本編 雑書き 古代

 本編


「最果ての地白妙で、地方官が殺された」

 夜にも関わらず篝火がまぶしい室内で、淡々と男は言葉を紡ぐ。

「近く、反乱の兆しが見える。貴様に地の平定を命令しよう」

 男――執政官の剣呑な目が、前に座す青年を見下ろす。

 相手は表情を変えなかった。

 ただ視線を下げ小さく口を開く。

「かしこまりました」


 それから青年は邸宅を後にし、庭に出る。あたりには数十名の警備兵が構えていた。彼らの横を通り抜けると、後ろから鋭い視線が刺さる。彼は構わず、足を進めた。

 門を抜けて振り返る。改めて見上げると立派な建物だ。重厚な軒丸瓦に緻密や積み上げられた石垣、敷地に張り巡らされた城柵。宮門と呼ばれるだけはある。それゆえにかの男の権勢振りを伺えて、思わず眉を歪めたくなった。


 ひとまず、静かに門を去る。丘を下りれば宮城を擁する都が見えてきた。


 ***


 夜明け前より出発する。

 舗装された道を歩いていると、都へ通う役人が近づいてきた。彼らはすれ違うなりフンと鼻を鳴らす。

「碑野鴻か。皇子直々の命令だとよ」

「服属された身でありながら、なんと生意気な」

 忌々しく吐き捨てる彼ら。その声は霞むように遠ざかっていく。おそらく、個人に直接言うつもりはなかったのだろう。

 しかし、生意気とは。

 豪族でありながら皇子と呼ばせている者こそ、生意気ではないのか。それに、羨ましがられることでもない。彼は確かに朝廷では地位を得てはいるものの、実際には使い潰されているだけだ。地方で乱が起きれば平定へ向かわされる。今回もついでに死ねばいいとでも思っているのだろう。俗に言う厄介払いだ。

 自分がなぜあの執政官に徴用されているのかは、分からない。他の者たちは本来の名ですら呼ばないというのに。

 そんな複雑な心境を抱えながら、鴻はどこまでも歩き続けた。


 ***


 都の周囲は整備が行き届いており、特に浪速とは大通りで繋がっている。彼は水門みなとより舟に乗って、南西の島――深奥へ向かった。

 潮音の水門にたどり着くまでは七日を要した。そこからは陸路を進む。北のほうは村や田が見当たるのだが、南に進むにつれて、自然が深く険しくなっていく。宿をとりながら進むこと、三日。最南の白妙にたどり着く。そこは村というより、穴蔵だった。家らしい家は見当たらない。人というより獣が潜んでいそうな場所だった。

 ひとまず侵入して、数歩足を動かしたところで異変に気づく。空気が変わった。鉄の臭いと、どこか禍々しい呪いにも似た気配がする。いったん、足を止めて、遠くを見つめた。白灰色の地面には血痕がついていた。奥の方ではだらりと腕を伸ばして倒れる人の姿も。数は数十体、いいや村の全ての人間が死んでいる。ここは屍の山だった。

 凄惨な有様を前にして鴻はただ言葉をなくして立ち尽くす。

 心すらなくしてしまいそうな状況の中、彼の耳にとある声が届いた。

「そのしなやかな鎧の装備……朝廷の者か?」

 声のした方に、視線を下げる。屍の中に埋もれるように、人の影がひそんでいた。

「武官だな」

 それが顔を上げる。つり上がった瞳に、長く伸びたまつげ。ほつれた横髪は頬にかかる。少女は鋭い眼光をほとばしらせ、青年を見上げた。


 少女は剣に手を伸ばし柄を掴むなり、立ち上がる。

 剣の切っ先がこちらへ向いた。血に濡れた刃には青年の姿が映る。彼は唖然と立ち尽くしていた。

 対する少女は鋭い目で青年をとらえる。その殺意と憎悪に満ちた瞳を見て、鴻の中でなにかが動いた。脳内を駆け巡ったのはこれまでのこと。東の地へ赴き、まつろわぬ民に降伏を促して回った。逆らう者には死を与え、碑を立て弔った。

 慈悲はあった。散っていく者たちの無念の気持ちが、胸に染み込んだのを覚えている。

 されども誰も彼を裁かなかった。現代では朝廷に逆らうことこそがいけないこと。役人は怪物を倒しているだけだ。彼らを野放しにすれば皆に危害が及ぶ。だから仕方がないのだと。そう言い聞かせなければやっていけなかった。

 だけど全ては現実逃避だったのだろう。

 苦い気持ちが胸にこみ上げる。心の震えを感じた。

 そして今、斬りかからんとする少女へ向かって、鴻は呼びかける。

「待て」

 彼の声に反応して、少女が静止する。彼女は表情を固めて様子を伺う。

「俺は確かに朝廷の者だ。この地を平定するためにやってきた」

 正直に打ち明けると彼女の目つきがさらに険しくなった。眉が釣り上がり、眉間にシワを寄せ、眼光は依然として刃のように鋭い。

「だが、お前を殺す気はない」

 まっすぐに彼女をとらえ、はっきりと伝える。

 彼は見逃すと言った。

 しかし、少女はかえって警戒心を強めたようで、こちらを睨みつけてくる。

「役人の言葉など信じられるか。捕虜にして宮城で奉仕させる気だろう? だったら殺せ!」

 唇を激しく動かし、声を荒げる。

「貴様らの手にかかり、使い潰されるくらいなら……!」

 彼女は剣の向きを変えた。

「ああ、私たちは最初から決めていた」

 刃の切っ先を喉に近づける。

 衝撃が全身を駆け巡った。焦燥が加速し、なにも考えられなくなる。先ほど繰り出された言葉が、頭から抜け落ちていた。

 鴻はとっさに地を蹴るなり、駆け寄って、少女を取り押さえた。

「離してよ!」

 彼女は必死にもがくけれど、女の力では男に敵わない。

 ついには諦め、しゅんとおとなしくなった。

「一緒に来てもらえるか?」

 彼女の顔を覗き込むようにして、問いかける。できるだけ声音がやわらかくなるように心がけたが、効果はなかったようだ。彼女の伏せた目には奴隷のような絶望の影がある。またそれは抵抗をしないことを意味する。彼女は体から力を抜いた。

 そして廃墟と化した村には、乾いた風が吹き抜けた。


 ★


 トボトボと歩き、平野に出た。あたり一面の大自然を区切るように、いくつかの河川が流れている。人の影はなく、田畑も見えない。遠くには山がそびえ立っている。

 移動の最中、互いに口を開かなかった。少女からは刺々しい視線を感じる。彼女はいまだに彼を敵だと認識しているらしい。今のところは名前すら教えてくれない。

 鴻は足を止めて振り返り、二人で視線を合わせる。少女はつり上がった目をしていた。

「私は朝廷と戦う。連れていきたいなら、いけばいい。代わりに名一杯暴れてやる。爪痕は必ず残す」

「戦って死ぬ気かい?」

 さりげなく問いかけると少女は口ごもった。

「ただで死ぬ気はないと言ったでしょう。あなたが止めようがなにをしようが、私は攻める」

 唇を尖らし、断固とした態度で主張をする。

「そうか。俺のほうもあなたを死なせるつもりはないよ」

 彼女の意見を聞いて鴻は却って口元をほころばせた。

「俺もあなたと同じだ」

「同じ?」

 少女が眉を動かし彼を凝視する。

 訝しむような視線を浴びても、鴻はなにも語らない。彼の思惑は少女の視点からすると、分かりづらい。真実を話しているかすら、測りかねる。だが、全てはどうでもよいことだ。

「もういいわ」

 少女は投げやりに吐き捨てる。

 彼女は地を蹴り、青年の横を通り過ぎ、ぐんぐん先へ進んでしまう。鴻も落ち着いて歩き出し、彼女の後を追った。


 もっとも、今日はもう遅いため、野宿をする。

 山のそばにできた洞窟の中に入り、薪を集めて、火を起こす。食事は予め持ち寄った山菜や獣肉を焼いて食べた。寝る時は茅でできた筵を敷いて横になる。少女は文句を全く口にしなかった。そもそも、話しかけても無視をされる。もしくは慣れているのだろうか。都に住まう身としては、遠征は命がけで、食糧も現地で調達しなければならない。生きて帰れるかすら定かではなかったのだが、彼女といれば、生き残れるような気がした。

 とにもかくにも二人は眠りにつく。


 そして、朝になった。

 彼女はすでに起きていて、出発の準備を済ませていた。背には弓と矢、首には勾玉の飾りを下げている。日の光の下では彼女の顔ははっきりと見える。それは非常に整った、美しい顔。だがしかし、どこか線が細く儚げで、今にも消えてしまいそうに見える。鴻は無性に不安になった。

「なにをしてるの? 行くよ」

 彼女は厳しい目つきで青年を見下ろす。

「ああ」

 彼も短く答えて起き上がると、洞窟の外へと足を向けた。


 宮城のある瑞穂は秋津島にある。上陸するには海を越えねばならない。まずは潮音という地域にある水門を目指して北上する。

 まずは川沿いに進み、山を越え、谷をまたぐ。山菜や木の実を採取しながら通り抜ける。荒れた道から平らかな場所に出る。そこは穏やかな河原だ。野原には葦が群生し、森の近くはさらに濃くなっている。いささか草深いが、泊まれなくはない。

 まだ空は青いが、じき茜がさしそうな感覚がする。

 食事にしようかと思ったとき、少女は勝手に川のほうへ向かってしまった。ならばこちらは野で狩りをしよう。そう振り返った矢先に獣の影。二対の瞳がきらりと光り、警戒を促す。

 それは猪だった。ためらったように足を動かし、目をそらそうとする中、鴻はためらわずに剣を抜いた。刃をひらめかせじっとそちらを見ていると、いきなり相手は襲いかかってくる。鴻は刃を振りかざした。まっすぐに突っ込んでくる獣を、上から切り裂く。猪は声を上げて、倒れた。

 ちょうど、そのころ少女が帰ってくる。

「早かったね」

 彼女の気配に気付いて振り返る。

 それと同時に少女は表情を変えた。

 そのときだ。背後で低い唸り声がした。急いでそちらを向くと、獣が立ち上がる。それは凄まじい勢いで駆け、尖った牙で突き刺さんとする。青年はとっさに対処をしようと、剣に手をかけた。が、彼が動くよりも先に横から矢が飛んでくる。まっすぐに飛来した鏃は獣の胴体に直撃。獣は恐ろしげな断末魔を上げて横たわる。猪は今度こそ動かなくなった。

「狩りが苦手だとは思わなかったのだけど」

「今回はたまたまだ。普段はうまくやっているよ」

 そこまで不器用ではない。訂正しようとするも、彼女はまるで信じなかった。

「まあいいわ。それよりも手厚く葬らなきゃ。神の肉をいただくのだから」

 少女は淡々と口にし、獣の屍へと向かっていく。

 そしてその手前で足を止め、目を飛ぶって、手を合わせた。

 鴻も真似て、弔った。

 それが終わると肉を解体し、その皮を袋状に縫い合わせたものに詰め込んで、持ち歩くことにした。

「無用な狩りはしないほうがいいのだけど」

「無用かな?」

 なんの気なしに尋ねると、少女は露骨にため息をついた。

「この世の全てに魂が宿っているものだから、いたずらに奪うものではない。それをいただかせてもらっているのは私たちのほう。ならそれに感謝をして、残さず活用するのが義務というもの」

