を丸く開けて、唖然とした。

 あっけに取られている間に誠司はいちご色のアイスを食べ干してしまい、彼は満足げに棒を持って見せつけた。

「あなた、本当に遠慮がないのね」

「最後の一本、食べたかったのに」

 女子二人ががっくりと肩を落とす。

 涼はやると思っていたようで、特に衝撃は受けていない。ただ、呆れたようにため息をついた。

 それからブーブーと女子は文句を垂れる。こちらにとっても最後の一本はぜひとも食べたかった。譲ってほしい気持ちもあったが、先に手を出されてしまったのなら、仕方がない。潔く、現実を受け入れることにした。

 気を取り直して、道を歩く。日和は不満げに箱をしまって、フリーになった両手をブンブンと振っている。

「もう、本当にひどいのね。あんたって」

「いいだろ、別に。じゃんけんしても勝つのは俺だったぜ」

「そんなのやらなきゃ分からないでしょうが」

「結果はまだ見ていなかったわよね」

 せめてじゃんけんをして結果が出た上で実行に移せば、まだよかったのだが。まあ、奪われてしまったことは仕方がない。清乃がまともにじゃんけんをしても勝てなかっただろうし、横取りをされたことに関しては、どうでもよかった。

 それに、彼が横取りをするのは"らしい"と感じてしまったのだ。彼なら、やりかねない。それが自分のやりたいことをやって、遠慮をせずに生きてきた者のやり方だ。それはきっと正しくはない。人格者ではない。普通の人間が彼を見れば眉をひそめるに違いない。それでも清乃だけは彼を肯定できる。恋は盲目とでもいうのだろうか。今は彼の全てが愛おしてくてたまらない。

 もっと彼の素の部分を見てみたい。そんな欲が湧いてきた。




 清乃の熱い思いを置き去りにして、スケジュールは予定通りに進む。五人は洞窟に赴き、涼しさと探検気分を味わった後、もう一度町に出る。そのころになると、すっかり気温は下がって、空には夕焼けの影がにじみかけていた。日が完全に落ちるまで時間はかかるだろうが、一時間もかからないだろう。その前に海岸に寄る。皆には黙っているのだが、今回は彼を誘うつもりだ。そこで夕焼けと海のコントラストおよび絶景を満喫してから、宿に戻る予定だ。

 また、海に来れる。彼と初対面を果たした瞬間が胸に蘇る。あのときの彼は今よりもずっとかっこよく見えた。容姿は同じなのに不思議だ。キラキラと太陽のように輝く青年だったのに。彼のことを知って距離が近くなったせいだろうか。よくも悪くもというべきか。まだなにも知らないころの彼のまぶしさには憧憬のようなものを感じる。あの瞬間のことが懐かしくさえ思えてくる。もっとも、今の気安い誠司のほうが真実に近いと考えると、幻想を見続けるのもよくはないだろう。そう、彼女は結論づけた。

 五人でくだらない話をしながら、潮の匂いのする道を歩く。清乃も時折会話に加わりながら、様子を伺う。今のところは楽しんではいる。ずっとこの心地よい時間が続いてくれればよいとも思っている。だけど、同時に、懸念もある。自分は本当に彼を好いているのだろうか。恋愛なんてしたことがない。好きな相手がいた記憶もない。自分の抱いた感情は確かにときめきに近いものがある。友達で終わりたくはないという、焦燥に似た感覚が駆け抜けていった。

 なによりも、誠司は本当に自分を相手にしてくれているのか、という問題もある。明らかに浮気性な彼だ。それをオープンに出しているだけ、下手に繕っている者よりは信用できる。とはいえ、目に見えた罠にわざわざ引っかかりにいって、よいものなのだろうか。自分だけによくしてくれる・自分だけを愛してくれる。そんなことを期待するのは虫が良すぎる。頭の中が花畑というものだ。

 やはり自分は恋愛に幻想を抱いている。首を上へ曲げ、煤けた空を見上げた。

 ちょうどそのとき、誠司が下がって、隣にやってくる。彼はこちらの顔色を伺うように、見てきた。ちょうどいい。質問をするチャンスだ。ゆっくりと口を開き、彼の目を見て、尋ねてみた。

「あなた、好きな人っている?」

 単刀直入。そんなこと、本人は答えたくはないだろう。仮にその相手が清乃だったとしても、普通なら隠す。だけど、誠司はあっけらかんとして、当たり前のように口にした。

「たくさんいるよ。ときどきテレビに映るアイドルの子とか、あのホテルのフロントの子もよかった。喫茶店のウェイトレスはかわいかったな」

「ああ、もういいです」

 思ったよりもつらつらと別の女の名前が出たため、慌てて静止する。

 結局のところ、彼は本当に気が多いのだと感じた。それは本命がいないことも指す。彼の心を掴んで離さない相手には、彼は出会えていない。裏を返せば、清乃もその他大勢の気に入った娘の一人に過ぎない。彼女自身には大きな価値はないのだ。

「仮に本当に好きな人がいるとする。結婚までするような相手。その人のことは、どうなの? ずっと一途に愛し続けられるの?」

 言葉をつむぐために目が泳ぐ。

 視線を無意味にちらつかせながらも、最後まで言い切った。

 なぜだか心が波立っている。鼓動が加速し、不安になる。こんな質問を繰り出して、なにになるのか。これは果たして聞く意味のあるものなのか。愚痴を吐くような心境。

 対して誠司は無言だった。長らく沈黙を守る中、頭上では雲が泳いで、空を曇らせる。いよいよ日が陰りつつある。太陽の光は曇ってなおまぶしくて、視界を赤の色がちらついていた。

 そしていよいよ彼は唇を動かす。すっと息を吸って、涼やかな声で。

「俺はきっと浮気をするよ。我慢ができない人間だから」

 隠しもせずにはっきりと。

 それを聞いて、かえって安心した。心は凪いでいる。

 清乃は淡く息を吐く。

 ああ、本当に素直な人だ。彼の言葉には裏がない。だからこそ信じられる。ここで彼が口だけの誠実な言葉を吐いたとしたら、最低な男だと認定しただろう。心の内を、後ろ暗いであろうところを含めてさらけ出してくれているおかげで、好感度がぐいぐいと上がっていく。

 だけど、心には寂しい風が吹き抜ける。欲を言えば、自分だけを見てほしかった。愛されているだけ、気に入られているだけ十分なのに。本命でなくても構わない。彼の視界に自分が入っているだけでいい。この夏を一緒に過ごし、特別な思い出を築ければ、それ以上を望むことはない。たとえおのれの思いが成就しなかったとしても……。

 その時点でなにかを諦めているのだろうと清乃は感じた。本当は彼に告白をして、両思いになるところをゴールにしていた。そこから付き合いを始めていけばいいとも。けれども、そうなったところで、彼の目は他の女にも向けられる。彼は自分だけを見てはくれないと。痛いほどに分かってしまう。

 もどかしさが胸を渦巻く中、彼は口を開いた。

「でも、今好きなのは、君だけだよ」

 首を動かし、顔を向ける。彼は明るい顔で笑いかける。瞬間、大きく胸が高鳴るのを感じた。目の前がぱあっと明るくなって、また熱い風が吹いて、髪がなびく。さらさらと泳ぐように。

「この気持ちだけは本物なんだ」

 念押しするように、言葉を重ねる。今だけは彼女だけを見つめている。

 その言葉も本物だと分かるから、心には暖かな感情がこみ上げてくる。

 少女はすっと口元に笑みを引いた。

「ありがとう」

 淡い声音が唇から漏れた。

 ああ、だけど。

 すれ違っている。

 彼の言う好きと彼女の言う好きは、微妙に違う。意味自体は同じなのだろうが、重みが違うのだ。なんて、恋に重いも軽いもあるものか。ふてくされたように顔をそむける。

 風が髪をさらう。さらさらとなびく髪の房。

 また、ため息が出る。

 どうせ本気ではないのだろう。好いていたとしてもただ、気に入っているだけだ。口では好きと言いながら他の女には釣られて、ナンパを繰り返す彼だから。

 色々と考えて、ああ仕方がないなと、思いを飲み込む。

 悪いところを当たり前のように許容はできない。理想と現実の乖離が心を苛む。それでも思いは剥がれない。彼を嫌いになりたくない。この想いを捨てたくない。抱えたままでいたい。熱い衝動が心の底で気持ちをはやらせる。

 今一度考える。それでも彼が好きなのか。

 女心を弄び、誠実さの欠片もない、最低な男なのに。

 そんな彼がいいのかと、本当に。

 ああ、それでも、彼が好きなのだから仕方がない。たとえ相手の正体が殺人鬼でも、稀代の大悪党でも、嫌いになりたくはない。せっかく手に入れた愛なのだから、見事に抱え込んだまま、昇華したい。

 熱い想いが膨れ上がっていくのを感じた。




 歩いていると宿が見えてきた。入ってもいいが、空はまだ明るい。じきに日が落ちるとはいえ、空が藍色に染まってからも、しばらくは視界が利くだろう。体力も少しは余っている。

「少し、散歩にでも行かない?」

 思い切って、誘って見る。

「ああ、いいよ」

 彼はあっさりとオーケーを出す。

 勇気を持って言い出したのだが、無駄に覚悟を決めて損をした気分。これほどまでにすぐに答えが返ってくるとも思っていなかったため、拍子抜けだ。とはいえ、声をかけなければ一生、このチャンスを得られなかったかもしれない。そう思うと勇気を振り絞ったことには価値がある。

「じゃあ、あたりさは先に行ってるね」

「頑張ってね」

 日和や美穂は手を振って、ホテル側へ行く。涼は勝手に宿に入って、姿が見えない。彼は相変わらずだ。干渉をしてくれないのはありがたいのだが、少しは応援をしてくれてもいいのに。もっとも、彼に優しくされても嬉しくはないのだが。これはツンデレではなく、本音である。

 とにもかくにも、彼の手を引いて、歩き出す。民家の並ぶ通りを抜けて、海岸へ進む。石の転がる道を抜けて、砂浜へ出た。波のさざめきが鼓膜を揺らす。波が浜辺へ寄せては返す度に、心もさわさわとして、落ち着かない。

 潮を含んだ風で髪がなびく。さらさらとした黒髪。彼にももっと見てほしい。この白いワンピースも、腕につけたガラスの装飾品も。そんな祈るような気持ちに応えるように、誠司が口を開く。

「それ、似合ってるよ」

 まるで自分の心を読んだような発言に、目を丸くする。きょとんと彼を見つめた。誠司はニコッと明るい笑顔で、続きを語る。

「やっぱ夏には白のワンピースだよな。まるで二次元から降って湧いたみたいにきれいだ」

「なにその言い方。あなたって意外とオタクじみたところがあるのね」

 くすっと笑みがこぼれた。

「本当だよ。本当に褒めてるんだ。きれいだよ。最初に見たときから思ってた。やっぱり君は海が似合う」

 誠実な言葉。彼らしい発言。

 そこに嘘がないことくらい、分かっていた。他の男の言葉は嘘で偽りで、まやかしばかり。女の機嫌を伺うように世辞をし、心にもないことを言う。だけど、彼は違うのだ。

「知ってる」

 誠司は常で本音で話している。

 自分の求めていた声を届けてくれる。

 それが嬉しくてたまらない。だからもっと求めてしまう。彼に自分を褒めてほしい。彼に、彼だけの自分を目の前で見せつけたかった。

 また後ろからさざなみの音が迫る。沈む夕日が鮮やかな光を撒き散らす。空は朱色とオレンジが混じったような色に染まっている。まぶしい情景と逆光に染まったシルエット。本当によいムード。まるでドラマの登場人物になったように、特別な雰囲気がする。

 ドキドキと胸が高鳴る。高揚している。

「あら、こんなところでなにやってんのかしら」

 よい気分に水を差すように、聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。

 瞬間、背筋を冷たいものが走った。いたずらが親に気づかれたような感覚。否、それよりもたちが悪い。空気が凍りつき、不穏な雰囲気がする。振り返りたくはない。だけど足音はドスのきいた声のように、容赦なくこちらに迫る。

「いいご身分じゃない。あんたみたいな女が男と二人」

「しかも、こんな美形を連れてさ」

「なんなの、あんたは。物語のヒロインにでもなったつもりなの?」

 ぐるりと三人の女が回ってきて、顔を見せる。そこに立っていたのは確かに見覚えがある。つり上がった目をしたリーダー格の女に、やや背の低い薄い顔立ちをした女、その傍に構えるのは派手な宝石で肌で彩った女。忌々しいほどにこの顔を知っている。しばらく顔を見合わせていなかったし、縁を切ってから最低でも数年は経っている。それなのに彼女たちと接した日々が、セーラー服を着た三人に蹴られ殴られ、物を奪われた場面が、写真の一枚を手に取ったように脳裏に蘇る。本当に苦々しい。ひそかに唇を噛み締めた。

 対して、誠司は手を出さない。口を固く閉じたまま、傍観するつもりだ。別に、助けてくれなくても構わなかった。今はそれよりも、彼に自分の過去を知られたくはない。それで頭がいっぱいだった。もういいから離れてほしい。どこかに消えてほしい。忌々しさが心の底からこみ上げてくる。嫌だ。目の前から排除したい。もう顔も見たくないのに、ニヤニヤと笑いながら女たちはこちらに迫る。そしてあろうことか、隣の男に目をつけた。

「ね、選ぶならあたしたちよね。こんな芋女ほっといてさ」

 ぐいぐいと迫る。腕を一方的に組んで、引っ張ろうとする。

 けれども彼は一歩も動かなかった。

 相手がなんの言葉も返さない。その違和感に彼女たちは気づかない。三人は誠司がなにを考えているのかは読めないし、自分たちならたやすく男を落とせると、過信している。

 一方で清乃自身、彼を疑っていた。発言ならともかくとして、彼は女には目がない。美女なら節操なく声をかけるし、好き勝手に愛の言葉を吐く。ハニートラップにも引っかかりそうな印象がある。とにかく気が気でなかった。このまま彼が三人の元へ行ってしまうような予感がして。怖くてたまらない。行ってほしいくはなかった。独占欲はなかったはずなのだが、思いの外、彼に依存していたらしい。それを嫌なほどに実感してしまうから、さらに焦りが募る。

 三人の女たちは口角をつり上げて、こちらを見てくる。小柄な女は上目遣いで彼を見つめた。思わずぞっとした。冷たい汗が頬を流れた。

 急に自信がなくなってきた。自分では彼を引き止められない。必死になってつなぎとめようとしても、絶対的な言葉を吐けるわけではない。なにより、自分では釣り合わない。清乃は清楚さだけが取り柄の女。学力は微妙、運動を辞めてからしばらく経つ。男を惹き込めるような美貌を持っているわけでも、恋愛で通じるテクニックを持っているだけではない。きれいさしか持っていない。もしも恋敵が現れたとしたら、清乃はあっさりと勝負を投げていただろう。このひと夏の恋が成立しているのは、周りのメンバーが応援するモードだからだ。日和や美穂が誠司を気に入ったら、絶対に勝てない。

 考えれば考えるほど焦ってしまう。視界がぐるぐると回る。清乃は今にも悲鳴を上げたい心境になっていた。

 そのとき、誠司が前に出る。震える瞳で彼を見上げる。相手は真剣な顔をしていた。

「嫌だよ。俺、君らは好みじゃないんだ」

 真顔で、さらりと言ってのけた。

 たちまち女たちの表情が固まる。まさか振られるとは思っていなかったらしい。衝撃を隠しきれず、あわあわと慌て、目を泳がした後、リーダーはキッと目をつり上げて、誠司を睨んだ。

「どうしてよぉ!」

 声を尖らせて、怒鳴りつける。

「その子がいいならあたしだっていいでしょ。しかも三人よ。選びたい放題じゃない。それをあんたは放棄するっていうの?」

 ツバを飛ばしながら言い、指さす。

 清乃は縮こまり、目をそらした。

「だから言ってるだろ。気が強いのも性格が悪いのもゴメンだって」

 誠司は平然と言い放ち、肩をすくめた。

 本当のことを言われて、女たちの顔は真っ赤になる。

「なんて悪口! あんたすっかりその女に毒されてるんだわ!」

「どうせモテないんでしょ。そうでしょ?」

「モテないのは否定しないけど」

 女たちの物言いにするっと割り込むも、彼女たちは口を動かし続ける。

「あんたみたいなやつ、少しも好きじゃない。こんなやつになんてあたしたちのよさは分からないんだから」

 ひとしきに罵倒した後、彼女たちは「行こ」と呼びかけ合い、背を向け、歩き出す。彼女たちの背中が浜辺の向こうへ消えていく。その姿が完全に見えなくなってから、ようやく息をついた。

 いじめっ子が去って、安心した。心の底から安堵している。

 落ち着きを取り戻した心に比例するように、海も穏やかに波打っている。その色は深い青に染まっていて、灼熱の色に染まった空も、いよいよ紺色に近づきつつある。いよいよ夕日が落ち切る。情緒あるムードの中、清乃はようやく口を開いた。

「ありがとう。あの人たち、いじめっ子だったんだ」

 その過去を口にするのも恥ずかしい。いじめられるということはそれくらい弱くて、惨めな存在に思える。それに陰の雰囲気がして、嫌なのだ。だけど、自分はどう見ても陰の者だ。見た目通り、イケていない。そんなものだからわざわざ隠したって仕方がない。惨めなのは元からだ。隠したがっているほうが返って、痛々しく思えてきた。

「別に大したことはないんだ。私が悪いんだ。弱いから。私はなにもできない女だから」

 容姿だって大したことはない。おとなしいから返って目立って、清楚だと言われているだけ。もしもほかの女たちが派手な格好をしていなかったら引き立たなかったし、今だってその他大勢に埋もれている。清楚と言われているのはそれ以外に褒めるところがないだけなのだ。

「なにお前が卑下してるんだ。いじめられていること自体は悪くないだろ」

「でも……」

 清乃は顔を上げる。

 ガラス玉のような瞳は不安で震えていた。

「いじめなんていじめるほうが悪いに決まってるだろ」

 そう当たり前のことを当たり前のように言う。

 言ってくれる。

 彼はそれを、はっきりと。

 それで救われたような気分になる。少なくとも彼は自分を認めてくれる。自分のせいではないと。自分でも肯定できなかったことを、ごく簡単に。思わず泣きたくなった。悲しいことでもないのに、胸が震えて仕方がない。

「なにかあったら言えよ。悪いやつは俺がまとめてぶっ飛ばしてやる」

 拳を作って、宣言する。その様子はどことなくおかしくて、笑いが出てくる。

「あなた、ヒーローみたい」

 思わずそう口走る。

 すると、彼は顔から表情を消して、不思議なものを見るような目で、彼女を見た。

「変だな。いつもは悪役みたいって言われるのに」

「私にとってはヒーローだよ」

 確かに悪役と言われればそうだ。喫茶店のときもゲームで子どもを追い詰めて、泣かせていた。今回の件も言いたい放題だったような気がする。彼はそれを楽しそうにやる。弱いものいじめをしているのは彼も同じだ。

 それでも救われたほうからすると彼は希望以外の何者ではない。だから、誰になんと言われても、自分は彼に気持ちを伝える。「ありがとう」と。今、彼に慰められた子どもの気持ちが分かった。

 ふと、背後にまぶしさを感じる。そちらへ体を向けると夕日が海に沈んでいた。日が最後の光をまきちらせ、地上におやすみを告げる。また夜が始まる。その情熱的でドラマチックな情景を見ていると、鼓動が加速する。気分が高揚して、ハイになったような、そんな感覚。

「ねえ、明日、花火大会があるんだ」

 口は無意識の内に開いていた。

 今ならば言えるかもしれない。

 勢いに任せて彼女は彼に向かって、言葉をかける。

 オーケーを言ってくれるか。

 まだ顔を合わせて二日なのに、恋人みたいに誘うのは悪かったか。こんな自分を気に入ってくれているとか、そんなこと、ありえない。おこがましい。ヒロインでもあるまいし。

 心が曇る。眉を悩ましげにひそめ、びくびくと答えを出す。

 だが彼はあっさりと笑った。

「知ってた。楽しみにしてたんだ。君とならちょうどいい。行こう」

 聞いて、肩から力が抜けた。

 やっぱり、こうだ。

 彼は自分の思い通りの解答をくれる。まるでこちらの心が分かっているかのように。

 やはり彼はずるい。喜びを抱いているのに怒りたくなってきた。だけど、よかった。

 今、思った。勇気を出せばあっさりとことを成せてしまう。これではまるで、怖気づいていた自分がバカみたいだ。消極的だったころの自分はいったいどれだけのものを取りこぼしてきたのだろう。こんなことが通用するのは彼くらいだと分かっているけれど、彼女の中で常識が変わるのを感じていた。

 奇跡のような高揚の中、ひっそりと空に幕が下りる。薄闇の中、二人はいつまでもそこに立ち尽くしていた。


 三日目


 清乃と誠司は二人でホテルに戻った。

 彼女は即、女子二人に今回の戦果を報告した。夏祭りに一緒に行けると分かって、彼女たちは盛り上がった。清乃にとっても嬉しいと感じた。思わず頬が緩み気分が明るくなった。

 それからはいつも通りに夕食を取って入浴をして、女子部屋で眠りにつく。

 二日目が終わり三日目が始まる。まだ二日残っているとはいえ、四日目は昼になる前にバスに乗らなければならない。明日が実質最終日だ。しかも夏祭りに参加するという予定も手に入れた。ワクワクしないわけがない。興奮して眠れない。

 夏祭りでなにが起きるのかは分からない。ただ二人で屋台を練り歩くだけで終わるのか。否、それで終わらせてはならない。やるべきことはきちんと済ませなければ、夏祭りに二人で着た意味もない。

 妄想が膨らみ、勝手にシミュレーションを始めた。どのように振る舞えば魅力的に映るのか、彼の心を射止められるのか、想定して自分を動かす。うまくいかないことは予想がつくが、想像の中の彼女は完璧だった。実際の自分よりもきれいに見えるし、彼も完璧な振る舞いで魅せてくる。誠司は少女漫画の男の子。清乃は乙女ゲームの主人公。自惚れがすぎると自嘲する。だけど、楽しみなのだから仕方がない。まさしく夢のような気分に、眠る前から浸っているせいで、なかなか眠れない。ドキドキが高まってやけに目が冴えてしまっていた。

 それでもいつかは眠気が押し寄せてくるもので、視界はぐるぐると周り、闇に沈むように意識も閉じていった。


 完全に眠りについてから何時間が経ったのだろう。いつの間にか窓の外には青い空が広がり、部屋の中は明るくなる。太陽の日差しは朝にも関わらず激しく、気温はすぐに上昇するだろう。

 清乃はベッドから身を起こし、簡単な身支度を済ませてから、食堂に集まった。モーニングを楽しみ、歯磨きを済ませてから、皆で外に出る。

「では、午後に会いましょう」

 美穂が告げて、手を振って別れる。

「じゃあね」

 日和も横断歩道を渡って、向こう側へ行ってしまう。

 三日目は自由行動だ。自分で考えて、好きなところへ行かなければならない。本来は午後も観光の予定だったのだが、今日は夏祭りが開かれるため、早めに帰還しなければならない。逆にいうと、夏祭りが開催しても旅行のスケジュールは予定通りに続行される。なんだかもどかしい。どうせなら、彼と一緒に歩きたかったな。彼方を見ると、彼の姿はない。早々に単独行動を始めたらしい。少し、寂しい。清乃の意識は夏祭りのほうへ向いていた。


 それはそれとして旅行はきちんと楽しむ。学生の運動部がはくような運動靴をはいてきたおかげで、アスファルトも楽に進める。ハイキングは意外と暇ではなく、涼やかな風に吹かれていると、気持ちよくもある。体を動かせば景色も切り替わる。リフレッシュ効果もバカにはならない。

 公園の近辺を通り過ぎて、展望台へと進む。高い位置から眺める景色は絶景だ。近くには観光客の影がたくさんあって、皆カメラを構えている。清乃も忘れたようにデジタルカメラを取り出して、景色を映した。きちんと充電しておいてよかった。あと何百と写真を撮れる。

 清乃は興味深いものを視界に映す度に、真っ先にカメラを向けた。なにも考えずにシャッターを押して、適当に撮っていく。プロならもっときれいな写真が撮れるだろうが、素人ならこんなもの。質よりも量だ。たくさんの思い出を物理的に作るためにも、清乃は張り切っていた。

 充実はしている。食べ歩きも満喫して、楽しんでいる。一人ではあるけれど、町では浮かない。スリに合ったりもせずに、安全に道を歩いていた。気分は上場。それなのに、妙に盛り上がり切れない自分もいた。なんせ一人だ。せっかくの三日目なのに誠司がいないなんて……。

 しょんぼりと肩を落としながら、また別の観光地を目指して、進む。


 上へ上へと上がって、植物園にたどり着いた。苑に足を踏み入れると、色とりどりの花々が出迎える。チューリップのせいか夏なのに春のように錯覚する。ロマンチックでいい雰囲気の場所だと思うのに、やはり気持ちがついていかない。吹き付ける風は夏にしてはやけに涼しく感じられた。

 そんなとき、不意に後ろから声がかかる。

「お、いいところを選ぶじゃないか」

 軽い声。少し喜色が混じっていた。

 振り返ると日に焼けた青年。明るい髪色をした彼は笑って手を振り、歩み寄ると、こちらの手前で足を止めた。

「まさか追いかけてきたの?」

「ストーカーみたいに言うなよ。探してたのは確かだけどさ」

 訝しむように問うと、平然と彼は答えた。

「そう、君に会いたくて着たんだ。君ならこういうところに来そうだと思ったから、着たんだけど、ビンゴだったな」

 誠司はこんなことを言う。

 思わせぶりだ。これで本当に好意を寄せていなかったら、ひどい男。

 キザったらしいところを感じなくもない。

「嫌か?」

 答えを分かっている癖に、わざわざ尋ねてくる。

 清乃はなにも答えなかった。

 また、風が吹く。暖かな温度を感じる。髪がさらさらとなびいた。

「別に」

 むしろ嬉しい。口元をほころばせて、彼女は言った。

 まんざらでもなかったのだ。


 それから二人で一緒の時を過ごした。元から華やかだった花園は誠司といると、よりいっそう雰囲気が明るくなったように感じる。平凡な町並みも、彼と一緒に進めば、気分が盛り上がる。

 道を下ったり、上ったり。店を覗いて、ほしいものを見つけたら、買ってもらった。二人で一緒のものを食べて、一緒の味を味わって、違う感想を述べた。これは美味しい、これは微妙。好きな味、嫌いな味。甘いものが好きな清乃と、辛い味を好み彼。好みは別々ではあったけれど、あまり気にはならなかった。人間なのだから、違って当然だ。

 この時間はとても恵まれていた。いつまでも彼と一緒にいたい。今度は恋人として、別の町を歩きたい。一緒に、同じ時を過ごしていたい。そんな欲が心の底からつき上がってくる。

 だけど、彼とはいったんここでお別れだ。

 午後三時。太陽は今なお天高く昇っている。今が一番に暑い。額の汗をタオルハンカチで拭いながら日陰に寄って、二人で向き合う。

「夏祭りの会場で会いましょう」

 少し離れるだけで心が寂しくなる。

 彼は変わらずからっとしていた。

「そうだな。おめかししてこいよ」

 明るく言い放ち、手を振って別れる。

 離れていく彼。本当に潔いほどまでに、きびきびとした動き。

 彼は自分をどう思っているのだろう。好いてくれていることは確かだけど、想いの深さまでは分からない。ただ、この瞬間、自分とまた会う瞬間を楽しみにしてくれていたらいい。

 そう思いながらも彼女は彼とは別の方を向く。また一歩を踏み出す。さあ、ホテル前に戻るのだ。


 移動は電車を使う。楽ができるとはいえこれまで散々歩いたため、くたくただ。本番は夏祭りなのでここで体力を使い切ってはいけない。電車から下りてから店に寄って、抹茶のソフトクリームを買う。コーンの部分を持ちながら歩き、クリームをアイスのようにかぶりつく。抹茶色の甘味は口の中で溶けて、芳しい香りが舌の上に広がった。

 ソフトクリームはホテル前に着く前に食べ終わった。

 三人で合流すると、即店に向かう。浴衣専門店らしく。外観は老舗旅館のように古風だが、内部は意外と新しい。白い背景に、磨かれたフローリング。首なしのマネキンが浴衣を着せられて、並んでいる。どれもきれいで色彩も鮮やか。繊細な柄が綾なす、職人の技が光る商品の数々。レベルが高いのはいいのだが、どれを選べばいいのか、困る。

「料金は私が持つわ。気に入ったものを選んで」

 和柄が刻まれた牛革の財布を片手に、美穂が太っ腹な宣言を繰り出す。

「いいの?」

 なにからなにまでフォローしてもらって、ありがたいような申し訳ないような。とはいえ、ここで引くわけにも行かない。意地でもオシャレをして出かけなければならないため、浴衣選びには妥協をしなかった。


「でも、私が浴衣を選んでもな」

「自分のセンスが信用できない?」

「だって、どれでも同じじゃないかって思うんだもん」

 確かに胸はあるけれど、それだけだ。顔は涼やかといえば聞こえはいいが、薄くて印象に残らない。いつも地味な印象を他人に与えていた。こんな自分が着飾ったところで滑稽なだけだ。考えていると余計に自信がなくなってきた。ため息をつきたくなる。

「大丈夫よ。私がお墨付きを与える」

 見ると美穂が腕を組んで、立っていた。

 彼女が言うのだから大丈夫だろう。自分のならともかくとして、彼女のセンスなら信用できる。

 清乃はいくつか浴衣を選択する。まず目に止まったのは無地の浴衣。青い浴衣だ。目立つのは嫌いだから、これくらいでもいい。だけど、かわいいと思ったのは白地に朝顔が刻まれたもの。やはり、まだ遠慮している。ほかには縞模様のものもいいかもしれない。

 否、これではオシャレというよりも、目立たないという選択になっている。自分が本当に好きな柄ではない。本音を言うとピンクのものを着たいし、花柄にも袖を通したい。だけど、あからさまに女性的な柄を着るのは気が引ける。女性的だとは言われるものの、いままでそんな素振りを見せたことはなかった。むしろ女性的にならないように気をつけている方なのに。

「好きなら着ればいいんじゃない?」

 しれっと日和がそんな言葉をかける。

「でも」

「ほら、遠慮しないで。女の子なんだよ、かわいいものを着なくてどうするの」

「そんな、普段の私が女をやめたみたいに言わないでよ」

 別に女をやめたって構わないのだ。どうせ自分は美人ではないのだから。誰の目にも留められない者が自分を魅せてなんになる。やけになったような心境の中、日和はやれやれと浴衣を手に取って、清乃の前に持ってくる。

 ちょうど場所は大きな鏡の前。浴衣の布を当てられた女の姿が、そこには映っている。

「ほら、大丈夫だって」

 日和は清乃の背中を押す。

「清乃はかわいいんだから。おめかしすればもっと素敵になるよ」

「かわいい、私が?」

 意外な言葉が降り掛かってきて、目を丸くする。

「そうだよ。勇気を出して」

 日和が自信を持って言ってくれた。

 それで少し、安心した。

「うん」

 清乃は頷く。


 ようやく着ていく浴衣が決まった。彼女が選んだのは白地に牡丹の花が散らばったものだ。帯は濃いピンク。普段は水色などの涼やかなカラーに惹かれがちだが、今回はあえて女性的な色にしてみた。ここまでピンクピンクしていると、さすがに甘い。お姫様になったような気分だ。

「今のあんたにはピッタリでしょ」

 似合っていると日和は褒める。

 美穂もうんうんとうなずいた。

 彼女たちが太鼓判を押してくれるのなら、大丈夫だ。鏡に映る自分ですら信用できないけれど、やっぱりかわいらしい。ナチュラルに決めたメイクも相まって、自分が自分でないようだった。