 遠くを見つめ、彼女は語る。

「そもそも効率が悪い。本来は冬に行うものなのだから」

 咎めるようにきつく言う。

「そうか、ならばあなたに従おう」

 あっさりと答えると彼女は意外に思ったのか目を大きくし、また目をそらした。

 いつの間にか日が暮れている。河の近くの土が出た場所にむしろを敷いて眠った。この間も彼女は口を利かない。小言を挟む気配すらない。まだ信頼されていないのだと感じ、少しだけ寂しく思った。


 ★


 火煙という地にやってきた。

 険しい道のりは依然として続く。

 過去に幾度となく戦いが起きただけはあって、大地は荒れていた。

 ふと、少女が足を止める。彼女は遠くを見つめている。その視線の先には石碑があった。五つほど連なるようにして建っている。頑丈そうな岩だがずいぶんと苔むし、時間の経過を感じさせる。

 一瞬涼しい風が吹いた。少女の長い髪がさらさらとなびく。頭上では太陽が陰り、少女の顔にも影がかかる。その様子があまりにもさみしげなものだから、声をかけずらい。あの石碑の意味が分かるからこそ、「どうした?」とも尋ねられなかった。

 対して少女は自ら口を開いた。

「あなたたちが殺したんでしょう? 私たちを」

 か細いながらも、その声は尖っていた。

 自分が殺したわけではないとは言えなかった。実行者ではないにせよ朝廷に恭順しているのは確かだ。自らも東へと渡り、地元の民に降伏を呼びかけたこともあった。

 言い訳はできない。抗えずにいるのは確かだ。彼女からの叱責ならば受ける覚悟はある。けれども少女は唇を堅く引き結んだまま、前を向いた。こちらを責める言葉は飛び出さない。ただ、淡々と荒野を歩くのみ。鴻も彼女の後を追い、並んで進み始めた。二人の姿は荒野の向こうへと遠ざかっていった。


 そこからしばらくして、人の気配のする領域へと足を踏み入れる。

 川のそばには青々とした田が広がり、その隣には人の住む領域がある。堀と柵の内側に、藁葺の家が何軒も建っていた。やや離れた位置には豪族のものと思しき、高床の建物の見える。

 集落を通り過ぎようとしたとき、前方から声がかかる。

「これはこれは、朝廷の高官ともあろうものが、この辺境の地でなにの用かな?」

 逆光が解け、影が姿を現す。

 それは黒い衣と袴を身に着けた男。火煙の地区を任された地方官だ。

 後ろにはずらっと兵士が並ぶ。綿甲と呼ばれる外套状の鎧を身に着けて、ギラリと目を光らせ、構えている。偵察や見回りにしては数が多い。おおかた、反逆者を殲滅せんと独断で軍を動かしたのだろう。

 相手が朝廷の者だと分かるや、少女の反応が険しくなる。目の角が尖り、眉が釣り上がる。今にも飛びかからんとする勢いの中、男は悠然と口を開く。

「おっと、答えずともよい。本当は分かっている」

 ニヤリと挑発するような笑みを口元に貼り付け、彼は目を細める。

「話は聞いている。乱の鎮圧のために参ったのだろう。ならば私も協力して差し上げよう」

 そして男の視線が少女へと向く。彼女は露骨に敵意をあらわにし、腰に挿したナイフに手をかける。まさか、戦うつもりか。鴻が振り向く。少女は止まらず、駆け出した。腕を振りながらナイフを抜き取る。銀のナイフを宙にひらめかしながら、彼女は敵に挑みかかる。

 握り込んだナイフ、その切っ先を男へ向ける。なお、相手は余裕の態度で剣を抜くなり、攻撃を受け止めた。それはなんともあっさりと。少女は奥歯を噛み締めた。

 男はまた口の端を釣り上げる。

 彼が剣を振うとナイフは振り払われ、少女の手を離れた。次は彼女自身へ一撃を食らわせる番だ。

「その反逆の罪、私が祓ってさしあげよう!」

 大きくはっきりとした声が響く。

 彼女は毅然として睨み返す。傷ついても構わないとばかりにそちらへ突っ込む。接近戦では弓矢は使えない。ならば拳で殴るまでだ。

「そこまでだ」

 そこへ割り込む声が一つ。

 斬りかからんとする男の前に、青年がその身を滑り込ませる。彼の身につけた鎧が少女の目の前に立ちふさがり、金属質な光を放った。

「おやおや、これはどんな風の吹き回しかな?」

 揶揄するような視線の中、青年は凛と敵を見据える。

「官人らしくないと言いたいのだな。しかし、思えば私は朝廷に従う理由がない。逆らう理由もないし、逆らってはならないというのも分かっている。それでも、この地でくらい、私の好きにさせてもらってもいいのではないか」

 彼は少し視線を下げ、自分の気持ちを口に出す。

 対して少女は動きを止め、ぼんやりと前方を見ていた。彼の行動の意味が分からない。それでも彼が自分を助けたことは分かる。守ろうとしているこよだけは伝わる。そんな彼を見て心が動いている。その事実に自分が最も衝撃を受けていた。

「なるほど、つまりはあなたも反逆者というわけか?」

 滑稽だといわんばかりに男は嗤う。

 そう、無謀だということは分かっている。反逆したところで勝ち目はないし、目的は敵わない。それでも自分には為すべきことがある。それを証明するためにもおのれは剣を握らねばならない。

 青年と少女の心は同じだ。今彼女が身につけている勾玉の首飾りが、きらりと光った。

「俺は彼女を守る。それを捕らえるというのなら、切り払うのみ」

 声を張り上げて主張をする。

 一触即発の空気。ピリピリとした緊張感に風が加わり、肌に突き刺さる。息も詰まる状況の中、少女は一歩前に出た。

「待って」

 精一杯、呼びかける。青年がそちらへ目を向けた。彼女は眉を上げながら、彼を見上げる。

「止めるのか? 確かに敵の数は多い。それでも俺は反逆の意思を示す。やるしかないんだ」

「それはこちらだって同じだ!」

 彼の言葉に対して少女も大きな声で主張をする。

 自分一人だけなら戦っても構わなかった。このまま死ぬと分かっているのなら、戦って死ぬつもりだ。だけど、それは彼が自分を売った場合のみ。鴻が味方につくのなら話は別だ。

 彼をおのれの死に巻き込みたくない。だから彼女は別の手段に売ってでた。

「我が身に降りし夜の神よ、一時昼を奪いたまえ。我は日輪を撃ち落とさんとする者。今ここに月は満ちた」

 目を閉じ、詠唱をつむぐ。

 その唇が唄を語り終えたとき、その目は開かれる。

 そしてそれと同時に世界は暗黒に包まれた。

「なにだ? これはいったい」

 目の前で男が狼狽している気配を感じる。

 青年もまた突然のことで状況についていけない。ただなにか、神の領域を侵すほどの重大事が起きたことだけは分かる。

 闇の中、見えないなりに視線をさまよわせていると、急に誰かが手首を掴んだ。

 接近し、横を向く。となりにきたのは少女だった。青年はなにか尋ねようと唇を開き、言葉を用意せんとする。ただし、少女は彼の声を聞く気はなく、勢いよく地を蹴る。そのまま彼女は走り出し、闇の向こうへ気配を消した。


 しばらくして視界が戻る。空は快晴が広がる。爽やかな気候とまぶしい太陽に安心感を覚えるも、すぐに敵の姿がないことに気づく。

「惑わしの術でも使ったか! あの女め」

 声を荒げ、地団駄を踏む。

 部下たちは互いに顔を見合わせ、なにが起きたのかと右往左往。彼らがざわめく中、男は天を見上げ、思いっきり叫んだ。澄み渡る空に男の咆哮が獣のように響いた。


 ★


 いつの間にか闇が解けていた。空は晴れ渡り、遠くには青く茂る山々が見える。その麓で二人は足を止めた。背後には深い溝がある。本来は川だったのだろうが、今は干上がっているようだ。

 敵の気配はない。人の影もなく、今は広々とした場所に二人切りだ。

 少女はうつむき、迷いのある目つきであたりを見渡してから、ようやく口を開く。

「さっきのは私の術だ。神を降ろし、権能を行使する。私は月の化身として闇をもたらし、皆の視界を奪ったんだ」

「それはまた、初めて聞く」

 鴻はぽかんと目と口を開き、感心した。

「それはあなたたち一族のみの話か。いままで倒した者の中にも、そういった者はいなかったが」

「そう。だから捕まって朝廷で働かされる。今も祭りのときに滑稽な踊りをさせられているでしょう? それが私たち颯海」

 眉を釣り上げ、こちらを見上げる。

 鴻が思い出すのは祭りの日の光景。宮中で舞いを踊る見知らぬ者たち。彼らの動きは苦しみもがいているようだった。まるで溺れているかのようで気にはなていた。彼女のいう滑稽とはそれを指すのだろうか。

 考え込んでと急に彼女が顔を上げる。

「それよりも倒したとはいったい?」

 咎めるような目つきだった。

「ああ」と彼は口に出す。忘れ物を指摘されたかのような言い方だった。

 それから彼は引き締まった顔になり、彼女の目を見て、口を開く。

「畿内の周辺、東国。各地を巡ってまつろわぬ民に服属を呼びかけた。説得ができなかった場合は武力で制圧したこともあった。私はそれを殺したんだ」

 少女は黙って聞いている。

「だからこれは罪滅ぼしだ。神が許せども俺自身が許さない。俺はあなたを助ける。必ず瑞穂まで送り届けよう」

 青年がはっきりと告げる。

 対して少女は目を伏せた。

「別に構いやしないよ。東国なんて遠すぎる地の出来事でしかないんだし。それに私たちは本当はそういうものに口出しできない。侵略に憤ることすら許されないのだと思う。たとえそのように定められた民族だとしても」