 髪もアップにまとめ、花のかんざしをつける。少し頭を振ってみると、キラキラと揺れて、光を散らす。

 本当に魔法にかかってみたい。これが今夜だけのものだと分かっているからだろうか。より今の姿が特別なものに思えてくる。清乃はいつまでも鏡の前に立って、離れなかった。

 とはいえ、いつまでもじっとしているわけにはいかない。浴衣選びに時間をかけ過ぎて、日が暮れかかっているのに気づかなかった。急いで店を出て、町を歩く。郊外へ出て、山奥の方面に足を踏み入れる。そこにちょうど、浴衣姿の誠司と涼がやってくる。彼らも浴衣を着てくるなんて思わなかった。海にいた時とはまた違った姿に、思わず見惚れる。まるで侍のよう。時代劇に出演してみてほしい。きっと様になるはずだから。

 いつまでも見入っていると、彼のほうから近づいてきた。

「やっぱり君は女の子の格好をしていたほうがいいよ」

「そんな、私は……」

 褒められていると思うと顔が熱くなる。真っ赤になっているような気がする。恥ずかしくて仕方がない。おかしくないか、可愛らしい格好をして、服に呑まれていないか、悩む、怖い。分からない。

 でも、彼の言葉を聞くと勇気が胸にあふれてくる。胸を張って、前に進めるかもしれない。

 だから、ありがとう。そう心の中でつぶやいた。

「さあ、行こう」

 手を差し出す。

 その手を取った。

 二人は進む。

 神社の中へ、祭りの世界へと。




 境内に入った。人通りが多くて、うわっと思わず声が出た。皆、浴衣を着ている。紺色や赤、鮮やかな色が目の前をちらつく。皆、似合っている。誰か知らない者まで有名人のように映る。誰も彼もが祭りという舞台の主役で、自ら光を放っているようにも映った。

 その瞬間に思う。ああ、自分も浴衣を着てきてよかったと。もしもワンピース姿で着てしまったら、エキストラの中にうっかり一般人が混じってしまったように、浮くだろう。もしくは幽霊のように見えてしまうのか。いずれにしても、よくはない。

 それにしても本当に祭りなのだと、今更ながら思う。周囲のざわめきが耳に落ちた。雑音すらも溶け込んで馴染んでいる。土の上を通る下駄の音すら風情があって、感動を覚えた。

 暗闇には提灯の赤が映えている。両端には屋台が並び、客も列を作る。この店を全て回ったら、いったい何円になるだろう。出費が激しそうだが満足感も高いと思うと、全てを回ってみたくなる。高まる期待に押し出されるように、清乃は前に出た。

 そう、祭りといえば屋台なのだ。普通の菓子を買ったほうが得だとは分かっている。それでも、祭りを満喫するために、屋台には手を出したかった。

 それはそれとして会場の熱気は凄まじい。昼間のように暑く汗が流れる。すっとハンドタオルで拭いた。すぐ隣に浴衣姿の誠司がいることを考えるとまた緊張して、顔に熱が上る。さりげなく扇子で仰いで、風を送る。もっとも、焼け石に水のようなもので、熱はなかなか引かなかった。

 この祭りのために準備はきちんとしてきた。左手にはきんちゃく。浴衣に合わせた淡いピンクである。くしゅっと縮めた入口の中には、便利な小物が入っている。靴擦れした時のための絆創膏、制汗シート、安全ピンなど。

 あとは下駄の音が目立たないように、ちょこちょこと歩く。下駄には慣れていないため、一歩を踏み出すだけでも一苦労だ。何度転びかけたことか。その度に彼がすっと手を差し出して、助けてくれた。こちらも手を受け取って、体勢を立て直す。こうしているとエスコートをされているようで、気分が上がる。

 気がつくと日和や美穂の姿な消えていた。彼女たちは気を使って、離れたようだ。二人切りになったのはありがたいが、余計に緊張が増す。計画では花火と共に告白をする予定だ。気取った台詞はいらない。素直な気持ちを伝えられたらそれでいい。成功したら、今日が旅行の最終日でも構わない。それくらい気合を入れて、祭りに望んだ。ここまでお膳立てをしておいて「勇気が出せませんでした」では、話にならない。絶対に成功させなければならない。拳をギュッと握りしめて、前を向く。

 瞬間、浴衣の群れが押し寄せる。誰もこちらを向かず自由に動いているだけなのに、妙な迫力を感じる。謎のプレッシャーを前にすると、萎縮する。人の波に飲み込まれそうになったところでなんとか踏ん張って、自分を保つ。

 さすがは観光地だ。口元に苦笑いがにじむ。

 田舎の祭りなんて同級生が目立つ程度で、大人の影はまばらだった。祭りなんてあの程度でちょうどいいのに、なぜこうも人が多いのか。なんとも居心地が悪い。この慣れない感覚は舞台を観劇中に、無理矢理引っ張り出されて、ステージに上がるようなものだ。自分のシミュレーションもうまくいくか分からなくて、不安になる。瞳が震え、体の動きが怖ばかる。周りの目すら気になって、身がすくんだ。

 そのとき、急に誰かが腕を掴む。誰か、ではない。冷静に考えると隣にいる者は彼意外いなかった。

 少女は弾けるように顔を上げて、隣にいる青年を見上げる。誠司は爽やかな顔で微笑んだ。こちらを安心させるように柔らかな雰囲気だった。

「大丈夫。なにがあっても必ず守るから」

 だから自分から離れるなと彼は告げる。

 それはなんて殺し文句。

 また胸がドキリと鳴って、高鳴った。

 彼は自分を惚れさせたいのか。否、すでにそのつもりなのだろう。初対面で見ず知らずの相手を口説きにきた男だ。自分をかっこよく見せたいに決まっている。だけど、そのために自分を偽ったり格好をつけたりするタイプではない。だから、今の彼は素なのだ。そう思うとまたドギマギする。

 思わせぶりなら性質たちが悪いが、誠司なら許せる。彼は本当は裏表がなく、まっすぐな人格をしていると分かっている。彼女だけは知っている。彼のことを考えるとまた心がとろけそうになっていた。呆けたように固まる少女を、青年は力強く引っ張る。

「さあ、行くぞ」

「うん」

 前に進む。

 離れないように引っ付いて、飛びつくように下駄を鳴らす。彼がぐいぐいと引っ張ってくれるから、人と人とのわずかな隙間も、すいすいと通り抜けられた。まるで相手のほうが道を譲ってくれるかのよう。もしくは海が割れるようで、気持ちがよかった。

 誠司と一緒にいると心強い。彼をそばに感じるだけで力があふれてくる。彼のためにも自分がしっかりしなければならない。清乃は今一度覚悟を決めた。


 どこまで進んでも屋台の群れ。世界の果てまで露天が並んでいるのではないかと錯覚するほどだ。そばには旗がちらちらとなびいて、客を呼び寄せている。会場には香ばしい匂いが広がって、食欲をそそる。

「俺、たこ焼き食いたい」

「私はクレープ」

 欲を出すなら甘いものならすべてを食べたい。巾着から小銭入れサイズの財布を取り出して、中身を確認する。五千円が折りたたんで入っていた。これなら十個は買えそうだ。

「ああ、かき氷もいいな。順番はなんでもいいの」

 かき氷店を指差し、言う。

 そう、順番はなんでもいい。彼がそばにいてくれたら、それ以上は望まない。

「そっか。じゃあ行こう」

 二人で進む。

 かき氷店の列に並んで、待つ。やや時間が経って、人が掃けた。店主からカップを受け取り、シロップをかけに行く。カップの中にはシャリシャリとした氷を固まって、山になっている。

 イチゴ・ブルーハワイ・レモン・グレープ・コーラ・メロン。色鮮やかな液体が四角い器の中に溜まっている。蛇口をひねれば液が出てくる。

 とりあえず女性的ないちご味を選ぶ。真っ白な氷にシロップの赤が染み込んで、少し形が崩れた。

「でもこれ、イチゴの味じゃないんだよね」

「ああ、シロップってどれかけても同じ味なんだっけ?」

「そう、香料が違うだけで」

 コーラのシロップをかければ炭酸に匂いがする。味もそれっぽいのだけど、結局はまやかしだ。そう思うとむなしくなる。

「香りだってバカにならないぞ」

「雰囲気だけでも違うってこと? 確かに赤いってだけでイチゴ味だと錯覚させられてるけど」

 いままでたくさんの菓子を食べてきた。赤い色のついたゼリーや、グミ。どれもイチゴ味と呼称されているが、本物のイチゴとは違う。純粋に甘くてしつこい味なのだ。

 細長いスプーンですくって、口に放り込むかき氷。やはり甘い。恋する感情を煮詰めたような味だった。その隣で誠司が青いシロップをかけて、氷を濡らす。ほんのりと爽やかな匂いがした。

 足を動かしながら、スプーンを動かす。のんびりと氷をすくっていると、あっという間に溶ける。しまいにはジュースのようにすすって、飲み込んだ。空になったカップはゴミ箱に捨てた。

 軽くなった両手を振りながら、また歩き出す。

 次に目に入ったのはりんご飴だった。ちょうど脇を通りがかったカップルの女子が手に持っていた。創作や映像作品でよく見かけるりんご飴。実は食べたことがないのだ。どんな味がするのか気になったが、ずっと手を出せずにいる。欲しがるようにじっと見つめ、見送っていると、彼がからかうように声をかけてきた。

「金ないのかよ。俺が出してやろうか?」

「そんなんじゃないよ」

 ごまかすように言い切る。

 りんご飴が食べたかったのは確かだが、財布の中身が少ないわけではない。今回はあえて五千円札しか持ってこないだけだし、その上まだ余裕がある。

 とにもかくにも素直に屋台へと近づく。りんご飴を購入し、手に持った。小さめのサイズ。りんごを刺した棒といったところか。本物のりんごよりも小さくて、かわいらしい。真っ赤な飴をまとった姿は宝石のようにきらめいていた。かじりつくと、思いのほか固い。ガリガリと刻むように食らいついて、ようやく飲み込める。肝心の実にはたどり着けず、ながらず飴のみを味わう羽目になった。

 しばらく飴と格闘しながらなめていると、ようやくりんごの実に歯がたどり着く。シャリっといい音が鳴る。瑞々しさが口いっぱいに広がった。飴の甘さで酸っぱく感じられる。だけど、それが互いの味を引き立てているようで、思わずおっと目を大きくする。

「いいな、今回は当たりだったんだ」

「外れもあるの?」

「パサパサなときがあるんだってさ」

 当たり外れもあるのだと初めて聞いた。あんなに可愛らしい見た目をしているのだから、味も当然のように美味しいと思っていたのに。意外に思いながらもりんご飴は完食した。

 まだまだ満腹には遠い。余裕があるから調子に乗って、クレープを買った。隣では誠司がたこ焼きを持ってきた。丸い形をした焼き物に、香ばしい匂いのするタレがかかっている。さらに上から青のりと鰹節がかかっていた。彼は爪楊枝で実を取って、ホクホクと食べる。湯気が立っていて熱そうだ。

 美味しそう。少し羨ましく思えたけれど、クレープだって贅沢な味がするものだ。フルーツやクリープがこぼれ落ちないように、慎重にクレープ生地にかぶりつく。ふんわりとしたよい甘み。こうして彼と一緒に甘いものを食べているだけで、すごく人生が充実しているように錯覚する。今自分は恵まれている。清乃はおのれの運命に感謝したくなってきた。

 また、隅のほうにはコンパクトなプールが置いてある。清らかな水の中を赤い金魚が泳いでいる。見ているだけで涼しげだ。金魚すくいをするのは久しぶりで、子どものころを思い出す。

 ブランクを含めると初心者のようなものだけど、挑戦してみるのも悪くはない。清乃は一歩、前に出る。

 料金を払って、網を受け取る。ポイと呼ばれる、シャボン玉を作る道具にも似たものだ。プールの水に突っ込むと、金魚が逃げる。追いかけてみたが、無駄だった。せっかくすくい取ってもすぐに逃げ出してしまう。

 がっかりと肩を落とす彼女の横で、彼はらくらくと金魚を捕まえていた。

 三分にボールの中に十匹もの金魚が泳いでいた。一匹も捕まえられない自分と比べて、なんて器用なのだろう。

「うわぁ、天才」

「だろ。ギネスの十分の一とかすごくね」

「あれ、しょぼく見えてきた」

 半笑いで汗をかく。

「おいひどいな。ここはフォローしてくれるところだろ? そのために言ったんだぜ」

「分かってる。比べてはいけないって」

 そんなことを言ったら清乃はゼロだ。かけてもなんの数字も出てこない。

「それで、持って帰るの?」

「返す」

 きっぱりと言う。

「もったいない」

「殺すほうがもったいないだろ」

「殺るの?」

「物騒な。放っといても死ぬからな」

 彼は目の前を横切る。店の前から離れようとしている。

 と、ここで清乃はまだポイを持っていたことに気づいたため、思い出したように返す。

 再挑戦することを考えたが、何度やっても同じだと考えると、挑戦する意味はない。潔く勝負を諦め、露店に背を向ける。誠司ともども彼女は歩き出す。二人は次の場所へと向かった。

 そうしてたどり着いたのは射的屋である。目の前にはゲーム機や置物といった景品が並んでいる。当てる自信はない。なにせ射的なんてしたことがない。銃を扱うというだけで恐ろしい気もする。だが、いままでやったことのないことをやるチャンスである。清乃は店の列に並んだ。

 自分の番がやってくるなり銃にコルク玉をついて、構える。ゆっくりと慎重に引き金を引いた。玉が発射。まっすぐに飛ぶ。なお、玉は台の側面に跳ね返って、地面に落ちた。

 清乃は銃を下ろして、がっくりと肩を落とす。

 難しいとは思っていたが、当たりもしないなんて。

「やーい、下手くそ!」

 隣で誠司が子どものように笑う。

「もう、ひどいな。じゃあ、あなたもやってみてよ」

 もしも失敗したら嗤い返してやる。

 銃を押し付けて、すっと離れる。

「いいぜ。やってやらぁ」

 彼はノリノリで料金を払うと、銃をかっさらった。

「ちょっと待って。次は私だったはず」

 後ろから女性が不満げな声を上げるが、彼は聞かない。始める気満々だ。まずはレバーを引いてからコルクを詰める。脇を締め、両肘を台に置き、銃をしっかりと固定させて持つ。そして、両目で的を見つめ、左の指で引き金を引いた。飛び出した玉は商品の入った箱に当たる。軽い音を立てて、ひっくり返った。

 洗練された動きはプロのようで、見入ってしまう。バカにするだけはあると、感心した。もっとも、実力があるのが余計にたちが悪いのだが。

「ほら、お前ももう一回やってみろよ。できるようになるまで俺が何回でも小言言ってるからさ」

「え、嫌だよ。なんかむかつくし」

 彼が射的がうまいのは認めるが、大衆の前で晒し上げられるのは嫌だ。我慢ならない。

「分かった。お前、ほしいやつ言えよ。俺が取ってやる」

「嘘。というか、いいの? 列」

「先に並んでたのは俺のほうだぞ。大丈夫だって」

 言いつつ本当は遊びたいだけではないか。清乃は訝しむ。

 とりあえず沈黙で許可を出すと、彼はさっそく銃を構えて、ニヤリと口角を上げた。

「ぬいぐるみとか……?」

「もっと高い言えよ。やりがいがないだろ」

「ぬいぐるみでもいいじゃん。高いってなによ。ほしくもないものを渡されても困るよ」

 無粋なことを言う彼を叱るように唇を尖らせる。

 腰に両手を当てていると、誠司は笑って謝った。

「分かった。ぬいぐるみだな」

 もう一度確認してから銃口の向きを変える。ぬいぐるみがあるのは棚の上段で、足を広げて座り込んでいる。その無防備な姿に誠司は弾丸を打ち込んだ。ぬいぐるみはひっくり返って、棚の裏側に落ちた。滑り込むようだった。