「それはどういう……?」

 尋ねようとした。

 彼女は答えない。視線を外し、前方に見える山々を見据える。その目は陰っていた。

「でも、どうしてあなたは私たちを肯定するの? 朝廷の者なのでしょう。彼らにとっては私たちは化け物でしかない。罪の意識すらない。殲滅は大義名分に過ぎないのに」

「いいや」

 彼は否定する。

「大原王朝という名を知っているか?」

「知らない」

 少女は首を傾ける。

「だろうね。滅ぼされ、名を消されたから」

 一呼吸置いたのち、あらたまったように彼は告げる。

「俺はその王朝の生き残りだ」

 その告白を聞いて、少女は目を見開く。

「国土を奪われ今は朝廷に服属する。隷属した俺をあなたは蔑むだろうか」

「別に」

 淡白に彼女は答える。

「うちにも似た者たちはいる」

 彼女は蔑まない。だが、このままではいけない。胸を張って生きていけるとは言い難い。ゆえに彼は決意をしたのだ。

「俺はなにもできないと決めつけ、逃げてばかりの日々から脱する。あなたに感銘を受けたんだ、その失わない闘志に」

 彼女は口を引き結び、沈黙している。なにか言いたげな目をしていたけれど、唇は開かなかった。

 彼は続ける。

「俺は王朝の生き残りとしてやるべきことをする。今ある秩序を破壊し本来の国を取り戻す」

 それは彼の背にのしかかる祖霊の意思だ。そうしろよ運命が告げていた。

「これはその証明だ」

「乱を起こす気なの?」

 彼女が目を向ける。

「ああ」

 彼は答えた。

「分かった」

 彼女はうなずく。

「よかった」

 ほっと胸をなでおろす。緊張が解け、口元が緩む。

 彼女もまた穏やかそうに笑った。

「私の名前を教えておく。美弦だ」

 柔らかな声でおのれの名をつむぐ。

 そこへ一陣の風が吹く。干上がっていた小川に水が流れた。今、ようやく二人の間にまたがっていた溝が消えた気がする。


 第二幕


 平野を歩きながら話し合う。

「怒らないで聞いてくれ。俺は二人で国を相手に勝てる気がしない」

 正直に打ち明けると彼女は真顔で前を向いたまま、口を開く。

「別に構わないよ。私は負けると決まってても戦うから」

「いや、そうじゃなくて」

 先走る彼女を引き止めるように、彼は口に出す。

「仲間を増やそうよ」

 鴻の言葉に、美弦は振り返る。彼女は丸い目で彼を見た。

 二人では難しくとも、団体でなら敵うやもしれない。例えば軍と同じだけど勢力を持つ相手と手を結んだり。

「そう、だな」

 ややあって彼女は口を動かす。

「火煙の地には土雲なるものがいる」

「東国にもいる。朝廷に服属していない者たちだ」

「ああ。私は彼らに協力を仰ぎたい」

 目線を外し、空を見上げる。いまはまだ明るいが歩き続ければじき暮れる。集落にたどり着くころには間に合うだろう。

「行こう」

 鴻が声を張ると少女もうなずく。かくして二人は歩き出した。青々よ生い茂る草原を抜け、大きく横たわる川をまたぎ、人里離れた山の奥へ。

 美弦は何度かそこへ足を運んだことがあるようで、足取りに迷いがなかった。集落へ至る最短の道筋を熟知している。たたついていくだけで道が開けていくようだった。

 ほどなくして入り口にたどり着く。足を止めるや否や、びゅんと鋭い音が頭上からした。矢の鏃が目の前を横切り、地面に突き刺さった。びくりと体を震わせながら顔を上げると、堡塁が視界に飛び込んだ。石で作った足場には何人もの兵が構えている。男女混合で皆、弓矢を携えていた。

「待って。私たちは侵略のためにここに来たんじゃない」

 美弦は前に躍り出て、両手を広げて示す。

 堡塁の中央に立つ女戦士は彼女を一瞥するなり、眉を釣り上げた。

「貴様のことは分かっている。だが、そこの者は朝廷に仕える者。そんな輩を連れてくるな」

 鋭く切り捨てるような言い方だった。

 しかし、相手からすればごもっとも。現状、鴻は土雲の信頼を得られない。いかに説得をするべきか迷っていると、上から声がかかる。

「正直に言わずとも分かる。我らを朝廷に引き渡すつもりだろう」

「いいや、違う」

 顔を上げて叫ぶ。

「俺たちは朝廷に反逆をする。あなたたちに協力を仰ぎに来た」

 なお、戦士たちは聞き届けてはくれなかった。

「私はお前を求めてはいない。危害を加える気がないのなら去れ」

 非難の目つきと声に萎縮する。鴻はなにも言い返せない。

 ピリピリとした空気の中、両者はにらみ合う。戦士たちは弓を構えて、矢をつがえる。今にも次の矢が放たれるかというとき、水を打つような声が奥から放たれた。

「やめよ」

 凛と透き通った声に戦士たちは反応して、そちらを向く。堡塁の奥のもっと暗い場所から一人の女が現れ出る。彼女は人目で酋長だと分かる見た目をしていた。耳には環状の飾りが垂れ下がり、白い衣の上では勾玉飾りが光る。目元は赤土で彩られ、一歩足を動かせば裳がひらりと揺れる。

「無駄なことだ。朝廷の者に見つかった以上、真意はどうあれ、戦うか見逃すかでしかない。それでもあちらが戦わぬと言うのであれば、武器を控えるのみ」

「しかし……」

 酋長の提案にためらいを見せる戦士たち。

 相手は周りの反応に目を配るよりも先に、こちらを見た。

「どうやら証拠を見せなければ納得してくれぬようだ」

「そうはいっても、どうしろと?」

 剣を放り投げてみればよいのだろうか。

 首を傾けて突っ立っていると、酋長は次のように言った。

「もう一度尋ねる。汝はこちら側につく」

「ああ」

「嘘はついておらぬのだな」

「間違いはない」

 はっきりと彼は主張する。

 堡塁の上では戦士たちが硬い目つきで地上を見下ろし、隣では美弦が不安げに様子を見守る中、酋長は切り出す。

「よかろう。ならばその身で汝の潔白を証明してみせろ」

 彼女は二対の目を光らせた瞬間、場の温度が変わった。

 戸惑う青年を置き去りに、彼女は儀式を開始する。

「汝の身を業火が包む。我らの味方であればその身は守られ、敵であれば灰となるだろう」

 言葉を放った瞬間、なにもないところから炎が上がった。青年の視界は赤い色に包まれる。思わずぎょっとし、体がこわばる。しかし、なぜか熱さを感じない。視界が陽炎のように揺らぐのを感じながらも、炎は一向に彼の元まで到達しなかった。

 そしていつの間にやら炎は消え去り、景色は元に戻る。

 場は静まり返り、皆で顔を見合わせている。横では少女がほっと息を漏らした。鴻からしてみればなにが起きたのかは分からない。ただ証明が為されたことは分かる。先ほどの炎で焼かれなかった彼は、見事におのれの正直さを示したのだと。

 今、この場で為されたことは絶対だ。証明されたのだから信じるしかない。戦士たちは弓矢を下ろし、敵意を潜めた。

「手荒な歓迎ですまなかったな。さあ、中に入るがいい」

 酋長は微笑み、入り口に向かっていく。

 鴻も戸惑いながら足を前に出す。彼は少女と二人で奥にある土雲の住処に突入するのだった。


 ★


 中は意外と広かった。土を盛って作った穴の中に、生活区域がある。まるで獣の住処だ。土色の空間を歩いていると洞窟を探検しているかのようだ。それはいかにも原始的で不思議な感覚を抱く。

 物珍しげにあたりを見ていると声をかけられる。

「ここに住まうのは私たちだけではないのだが」

 顎に指を添えて考え込むような顔をしてから。

「私が許可したのだ。あちらも認めるだろう」

 彼女は勝手に結論を出し、ぐんぐん先へ進んでしまう。二人は顔を見合わせつつ、前を向き、後をついていった。

 狭い通路を抜けると大広間に出た。とはいえ所詮は穴の中だ。家具や調度品は置かれていない。土の匂いが主張するほか、あたりにはしっとりとした空気が広がっていた。

「サトメ」

 たすきがけをした女が前に出る。格好は女酋長と似ているが顔は違う。彼女のほうが垂れ目だ。そしてその視線は近くにいる女酋長に向いている。彼女の名がサトメなのだろうか。

「紹介しよう。彼らが協力者だ」

 サトメは腕を広げ、手の先で鴻と美弦を示す。

 二人はピンと張り詰めたように背筋を伸ばし、前を見据える。その先には土雲たちが並んでいた。数は最初に入り口に現れた者たちよりも少ない。肉体も細めだ。皆、白い衣を見に抜け、腰のあたりで紐を結んでいる。その中心に立つ女は、眉をひそめてこちらを見てくる。

「鎧姿の男が味方になるなんて初めて聞いたな」

「でもいいでしょう。サトメ様が言うんだもの」

「それもそうだな」

「おう、皆で宴でもしよう」

「盛大にもてなすんだ」

 彼らはのんきに口にし、オーオーと拳を突き上げる。

 歓迎されたということでいいのだろうか。サトメの信頼は厚いようだ。

 対して別の女酋長はいまだに口を引き結んでいる。彼女は難しそうな顔をして、佇んでいた。

「オトメ、いいだろう?」

「文句は言わない。あたしたちに逆らう権利はないのだから」

 唇を尖らし、彼女は口に出す。

 オトメろ言われた彼女はこちらに不満がある様子だ。それでも問答無用とばかりに攻撃を仕掛けてこないあたり、良心的だ。そのように鴻にはとらえられた。

 とにもかくにも今宵は宴だ。この開けた空間に二つの一族が皆で集まり、豪勢な食事をする。ゴツゴツとした土器には香ばしい汁が注がれる。中には獣肉や野の菜が贅沢に入っていた。木の匙ですくって飲むと旨みが口の中に広がった。朝廷で支給される食事よりも大雑把な味がする。優劣こそ語りにくいものの、こちらのほうが生を取り込めるという感覚がして、自然と高揚した。

 お礼として鴻は酋長に毛皮を提供した。


 とにもかくにもその日は穴の中で泊まることにした。

 次の日から土雲との生活が始まる。だいたいの相手とはすぐに打ち解けた。狩りをしたり、水を汲みに出かけたり。住処に戻ってからは、たわいもない話をすることもあった。

 鴻は聞かれたことならなんでも話した。深奥へきた過程やこれまでの旅の記憶を包み隠さず、打ち明けた。

 そうした中、急に後ろから声がかかる。

「どうかしてる。こんなのを受け入れるなんて」

 低く押し殺したような女の声だった。

 振り返るとそこには黒い目をした女が立っている。

「敵なんでしょう? そいつを受け入れたら私たちは上に興じることにならない?」

 声を張り上げ、同意を求めるように、周りに固まっている男女を見やる。

 皆は目を合わせ、小声でなにかを話している。内容は分からないが戸惑っていることは伝わってくる。

「出ていって」

 女は勢いよく距離を詰める。

「さあ、早く」

 眉を釣り上げ、尖った目で睨んでくる。

 彼女の怒りに押され、鴻はたじたじになる。彼がなにも言えず棒立ちになっていると、そこへ新たな影がやってきた。

「そうか、汝は勝ちたいとは思わぬのか」

 凛とした女の声だった。

 顔を上げてそちらを向く。先ほどから喚いていた女の背後に、声の主が立っている。普通の土雲よりも上質な衣と飾りを身に着けた彼女は、感情を表に出さずに、そこにいた。

 酋長の気配を確かめるなりたちまち相手は体をすくめ、弾かれるように振り向いた。

「気持ちは分かる。だが、手段を選んではいられないのだ。私たちは孤高のまま戦えるほど、強くはない」

 まっすぐな目をして、酋長が語る。

「今は彼の力が必要なのだ」

 迷いのない目で訴えかけるように発言する。

 相手は目をそらし、小さくなった。果たして彼女に酋長の気持ちは届いていただろうか。

 ただ女はそれっきり、唇をつぐんでしまう。

 そして相手は黙ってこの空間から出ていく。周りに集まっていた者たちも気まずくなったのか、次々と移動を始めた。土雲は影も残さず消え、この小部屋のような空間には、酋長と青年だけが残される。

 酋長は口を固く引き結んだまま直立している。敵意というよりは静かな佇まい。しかし友好的というよりかはいささか硬い。二人は互いの距離と関係を見計らうように様子を伺い合う。