 その鮮やかな手並みに後ろでも歓声が上がる。

 羽織を着た店主は速やかにぬいぐるみを拾い上げて、誠司に渡す。彼を経由して景品は清乃の手にも渡った。ぬいぐるみを両手に目を丸くして立っていると、彼がどんなものだと胸を張る。

「あなたにやってもらうと、少し癪」

「なんだよ嬉しいだろ。素直に言えって。まさか負けたのが気に食わないとかか? これだから諦めの悪い奴は駄目なんだ。そんなんじゃ成長できないぞ」

 ニヤニヤとからかうように言う彼。

「あーもう! そんなの言わなきゃかっこいいのに」

「お、かっこいいって言ってくれよ。お前にしてはストレートな褒め言葉だ。いよいよ屈したか?」

「屈してないし、勝負なんてしてるつもりないってば! なに勝手に決めつけて、負けたことにしてんのよ」

 これだから彼はいけない。

 つまらない相手ではないけれど、彼がかっこいいのは気に食わない。イケているから余計に腹が立つ。

「こんな人から受け取っても、嬉しくないじゃない」

「じゃあ、本当に好きな相手からだったらいいってこと?」

 探るような目つきで彼が見てくる。

 その薄い唇はなにか本心を聞き出そうとしているように思えた。

 本当に好きな相手がなんて、どの口が言うのだろう。本当に彼はいやらしい。

 はーとため息を吐いて、彼方を向く。

 熱気を含んだ風が吹きつけて、髪がなびいた。

 頬に張り付いた横髪をかきわけながら、また前を向く。

「嘘。嬉しい。ありがとう」

 彼の目を見てまっすぐに告げた。

 すると彼はニカッと笑って、得意げな顔をする。

「やりー! さすがは俺。ようやくお前も分かってくれたか」

 また調子に乗る。

 前言撤回しようか。

 嫌な顔をしつつも内心では笑っていた。

 本当に悪い人。でも、彼ならいいか。口の中でつぶやいた。


 いつまでも射的の最前列を占領していると迷惑なので、急いで立ち去った。

 遊び歩いている内に夜は深まり、空はより暗い色に染まっていた。

 気温は下がり、涼しさが出てくる。顔ににじんだ汗は引いている。そろそろ扇子をしまってもよいだろう。

 頭をよぎるのは花火のこと。いよいよ打ち上がる時間だ。残り時間は三分もない。だからこそ、よく花火を見れる位置に陣取っているのだ。

 祭りにはすっかり馴染んでいる。始めは怖かったし、人に怯えるように道を進んでいた。生きた心地がしなかったが、誠司という存在は安心感があった。彼が守ってくれると思うと、体から力が抜けた。

 勇気を出してよかった。夏祭りに彼と一緒に来れてよかった。おかげで今では祭りという舞台に自分が馴染んでいるような気がしてきた。

 それでも幸せな時間はいつか終わりを告げるもの。少なくとも日付が変わることには、神社を去るだろう。零時までだなんて、まるでシンデレラだ。思わず自嘲の笑みがにじむ。ヒロインになれない女がなにを夢見ているのだろう。

 別れの時は想像したくない。

 脳内をこれまでの三日間が高速で巡る。最初に会ったのはビーチだった。爽やかな空の青さと清らかな海。さざなみの音が耳の奥で再生される。その灼熱の日差しの下で、二人は出会った。初対面はナンパ。からかっているかのようで噴き出してしまいそう。それでも、日に焼けた彼はたいへん魅力的に見えた。真面目そうな顔とのギャップに惹かれたのを覚えている。

 バレーボールでは彼と戦った。途中参戦ではあったし、なめられたけれど、おかげで一矢を報いることができた。思えばあのころから弱いものいじめの片鱗は見えていたのだと思うと、感慨深いものがある。

 その日、夕日の落ちるビーチを二人で歩いた。どのような会話をしたか、どんな思いが胸にこみ上げてきたのか、今でもハッキリと思い出せる。

 二日目は五人で観光地を散策した。絵になる場所を巡って、様々な店に入った。いじめっ子の子どもをゲームで負かすほどの大人気なさ、一本残ったアイスを奪い取るがめつさ、性格の悪い女子を退けた勇姿。そのすべてを覚えている。彼はずるいのだ。意地が悪いところがあるし、破天荒な面もある。だからこそかっこいいし、惹かれてしまうそれが最も悔しい。

 言いたいことはあるが、こみ上げてくる思いを言語化するのは難しい。

 でも一番は感謝をしたい。彼は自分をナンパしてくれた。褒めてくれたし、認めてくれた。

 やはり彼はヒーローだ。今ここにいるのも勇気を出せたのも、彼がいたからこそなのに、いまだに自分はそれに応えられずにいる。こんなにも彼に焦がれているのに、彼は自分の心を掴んで離してくれないのに。

 思いが膨らみ、破裂しそうだ。胸が苦しくて、切なくて、たまらない。

 まだ、ここにいたい。

 祈るように思い、目を閉じた。

「そんな泣きそうな顔をするなよ」

 横から優しげな声がかかる。

 目を開け、顔を上げ、丸く開いた目で彼を見た。

 青年は仕方がないなと笑い、穏やかに語りかける。

「この手は絶対に離さない。お前が望むならどこまでも一緒にいてやる」

 また甘くとろけるような言葉が聞こえる。

 心がざわめく。

 後ろで聞こえる木々のざわめきまで自分の中からあふれた音のように聞こえる。

 やはり、彼は自分の理想だ。さらりと口説き文句を繰り出せる彼が好きだ。だからもっと自分の心を震わせてほしい。もっと弄んでほしい。ぐだぐだになっても構わないから。

 彼が愛しくてたまらない。できるのならいつまでもそばにいたい。いっそ時を停めて。永遠にこの夏を繰り返したい。

 それはありえないと知っている。時計の針は止まらない。時間は水の流れに似ている。仮に告白が成功して彼と一緒になることができたとして、今年と同じ夏は訪れない。この夏は、この情熱的な一瞬は、今の自分だけのもの。このときめきも、加速する鼓動も、熱を帯びた頬も、二度とない。同じものは味わえない。

 そう思うと心細くなってきた。下がった気温のせいで涼しく感じる。ひんやりとした風が肌を撫で、体が冷えるのを感じた。心に宿った炎が、ろうそくにともった火のように揺れている。まだ消えないで。重ねた彼の手を強く握り締める。

 すがりつきたかった。

 こんなにも誠司への想いが強くなっていただなんて、思わなかった。彼と会ったときはただかっこいいと思っただけ。面白いと感じただけだったのに。誠司の存在が心を惑わして仕方がない。

 彼と過ごす時間は楽しかった。ただ会話をしているだけで心が盛り上がった。自分も一人ではないと実感がして、ちやほやしてもらえていると分かるだけで、女としての尊厳を守れているような気がした。

 清乃は多くを望んだわけではなかった。ただ彼といたいだけだ。そう思うだけ。これ以上を望んだら破滅してしまいそうで怖かった。

 だけど、この感情は好きだ。自分で自分に酔いそうなほどに、気持ちがいい。誰かを想っているだけで満たされた気分になる。

 胸が熱い。想いが津波のようにあふれ、こぼれ出す。揺れ動く心は彼のせい。胸を満たす愛情は彼のため。だからこそすべてを預けてしまいたい。身も心も、なにもかもを。

 それでもこの一瞬が過ぎ去ってしまうことだけが怖かった。とても満たされた感覚なのに、どうしようもなく幸福に思うのに、切なくてたまらなかった。





 もうじきに花火が上がる。動き出した時は止まらない。今この瞬間も時間は動いて、過去に押し流されていく。そして少女は置き去りになる。必死になって食らいついても、意味なんてないのだ。

 だけど、もういいのだと結論がついた。もう二度と戻らない時間だからこそ、価値があると知っている。この瞬間を大切にしたい気持ちと、いっそ早くその瞬間が訪れてほしいという気持ちとでごっちゃになる。どうせ、過ぎ去ってしまうのはすぐなのに。花火が打ち上がればその瞬間が来るのに。そして、そのチャンスを逃せば自分はきっと、チャンスを失う。彼に思いを伝えるチャンスが。

 彼からは受け取っった。今度は自分が返す番だ。自分の心に言い聞かせる。だから早く言ってしまえ。その時を待つ必要なんてないのだ。タイミングを伺って、もっともよいタイミングを狙ってばかりいると、本当に肝心な時になにも言えなくなる。ああ、嫌だ。だけど、意思は固まった。覚悟はできている。だから彼の顔をじっと見つめて、唇をかすかに浮かせる。言の葉をつむぐ準備をした。

 気分が高揚する。張り詰めた空気、情熱的な祭りの中心で、彼はふと口を動かす。

「本当はずっと言わなきゃいけないと思ってたんのさ。お前のためにも、俺のためにも」

 いつになく真剣にだけど微妙に抑えたような声。

 いつもの調子と違って戸惑いを覚える。清乃は眉をひそめた。

「俺は嘘はつかない。お前の心も傷つけたくなかった。ただの遊びだからいいとかそういうんじゃない」

 彼は、なにが言いたいのだろう。ハッキリと答えてくれないと分からない。モヤモヤが心の中で膨れ上がる。

 ツッコミを入れたかった。だけど彼はそれっきり口を閉ざしてしまう。また引き締まった顔で天を見上げている。

 いったいなんなんだろう。清乃は口を曲げて彼を見つめる。それでも文句の言葉も繰り出せず、清乃もまた、口を一文字に結んで硬直してしまった。

 仮にこれですべてが終わってしまったらどうなるのだろう。彼への思いが伝わらなくて、それで……。恋人になれず繋がらないまま別れるとして、それから先の未来はなにもない。きっとそれで本当に終わるのだろう。悔しいけど、それは確かなこと。敗北は潔く認めなければならない。だから悔いは残さないように全身全霊をかけてぶつかるしかない。文字通り、命を懸けたってよかった。

 なのだけど、今の彼の謎の発言によって、水を差された気分だ。嘘をつけない・傷つけたくなかった。だからなんだという。今頃彼はなにを考えているのか。彼はいったいなにを隠しているのだろう。

 無言で考える清乃の背後で、強烈な光が上がった。遅れて轟音が耳に届いた。顔を上げて見ると、天にぱあっと花火が上がっていた。鮮やかな光が夜の空に散って、流星のように降り注ぐ。

「知ってるよね、私がいじめられてたこと」

「ああ。お前が言ってくれた。恥じらいもなくな」

「恥じらっているよ」

 むしろ恥しかない。いじめられていたなんて、誰にも知られたくはなかった。それでも伝えてしまったのは、相手が彼だからだ。かつてのいじめっ子を見事に振って、こちら側についてくれた誠司だから、彼女もおのれのことを口にする気になれたのだ。

「私は清楚さしか取り柄がない人間だよ」

「へー、自分で清楚とか言っちゃうんだ」

「うるさいなぁ。実際に散々言われてるんだから、間違ってはないでしょ」

 いちいち話の腰をおらないで。いいから黙って聞いていてよ。

 なかば投げやりになりながら、口を動かす。

「分かった。ごめんて」

 両手を前に出し、彼は苦笑いをした。

「でも、お前は清楚さだけが魅力じゃないな。確かに容姿は重要さ。声をかけるとしたら美人がいい」

「きれいだったから声をかけたの?」

「当然さ。あの日見たお前の姿は輝いてた。普段ビーチにいるような肉食系の、目をギラつかせた女たちよりも奥手で、控えめで、それにしてはおっきいものを持ってる。そんなお前は誰よりも目立っていた。服装だけ派手なやつよりよっぽど」

 おっきいいって……。

 目をそらす。

 別に胸が大きいのは関係ない。コンプレックスなのだから触れなくてもいいのに。わざわざ口にするなんて、本当にいやらしい。スケベだ。胸を隠すように襟に触れて、縮こまる。そんな彼女の姿を見て、誠司はケラケラと笑った。

「ほんとかわいいな、お前は。そういうところ、好きだぜ。きれいなようでひねくれてて、ツンデレみたいなところがさ」

「私はそんなんじゃないよ。ただ、人よりも嫌いなものが多くて、いい人を好きにならないだけ」

 それがひねくれているというものだけど、それが自分なのだから仕方がない。偽っても内面の歪んだ部分までは隠せない。

「ねじきれてるのよ。私ってそんなやつ。あんたが思うようなきれいなやつじゃないよ」

「そうかな。俺はどこまでも純粋だと思うけど」

 また、変なことを言う。

 清乃はうへぇというように表情を歪めた。

 とはいえ、純粋と言われると否定できない。清乃は恋愛経験が皆無だ。警戒こそすれば優しい言葉をかけてくれる者には、ホイホイついていってしまう。だからこそ誠司などに簡単にほだされる。なによりもこの体は誰にも触れさせたことがなかった。

「分かってるよ。あなたがそう言ってくれたから。私にもいいところはあるって、分かってる」

 彼との出会いで変わったところだ。彼のおかげで自分に胸を張って歩けるようになった。彼が褒めてくれたから自分を肯定できるようになった。こんな、ひねくれた自分でも誠司が褒めてくれるのなら、受け入れてもいいと思えてきた。

 だからこそ感謝をしなければならない。自分の気持ちを素直に伝えなければならない。それが最も彼のためになることだ。

「ありがとう。だからこの気持ち、しっかり聞いて」

 胸に手を当てて、前のめりになる。じっと彼を見上げた。熱い眼差しに触れてなお、彼は目をそらさなかった。かすかに口元を緩めた顔で、こちらを見ている。

 後ろで花火が上がった。鮮やかな色を撒き散らしながらきらめき、そして消える。花火が音を立てる度に鼓動が跳ね上がる。終わる前に自分は伝えなければならない。熱く高鳴る胸を抑えながら、彼女は唇を開いた。

 いままで何度もシミュレーションを重ねた。台詞を用意しては消した。詩的な表現をしたところで、ガワを彩っているだけで、肝心な想いが薄れてしまう。自分は特別な演出がしたくて、告白をしたいわけではない。ただ、受け取った想いを返したいだけだ。そして、恋人として彼と一緒に過ごしたい。繋いだ手を離したくはなかった。この夏で結んだ縁は切っても切れないものであってほしい。

 もう、逃げない。気持ちを確かに言葉にする。

「好き。あなたをずっと求めている。私をあなたのものにしてもいい。だからお願い。この手を離さないで」

 じっと目を見て、訴えた。

 瞳が震える。

 心が揺れ動く。

 こみ上げてくる想いがあった。

 ついに、言ってしまった。言葉にすると、ドキドキする。顔が熱くて、心臓が破裂しそうなほどに高まっている。

「知ってたよ、ずっと」

 優しい声が鼓膜を揺らす。

 彼の声が言葉が脳に染み込み、心に伝わる。

「俺もお前が好きだ」

 改めて口にする。

 いままでさんざん聞いた告白なのに、特別なことのように思えてくる。それはなんとも新鮮な響きだった。それは遊びではなく本当――本気なのだと伝わってくる。その真剣な眼差しから、ハッキリとした口調から。

 熱い想いが胸を満たす。ここにいままでの葛藤とモヤモヤが報われた気分になった。

 張り詰めていたものが溶けて、体から力が抜ける。代わりにどっと疲れたような気分になる。もう終わったような気になっているけれど、実際はここからが始まりなのだ。ここで終わらせてはならない。

 焦るように心がはやる。突き抜ける衝動に身を任せて、清乃は少し背伸びをして、彼に近づく。目を閉じた。彼もすっと顔を近づける。

 真っ暗に閉じた世界の中、花火の音だけが聞こえる。それはどこか遠くえ上がっているような、不思議な感覚。そのまま、互いの唇は触れ合った。キスなんて初めてだけで、違和感がなかった。互いの体を寄せ合って一つになる。

 周りにも客が大勢集まっているだろうに、今だけは気にならない。世界でたった二人切りになったように錯覚する。闇の中に彼女たちだけが光をまとい、浮き上がっているようだった。