 ややあってようやく鴻は口を開いた。

「先ほどは、ありがとう」

 はっきりと伝え、口元を緩める。

 感謝の気持ちを伝え満足したのか、あっさりと彼女の横を通り過ぎ、背を向ける。彼は小部屋を後にした。サトメはただ一人、なにもない空間に佇む。やはり彼女は一言も発しなかった。


 遺構も土窟での生活は続く。鴻と美弦は鉄から武器を作ったり、食糧を備蓄したりといった準備を進める。皆で話し合い、瑞穂を攻める作戦を話し合う。そうした日々の中である出来事が起こった。

 それは鴻がたまたま狩りに出かけようと狭い通路を抜けようとしたときだった。

「もうやめてよ! 降伏するのよ」

「それはできない。私たちは最後まで戦う」

 金切り声に対して落ち着いた声が答える。

 なにやら諍いの気配がしたため、気になってそちらへ近づく。部屋を隔てる土壁に降れつつ、その先にある空間を覗き見る。そこには二人の似た格好をした女が向き合っていた。

「そうやって何人もの命が散っていったことか。分かってるの? あんたのやり方じゃいたずらに死人が出るだけよ」

 険しい顔つきで相手を睨む。その女の名はオトメだ。対するサトメは冷静に彼女の言葉を受け止めようとしている。そこに畳み掛けるようにオトメは叫ぶ。

「あんたが私の仲間を殺させたのよ! あんたのせいだ! なにもかもっ!」

 大きく口を開き、尖った歯をむき出しにする。

「あんたさえいなければみんな、死なずに済んだのよ」

 責めるように呼びかける。

 その言い方はどちらかというと、そうあればいいという思いが込められているように感じた。なにもかもが目の前に立つ女のせいであればいい。全て押し付けてしまいたい。そんな気迫に似たものを感じた。

 だからこそ、鴻は前に出る。

「それは違うよ」

 はっきりと彼が主張する。

 二人は振り向いて、彼へ視線を向けた。

「俺はくわしいことは分からない。仮にも敵であった者が口を挟むなと思うだろう。それを承知で言わせてほしい」

 一呼吸置いた後、彼は言葉を繰り出す。

「死んでいった者たちは自分の意志で戦ったんだ。彼らの思いをあなたはなかったことにするのか?」

 青年は鋭い目つきで相手を見据える。

 どうしようもなく心がかき乱されていた。どうしてだろう。目の前で散っていった者たちを見たからだろうか。同じく朝廷と戦って、死んだ者たち。山奥の忘れられた地区でひそかに戦い、存在を抹消された者たち。

 いいや、今は関係ない。鴻はまぶたを閉じた。

「フン。あんたもサトメの味方をするのね」

 近くで吐き捨てる声を聞いた。

「もういいわよ」

 オトメは不機嫌そうに言うと、歩き出す。ぼうっと立ち尽くしている二人を置いて、部屋から出ていった。


 また二人切りになる。

 重たい沈黙が土に囲まれた空間を満たす。風すら感じない湿っぽい場所で、また二人は向き合った。

「すまない。恥ずかしいところを見せたな」

「別に構わないよ。恥をかいたのはどちらかというと、オトメのほうだ。子どものように喚くところを見られたのだからな」

 深刻そうな顔をするサトメに対して、鴻は気軽に言葉を返す。

「汝はあくまで私側につくのだな」

 彼女は苦々しく笑んだ。

「感謝しよう。だが、彼女の言っていることは正しいよ」

 視線を上げ、眉を寄せる。青年をとらえる二対の瞳からは硬い光がこぼれた。

「私の行いは残酷だ。生き残ることがなによりも大切だと分かっていながら、戦わざるを得ない」

 それは間違っている。その選択を否定するように、彼女はうつむく。

 皮肉げに口元を歪めながら、彼女は笑う。

「変わっていく国のあり方にあらがっている。無駄だとは分かっているのに」

「無駄ではないだろう」

 彼女にかぶせるように、青年が言葉を放つ。

 サトメは顔を上げた。きょとんとした目で彼を見澄ます。

「勝てばいいのだ。たとえ敗北したとしても、誰かが我々の遺したものを拾ってくれる」

 鴻は穏やかに語りかけた。

「未来に残ればいい」

 それが真理だというように青年は言う。

 それを聞いて安心したのか、サトメは肩から力を抜いた。

「そうか。そうであれば、よかったのだな」

 息を抜きつつ、彼女は口にする。

 一度彼方を向き、目に見えないなにかをとらえるように、視線をさまよわせた後、ふたたび前を向く。

 そして女は微笑んだ。その口元に花が咲く。その姿を見て鴻は一瞬、彼女に目を奪われる。美しい。その言葉が脳裏をかすめる。そう、彼は彼女に魅了されたのだ。

「本当のことを話そう」

 落ち着いた声が闇に響く。

 意識が現実に引き戻された。

 青年はあらためて彼女と視線を合わす。目を向けた先には真剣な顔をした女の姿があった。

「いくら証明が為されたとはいえ、私は警戒を続けていた。どうせならこの目で確かめたかったのだ、汝の人となりを」

「分かったのか?」

 食い入るように尋ねる。

「ああ。私はたしかに見た。汝は人のために尽くせる者だ。たとえ敵であったとしてもその人格は否定できまい」

 すっきりとした顔で彼女は答えた。

 それを聞いて鴻自身もほっとした。

 彼女と分かり合えた。その感覚に胸の底が温かくなるのを感じていた。


 ★


 夜の闇に包まれた宮中。薄暗い空間に篝火が灯る。

「やはりか、否我に取っては都合がよいともいえるな」

「いかがします?」

 鎧を身に着け、剣を携えた女が尋ねる。

 彼女と向き合う男――紫の冠とかぶりし王は、ただ冷淡に口に出した。

「殺せ」


 ***


 広々とした、獣の巣のような空間に戦士たちが集まっている。皆で武器を握りしめ、いよいよ乱を起こそうかというとき、急に突風が吹き込んできた。否、それは風などではなく。

 瞬間、斬撃が空を駆け巡った。

 土壁が崩れ、人々が切り刻まれる。戦士たちは倒れ、地には血が広がる。

「相変わらず古い時代に取り残されたような生き方をしているのね、あなたたちは」

 女の声が響いた。

 奥のほうにいた戦士たちが一斉にそちらを向く。皆、戸惑いで瞳が揺れ、頬には汗が浮かんでいる。なにが起きたのか分からない。嵐の神が君臨したような惨状。

 それでも見える。入り口を踏み込め、沓で地を踏む謎の女。鴻と似たような鎧を身に着け、長い剣を携えた人物。朝廷からの刺客。あれが敵だ。

「うおおおおお!」

 戦士たちが一斉に駆け出した。

 皆で各々の武器を手に、立ち向かう。

 女はその場から動かない。攻撃を全て受け止めるつもりか、それとも。

 出遅れた二人が見る前で、それは起こる。

 女が剣を振るったのだ。その刀身は鋭く、磨き抜かれたような光りがあった。その刃が宙を撫でると、そこから無数の刃が繰り出される。立ち向かった者たちは弾き飛ばされ、地面に落ちる。そこからまた血の赤が広がった。

 生き残れた者は誰一人としていない。

 かろうじて酋長が汚れた地面から這い上がる。彼女は弓と矢を手に、攻撃を放とうとする。そこへすっと女が近づく。堂々とした足取りで距離を詰め、すっと刃をひと撫で。

 斬撃の音と共に血が噴き出す。

 酋長は目を見張ったまま、崩れ落ちる。今度こそ彼女は倒れた。

 そしてそれを二人は為すすべがないまま、見ていた。

「あんたね、反逆者は」

 沓で地面を踏みしめる音がした。

 妖艶な声に反応して、顔を上げる。

 つり上がった目を赤で彩り、耳元では金属の輪が揺れている。その手には長く霊妙な輝きを放つ刃を携えていた。

 彼女の姿とその武器を見た瞬間、美弦は憎悪をあらわにする。

「貴様!」

 押し殺したように叫び、奥歯を噛みしめる。

 彼女は獣のようにうなり、すぐにでも目の前に飛び出しそうな勢いだった。対してそんな彼女の反応が気に入ったのか、女は楽しげに口角をつり上げる。

 まさしく一触即発といった状況の中、奥から足音が迫る。

「話が違うじゃない!」

 押し入って早々、叫んだ。

 鴻がそちらを向く。入り口に立っていたのは白い衣にたすきがけをした女。サトメとは違う酋長。その名はオトメだ。彼女の存在こそが彼にとっては不意打ちで、鴻は目を丸く見張った。

「どうしてあたしの村までやられてるの?」

 声を荒げるオトメに対して、女は挑発げに笑いかける。

「敵との約束を守るわけがないじゃない。それに裏切ったのはあんたのほうでしょう?」

 目を細め、彼女は言う。

 えと、言葉を失うオトメに対して、女は畳み掛ける。

「仲間を売ったのはあんたよね。わざわざ敵を招いておきながら、自分の大切なものだけは無事だと期待するなんて、甘いわよ。ええ、虫がよすぎるともいえるわね」

 それは相手が過ちを犯したという事実がおかしくて嬉しくてたまらないといった様子だった。

 そうした中、オトメはみるみる内に青ざめ、言葉を失う。

「あんたの大切なものを奪ったのはあんた自身。おわかり?」

 また追い詰めるようにジリジリと詰め寄る。

「本来なら殺されていたのはあなたもよ。まずは生き残れたことに感謝しなさいよ」

 彼女の言葉になにも言い返せない。オトメは奥歯を噛みしめる。それからまだなにか言いたげに唇を動かすけれど、やがてあきらめ、おとなしくなった。

 そんな重たく、鬱々とした空気に耐えきれなかったのは、美弦だった。

「自分でやっておきながら、なんなんだそれは」

 眉と目をつり上げ、一歩を進む。

「まるで自分はなにも関与してないみたいな言い草じゃないか」

 我慢ならないとばかりに口を激しく動かす。

「ええ、そうよ。これは天から下された罰よ。なにだってそう。罪を犯した者には罰が下る。死も病も、おのれの罪の証じゃない」

「ここで皆が死んでいったのもそのせいだとでもいうのか? それを為したのは貴様なのに」

「あたしは単なる代行者よ。反逆を企てる愚か者に天の代わりに誅を下す」

 堂々と当たり前のように女は主張する。

 対して美弦は奥歯を噛み締め、怒りをあらわにする。

「ふざけるな」

 思いのままに声を張り上げる。

「待て」

 慌てて手を伸ばすも彼女は聞かない。

「罰を受けるのは貴様のほうだ」

 武具を構えながら駆け出した。

 女はその場から動かない。戦いなら望むところだとばかりに剣を閃かせる。

 本来なら戦いになる、はずだった。けれども、鴻はそれを選ばない。どうしてか、分からない。ただ、彼女を止めたかった。だからなにも考えず、考えることができぬまま、少女の腕を掴んでいた。

 美弦が振り返る。目を大きく見張って。

 鴻は目を合わせなかった。目を伏せ、走り出す。彼女の腕を掴んだまま。

 そうして彼は破壊された土壁を踏み越え、外へと逃げていった。


 対して女は静かに剣を収める。

「見逃しちゃったわね」

 目の前の空白を見つめ、肩をすくめる。

 がっかりという言葉とは裏腹に、なぜか彼女は楽しそうに微笑む。

「でもいいわ。機会はまだまだあるのだから」

 視線を上げて、舌を口からはみ出させ、唇を舐める。

 ちょうど太陽が天高く昇っている。女の心には期待で満ちていた。


 ★


 陣地を抜けて平野を走る。

 豊峰山と呼ばれる大きめの山を背に移動をし、入り組んだ地形へと逃げ込んだ。左側には雑木林が広がり、ブナやケヤキが雑多に生えている。傍らには深い谷が形成され、清らかな水が流れている。ヒガラのせわしないさえずりを聞きながら、二人は足を止め、向き合った。

「どうして戦わなかったの?」

 美弦は恨むような目で彼を見上げる。

 鴻は一瞬、口ごもった。答えにくかった。が、ごまかしても意味はない。正直に話すことにした。

「立ち向かえなかったんだ」

 重たい口を開きながら脳裏をよぎったのは、女が持っていた剣だ。普通の鉄よりも鋭く、霊妙な輝きに目を奪われた。見た瞬間に普通ではないと分かったし、体の芯が冷えるのを感じた。

「あの酋長――オトメという人が裏切ったのは、自分の命が惜しかったからだと思う。あれと同じように本当は俺も、恐れているんだ」

 すらすらと口に出して、途中で思考が止まる。

 自分はいったいなにを恐れているのか。死ぬことか、戦うことか。それとも――

「あの人は賢い選択をしたんだよ」

 答えを出す前に彼女の声が耳をかすめる。

「みんな死んでしまった。巻き込んでしまったんだね。やっぱり一人で抱え込むべきだったのかな」

 少女をうつむき、言葉を吐く。

 伏せた目元に影が下りる。

「あなたのせいではない。我々が関わらずともいずれは、こうなっていた。それに……」

 それに。

 あなただけではない。

 そう言おうとして、口が止まった。

 それは本当に言ってもいいことなのだろうか。

 なにか言い知れぬ恐れが背中を撫でた。

 勇気を持って立ち向かえるといえないのに、彼女の仲間だと口にしても、よいのだろうか。

「あなたは俺を疑わないのか?」

「なんのこと?」

 首をもちあげ、訊いてくる。

「あの女を呼んだのは俺かもしれない。密告した。裏切ったと」

 目をそらし、口をモゴモゴと動かす。

 本当はやっていない。

 分かっているのに本当に自分が敵を呼び寄せてしまったような錯覚に陥る。

 あの惨状が頭の裏で蘇る。暗黒の闇の中で赤い血だけが嫌に目立っていた。

「今さら、いいよ」

 さびしげな声で少女は話す。

「殺されかけたのはあなただってそうでしょ。むしろ、狙いはあなた自身かもしれない。裏切ったなんて、思わないよ」

 当たり前のことを当たり前に語るように、彼女は主張した。

 美弦の発言を聞いて心にぽかっと明かりが灯るのを感じた。

 しかし、もし相手の狙いに自分も入っているのだとしたら、次のようにも言えるのではないか。あの女は自分を追いかけてくる。つまり、行く先々で関わる人間も危険に晒す。もちろん、行動を共にする美弦も巻き込む。

 急に不安になる。自分の存在が霞むような感覚がした。足元が落ち着かない。

 そんなとき、少女の声が鼓膜を揺らした。

「逃げてもいいよ」

 そばで水の音が大きく流れていく。

 胸の鼓動がざわざわと音を立てた。

「私は一人でも戦うから」

 顔を上げて、力強い眼差しで告げる。

「後悔はしないよ。あなたと出逢ってしまったことも、これからの運命も。だから、大丈夫だよ」

 彼女のつり上がった眉と刃のごとき眼光をとらえて、胸が震えた。熱いような悲しいような複雑な気持ちが喉元までこみ上げてくる。

 このような状況で、大切なものを失い、協力者も見せしめのように滅ぼされた光景を見て、それでもなお彼女は闘志を失わない。美弦はすでに覚悟を決めているのだ。

 あらためて思い知らされて、心に感動にも似た悲しさが広がる。それと同時に違う思いも膨れ上がる。それは火山のように熱く、激しい感情。

「一人では行かせないさ」

 ただ、見捨てたくないと。

 その思いを刻むように改めて告げる。

「一人には、しない」

 それが彼の答えだ。

 少女はかすめに目を見張り、驚きを見せたが、やがて穏やかな表情になる。先ほどまで固く引き結んでいた唇はゆるやかな弧を描き、三日月のような笑みを浮かべた。

 青年もまた堂々とした顔になる。

 そう、このときに彼は決めたのだ。もう逃げないと。戦うと。

 顔を上げ、空を広げる。曖昧な青を視界に入れながら、彼は思う。

 朝廷の行いは残酷だ。許されてはならないし、止めなければならない。その決意は固く強く、彼の胸に焼き付いた。


 ★

 松明を掲げ照らしながら、夜道を歩く。

 慎重に渓谷を抜けて平野に出ると、水の流れが穏やかになった。

 遠くには巨大な岩も見える。浅い川を越え、足元を濡らしながら近づいてみると、陰に遺跡があった。空間は広い。

 松明の炎を向けてみる。。

 ぽっと明るくなった地面に、銅剣が転がっているのが見えた。松明を掲げてみると、壁画が照らされる。とぐろを巻いた蛇だ。狩猟をしていたころに描かれたものだろうか。

「蛇神様だ……」

 ぼんやりと口をついて漏れた言葉。

 美弦はきょとんと首をかしげる。

「普通の人なら趣味が悪いとか言うのに」

 意外な反応だと、彼女は口にする。

「俺も一瞬だけ不思議に思った。なんで蛇が描かれてるんだろうって。そりゃあかっこいいけど」

 青年は壁画を見据えながら淡々と言葉をつむぐ。

「でも不思議ではないんだ。昔の人は蛇を祀っていたからな。ほら、あの赤い目。太陽のようではないか」

 口調は速くなり、語りにも熱が入る。

「蛇、好きなの?」

「もちろんだ」

 力を入れて主張する。

「あの細長いうねうねとした姿、なまめかしいだろ」

「嫌らしい言い方」

 美弦は眉を寄せる。

「別に欲情しているわけではない。崇拝しているんだ」

 彼は軽やかに語りを続ける。

「蛇は神秘的な生き物だ。縦に割れた瞳孔からは人ならぬものの気配がする。なによりも永遠の命ともとれる生命力。お守りとして抜け殻も持っているんだ。見るか?」

 目を輝かせながら言葉をつむぎ、懐を漁る。

「もういいよ。その気持ちは本物だって分かったから」

 彼女はこれ以上、聞く気はないらしい。

 鴻もあっさり話をやめて、口を閉じた。

 それから美弦は深く息を吐いて。

「もう寝ましょう」



 夜が明けた。

 晴れた空から日の光が差し込む。

 青年は目を開けた。横を見ると燃え尽きた薪があり、その隣には少女が座り込んでいた。

 まさか早くに起きているとは。もしくは自分が気を抜きすぎたか。

 ぼんやりとそう思っていると、急に美弦が首を動かし、視線を向けた。

「どうかした?」

「いいや」

 淡白な反応に、美弦はくすっと笑う。

「そ。じゃあ行きましょう」

 彼女は立ち上がり、裾のあたりを払いながら、入り口を向いた。

 歩き出した少女を目で追いつつ、鴻も同様に立ち上がる。

 美弦が外へ出ていくと、彼もそれを追いかけ、遺跡を後にした。



 二人はまた水門を目指す。そこは九つに分かれた国の内の、最も北西にある。

 現在はいまだに火煙。水門のある潮音は、琴葉という国にある。そこへ行くには峠を越えなければならない。

「あまり通りたくはないのだがな」

「弱音?」

 低い声でつぶやくと、美弦が顔色を伺ってくる。

「いいや。泣き言は吐いていられない」

 鴻はハッキリと言い切ると、黙って足を動かす。

 山に囲まれた狭い道のりは険しく、おそらくは意図的に作られたものだ。

 強い日差しの下、汗をかきながら進む。

 路端の祠に見守られながら上ったり下ったりを繰り返す。

 そうしていると急に開けた場所に出たため、腰を下ろしてひと休み。

 ふところから笹の葉でくるんだものを取り出す。包みを解くと中からほんのりと赤く色づいたいいが出てくる。かぶりついてみれば、やはり普通のものよりも、堅かった。隣では美弦がなにやら丸いものをかじっている。木の実をすりつぶして焼いたものだろう。鴻からして見れば初めて見る。

 彼女は彼のことなど気にせずに、木の実の塊を食べ続けている。鴻も強飯を咀嚼しながら、竹でできた水筒を取り出し、冷たい水を流し込む。喉を潤すと、懐に筒をしまい、立ち上がる。

 美弦も同様に前を向き、二人は足を前に運ぶ。

 そうして平坦な道を進むと、景色が左右に流れていく。

 いよいよ村が見えてきた。


 ★


 左の敷地には瑞々しい田が広がっていた。溝を挟んだ向こう側には茅を被った家屋がいくつも並んでいる。

 一見すると穏やかな風景だが、この場にはピリピリとした空気が流れていた。

「さあ米を納な。もっと出せるだろ? ここは肥沃な土地だ」

 青田を背に男が立ち、腕を組む。

 反対側には村人たちがずらっと並び、代表と思しき女性は険しい顔で、彼と相対していた。

「神に捧げる贄はあっても、朝廷に渡す税はないのよ」

 彼女は強気に吐き捨て、唾を吐く。

 後ろに構える者たちも同意を示すかのようにうなずき、眉をつり上げ、睨んでいた。

「いいのかい? 俺の裏にはあの有名な豪族もいるんだぜ」

 男は口の端を釣り上げ、せせら笑うように言葉を吐く。

「下手な真似打ちゃぁ、よ。潰されるぜ、村ごとよ」

 得意げな顔で話す。

 女性はくっと奥歯を噛んだ。

 本来であれば玉砕してでも立ち向かい所なのだろうが、村を盾にされてはどうしようもない。

 同様に男も仲間である強者を笠に着て、おのれを強く見せようとしている。

「気に食わない」

 鴻が落ち着いて様子を見る中、急に美弦が厳しい声音を出し、前に出る。

 彼女はまっすぐに男の元へと歩いていく。

「なにやってるの? こんな真似して、恥ずかしくないわけ?」

 眉を寄せ、口をへの字に曲げて、苦言を呈する。

「なにをやっているか、だと?」

 男も彼女の接近に気付いて、そちらへ顔を向けるなり、口を開く。

「よく見れば反逆者どもではないか。お前らこそこんなところでなにをしている? わざわざ捕まりに着たのか?」

 わざと煽るような口調で呼びかける。

 実に挑発的な態度だ。

 彼女はそれを喧嘩を売ってきたと判断した。

 目の角を尖らせ、拳を石のように握りしめる。

「おい」

 慌てて手を伸ばすも、遅かった。

 少女は拳を振り上げ、男を殴り飛ばす。

 彼は派手に転んで尻もちをついた。

「俺たちはいちおう、追われる身だ。下手な真似をしたら」

「関係ない!」

 差し伸べられた手を振り払うように、美弦は言い切る。

「私はこいつが嫌いなの。それに元から反逆者でしょ?」

 激しい反論を食らって、鴻は黙り込む。

 本音を言えば戦いを避けて通りたかったが、少女には本当に関係がない。反乱を起こす予定ですらあったのだから、今さら誰と戦ったところで、変わらないだろう。

 二人は互いの顔だけを視界におさめ、周囲のことなど気に配っていない。村人たちの困った反応やどよめきは耳に入らず、地の上にいる男が睨みつけてきたのにも、気づかなかった。