 なんて淡く、激しく、甘酸っぱい。

 とろけてしまいそう。

 ああ、いつまでもこうしていたい。とても幸せで満たされた気分の中、二人は時を忘れて抱き合っていた。

 しばらくすると花火の音が止んだ。周りの景色は闇に沈む。客の数も減って、まばらになる。皆、戻るべき場所へと帰っていったらしい。そのころになって、清乃と誠司もようやく現実に戻る。それでも二人はまだ、向き合い、目を合わせていた。

 二人だけの時間は続く。淡々とした中で確かな情熱が二人の間をつなぎ、隙間を埋めていた。

「ねえ、ずっとに一緒にいられる?」

 祈りを込めて彼を見上げた。

 すると彼はかすかに唇を開ける。なにか言いたげな目をしていた。けれどもその詳細を彼は語らない。答えてくれない。それはなになのか。分からない。モヤモヤする。眉を寄せながらも追求することはできなかった。

 なぜ彼がそれを言いたくないのか、答えられないのか。それは絶対に分からないし、答えも出ない。けれどもこの一瞬を、夢のようなひとときを彼女はずっと忘れない。花火はもうやんで、祭りも終わった。それでも熱い想いだけは胸に残り続ける。

「帰ろう」

 誠司は淡く言葉を繰り出す。

 清乃はうなずいた。

 また着たときと同じように彼に手を引かれて、歩き出す。この一瞬が、二人の関係が永遠に続くことを祈りながら。

 されども頭上の天は闇に染まり、星は瞬きを忘れ、大地は暗く閉じていた。





 ホテルの周りにはあすでに明かりが消えていた。皆、出払っているか、就眠の時刻なのだろう。思えば長らく外にいすぎた。昼間に動き回っていたことも相まって、多少は疲労がある。それでも気持ちは盛り上がっていて、まだまだ動き回れそうなほどに気力が有り余っていた。祭りの熱気が延々と続いている。もう夏は終わったというのに、そんな実感が湧かない。まだまだこれからだという感覚が体を突き抜けていた。

 暗い夜道を二人で進む。手を握りしめて離れ離れにならないように、くっついて歩く。彼とそばにいられることが幸せで満たされた気分になる。夏が来る前はこのような経験ができるとは思わなかった。いまだに夢を見ているか、魔法にかけられたようだ。夢なら覚めてほしくはない。永遠にこの夏を続けていたい。熱い思いが心の中心に生じて、槍のように全身を貫いた。

 いつの間にか、白い建物が近づいてきていた。ホテルだ。吸い込まれるように入口から中に入って、フロットを経由して、部屋へ行く。普段はここで別れてそれぞれの場所へ戻るのだが、今回は違った。

「やるんならお前から誘えよ」

「分かってる」

 誠司の腕を引っ張って、通路を進む。彼はおとなしくついてくる。そして二人は奥の部屋の前にやってくる。巾着からカードを取り出して、錠前にかざす。扉はあっさりと開いた。部屋の中は真っ暗で停電を起こしたようだった。

 清乃は一度、息を吸い込む。ここで自分がなにをするのか、彼の目的はなんなのか。きっちりと理解している。その上で清乃は頷く。誠司も彼女の覚悟を決めた様子を見て、中に入る。

 後ろで扉がバタリと閉じた。廊下の明かりが消えて、視界は本格的な暗闇に包まれる。ドキリと心臓が音を立てる。闇の中にいるという感覚に心がざわめく。肌が泡立ち、鼓動がドキドキと加速していた。

「個室だったのか?」

「うん」

 やっとのことで口を利く。ベッドは内装もこじんまりとしている。机の上にはノートパソコンが置いてある。カーテンは締め切られ、窓の外は見えない。

「みんなはもう帰ってきてるのかな」

「どうだろう。むしろ俺たちが早かったくらいじゃないか」

 花火が終わったらすぐに撤収したようなものだ。まだ会場には客の影が残っていたし、いまだに留まっている可能性もなくはない。今頃彼らは仲良く談笑でも続けているのだろう。そして夜通し盛り上がる。できればそうしてほしかった。今回の夜は二人だけのものにしたい。このベッドで行う事柄に関して、誰にも知られたくはなかった。ずっと胸の奥に秘め隠しておきたい出来事だ。

 二人はようやく手を離す。手のひらが空に触れた。まだ温かい。彼の体温が残っている。少し安心すると同時にまだ繋いでいたかったという気持ちも湧いてくる。

 それから清乃と誠司は互いの顔を見つめた。清乃は見上げ、誠司は見下ろす。彼の見下ろし方は愛がこもっているように見えて、嫌いではない。身長差から目線が下がるのは仕方のないことだ。気にする必要すらなかった。

 本当に二人切り。二人だけの時間だ。この隙間に誰も割り込めないことが、ドキドキ感を加速する。ここではなにをやってもいい。どうせ気づかれることはない。気分が高揚している。やるだけのことはやっておきたい。せっかく思いを伝えたのだから、勢いに任せて間違いを犯してしまおう。欲求が赴くままに彼を見つめる。

 だが、同時に妙に冷静になっている自分もいた。やるだけのこととは、なにか。アレとはどのようにやるのか。恋愛小説ではよく見るが、文章は抽象的でよく分からない。映像として頭に再生することができない。なにより清乃は未経験だ。男女の関係にすらなったことがない。自分はいったいなにをすればよいのか。どのような心持ちで情事に参加すればよいのか。

 そう思うと不安になってきた。

「いいんだな?」

 彼が最後忠告のように訊いてくる。その真剣な表情、悩ましげにひそめた眉と、硬い眼光を見つめていると、それが遊びではないことが伝わってくる。

 清乃としては構わなかった。彼が望むのなら相手になってもいい。だが、本心としてはどうなのだろう。犯されたいと思うのだろうか。彼に全てを捧げたいと。そんなこと、誰にもしたことがないのに。服を脱いだことすら経験がないのに。その行為の意味すら理解できていないのに。

「今更、なに? あなただって同じこと、いろんな人にやってきたんじゃないの?」

 慣れているのなら、きっとうまくやってくれるはずだ。彼への期待を表に出す。胸が焦がれるように熱い。いっそ、滅茶苦茶にしてほしい。ぐちゃぐちゃに壊して、立てないくれいにしてほしい。それが彼なら許せる。彼になら自分の体を預けられる。

 それなのに、なぜか臆してしまう。心の底では怖がっている。怖くなっていた。やらなきゃ、受け入れなきゃ。彼に応えなきゃ。必死になって主張してくるのに、心がついていかない。熱いムードの中に自分の心のひとかけらが、置いてけぼりを食らっていた。

 暗闇の中に静寂が下りる。彼は口を開かない。ベッドの近くまで寄っているのに、なにもしない。二人切りなのに、ここでならなにをしても許されるはずなのに、触れることすらない。ひたすらの沈黙。

「どうして?」

 首を傾けながら、問いかける。

 自分はそれを求めている、はずだ。恋人ならそれらしいことをしてもいい。それが当たり前だと知っている。

「ためらっているのは、お前のほうだろ?」

 眉を寄せながら、彼が言う。真実を解くような目をしていた。

 それで本当に核心を突かれたような感覚に陥る。

「私なら大丈夫。私だったらなんでもいい。あなたの好きに任せる」

 必死になって早口で告げる。この機会を逃したくはない。繋がった糸を手繰り寄せ、しがみつくように、彼に訴えた。されども誠司はピシャリと言い放つ。

「だから駄目なんだ。お前が我慢しようとしている時点で、いけないんだ」

 真面目な顔をして。

 瞬間、空気が停まった。

 心臓が動きを止めたような衝撃。

 清乃はただ息を呑んで、立ち尽くす。

 目の前で誠司が口を閉じた。

 一気に体から力が抜ける。重心を失ったようによろよろと下がり、壁際になってようやく停まった。

「ごめん」

 誠司は目をそらした。

「嫌がっている女には触れられないんだ」

 低く、独り言のようにこぼした。

 彼の気遣いに心が痛む。なぜかショックを受けている。彼がそうしてくれるのは嬉しい。細やかな思いやりすら感じる。自分を確かに思っているのだと実感できたのに。

 それはどうしてか。彼に捧げられないから? 思いに応えられないから? 駄目だと切り捨てられたから? 自分がそれにふさわしくないから?

「遊び人の癖に」

 無意識のように唇が動いていた。

「無理矢理にでもやってしまいそうな人なのに、どうしてこんなときだけ」

 声が震える。

 怒るような嘆くような不思議な心境。だけど、彼を責める気にはなれない。今、責められるべきは自分のほう。このいい雰囲気なのに水を差しているのはきっと、自分のほう。

 今だって、安心している。彼に触れられなくて、無理矢理犯されることがなくて。自分の中にある清らかなものを守ることができて。これが一番に大切で、重要なことなのに。

 胸が締め付けられるように痛んだ。彼のいたわりが心臓にグサグサと刺さって抜けない。顔を伏せ、目をつぶる。彼を直視することすらできない。恥ずかしくて、むなしくてたまらない。顔を上げる気にはなれなかった。

「本当のことを教えてくれ」

 すっと彼が迫る。

 やさしくいたわるような声音だった。

「お前は本当に俺に」

 続きの言葉は繰り出す寸前で失われた。なにを伝えたいのかは分かる。彼はそれをあえて口にしなかった。わざわざ言葉にしなくても分かるからか、それを言葉にするのは無粋で、清潔ではないためか。

「私、本当は受け入れたいんだよ」

 うつむいたまま、振り絞るように伝える。

 自然と体が震えてきた。

 不安を表に出す肉体を両腕で抑えつける。

「でも私、子どもなんだ。大人のドラマみたいな、恋愛小説みたいな、そんな妄想、したこともない。ビキニすら今回が始めてなのに」

 分からない。

 なにをどうすべきなのか。

 彼のためになにをするべきなのか。自分を抑えつけるのが彼の望みか。自分を犠牲にすることだけが愛といえるのか。彼を想っているのに、こんなにも心と心で繋がっているのに、どうしても震えてしまう。彼をはねのけてしまう。遠ざかっていく。彼が迫る度に遠ざけたくて、自分で自分を隠したくて仕方がなかった。

「やっぱり私、怖いんだ。あなたと一緒にいる時も、いつかこうなるって分かっていた。近づきすぎたら襲われてしまう。本当の自分を失ってしまう、そんな気がしてた。でも、悟られたくなかった。私はできる。あなたの望む通りになれる。そう思ってた。告白をした時点できっと覚悟はできてた、はずなのに」

 唇が震えた。声が波のように揺らいでいる。

 震えが止まらない。

 胸に悲しいような複雑な感情がこみ上げてくる。

「ごめんなさい。私、処女だから」

 危機感はあれど、心の準備ができていない。だからそれ用の道具だとか、下準備だとか、そういったものを用意できていない。

「そんな相手を捕まえても、面白くないでしょう? 厄介なだけでしょう?」

 彼を見上げる。

 これが彼と自分の間に横たわる溝の正体だ。

 彼は女を知っている。清乃は男を知らない。ただ純粋に大人に守られ、一人で生きてきた。男に触れたことはないし、触れさせたこともない。色気のある出来事は苦手で、遠のきたがる。

 たとえ好きな相手がいたとしても、肉体を預けるような関係にはなりたくはない。それが自分の正体であり、本心だった。

 その気になればやれると思っていた。誠司の前なら女になれると思い込んでいたのに、いざ本番を迎えて、それはあっけなく崩れ落ちた。ガラスが割れるように派手に音を立てて、その希望は闇の中へと消えてゆく。

 世界は闇に閉じた。沈黙だけが雪のように降り積もる。

 そのころには目も闇に慣れて互いの顔が視認できるようになった。誠司はまた悲しいような悩ましげな表情をして、こちらから顔をそむける。清乃もまた口を引き結んで、眉を垂らした。泣きたいような気分。そんな彼女を直視できないとばかりに青年は背を向けて、出口へと向かう。鍵の開けてあるドアから外へ。また、ドアがバタンと閉まる音がした。

 清乃はベッドに腰掛け、深くため息を漏らす。肩からどっと重たいものがのしかかる。なにもしていないのに疲れていた。

 根性をみせて過ちを犯せばよかったのか。また後悔がこみ上げてくる。でも、それは彼はしなかっただろう。そんな女を犯したところでつまらない。互いに満足もできなかったはずだ。

 分かっているのに思いが消えない。彼と一緒になりたかった。自分が恋をしている証を行動として、示したい。それが彼に対する義務だというのに。

 女として、ダメダメだ。

 いっそ、忘れてしまおう。そう思いながらも目はまだまだ冴えている。眠れるわけがないし、とりあえず気分を落ち着かせるのが先だ。彼女はすっと立ち上がると、リモコンの形をしたものを掴んだ。ボタンを押すと天井についた丸い照明が光った。白い輝きが部屋に満ちる。暗闇に慣れていたせいで目がチカチカとする。まぶしくて痛くて、思わず目をつぶった。



 知らぬ間に眠っていたらしい。気がつくとベッドの上だった。

 部屋は明るい。明かりがついているようなとは言わないまでも、しっかりと視認できる程度だ。

 早朝ではあるのだろう。空は淡い藍色に染まり、窓の外は幻想的な光に包まれていた。

 重たい瞼を開けて、むくりと起き上がる。まだ、視界が曖昧だ。半分くらい眠っているのだろう。頭を何度か振り、目をギュッと瞑ってみた。まだ、目が覚めきらないでいる様子。本音を言うと二度寝をしたい。だけど、一度横になると次に起きたときに昼になってしまう。そうなっては、せっかくの最終日の半日を無駄に消費してしまう。

 やれやれと思いながら、立ち上がる。


 そうしてふと視線を動かすと、スマートフォンが見えた。黄色いカバーがつけられたそれが、机の上に置き去りになっていた。私のものは白いカバーだから、落とし物だろう。いったい誰が……と、考える間もなかった。この個室に足を踏み入れた者は一人しかいない。誠司だ。彼の日に焼けた顔が頭に浮かんだ。

 本当に彼は忘れ物をしやすいのだなと、実感した。届けて上げなきゃ。スマートフォンを手に取って、一息つく。

 おかげですっかり目が覚めてしまった。早く部屋の外に出ようと足の先を扉へ向ける。

 まさにそのときだった。


 白いスマートフォンが震え、着信音が鳴り響いた。歌詞も曲もない、無機質な音。モールス信号かなにかのように聞こえる。清乃は思わず「うわぁ」の間の抜けた声を出す。目を丸くしつt、瞬きをする。暗い色に染まっていたはずの画面が、明るくなる。通話用に切り替わる。四角い枠の内側に電話のマークが表示されている。

 清乃はしばらくの間、固まっていた。他人からの着信を自分が受け取ってもよいのだろうか。掛けてきた相手も誠司に用がある。そこに見ず知らずの相手が出ても、困惑するだけだろう。

 だが、そもそもいったい誰がなにのために掛けてきているのか。余計な邪推をしてしまいそうで、頬に汗が伝う。とにかく、気が気でない。鳴り響く呼び出し音が鼓動を加速させる。早く出なければならないと思わせられる。けれども清乃は応答ボタンを押さなかった。かといって拒否することもできずに、その場に固まってしまった。


 ほどなくして音が止む。見逃してくれたような心持ちになって、少し安心した。

 だが次の瞬間、スマートフォンから声が聞こえてくる。若々しくはあるが大人の色気を感じる、女の声。見ると

「あなた、どこにいるの? 無言でいなくなっちゃうなんて、仕方ないんだから。だけど、来るわよね。また会える日を楽しみにしているわ」

 それを最後に音声はプツリと切れた。

 聞き終えて体から力が抜ける。

 今、聞いた声が伝言メモのメッセージ録音だということに、気づいた。

 理解はできるのに状況が分からない。置いてけぼりを食らっている。いったいなにが起きているのか。なにに巻き込まれたのか。視界がぐるぐると回る感覚に苛まれた。


 改めて音声を頭の中で再生する。なにを伝えたのかまでは覚えきれないが、確かにあれは女のものだった。彼が女と会話をしている。それは珍しくはない。ただの女友達だという可能性もあった。だが、心がはやって仕方がない。彼らの関係はなになのか。頬に汗が浮かぶ。