「やってくれたなっ!」

 男はいきなり腰を上げるなり、少女に襲いかかった。

 彼女の華奢な首元に手を回し、取り押さえる。

 美弦はなおも不遜げに相手を見上げる。抵抗はしなくとも、彼女の目には敵意の光が満ちていた。

 と、そこへカランとなにかが落ちる音がした。見ると地面に鞘に収まった剣が転がっている。青年が手放したのだ。

 鴻は両手を上げて、戦う意志がないことを示す。

「よい判断だ」

 にやりと男が口角を上げる。

 負けを認める潔い態度に気を良くしつつ、無防備な青年に迫る。

 美弦は動かない。仮に抵抗を見せようが、拘束からは抜け出せないだろう。

「隷属者はそうでなくてはならない。ああ、全く他の連中は美しくなくてな」

 両手を開き、余裕のある足取りで距離を詰める。

 男に相手を害するつもりはない。あわよくば仲間に引き込もうとすら、合作している。

 なお、そんな彼の前で鴻は拳を作り――

「おお?」

 気の抜けた声を出した直後、男の視界に拳が飛び込む。

 彼は顔面を思いっきり殴られ、再び吹き飛んだ。

 背中から沈んだ敵を尻目に、鴻は地面に手を伸ばす。転がっていた剣を素早く回収し、鞘を抜いた。

「ゲホゲホ、なんだってんだよ、いきなり」

 理不尽だというように言葉を吐き、文句を言いたげに、顔を上げる。

 が、そこに映ったのは、銀色のひらめく鉄の刃だった。

「ひぃ……」

 男の顔は熱を失い、唇は青ざめた。

 思考は止まり、自身の目的すら喪失した。

 恐怖。

 その本能が赴くままに、男は背を向けた。

貴宗たかむね様ああ!」

 例の豪族の名を呼んだ。

 勢いのまま駆け出し、小さな溝に足を取られて転びかけながら、男は逃げる。

 それがあまりにも無様な格好で、溜飲が下がるようだった。

 ふっと息を吐く青年。

 少女は目を丸くして、突っ立っていた。

 ただただ驚くばかりといった彼女に、彼は語りかける。

 まずは弁明を。

「事を荒立てるつもりはなかったんだ。ただ、あなたに手を出されては、仕方がなく」

「ないそれ。私を理由にされているようで、気分が悪い」

 突っぱねるように言い、そっぽを向く。

 だが、彼女はすぐに彼を見つめ返した。

「でもありがとう。守ってくれて」

 少女はそう、穏やかに微笑んだ。

 彼女の言葉は彼の胸にも染み込み、温かな気持ちになる。

 向き合う二人の間にはゆるやかな風が流れていた。


 ★


「あの、ありがとう」

 不意に後ろから女性の声がかかって、振り返る。

 家の並ぶほうから女性がやってきて、足を止めた。

「きついのぶつけてくれてよかった。彼、嫌いだったから」

 実感のこもったような口調で語る彼女は先ほどとは打って変わって、おしとやかに見えた。

「あの人、立場にかこつけて全てを奪おうとするでしょう。困るのよね。倉に溜めてはいるのだけど、いうほど豊かではないのに」

 息を吐きつつ、遠い目をする。

 話を聞いているとやるせなくなってくる。

 向こうが上で、彼女たちが下。そう決めつけられ、搾取される日々。

 しかし、冷静に考えると、上に立つ側であるのは鴻も同じだ。元より彼は消えた王朝の末裔。彼女たちと同じ地に立って同情をする資格はない。

「田の神様が微笑んでくだされば……」

「それって?」

 美弦が尋ねる。

「鹿や猪が現れて、荒らすのよ」

 眉を垂らし、重たい口調で情報を伝える。

「それなら、獣を追い払えば助かるのか」

「ええ」

 彼女はおとなしくうなずく

「あの」

 女性が視線を上げる。

「手を貸してくださるの?」

 純粋な清からな瞳だった。

「構わないよ」

 即答する。

 頼まれてもいないことを勝手にやるほどおせっかいではないが、相手が困っているのなら、手を貸すのが道理だ。

「え? いいの?」

 驚き目を見開いたのは女性ではなく、美弦だった。

「少しくらいいいじゃないか」

 彼女のほうを向いて気楽に伝える。

「あなたが言うならいいけど」

 美弦は視線をそらし、ぽつりとこぼした。

 不満はあっても文句はないらしい。

 一方で女性は日の光を浴びたように顔色明るく、目をパッと開く。

「まあ、それではよろしくお願いするわね」

 声を弾ませ言うなり、頭を下げる。

 彼女はこれで気が済んだと言わんばかりに身を翻し、家屋のほうへ歩いていった。


 二人はこの場に残る。

 だが、二人で同じ場所に固まるというわけではない。

 鴻は山へ向かい、美弦は田の前に立つ。

 要は別行動だ。茂みをまじまじて観ながら進み、麓に近づく。ちょうど足元をにょろにょろとしたものが通ってきた。蛇だ。首根っこを掴み、宙に晒す。鴻は蛇を持って歩き出す。そのままもと来た道を引き返し田に戻ってみると、獣の影が見えた。枝分かれした角としなやかな体躯を持つ生き物――鹿だ。

 足を止め、ぼんやりと考える。毒の餌でも使おうかと。

 そんな中、少女はすっと前に出る。彼女はあっさりと鹿に近づき、その体に触れ、撫でた。鹿はおとなしく、逃げたりなどしない。

「さあ。あなたの住処へ帰りましょう」

 柔らかな声音で呼びかけると、鹿もすんなりということを聞き、離れていく。

 相手は田の向こう側へ行き、森へと入っていった。

 まさかこのようなやり方もあるのか。

 鴻はただただ感心するばかりだった。

 そうして彼がぼんやりと突っ立っていると、美弦が顔を向ける。

「あなたはなにをする気なの?」

 彼女に言われ、意識が現実に戻る。

「ああ、そうだった」

 やるべきことを思い出し、ひとまず蛇から手を離し、田に放つ。

 草原よりもくすんだ色をした長い生き物は、水の中に入り込み、うねうねと這い始めた。

 それから様子を見ていると、いつの間にか日が暮れる。あたりが暗くなってきたころ、ちゅーちゅーという鳴き声が聞こえてくる。地味な退色をした小さな鼠だ。稲の葉をかじろうと、水田に忍び込む。が、そのとき、蛇が口を開け、牙を覗かせる。

 敵に気付いた蛇はたちまち仰天し、怯え、逃げていった。

 害獣を追い払ってから蛇は田の中心まで蠢き、案山子の足元に巻き付き、這い登る。そして、衣を締め付けようというところで動きを止め、白くなる。それっきり蛇は白く固まり、案山子と一体となった。

 よく分からないが、うまくいったことでいいのだろうか。

 二人はその光景を真顔で眺めていた。


 ★



 それから二人は女性に呼び出されて、篠家に入った。

 中は意外と広かった。囲炉裏には鍋が吊るされ、中には固粥は蒸してあった。そこから石のような色をした器に米が移され、隣には汁物もある。ワカメが入っただけといった質素なものだ。豪華というわけではないが、量が多い。

 隣では美弦が土器に入った食事を前に、ぽかんと口を開いている。木の匙は用意されているが、果たして本当に手をつけてよいものか。様子を見る彼女に対して、女性はにこやかに告げる。

「どうぞ、ご遠慮なさらず。私たちにとってあなたがたはマレビトです」

 彼女は手で料理を指し示す。

 美弦はおずおずと匙を掴み、固粥を食べ始める。

 黙って食事を味わう彼女を横目に、鴻は女性に視線を向ける。

「マレビト?」

「ええ。ひょっとしたら、本当に神の化身なのかもしれませんね」

 そう言って彼女は笑みをこぼし、口元を隠した。

 鴻としては報酬を求めてやったわけではないが、彼女の感謝の気持ちは嬉しい。素直に受け取っておく。

 囲炉裏の炎も相まって明るい雰囲気。そんなとき、急に木々のざわめきが主張をする。暗闇の向こうでは風が吹き、葉が舞い散っているのだろう。どうにも不穏。空気もかすかな陰りが生まれた。

「北でなにかが起きているのでしょうか」

 女性もそう不安げにこぼすのだった。


 その日は彼女の家で夜を明かし、土に敷いた筵の上で朝を迎える。

 贅沢な朝食を取ってから外に出た。さっそく出発というとき、後ろから女性が声をかけてきた。

「どうぞ」

 巾着の袋の部分を持って、こちらに差し出す。受け取ると麻のざらっとした手触り越しに、中身の硬い感触がした。

「干し肉や干飯。それと、栗や椎の実が入っています」

「それは備蓄していたものだろう。いいのか?」

 確認を取ると、女性は笑って答えた。

「構いません。どうか、ご武運を」

 ハッキリを伝え、唇を閉じる。

「そちらこそ。ありがとう」

 青年は穏やかに返し、美弦と一緒に彼女に背を向け、歩き出した。

 チラリと振り向くと、女性は家の前で手を振っていた。いつまでも。そうして、見えなくなるまで振り続けることだろう。そう思うと嬉しくなる。温かな気持ちになりながら前を向き、足を動かし続ける。


 目指すは潮音。さらに北だ。

 昼間の内に着くだろうけれど、早く着きたいことに変わりはない。ちょうど向かう先には森がある。

「ここを抜ければ港に出る。通ったことはないから道は分からないが」

「大丈夫なの?」

 美弦が真顔で問う。

「陸路ならどの道でも無茶だ」

「そうじゃなくて」

 迷うのではないかと美弦は心配しているが、鴻は聞かず、森へと突入してしまう。

 美弦も渋々、後を追う。

 ところが鴻の後ろ姿が見えた瞬間、彼はいきなり足を止めた。

「なんなの?」

 怪訝げに尋ねようとしたとき、あたりに霧が立ち込める。前が見えない。くわえてこのひんやりとした感覚。身震いがするほどの霊気だ。

「これ、まずやつだ」

「ああ、分かっている」

 二人は速攻で引き返した。

 森の外に出るなり、周囲は明るくなる。

「普通の道を進もう」

 彼は森に背を向け、なにもかもなかったことにして、先へ進む。

 そんな彼をあきれた顔で見つつ、彼女もまた足を動かすのだった。


 山道を通り、着実に目的地を目指す。

 風が強く、木々がざわめく。鳥たちの姿は見えず、空を雲が覆い、日差しを遮っている。

 歩けば歩くほど、妙な気配が強くなっていく。森で感じた霊気に近い。ここから先になにが待ち受けているのだろうか。嫌な予感が背をなぞっているのだが、足を止めることはできなかった。二人はどうすることもできないまま、歩き続ける。


 ★


 丘が見えてきた。

 その頂きには苔むした祠がある。

 異様なのはその人の数だ。男女が混じり合い、祠の周りを廻っている。

 そこへまた異なるものが接近する。剣を持った二人の男が一人の女性を囲い、連行してくる。彼女は後ろで手を縛られ、歩いていた。唇は引き結ばれ、目つきは凛としながら、瞳は恐怖で震えている。