 もしや本物の恋人ではないのか。いや、そんなはずは……。いままで彼はそのようなことを一度も口にしなかった。そうと決まったわけではないのだから、安心するのも焦るのも早い。

 とにかく確かめなければ。スマートフォンに手を伸ばし、画面をタップする。待受画面に切り替えるも、そこにはなにもなかった。無機質な白い画面が広がっているだけだ。

 連絡先をチェックすることはできる。今、彼のスマートフォンが手元にあるだから、なんでもできる。だが、その指を動かすことはできなかった。彼の秘密を暴くのが怖い。自分の知らない事柄を知るのが嫌だ。これ以上先へ進めば、大切な関係が崩れてしまうような気がして……。

 胸が震えた。なにもかも、嘘だと言ってほしい。杞憂だったと思わせてほしい。今はまだ、信じていたかった。安心したい。まだ、確定させたくはない。嫌だった。自分がただもてあそばれていたと知るのが、そうだと確定してしまうのが。

 だからそうではない可能性に賭けて、清乃は端末の電源を切った。




 清乃はスマートフォンを持ったまま、固まっていた。最初はすぐに返す気でいた。それなのに、今は返したくないと思ってしまう。より正確にいえば、彼と会いたくない。顔を合わせたくない。いったいどんな顔をして聖女にスマートフォンを渡せばいいのだろうか。自分は彼の秘密の一端を知っているというのに。

 だけど、謎を謎のまま終わらせるのも、それはそれで悪い。誤解したまま終わらせたくはない。だけど、誤解が誤解でなくなったときを想像するのが、一番に怖い。彼を信じていたいのに、彼ならやりかねないという懸念がある。

 どうしようと、口の中でつぶやいた。

 いっそ、彼のほうから勝手に探して、拾い上げてほしい。自分は目立つ位置にスマートフォンを落としておく。それでいいから。

 それでもやはり、見つけたものをそのままにするわけにはいかない。渋々、スマートフォンを握りしめて、扉を開ける。外に出た。


 気乗りはしないが、通路を歩く。黄色い端末を宝物のようにして握りしめている。

 朝なのに空気が重苦しい。湿っぽい空気が垂れ込めているように感じるのは、気のせいだろうか。知らず知らずの内に眉間にシワが寄る。清乃の足取りも重く、ためらっているようだった。

 しばらくは誰ともすれ違うことなく、進んでいた。食堂へ続く角を曲がろうとしたところで、ようやく影が見えてくる。それは淡々とこちらに迫る。それは同年代の青年だった。やや硬い表情をした青年で整った黒髪が特徴的だった。涼だ。ほぼ丸一日出会わなかっただけなのに、久しぶりに会ったような感覚がする。

 彼は清乃が握りしめている黄色い端末に目を向けるなり、口を開いた。

「知ったのか?」

「なんのこと?」

 なにかを察したような発言に、訝しむように彼を見上げる。

「目をそらすようなマネをするな。本当は気づいているんだろう」

 冷静な言葉。

 彼がなにを言いたいのかが分かって、心にグサッと刺さったような感覚になる。

「答え合わせをしたいのなら、教えてやる」

 彼の鋭い目が清乃の心を貫く。

 清乃は立ち止まったまま、固まっている。

 怖い。聞くのが怖い。彼は自分になにをしようとしているのだろうか。いつの間にか体が震えていた。

「嫌よ」

 口を大きく開いて拒む。

 それからまた口を閉じる。唇が震えていた。

 頬に汗が浮かんで、汗が伝う。

 清乃は真実を知るのを恐れていた。それが確定してほしくないとおも。嫌な信じるならば知らないほうがいい。一生、夢を見たままでいたかった。ただそれだけのことなのに、涼は分かってくれない。あくまで厳しい態度で彼女を見据える。

「聞いたほうがお前のためだぞ」

 彼はそう落ち着いて、正しいことを口にした。


「聞きたくなくても勝手に伝えるがな」

 彼の眼光は鋭くて、見ているだけで萎縮する。清乃は後ずさりしながらも、逃れることはできず、黙って体を震わせた。

 そして涼は繰り出す。この世で最もシンプルな答えを。

「あいつには本命がいた」

 聞いて、ガクッと膝から下が落ちるような感覚がした。覚悟をしていたこととはいえ、それを他人の口から聞かされると、衝撃を隠しきれない。本当はまだ嘘であることを信じていたかったのに。そんな心の準備もできないまま、聞かされてしまった。

 理解を進める脳とは対照的に、心はついていかない。

「誠司は欲望に忠実で、やりたいことをやりたいだけやるタイプだ。あいつと付き合えるのは同じ破綻者と寛容な奴だけだろう。本人も自分の悪いところは自覚しているはずだ。だからずっと自分を受け入れてくれる奴を探していた。それ以外とは深く付き合う気はない。つまり、だ。お前は遊ばれていたんだよ」

 淡々と言葉をつむぐ。

 それは涼の主観に過ぎない。真実を伝えているわけではないと分かっているのに、信じてしまう。誠司とはそういう人間だと、自分の心が告げていた。彼のことをまだ愛しているのに、なぜあっさりと受け入れてしまうのか。それがなによりも解せない。かといって彼を擁護する気にはなれなかった。

「どうして、教えてくれなかったの?」

 顔を上げる、すがりつくような目で、涼を見上げる。

 相手は表情を変えなかった。なんの感情も抱いていないような冷徹な目で、彼女をとらえる。

「お前を傷つけないためだ」

 さらりと答えた。

 声音には熱がなく、落とした眼差しにも、情の色は感じなかった。

「遊びで付き合っているだけだ。そんなことを教えたところで、仕方がない。この夏だけの思い出で済ませてほしかった。後は互いに忘れてしまう。それでよかったんだよ。お前はなにも知らなくてもいい」

 平坦な口調で事実を伝える。

 優しくはない。だけど、それはまぎれもなく彼の本心だったのだろう。

 知りたくなかったのは確かだ。この夏をきれいな思い出のままで終わらせたかった。それなのに、こんな形で水を差されるなんて思いもしなかった。その思いは正しい。涼のことが少し、苦手ではなくなった。

 心の中で必死に自分をなだめようとする。

 分かっていたはずだ。誠司はそういう人間なのだと。まともそうに見えるのは外見だけで、中身はろくでもない。女心を弄んでおきながら、本命は別にいるような男だ。その癖、女を見かけたら節操なく声をかける。異性なら誰でもいいのだ。そんな彼に惹かれてしまった。普通の男ではつまらない。正しいだけの人間には興味がない。

 自分が惹かれた男がそれだった。それだけはどうあがいても否定できない。それが悔しい。なんともいえず、モヤモヤとした感情が心を浸す。うつむいてしまった手前、頭上から重苦しい空気が降り掛かる。どんよりと窓の外すら曇り、日差しを遮っていた。

 その陰気だが安定した空気を切り裂くように、涼は口を開く。

「あいつが真剣な恋なんざするわけがないだろ。あの男は誰も愛さない」

 極めて冷徹に真実を穿つように、彼は言い放った。

 瞬間、心臓がドクンと音を立てる。熱い血が全身を循環する。なぜか、頭が熱い。胸がムカムカとしている。無意識の内に拳を握りしめていた。清乃は眉を釣り上げ、睨むような目つきで相手を見る。涼は文字通り涼しげな顔を保っていた。

「どうしてそんなことが言えるの? あの人の心を見たわけではないのに、どうして決めつけられるの?」

 思うがままに叫んでいた。

 本当はこんなことを口にするつもりはなかった。噛み付く予定はなかった。ここは穏便に済ませるべきだ。おとなしくしているべきだ。理性がそう訴えかけるも、彼女の口は勝手に動いていた。

「なにもかも知ったような口を利かないで。決めつけないでよ!」

 自分でも、なぜ怒っているのか分からない。

 ただ、全身が沸騰したように熱い。マグマのような感情が心の底から湧き上がってくる。今にも火を噴き出してしまいそうな勢いだった。

 目の前が赤くなる。血管がプチンと切れたような感覚があった。言うなれば、そう。彼女は地雷を踏まれたのだ。

「彼はどこ?」

 一歩前に出て距離を詰める。

 彼に直接聞かなければ気が済まない。事情を本人の口から説明してもらわなければ、納得できない。

 対して、涼は表情を変えなかった。眉一つ動かさずに、なにを考えているのか分からない無表情で、彼女を見据える。

「分かってる癖に」

 ぼそりと独り言のように口に出す。

 その言い方が余計に彼女の感情を煽る。もはやなぜ自分が苛立っているのか分からない。いったい誰に対して怒っているのか。目の前の男に対してか、真実を曖昧にしたまま逃げようとしている男に対してか。

 どちらでもいい。自分の目的はただ一つだ。

 しばし、無言のにらみ合いが続く。時間にして数秒。正確な秒数は分からないが少なくとも十秒は経っていないだろう。相手が口を割らないのなら勝手に探しに行くつもりだったが、涼は思いの外早く、口を開いた。

「まっすぐ食堂でも目指せ。今ならそっちにたどり着く前に遭遇できるだろ」

「適当なこと言ってるわけじゃないでしょうね」

 眉と目を釣り上げ、彼を見る。

 相手は無言だった。

 今得た情報が真実か否か、考える必要はない。たとえ嘘の情報を掴まされたとしても、自分はこの廊下を進むしかない。清乃は口を閉じて、足を動かす。腕を振り、全身を前に進ませる。

 二人は静かにすれ違った。

 前進する清乃とは対照的に、涼は動かない。立ち止まったままの彼を境に空間ごと押し流されるがごとく。二人の距離は急速に広がり、彼女は角の向こうへと消えた。


 清乃はひたすら走っていた。アンテナをあちらこちらに張り巡らし、周囲を見渡しながら、足を動かす。

 誠司はまだホテルの中にいる。食堂にたどり着く前に真実を突き止めなければならない。そして好きなだけ文句を言うのだ。彼女の頭には熱が上っていた。彼に対する思いは膨れ上がり、失せはしない。熱くなりすぎて、細かなことは考えられない状態になっていた。




 本音を言うと、真実を聞くのが怖かった。自分が傷つくかもしれない。彼の口から本当のことなんて、聞きたくはない。夢なら夢のままで終わらせてほしかった。過酷な現実など、求めてはいない。だけど、モヤモヤとしたまま残りの短い時間を過ごしたくもない。どうせなら誠意を持って接してほしかった。誠司に対して夢を見ているわけではない。理想を押し付けるつもりもない。だけど、彼のことを今でも信じたい気持ちもある。嘘なら嘘と言ってほしい。紛らわしくてごめんと謝って、安心したい。

 口の中でたらたらと現実逃避じみた言葉を浮かべては飲み込む。なんだかんだいって自分が本命でありたかった。ほかの誰の女を差し置いてでも、自分が愛されていてほしかった。それだけが望みだ。ああ、なんて強欲。最初はそばにいられるだけでよかったのに、それ以上を求めてしまう。いけないことだと分かっていながら、それでもこの衝動を抑え込むことはできない。清乃はただ思いが赴くままに走り続けた。気持ちは抑えるどころか膨れ上がっていく。空気を含んだ風船のように。


 延々と前方に広がる廊下。まっすぐに伸びたフローリングに、影が伸びる。清乃は足を止めた。近づいてくる影に気づいたからだ。それは、なにも事件など起きていないという風に、悠然と歩いてくる。清乃はそれと顔を合わせる。二人の視線が交錯した。その黒髪の整った髪型をした男は、誠司だ。まぎれもなく。一瞬、見間違いかと思った。これほどまであっさりと事故のよに対面を果たすなんて思いもしなかった。思わず本物か? と聞き返したくなる。

 いよいよ、なにか口を開かねばならない時が来た。いざ、このタイミングになると、どのような言葉を繰り出すべきか迷う。口を引き結び、わなわなと震わせる。うつむき、怒りをこらえるような空気を放つ清乃に対して、誠司はなにも分かっていないという顔をしている。それが余計に清乃の感情を逆立てた。

 ややあって彼女は黙ってスマートフォンを差し出す。黄色いケースに入った端末。誠司は表情を変えずに受け取るとまじまじと清乃の顔を覗き込んだ。

「知った」

 小さく口を開く。低く、厳しく、非難するような声が漏れた。

 誠司はかすかに眉をひそめた。

「声を聞いたの。女の人の声だった。あの人は誰? あなたとどういう関係? まさかお母さんだと言って、ごまかすつもりじゃないよね?」

 顔を上げる。眉をキリリと釣り上げて、眼光鋭く彼を見上げる。

 誠司はひるまなかった。落ち着いて立っている。そこを突かれても痛くはないという雰囲気だ。これなら希望を持てるかもしれない。なにかを期待する目で誠司を見つめる。だが、彼女の希望はあっけなく打ち砕かれた。


「お前の推測は合ってるよ」

 ありえないほどにあっさりと、彼は肯定する。

 途端に全身の熱が引き、愕然とした。まさか、ありえない。嘘でもいいから否定してほしかった。なんでもないと安心してほしい。真実を求めていたのにこんなことを期待してしまうなんて、どうかしている。

 でも、確かに分かってはいたのだ。彼は嘘を吐かない。ナンパをするし、欲望の赴くままに行動し、悪いことであろうと構わずやる。そんな彼だけど根っこは誠実なのだ。だからこそ分かる。彼の言葉は真実だ。それだけが胸にすとんと落ちて、嫌になる。

 どうしてこんなときだけ自分の望みを叶えてくれないのだろうか。容赦なく真実を穿ってしまうのだろうか。今はただ彼が恨めしくて仕方がない。

 うつむき、唇を引き結ぶ。なんと言葉を返すべきか分からない。怒るべきか、悲しむべきか。しばしの沈黙の後、誠司は口を開く。

「俺はあの女と付き合ってる。あれは寛容だからな。俺を受け入れてくれる唯一の存在だ」

「私は、駄目なの?」

 まるで自分のことを除外されたようで、気に食わない。所詮はその程度だったのだろうか。彼が清乃に向ける感情はただのナンパの延長線でしかない。本当に愛していないのか。愛されていなかったのか。

 モヤモヤが募る。急に世界の全てから裏切られたように錯覚し、体の芯が崩れ去る音がした。

 視界の端が黒く染まる。周りの色も音も消え去った。彼の顔すらまともに直視できない。

「お前は受け入れてくれるってか?」

 青年が小首をかしげて尋ねてくる。

 清乃は胸を貫かれるような感覚を抱いた。

「俺は誰でも愛してしまう。なにが正しいかよりも自分のやりたいことを優先するやつだ。そんなやつを」

 誠司が解答を求める。

 清乃はなにも言えなかった。

 ただ一つ、思う。

「嫌よ」

 きっぱりと言い放つ。

「私は一番に愛されていたいの。ただ一つの愛がほしいの。それ以外はいらない。誰かの代わりになんてなりたくない」

 首を激しく横に振って、口を大きく動かす。

 自分の感情に突き動かされるように、彼女は訴えた。

 恥も外聞もない。なにが正しいのかも分からない。それでも彼女は誠司を拒絶する。

 清乃は浮気が嫌いだ。二股も嫌いだ。誰かの本命になれないのなら、それ以上は求めない。昔の話でいう側室になれたとしても、正室がいるのなら意味がない。それに勝てないと分かると、諦めてしまう。そんな女だ。いつだってそうだった。想いを寄せる相手はことごとく、本命がいる。ほかに付き合っている女がいる。それだけであっさりと背を向けてしまう。清乃は最初からなにもかもを諦めていた。

 今回だって同じことだ。

 たとえほかの女に夢中になっていたとしても、自分を見てくれるのなら、よかった。不満を抱きながらも彼を許せるはずだった。どんなに他の女に吸い寄せられても、いつかは自分の元に帰ってきてくれる。彼の心を射止めているのは自分だと分かっていたから、安心できた。

 それなのに。

 結局は自分もその他大勢の女と同じ扱いだった。それが分かると一気に熱が冷める。なんだかんだいって根は誠実だと分かっているから、安心していたのに、裏切られたような気分だ。