「鎮まり給え鎮まり給え」

「清浄なる血を捧げたもう」

「我らが魂なる土へ」

 人々は踊り、儀式を続ける。

 物の怪と遭うよりも恐ろしげな光景。

 血の気が凍るかと思った。

 危機感を覚え、呼びかける。

「待て」

 急いで駆け寄ろうとするものの、人の壁に阻まれて前に進めない。

「よそ者は黙っておれ」

 老婆が振り返る。

「手出しは不要だ。それとも村を滅ぼしたいか?」

 厳格な声に背筋を正しつつ、それでもと彼は口を開く。

「ああ、俺はたちはなにも知らない。だからこそ、そのよそ者に教えてほしい」

「無知なる者に教えるぐりはないわい」

 強い口調で老婆は答える。

 なんとも頑なな態度だ。一歩も引こうとしない。これは参ったと思ったとき、不意に足音が近づき、止まる。

「生贄だよ」

 端的な言葉を放ったのは、貫頭衣を着た少年だった。細身の体にすっきりとした顔立ちをしている。鴻と美弦はそろって彼のほうに注目し、目を丸くする。

「なんだそれは、くわしく教えてくれないか?」

「生贄という字の意味が分からぬのか?」

「いいや、そんなことではない」

 鴻は首を激しく横に振る。

 なおも少年は口を閉じたままでいる。鴻はもう一度質問をするために一歩前に出ようとした。そんな彼を制するように、美弦が声を上げる。

「止めるのが先だ。多少、強引でもいい」

 ハッキリとした響く声で主張する。

 鴻もうなずき、少年の横を通り抜けた。

 さっそく攻める。まずは黙って前を塞ぐ人間の首元に手刀を叩き込む。相手は前に倒れ、道が開ける。鴻は先へと進んだ。前に出て真ん中にやってくるなり、男の背後を取った。鴻が剣を掴んだとき、隣では美弦がもう片方の男を組み伏せていた。

 うまくいったか。

 そう思ったとき、村人たちが一斉にこちらを向き、尖った視線を向ける。

「賊め」

「囲むぞ」

「逃がすな」

 口々に言いながら彼らは、二人に群がる。

 鴻は思わずのけぞり、「うおっ」と声を上げた。

「人殺しめ。なんのつもりだ?」

 激しい剣幕で追求する。

 まるで怨霊のような形相だ。魔に取り憑かれているようですらある。だが、鴻は冷静に接する。

「あなた方が言うのか?」

 やや引きつつ尋ねるも、相手はなにも答えない。

 開放された女性は覚えたように縮こまっている。

 なおも敵意を向けてくる村人に対して、鴻は両手を上げて訴える。

「こちらは災厄をもたらしたいわけではない。そちらもいたずらに人を殺したいわけではないのだろう。理由があるのなら教えてほしい」

 彼の問いかけを聞いて、村人は静まり返る。

 いまだにピリピリとした空気が漂う中、美弦が横から尋ねた。

「人殺しってどういうこと?」

「儀式を完遂せねば村は滅びる。祠に祀りし神が荒ぶり、生贄を求めておるのだ」

 老婆は答える。

 ついで他の者たちも神妙な面持ちで唇を開く。

「これまで何名も生贄を出した」

「だが、神の怒りは収まらん」

「それじゃあ意味がないでしょ」

 勢いよく美弦が話に割り込む。

 それから彼女は落ち着いて語りだす。

「こんな話を知ってる。村と村の境に荒ぶる神がいた。村人は生贄を捧げ続けたけど、神の怒りは収まらない。そうして村は滅んでしまった。ね、似てると思わない? あなたたちの未来もこれと同じになるんだよ」

 決まりきったというように、断言する。

 これには村人も黙り込む。

「なんの解決にもならない。分かっていたさ、そんなこと」

「しかし、どうすることもできないんだ」

 彼らは目をそらす。

「じゃあ、心当たりはないの?」

 美弦は眉をしかめつつ、問いを投げる。

 しかし、彼らはだんまりを決め込んでしまう。

 ならば自分で手がかりを探すまでだと言わんばかりに、美弦は祠へ視線を動かす。鴻もそちらを向いて、祠を観察することにした。それはなんの変哲もない岩だ。古い印象を受けるがただそこに立っているだけで、存在感が薄い。まるでなにか重要なものが抜け落ちたかのようにも感じる。

「なにかが足りない」

 ぽつりとこぼし、美弦は視線を上げる。

「ねえ、元はなにか封印とかを施してたんじゃない? ほら、蛇が混じり合ったような風の縄とか」

 視線を向ければ、村人たちは互いに顔を見合わせ、ざわめき出す。

「しめ縄、切ったのではないのか?」

「解けたんだ」

 鴻の言葉に対抗するように、村人の一人が返す。

「ここの神は元は人に仇なす者。それを倒してくださった者がいた」

「我らは神を封印したんだ。それをあろうことか」

 男は苦々しく語り、口を曲げる。

 一方で美弦は深くため息をつき、眉をひそめる。

「封印したことに問題があるんだ」

 重たく口に出す。

「きちんと祀らなかったでしょ? 弔わないといけないよ」

 厳しく言い切るも、相手の反応は芳しくない。

 いちおう原因は分かった。まずは神を鎮めなければならないということも。

 だからといって無力な者たちではなにもできない。

 困ったという空気が流れる中、美弦は言う。

「とにかく、生贄はもうやめて。後は私たちがなんとかするから」

 彼女の言葉に村人は顔を見合わせ、眉を寄せ合う。

 本当にまかせてもいいのか。

 そう言いたげな彼らだが、この場では聞き入れるしかなかった。

 人々は散り散りになり、村へと帰っていった。


 ★


 鴻と美弦も移動を始めた。そこに少年もついてくる。皆は川辺を歩きながら話を始めた。

「元凶は朝廷から来た豪族だよ。自分の知らない神が深奥にいることに腹を立てて、祠を壊そうとしたんだ」

「朝廷、ね。ほんと、ろくなことしないんだ」

 朝廷の豪族。それを聞いた美弦の顔つきが険しくなる。

 今にも「そいつはどこにいる」と問い質しそうな勢いだ。

「だが、破壊はできなかった」

 対して、鴻が落ち着いて言葉を投げる。

「壊す前に結界を解いたんだよ」

 それは先ほど話を聞いたため、分かっている。

「それから剣で叩こうとしてね。そうしたら黒い霧が吹き出した。そうして神は荒ぶり始めて、村で死人が出るようになったんだ」

 少年は淡々と話を続ける。

「神を止めるには生贄を差し出すしかない。じゃあ、誰を選ぶのか」

 一呼吸置いた後、彼は答えを口に出す。

「あの豪族が手を挙げたんだ。神を怒らした責任を取ると」

 つまり、朝廷からきた豪族は死んでいる。南の村で威張り散らしていた者の後ろ盾は、なくなっている。

「道理で報復が来ないと思った」

 相手が死んでいるのなら、当然のことだ。怨念となって襲いかかってくる可能性はあるだろうが、その豪族にはそんな義理はない。元より因縁などあってないようなものだ。

「責任を取ったから赦される? なんか虫がよすぎるんじゃないの? そもそもの発端はあの人なのに」

「なにもしないよりは、という問題でもないのかな。実際に状況は変わっていないわけだし」

「そう。解決のために奔走するんじゃなくて、死ににいったんだから、そんなの逃げているのと変わらない」

 彼女のいうことはもっともではある。実際に豪族が犠牲になっても、神は静まってはおらず、生贄は続くことだろう。

 また、今のところ神が仇なしているのは村人たちだけであり、外部の人間は関係がない可能性もある。本当の意味で逃げられたかもしれない。それをしなかっただけ、責任感がある。要は無鉄砲ではあるものの、男気はある人間ということだ。

 不満げに唇を尖らせている美弦に対して、鴻は特になんとも思わなかった。


 そうこうしている間に、村が見えてくる。環壕の中の広い敷地、大まかに区切られた区域に、住居や市場・祭祀の場などが置かれている。

「なんて立派な。まさに国だ」

 美弦が息を呑む中、鴻は平然と立っている。

「ふん、国とね。すでに滅んだ後だがね」

 そこへしわがれた声がした。

 そちらへ目を向けると老婆が田の前で杖をついていた。

「国が滅んだ?」

 目を丸く開いて、美弦が問う。

 後ろで風が吹きつけ、木々が揺らぐ。ざわざわとした感覚が肌を撫でた。

「詳しく教えて」

 せっかちに距離を詰める少女に対し、老婆は面倒臭げに目をそらす。

「さあね。生まれる前だから分からないよ」

「相当昔なんだ?」

「ああ、大きな戦いがあったと聞かされたよ」

 退屈そうに老婆は語る。

「じゃあ祠は?」

 神が祀られたのはいつの話なのか、鴻も聞きたい。

「子どものころからあったね」

 なんの気なしに、相手は答える。

 それを聞いて美弦はなにやら感じ取ったような表情をした。それから唇を閉じ、引き締まった顔をして、前を向く。

「そう。分かったよ」

 彼女の中で答えが出たらしい。

 しかし、鴻にはピンと来ず、呆けている。

「それよりも、まだなのかい?」

 急に老婆が尖った声を出す。

 鴻にとってはなにのことだか分からず、間抜けな顔をしてしまう。

「なんの手がかりもなしにぶらぶらと、よくものこのこと来られたものだよ。早く神を鎮めないのかね?」

 嫌味たらしく言い捨て、顔をしかめる。

「でも、悪くはない判断でしょ。なにも分からない段階では対処のしようがない。ここに来たことで情報は掴めそうなんだし」

 美弦は口元を三日月型の笑みを讃え、堂々と主張する。

「でも急がないと。白羽の矢が立っちゃう」

「丘へ戻るのか?」

「違う」

 美弦は真面目な顔をして、否定した。

「かつての戦場。そこは多分国境だ。昔あった国の跡地。開けた場所にあるはずだよ。そう遠くはないはずだ」

 自信を持って彼女は言った。


 ★


 二人は進む。

 霊気が濃い場所へ、誘われるように。

 丘を上り、山を越えた。

 高地に足を踏み入れた瞬間、周りの景色は一変する。

 すすけた空に地を這う砂塵、鉄の臭い。そこは剣戟の音響く戦場だった。

 二つの勢力がぶつかり合う。数にして数百。何者かが剣を振るえば刃が頭に突き刺さり、相手は倒れる。傷ついた者たちがうめき声を上げた。

「これは幻か」

 もしくは白昼夢なのだろう。

 唖然としつつ呟くと、隣で美弦がうなずく。

「土地に残った魂――思いの残滓が私たちに見せてるんだ。霊魂が森羅万象を形作るように」

 彼女は続ける。

「その正体は荒ぶる魂。村人たちが封印した神だよ」

 鴻は美弦のほうを見つつ、自身の頭も動かしていた。

 祠に封印されていた神の正体は、亡国の戦士だ。それは分かった。彼らが荒ぶる理由も分かる。しかし、その目的が読めない。村人たちは戦いとは関係がない。恨む理由がない。

 否、本当は恨んですらいないのではないか。意志は消え、思いだけが残った。魂は荒ぶり、それが持っている記憶を現世に呼び起こそうとしている。ただ、それだけではないかと、鴻は考える。