 彼を好きでいたい気持ちと許せない気持ちとで、葛藤する。ぶつかり合っている。いっそ、憎んでしまいたい。殺したいほどの憎悪を煮詰めて、彼にぶつけてしまいたかった。


「お前の気持ちは分かる。それでも聞いてほしい」

 混沌とする胸中。暗雲に染まった視界に一筋の光が差し込むかのごとく、彼の声が響いた。

 顔を上げる。

 時計の針が一つ進むくらいの間の後、改めて誠司は主張を繰り出した。

「俺はお前が好きだ」

 ストレートに言葉にする。

 いままでも散々聞いた口説き文句。今となってはむなしいだけだ。詐欺師の甘言よりもむなしく、彼女の耳に届いて、消えた。清乃は曖昧な表情で沈黙している。眉を寄せ、口をへの字に曲げて、彼から目をそらす。

 もうなにを言っても信じられない。彼の本命は別にあると分かっているのに、今更そんなことを言われても嬉しくはない。結局は遊びだったのだろう。そうなのだろう? 尋ねたい。言葉責めにしたい。だけど、それすらもしたくない。彼とは欠片も口を利きたくなかった。

「こんな俺を愛してほしい。好きでいさせてほしい。一日だけでいい。せめて、それだけ。お前の全てを預けてくれ。俺はそれだけが望みなんだ」

 彼の懇願が廊下に響く。

 聞いて、熱が引くのを感じた。

 この期に及んで好きという感情を押し付けるなんてどうかしている。こちらの気持ちを考えてくれない。ああ、どうして彼なんかのために心を惑わせられなければならないのか。苛立ちが募る。

 清乃は深くため息をついた。

 どうして彼が好きだったのだろう。愛してしまったのだろう。どうして彼ごときのために傷ついているのだろう。もういっそ、いなくなってほしい。自分の前から、この世界から。そうすれば許せるのに。

「そんなに私が好きなら、教えてよ」

 薄く唇を開いて、吐き捨てるように問いかけた。

 誠司は静かに彼女の言葉に耳を傾ける。

「どうして黙ってたの? 自分ならそれが許されるとでも思ったの? バレなきゃいいとか思ったわけ?」

 彼を見据える。暗い色を含んだ眼球。蔑むような目つきだった。

「ああ、そうだな」

 淡く息を吐くように、青年は声に出す。

 誠司は冷静だった。責められているのは彼のほうなのに、それを全く感じさせない。あまりにもさらりとした態度に余計にむなしさが加速し、怒りがこみ上げてくる。

「悪いのは俺だ。お前の心を傷つけた。それでも俺は嫌われたくなかったんだ。そんな奴だと思われたくなかった」

「隠したところでそれをやってるのは事実でしょ?」

 表側を繕ったところで、意味はない。彼は本命がいるにも関わらず、女に声をかけて回った。女心を弄んだ。それは許されざる行為だ。

「分かってるんだ。俺は破綻している。自分のほしいものは手に入れたかった。それが正しくなくても構わない。だからお前を本当の意味で好きになった時、なにも言えなくなった。言わなきゃいけないと思っても、それを打ち明けた時にどうなるか想像すると怖かったんだ。俺は駄目だ。駄目な人間だ。分かっているのに、変えることすらできなかった」

 懺悔するように彼はつむぐ。

 そこで気づく。

 彼は言い訳をしていない。事実をきちんと受け入れた上で自分が悪いと言っている。

 ああ、やはり彼は誠実だ。嫌なほどに伝わってくる。だからこそ余計に認められなかった。そんな彼が不誠実な恋愛をしていることに。

「本当なんだ。お前を好きになってしまったことは」

 分かっている。

 知っている。

 彼が自分を愛してくれていることくらい。

 嘘みたいに本当のこと。

 喜ぶべきことなのに、受け入れるべきなのに。まだ、彼女の心は震えていた。

 本音を言うと遊びに付き合うつもりでいたのは、彼女のほうだ。それなのにだんだんと本気の恋愛をしている気分になっていた。観光で二人切りになったときも、二人で花火を見上げた瞬間も。あの場面だけは彼と愛し合っていた。世界に二人しかいないような空気感。ロマンチックで夢のようで、その世界に浸ってしまった。

 彼の想いに応える気はなかった。最初はただのナンパ男だとあしらう気でいた。それなのに彼の悪いところまで魅力的に思えてきた。彼の姿は輝いているように見えて、目を離せなくなる。

 本当に好意を抱く理由なんてなかったはずなのに。

 苦々しさと塩気を含んだ感情が胸にこみ上げる。

 気づいてしまった。

 焦がれていたのは自分のほうだ。

 痛いほどに分かって急に泣きなくなってきた。


 それでも二人は肝心なところで噛み合わない。

 歪んだ恋愛を許容するほど、破綻を受け入れるほど、清乃は寛容ではなかった。

 好きでいたい気持ちと嫌いになりたいと叫ぶ自分とで葛藤する。全て、彼のせいだ。彼がこんなにも魅力的だから、嫌いになりきれない。好きでいたいと思わせられる。どんなに傷ついても、失望しても、それでも彼を見てしまう。目を離せない。

 辛い。辛くて仕方がない。誠実な人であればよかった。清廉潔白な人であれば自分も安心して付き合えた。だけど、そうではなかった。だからこそ、惹かれたのだ。彼を魅力的に思ってしまった。だからこそ悔しい。

 彼の本質にあるのは情熱だ。それがあるからこそ、全方位に向けられる好意を肯定できる。少なくとも彼が今この場で愛しているのは清乃だ。彼が見ているのは、白い少女のみなのだ。

 それが分かってなお、清乃は首を縦に振れない。


「無理だわ。だってあなたは誠実じゃない。いつか私を裏切る」

 たとえ本命になったとしても、別の女に目が行くような男だ。かえって信頼はできるものの、彼女にとっては許容できない。

 一方で清乃の答えを聞いて、誠司は納得したようにつぶやいた。

「なるほど。やっぱりお前は純情だよ」

 恋を知らない女。他人に体を預けたこともなければ、深く関わったことすらない。どこまでも清らかな女。見た目通りに透明で、だからこそ汚れを受け付けない。飲み込めない。

 二人は最初から噛み合うはずのなかった関係だった。

「そう。私が求めるのは誠実な恋だけ。破綻したあなたとは付き合えない」

 はっきりと拒絶する。

 顔を上げ、また冷たい目で彼を見た。

「もう顔も見たくない」

 口走るなり、歩き出す。

 誠司は動かない。

 清乃と彼はすれ違う。

 彼女は彼と顔を合わせることなく通り過ぎた。その姿はまっすぐに食堂へ向かい、角の向こうへ消えていった。


 それから二人は一度も会話をすることもなく、四日目を過ごした。はっきりといって、なにをしていたのか覚えていない。なにをしていても楽しくない。デジタルカメラを持ってはいるものの、シャッターを一度も切ることなく、昼を迎えた。

 レストランで食べた海の幸も味がしなかった。甘いものにすがりついても、その甘ったるさが鼻につく。今はただ、なにもしたくない。清らかな海さえ遠く感じる。

 帰りはバスだ。長々とバスに揺られる。流れ行く景色を無言で見送った。

 退屈だ。日和が話しかけてはくるけれど、生返事しかできない。心配そうな視線も肌で感じる。だけど、今はそれどころではない。頭に入った靄は晴れない。これからいったいどうすればいいのだろう。そんなことばかりを考えている。

 いっそ世界でも終わってしまえばいいのに。口の中でつぶやいた。

 日和と美穂の会話が耳に入っては、通り抜ける。二人は気遣って声をかけてこなくなった。そっとしておいてくれるのはありがたい。それから清乃は延々と窓の外を見続けた。その視界に入る景色はなにもない。こうして三泊四日の旅は終わりを告げた。




 町に戻ると時間は急速に過ぎ去っていった。あれほど暑苦しかった昼間は過ごしやすくなり、夕方になると涼しく感じられる。草むらにはススキが生え、さわさわと揺れる。夏が終わろうとしているのは分かるのに、いまいち実感が湧かない。

 今日もぼんやりと家にこもり、窓の外を見つめる。空いた窓から入ってくる風に吹かれていると、さっぱりとした気分になった。だけど、それだけだ。まだ自分の心は夏にいる。

 窓の外を見つめる度に蘇るのは、海での出来事。観光地を歩き、彼と一緒に過ごした日々。いつまでも誠司のことが忘れタレない。分かっていた。焦がれているのは自分のほうだと。もう会わないと決めた。彼との縁を切ったつもりでいるのに、まだ引きずっている。もう二度と会いたくないし、いっそ記憶から消し去ってしまいたいのに。

 時折、胸を締め付けるような思いに駆られる。ああ、やはり……。清乃はおのれの思いを自覚した。


 そうこうしている間に空に薄灰色の雲が覆い、日差しが遮られる。ちょうどいい。清乃は席から立ち上がり、部屋を出た。廊下を通って、玄関まで行く。スニーカーに履き替えて、外に出た。外気は思いのほかさらりとしている。下手をすれば中より外のほうが涼しい。時折吹く風に身を任せて、道を歩く。

 さあ、喫茶店に行こう。ひたすらに歩いて、街路樹のそばを通り抜けようとした時、なにやら黒い影が近づいてきた。細長いシルエットが二つ並んで歩いてくる。距離が縮まるにつれて、その影が鮮明になる。片や、リゾートで着るようなロングスカートを身に着けた女性。もう片方は白シャツに細身のパンツを合わせた青年だ。黒く艶のある髪を整え、精悍な顔立ちをした彼。日に焼けた肌がまぶしく、澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。その名を知っている。誠司。誠実でもなんでもない癖におかしな名前をつけられた彼は、この世で最も嫌いで、それなのに特別な思いを抱いてしまった存在だ。

 それにようやく気づいて、清乃は足を止める。そちらも清乃の存在に気づいたらしい。「あ」と口を丸く開けて、硬直する。清乃は眉を寄せ、唇を引き結ぶ。鋭い目つきで彼を見つめた。彼はなにも言わない。二人の間をぬるい風が吹き抜ける。薄灰色の雲は厚みを増して、頭の上に移動した。彼らの顔にはうっすらと影がかかる。歩道は影に沈んだ。

 気まずい空気が全体を覆う中、一人女はくすっと笑いをこぼした。


 それから三人は歩き出す。なぜか喫茶店には皆で行くことになり、同席することになった。

 窓際の席に座って、つまらなさそうな目で、窓の外を睨んだ。自分はいったいなにをしているのだろうか。

 誠司がこの町に着ていたことも驚いたし、はからずも一緒に行動することになっているのも、変な感じだ。もう二度と会うことはないと思っていたのに……。だけど、会えてよかったと思っている自分もいて、複雑な感情が胸に流れ込む。

 だけど、まだ心の準備ができていない。ただひたすらに気まずいのだ。誠司と清乃はただの他人ではない。恋愛感情にすら発展した仲である。だが、それを断じて恋愛だとは認めたくはない。

 ほどなくして注文の品は届いた。清乃がレモネードを頼み、誠司はアイスコーヒー、女はアイスカフェオレと、自分だけが取り残された気になる。こういったところまで意図的に合わせているようで、気分が悪い。

 清乃が睨みつけるような目で見ているのに、女は楽しげに語りかけてくる。

「あなたはこの町の出身かしら?」

「はいそうです」

「では、雪ノ下大学?」

「はい」

 彼女の質問に機械的に答える。

 会話をしていてもちっとも楽しくなかった。実際に話は弾まなかった。それはそれで喜ばしいことでもある。これで和やかに会話をしているほうがおかしい。楽しいと思うほうがどうかしている。なにせ相手は彼の本命の彼女だ。対して自分は本命になれなかった存在。彼にとってはそうではないのだろうけれど、ただ一人の相手ではない時点で、切り捨てられたも同義だ。

 そんな関係性なのに、どうして喫茶店に同席する羽目になっているのだろう。なぜ自分は彼女を会話をしているのか。分からない。まるで理解が追いつかない。なにか悪い夢でも見せられているような気分だ。


 誠司もこの牽制し合うようなピリピリとした空気に耐えきれなくなったのか、おもむろに店内を見渡すなり。

「あー! かわいいウェイトレスみっけ!」

 と棒読みで言うなり席を立ち、どこかへ行ってしまった。そんな彼を見送って、淡く息をつく。

 それからまた視線を戻すと、目の前にオシャレな格好をした女がいた。手前の席に座る彼女と比べて、清乃はラフな格好をしている。大きめのプリントが貼られたTシャツに、スウェット。女性らしさや色気の欠片もない。一緒にいるのが恥ずかしくなってきた。

 一方で女は紅を引いた唇をつり上げて、言葉を繰り出す。

「好きなんでしょう、彼のこと?」

 にやけたような喜色を含んだ声。

 清乃はギョッと固まり、レモネードを飲む手を止めた。

「ありえません。彼のことなんて、なんとも思ってないです」

 誠司との関係は終わったのだ。あの日、スマートフォンから流れてきた女の声を聞いた時に。そしてその女本人が目の前にいる。彼女が本命だなんて知らなければよかったのに。グチグチとした気持ちを抱く中、相手はあくまで楽しげに語り出す。

「嘘。目で分かるもの」

 女は細めた目で彼女をとらえる。それは真実を穿つような目だった。

「彼を渡してもいいのよ。なんなら奪ってもらっても構わないわ」

「そんなこと許されるわけがないでしょう」

 軽いノリで誘う女に対して、清乃は真面目に返す。

「そう? あなたは彼がほしいんでしょう?」

 また、誘うような目つきになる。甘くとろけるような声音。ふんわりと甘い香りがこちらまで漂ってくる。

 これが本命の余裕か。たとえ相手が他の女にうつつを抜かしても必ず自分の元へ戻ってくる。そんな自信があるのだろう。確固とした芯と信頼がある相手から挑発的な提案を受けても、悔しいだけだ。乗る気は起きない。清乃はムスッと視線をそらした。

「あら、かわいらしい子」

 それを見て、女はいたずら気に笑った。

 その態度が余計に清乃の感情を逆立てる。

 相手は構わず続きを述べる。

「いずれにせよあなたは引きずってるわ。ここで決着を着けなければ、永遠に引きずる羽目になるんじゃなくて?」

 口の端が硬い。真剣な真剣だった。

 清乃が視線を上げると眼の前に妖しい目つきの女が座っている。これぞ魔性という雰囲気だった。


 それからすぐに誠司は戻ってきたけれど、特に会話をすることもなく、時間は流れる。そのころになるとドリンクは飲みきっていた。互いに自分の分だけの料金を払って、喫茶店を出る。

 歩道に出て「自分はここで」と言い合って、別れる。皆は別々の方角へ進んでいった。

 一人でいって、うつむきながら考え込む。

 彼女に誘われたということは、了承を得たことを指す。思わせぶりな男に引っかかって、その気になってしまったのだから、彼を奪い取る権利はある。恋を昇華してもいい。だけど、まだ葛藤が渦を巻く。

 清乃の性根はピュアだ。透明で清らかで、汚いものには触れもしたくない。間違いを起こす気にはなれなかった。たとえ自分の思いがどんなに強く燃え尽きようとしていたとしても、他者の愛を奪い取ることはできない。

 どうせ、無理だとも分かっているのだ。誠司と付き合えるのはあの女のように寛容な存在でしかない。自分は彼の全てを愛せないし、受け入れられない。浮気をしたらきっと怒ると思う。自分というものがありながら他の女とも関係を結ぶなんて、受け入れられない。清乃はただ一つの愛を求めていた。愛されるのならただ一人でいい。赤い糸はその人とだけ結ばれていればいい。あとはもう彼を逃さない。

 だから、二人の関係が成立しないと分かったら、潔く離れるまで。さっさと切り捨ててしまえばいいと考えていた。それでも思いは振り払えない。毎日のように彼を思う。あの海に戻りたくなってしまう。輝かしくてまぶしくて、どきめきで満ちていた海に。

 まだ恋は終わっていない。夏は終わっていない。きっと永遠に終わらせられないのだろう。いつまでも彼を、たった一つの想いを引きずってしまう。それならば、ここで決着をつけよう。この想いにケリをつけよう。

 清乃は顔を上げた。

 そのために彼に一夜を捧げると、今ここで覚悟を決意を固め、歩き出す。


 住所は事前に女から聞かされていた。偶然か否か、近い位置にあった。そりゃあ喫茶店で遭遇するはずだ。

 指定されたルートを通って、市街地へと歩く。街路樹のそばを通り抜け、路地に入り込んだところに、その家はあった。四角い形をしている。外装は白くピカピカとしていて、新しい。夫婦で過ごすにはちょうどいいが、一人暮らしにしては広い気がする。結婚を視野に入れて建てたのだろうか。

 庭にはガーデニングが施されており、緑で満ちている。その庭を守るように黒い柵とゲートが、敷地を囲っている。入口は空いている。その隙間を縫うようにして進み、玄関前にやってきた。表には表札も貼られている。その隣には真四角のボタンが設置されている。インターフォンだ。

 清乃は深呼吸をした。

 覚悟はすでに決まっている。彼に会うための心の準備は整った。そして彼女は思い切ってインターフォンを押した。




 呼び鈴の音は思いのほか大きく、閑静な住宅街によく響いた。されども、通りがかる人がいなければ答える者もいないため、より静寂を強調しているように思えた。

 清乃はインターフォンから手を離し、腕を下ろした。そのままじっとしていると、目の前でドアが開いた。中から青年が顔を出す。彼は清乃の姿を確認するなり、きょとんと固まり、突っ立った。

 彼女は口を閉じ、じっと彼を見澄ます。互いになにも言わないため、無音が続いた。後ろを自動車が通過していき、雑音じみた走行音とガスの匂いを撒き散らす。

「入れよ」

 誠司が呼びかける。

 なにがなにだか分かっていない様子だが、それでも清乃の行動の意図は理解したらしい。なにをされても受け入れる・罪を受けるつもりだ。そんな張り詰めた雰囲気を感じた。

 清乃は黙って足を踏み出す。戸の内側に入った。


 それから清乃はリビングに通された。中は清掃が行き届いていて、清潔な匂いがした。消臭剤は置いていないのに、どこか爽やかな空気。観葉植物の緑が白い壁紙ときれいなフローリングに映えている。オシャレなのがどことなくイラッときた。

 なお、そんなことは考えても口には出さない。口元を引き締めて、席に座る。まっすぐな四足のチェアはシンプルな作りながら、頑丈な印象を受けた。クッションの上に座れば腰にフィットする。脚をきちんと揃えて、またじっとする。

 反対側の席に誠司も座った。彼は茶を持ってきた。皿には水ようかんが載っている。こちら側の皿には鶯のような色合いで、向こうは濃い茶色。透明感のある餡が目の前で主張する。甘い香りも鼻孔もかすめた。

 少し食べたい感じはあったけれど、手は出さない。握った拳は膝の上に載せたままだ。

 一方で誠司は勝手に細いスプーンを使って、羊羹をすくって、食べ始める。

「それで、お前はなにをしに着たんだ?」

 沈黙に耐えかねたのか口を開き、視線をよこす。

 清乃はそれまでなにも言わないつもりでいた。彼には察してほしかった。とはいえ聞かれたのなら仕方がない。渋々口を開く。

「決着をつけにきた」

 眉と目の間をひっつけた表情をして、彼に伝える。

 彼女の凛とした声が部屋に広がる。

 誠司はスプーンを取る手を止めた。彼はかすかに目を見開いた。清乃はまた口を引き結んだ、彼を見つめた。

「私はあなたと戦うためにここにいたの。分かるでしょう?」

 まっすぐに彼を見つめ、ただそう告げる。


 また長い沈黙が続いた。普段ならひたすら重苦しくて、死にたくなるくらいだが、今回は違う。どれくらいでも待てるといった心持ちだ。なにせ主導権はこちらが握っている。攻めるのはこちら側なのだから。

 清乃はキリリと眉を釣り上げ、彼を見澄ます。

「本当のことを聞く。あなた、本当に私を愛しているの?」

 すでに分かっていることではあるが、念のために聞いておきたかった。離れている間に彼の気が変わっているようなら、今回の話はなしになる。当然だ。自分を愛してもいない者に攻めかかっても意味はない。

「嘘じゃない」

「でしょうね」

 きっぱりとした返事に、ため息が出る。この期に及んで彼はおのれの好意を否定しない。本命がいると見せつけておきながらこちら側も愛するなんて、どの口が言うのだろうか。

「それでも私はあなたを許せない」

 そう、許してはいけない。

「憎らしくて仕方がないの。ここで刺し殺してもいいくらいに」

 眉をひそめ、低い声を出す。

 清乃は彼から目線を外さなかった。彼もまた同じように、じっと彼女の声を受け止める体勢に入った。頬には汗のしめり気はない。その瞳は震えない。その心にはなんの動揺もないのだろう。

「いいぜ」

 彼の唇が動く。

 誠司はやや視線を上げ、口角を上げた。

「殺されてもいい。それを受ける義務がオレにはあるさ」

 覚悟をしたとばかりの返事。

 清乃は唇を引き結んだまま、無言を貫く。

 返事には間があった。

「でも、できない」

 彼女は視線を下げた。

 今一度、顔を上げ、彼を見据えた。

 崩れかかった表情。その目の端に涙がにじみ、ホロホロと雫がこぼれだした。

「狡いのよ。悪い人だって分かっているのに、どうして惹かれてしまうんだろう。どうしてあなたなんかが好きなんだろう」

 声が震えた。

 思いが口から溢れ出す。

 優しくしてくれたこと。

 いじめっ子から助けてくれたこと。

 救いになってくれたこと。

 愛してくれたこと。

 その全てが本物だった。

 彼の想いもまた真実だ。

 互いの気持ちは一致している。

 だからこそ、たちが悪い。

「じゃあ」

 彼が立ち上がる。

「嫌よ」

 清乃はピシャリと言い放つ。

「駄目なの。私はあなたの本命にはなれない」

 恋をしたのは事実。

 愛されたのも事実。

 それでも一線は越えられない。

 越えてはならない。

 やるのなら誠実な恋だ。

 彼と一緒にはなれない。

 それでも。

 愛してしまったからには、決着をつけなければならない。

 だからこそ――





 二人は寝室に移動した。男の部屋にしては整っている。カーテンと窓が開いていて、明るい雰囲気がする。絨毯を踏むと心地よい感触がした。壁際にはベッドが転がっている。真っ白なシーツに、薄い掛け布団。マットレスは広めで、二人で寝転がっても問題はない。


 暫時、脳内をこれまでの出来事や様々な想いが雑多になって巡った。葛藤はある。よりにもよって一夜で終わる関係になる相手に、初めてを捧げてもいいものかと。もっといい相手ならいるのではないか。

 だけど、自分を本気で愛してくれるような相手は、きっといない。いつか出会うとしても、この日と同じ情熱は絶対に手に入らない。一日で終わるからこそ、意味がある。その特別な関係性、暗がりに沈むばかりだった少女に光を捧げた彼だからこそ、初めてを預ける価値がある。後悔はない。これがたとえ間違いであったとしても、悔いだけは残さない。

「本当にいいのかよ?」

 これが最後のチャンスだというように、彼が呼びかける。

 清乃は彼を見上げて、目をそらさずに答えた。

「いい」

 きっぱりとした返事。

 その瞳は一ミリも揺るがない。

 一方、締め切った室内に熱がこもる。

「あなたに全てを奪ってほしい。そしてこの一瞬で燃え尽きたい」

 それが彼女の本当の想いだった。

 日が落ち始めた。窓の外では茜色の空が広がる。炎を燃やしたような色合いがグラデーションになり、情熱的な色をなす。それでいて天上についた丸い照明はついておらず、室内には静寂と薄暗がりに沈む。

 彼はじっと清乃を見据え、固く引き結んでいた唇を開いた。

「終わりにしよう」

 それが彼の結論だ。

 清乃は静かにうなずいた。

 高鳴る鼓動。終わりさえも実感が湧かぬまま、二人は一つになる。

 その背景で日が沈み切り、明かりが消える。夜空には月は昇らず、常闇が包まれる。視界がゼロなため、互いの顔すらも見えない。その感触だけがはっきりと伝わる。室温は低くなり、夜が加速する中、情熱だけが体の内側で燃え上がっていた。


 朝になった。クリアな窓から青い空が覗く。むくりと起き上がると、隣には彼が寝ていた。その寝顔は無垢で少年らしく、きれいに整っているようにも見えた。

 まだ彼を愛しているという自覚はある。初恋のような甘酸っぱい感情が胸に広がる。だけど、初めて海で出会った時のようなときめきはない。あの一夜に恋は終わった。この夏も。

 清乃は勝手に起き上がって服を着るなり、部屋を出た。

 始めは緊張していたが、思いのほか普通に動ける。彼への挨拶ができないのは残念だが、元よりあの一瞬で全てを終わらせるつもりだった。今の自分は彼の特別な存在であったとしても、恋人ではない。真の意味で愛し合うことは二度とない。だが、それでもいい。彼と一瞬でも交わり、決着をつけられた。それはすごく幸せなことだと、彼女には分かる。

 それから彼女は淡々を町を歩いた。外気は澄み切っている。涼しい風が吹き抜け、ワンピースがそよぐ。

 歩道を見知らぬ影がすれ違う。普段とは違う道を進んでいる影響が、新鮮な気分だ。今ならどこまでも歩いていってもいいかもしれない。そんな気持ちになってきた。まるで生まれ変わったような感覚。清乃はただただ清々しい気持ちを抱えている。心はすっきりと清らか。本当に悔いなどはなかった。

 まっすぐに歩き続ける。清乃は一度も振り返ることなく、帰路についた。


 それから彼女は日常に戻る。何事もなかったかのように時は動き始めた。

 夏が終わって、大学に通い始める。学内では勉学に励んで、図書館の本を借りて読んだりもしている。何事もなかったかのように、日々は続く。秋の空は晴れやかで、気候も落ち着いて、過ごしやすい。

 彼女の周りには穏やかな時が流れ続けている。それでも時折思い出すのは、誠司のこと。彼と過ごした夏は終わった。もう二度と、会うことはない。いや、会ってはならない。そを寂しいとは思わない。理不尽だとも感じない。自分たちの関係はそれで終わった。最後に大きな花火を打ち上げられた。それ以上は望まない。

 一つ思うことがあるとすれば、彼は自分を忘れるのかということ。覚えていてくれるのか。もしくは自分は彼に覚えていてほしいのか。何度か自分に問いかけた。

 結論は出なかった。

 清乃にとってはどちらでもいい。思おうが思うまいが彼女自身は彼を忘れることはできない。どれほど思っても、あの日々は戻らない。思えば何度でも甘酸っぱい感情が去来する。彼という存在はその胸に深く刻まされてしまった。

 彼が本当の意味で自分を想っていなくても構わない。悲しいとは思うけれど、それでもいい。この感情は一方通行でもよかった。あの日々は、あの夏は彼女にとっては二度と手に入らない宝なのだから。その結末がどうあれ、誠司と過ごした日々は宝石のように輝いていた。




 秋になり紅葉し、冬になり、葉が枯れ落ちて、春になる。季節は巡り、いつしか日差しは強く照りつけ、草木は青々と茂る。暑い夏が再びやってきた。

 鮮やかな青に染まる空ともくもくとした入道雲を見つつ、彼女は空調の効いた建物の中にいた。

「注文、来たよ」

「はい」

 バイト仲間の声に従って、テーブルのほうを向く。

 そこはカフェの中。現在、清乃は厨房の中にいる。厨房といっても別に料理をするわけではない。ただ、注文の品を運ぶだけの仕事だ。要はただのバイト。夏なので働いているのだが、夏の暑さには気が滅入る。活動する気も失せるというもの。

 それからあっという間に時は押し流されて、夕方になった。そろそろ帰れるといった時、バイト仲間の青年が徐に口を開いた。

「そういえば祭りが開かれるっぽいよ」

「へー、知らなかった」

 ぼんやりとしたリアクション。一見すると興味のなさそうな反応だが、実際は少し気になっている。なにせ祭りだ。昨年の思い出が頭をよぎる。少しばかりほろ苦い想いも抱いたが、別にいいかと思う。なにより祭りは特別だ。にぎやかだし、楽しい。行ってみたいな。口の中でつぶやいた。

 すると、相手のほうから誘ってくる。

「行こうよ」

「うーん」

 清乃は口をつぐむ。

 彼とは友達に近い関係だ。少なくとも知り合い以上ではある。信頼はできるし、相談だってできてしまう。連絡先は交換していないものの、付き合ってもいい。だけど、また昨年のことが頭をよぎる。

 彼はいい人だと思う。だけど恋愛感情を抱いているわけではない。相手とはそういった関係にはならない。なんとなく確信を得ていた。

「ごめん。相方としては付き合えないや」

 だから断った。

 すると相手はがっかりといった反応を見せるも、すぐに笑った。

「いいよ。じゃあ」

 手を振り、店から出る。彼の姿を目で追いつつ、清乃もまた外へ出る準備を整えるのだった。


 バイトを終わらせた清乃は、町に出た。ちょうど外には日和と美穂がいた。彼女たちはごく自然にこちらに近づくと、一緒になって歩き始めた。

「祭りがあるんだって」

「うん。個人的には行ってみたい」

 素直な気持ちを伝える。

 すると日和は困ったような驚いたような、複雑な表情を見せる。

「もういいの?」

 眉を寄せて、尋ねる。

 彼女が思い出しているのは誠司のことだ。

「あの人、最低だよね」

「もう一年だよ。いつまでグチグチ言ってるの?」

「それ、逆じゃない。あんたが言う立場でしょ」

「分かってる。普通ならあの人のこと、恨むべきなんだよ」

 でも、どうしても恨むことができない。一時燃え上がった憎しみに近い感情はすぐに鎮火された。

「じゃあ、どうして? なんであんたは許せるのよ」

「許したわけじゃないよ」

 きっぱりと答える。

「でもあの人だから、仕方ないよね」

 誠司はそういう人間なのだ。だからこそ自分は惹かれた。彼に惚れてしまったことだけは事実で、その好きという感情は今でも変わらない。


 すると、日和は不機嫌そうに唇をすぼめた。

「憎んでもいいんだよ?」

 咎めるように口に出す。

「あんたにはあいつを恨む理由があるんだから」

「確かにそうだけど。でも、違うんだ」

 清乃は軽く首を振った。はらりと長く伸びた髪が揺れる。

「善悪の問題じゃない。好きなんだ」

 想いは口をついて、表に出た。

 また、風が吹く。

 視線の先には青く晴れた空がある。曇りなく透き通っている。今の彼女の心の中を映したように晴れやかだった。


 それ以降、日和はなにも言わなかった。彼女も納得したのだろうか。だが、それにしては不満げな顔を崩さない。美穂もあきれたようにため息をついた。だが、それっきりだ。

「大学最後の夏だよ。名一杯楽しもうね」

 そう言って、別れた。

「うん」

 また手を振り合う。

 それぞれがそれぞれの場所へと向かっていく。

 その姿を見送った。

 さあ、夏祭りはちょうど明日だ。それまでに自分の考えもまとめておかなければならない。行くか、行かないか。最後の夏を楽しむにはどうするべきか。答えは意外とあっさり見つかるかもしれない。

 夏が終わっても、また新たに夏がやってくる。青春は続く。きっと大学を卒業してからも。

 その度に一年前のあの日を思う。

 顔を上げると鮮やかな色に染まった空が、視界に飛び込んだ。涼やかな風に髪が揺れる。夏にしてはひんやりとしていて気持ちがいい。遠くに蝉の声が響いている。それは夏の儚さを加速させているようだった。

 それは昨年の夏に似ている。

 何度同じ季節を繰り返しても、あの日と同じ情熱は戻ってこない。

 だけど、それはそれでよかったのだと思う。二度とないからこそ価値がある。ただ一度切りであったからこそ、あんなにも胸に焼き付いて、離れない。切なくもさっぱりとした気分だ。

 そのまま彼女は歩き続けた。長く伸びた影が通りの向こうへ遠ざかっていった。

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