「この人たちはただ、荒ぶってるだけ」

 さみしげな目をして言葉を吐いた。

 美弦はどうやら彼と同じことを考えていたらしい。

「戦いで全体の半分が命をなくしたと聞いた」

「では、村の数が半分になれば終わるのではないか?」

「それじゃいけない。犠牲は最小限にしなくちゃ」

 首を横に振り、声を張り上げ主張する。

「だが、どうするんだ?」

「私に任せて」

 美弦は彼のほうへ顔を向け、自信を持って宣言する。

「土地の縁を使って、祖を下ろす。頼んで、止めてもらうんだ」

 彼女のいうそれは降霊術だ。普通の人間では為し得ない特別な行為。本当にできるのかは分からないが、彼女を信じるしかない。鴻は一歩下がり、様子を伺う。

 すると少女は目を閉じ、気を落ち着かせる。意識を鎮め、集中力を高めた後、口を開く。その唇は静かに言の葉をつむいだ。

「黄泉に眠りし王よ、眠りから覚め、現れいでよ。汝は混沌を正す者。神として身を下ろしたまえ」

 唇を閉じ、詠唱を終える。

 直後に風は止まり、音が消えた。

 一瞬の静寂。

 空気の震え。

 なにが起きているのかは分からない。だが確実になにかが変わった。本能で感じ取り、知らずしらずの内に鼓動が加速する。

 鴻は視線を上げ、空のあたりを見渡す。その前方に光が現れ、それは影となり、姿を現す。

 巫女だ。白絹姿に管玉を首に下げ、耳環を光らせている。

 彼女は澄んだ瞳でこちらを見るなり、柔らかな唇を動かした。

「名は照媛。豊委とよとも国の女王です」

 巫女――否、女王はハッキリと名乗る。

 降霊は成功だ。美弦の声に応え、彼女はこの世に姿を現した。


 刹那、重たい気配が周囲に立ち込める。

 嵐のようなすさまじい強風。目を腕で庇いつつ、その隙間から様子を伺う。

 そして鴻はカッと目を見開いた。

 そこに忍び寄るのは濃い影だ。禍々しい念をまとい、ゆっくりと迫ってくる。それは巫女の気配に引き寄せられるように姿を現した、荒神だ。

 鴻は立ちすくむ中、照媛は堂々と立っていた。彼女は両手を広げ、訴えかける。

「退きなさい。戦いは終わったのです」

 冷静な声に対して、納得できぬとばかりに、影は吠える。宙で轟音が雷のように響いた。

 なおも巫女は静かに告げる。

「国は滅び、史書からも葬り去られた。それでもよかった。あなたたちと過ごした日々が愛おしかった。それさえあればよかったのです」

 照媛はそう言って眉を垂らし、笑いかける。

 それでよかった。

 いや、違う。

 本当は失いたかったのだろう。続けたかったのは照媛のほうだ。

 また風が唸り出す。草木が揺れ、新緑の葉がハラハラと散った。

 なにもかもを承知した上で、照媛は言う。

「気づいて。そこにはなにもない」

 目を伏せ、祈るように。

「あなたはそこにはいない」

 淡々とした声は明確に真実を穿っていた。

 また空気が震えた。激しく葉が落ちていく。まさしくなにかが崩れ落ちていくかのようで。その癖、なんの音も聞こえなかった。ただ事実として核心を穿たれてはもう、おのれを保てない。

 風が止む。荒魂の輪郭が薄れ、空気に溶けていく。

 最後になにかを言ったような。だけど、その絶叫は届かない。全ては幻だったのかもしれない。

 かくして魂は消滅し、今度こそ鎮まり返った。

「終わりました」

 女王が振り返る。

 彼女はこの土地に刻まれていた、最後の痕跡すら洗い流してしまった。もはやここに国があった証はない。それなのに、巫女はなぜだかすっきりとした顔をしていた。

「私の役目は終わりました。もはやここに残る理由はありません」

 伏し目がちに巫女はつぶやく。

 二人は引き止めなかった。唇を引き結んだまま、硬直している。

 元より引き止める理由がない。元より、荒ぶる魂を鎮めさせるためだけに、彼女を呼んだのだから。

 また、風が流れ出す。西の空で日が動き、空を鮮やかな色に染め始めた。

 照姫は顔を上げ二人の顔を見やる。口元を緩め、最後にこのように話す。

「どうか、あなた方の行く先に光があらんことを」

 草葉がきしみ花びらが舞う中、彼女の影は薄れ、霧のようになった。

 その跡に光の粒子が残り漂っていたが、じきに見えなくなる。

 戦場の跡もなくなり、今では荒野が広がるのみ。

 日は沈み、夜になった。

 照媛がこの土地に刻まれていた思い出まで持っていってしまったかのようで、寂しくなった。


 ★


 夜。普段なら皆が寝静まり、深い闇に覆われる時間帯。ところが今日は打って変わって、にぎやかな様相となっていた。

 祠の周りに村人たちが集まっている。

 ある者は舞を披露し、またある者は高坏に盛られた食事に食らいつく。

 祭りだ。飲めや食えやと騒がしい中、美弦と鴻は端のほうで座り込み、おとなしくしていた。

「ねえ、早く出ていかないのか?」

「まあ、待とう。これも大切なことだ」

 美弦がピリピリとする中、鴻はゆったりと構えている。

 村人たちが国魂たる神を祀るというのだ。これを見届けずにはいられない。

 とはいえ長居をするつもりはない。頃合いを見て切り上げるつもりだ。

「いやはやご苦労。よくぞ神を鎮めてくれた!」

 そこへ豪快な声が響く。

 振り返ると大男が立っていた。

「ふん。なんとか答えてはどうだ? お前たちに言っているのだぞ」

 快く声をかける男に対して、美弦は反応に困った様子で眉を寄せる。

 一方で鴻には相手の正体が分かっていた。

 男は潮音の地方官だ。直接、会ったことはないが話には聞いていた。

「あなたは朝廷の者だろう? いいのか、捕らえなくても」

「構いやしねぇ。恩に報いるのが先だ。討伐などいつでもできる。まあ、俺はやらんがな」

 そう言って彼は上機嫌に笑う。

 それから男は勝手に酒に手を伸ばし、遠慮なく飲み始めた。

「さあ、お前たちも盛り上がれ。今宵だけは安全を保証してやろう」

「だ、そうだ」

 鴻は美弦のほうを見やり、呼びかける。

 対して彼女は悩ましげに眉をしかめる。

「本当にいいのか?」

「ああ、ゆっくりできるのは今の内だ」

 そう言われて、美弦も渋々酒に手をつける。

 いちおう祭りに加わる気なったようだが、楽しむ余裕はないらしい。

 そんなときまた別の影が忍び寄る。

「彼はとてもいい人なんですよ」

 チラリと振り返る。

 中腰になって顔を向けていたのは、薄い衣を着た女だった。

「私たちは彼に守られてるんです。大陸からやってくる賊たちをはねのけ、田を分け与えてくださりました」

「ああ、深奥は国にとっては重要な土地だからな。守らにゃならん」

 便乗するように男が言う。

 口ぶりからして彼女は潮音出身のようだ。

 話を聞きつつ鴻は複雑な思いに駆られる。

 朝廷に属するものが悪ではないと、分かってはいるのだが。

 どうにもすっきりしない表情で濁り酒を飲む。濃厚な甘みが口の中に広がった。

 そんな彼の頭上で月は動き、時が流れた。

 人々は踊り明かす。鴻と美弦はこっそりと祭りの場から抜け出し、空き家で泊った。


 朝になって、村を出る。

 北上し、潮音にやってきた。

 ここから舟に乗って海峡を渡るのだが、問題はどこで降り、どのように進むのかだ。

「陸路か海路か」

「そのことだけど、私、夢を見たんだ」

 自信を持って彼女が告げる。

 美弦はきりりと眉を引き締め、詳細を語った。

「北海を渡って、瑶で降りるべし。そのように神が伝えた」

 瑶とは玉の生産地だ。かつては栄えた国であったが、今は朝廷の支配下に置かれている。そこから南には大きな湖がある。そのを経由すれば、都へはすぐに着く。

「へいへいそうかい」

 不意に隣で煙が上がる。見ると、潮音の地方官たる大男が鹿の骨を燃やしていた。彼はその割れ目を確かめるなり、ニヤッと口角を上げた。

「吉だぜ。舟を出そうじゃねぇか」

 声を張り上げるなり、歩き出す。向かう先は水門だ。

 二人も相手の後を追う形で、舟の止まる場へと近づく。

 桟橋を渡り、楠をくりぬいて作った舟に乗り込む。そこへ、地方官も駆け寄ってきた。

「ほら、餞別だ」

 投げ込まれたのは鏡だった。とっさに美弦が手を伸ばし、受け取る。冷たい感触が手に伝わる。まるで氷に触れているかのように冷たい。見た目からも普通の鏡とか異なる気配を感じて、美弦は身の引き締まる思いを抱いた。

「神宝だ。十ある内の一つだぜ」

「そんなものを与えてもいいのか?」

「構いやしねぇ。お守りだ」

 地方官は堂々と主張する。彼は胸を張り、フンと鼻を鳴らした。

「それではありがたく受け取っておこう」

 鴻は口元を緩めて、言葉を返す。

 いつの間にやら岸辺には人々が集まっている。皆、手を振っていた。無事を祈るように、思いを込めて。

 そんな見ず知らずの相手の声援を身を感じながら、海へと漕ぎ出す。二人を載せた丸木舟は遠ざかっていった。


 ★


 水上からあたりを見渡すと、三つの島が視界に入った。各、航海を守護する女神が祀られている。どうか無事に大陸と秋津島の間の海――北海を渡れるよう、祈りを捧げながら、舟を漕ぐ。

 まずは海峡を越えて、陸地に沿って進んでいく。

 そこへ風が吹き、小さな波が寄せてきた。

 前方を見る。大きな舟が近づいてくる。自分たちが乗っているものよりも立派だ。乗組員は朝廷のものか。

 どのように避け、逃げるか。緊張感が肌を撫でる。

 二人が身構える中、不意に頭上に黒い雲が垂れ込める。かと思うと、目の前で朝廷側の舟が揺れ、船体が傾いた。慌てふためく暇もなく彼らは流されるように沈む。

 鴻と美弦はそれをきょとんと眺め、舟があった場所を通り抜けた。

 鏡のおかげだろうか。自分たちは無事だった。

 ふっと息を吐こうとした、そのとき。

 強風が舟を襲う。美弦の手の中で鏡が震え、ヒビが入った。

「あ」

 短く、唖然とした声を上げる。

 先ほどまで静穏を保っていた海が、荒れ出す。海の神が怒っているのか。

「待って。静まってください」

 美弦はとっさに鏡を手放し、水の底へと沈める。

 けれども、神は静まらなかった。

 そして舟は嵐の中へ突入する。そこからは大変だった。なぜか視界が暗くなり、四方から大波に襲われる。周りでなにが起きているのかすら分からず、なんとか岸に上げるので精一杯。

 命からがら陸に上ったときには櫂すらも失い、二人は膝に両手をついて、息を整えていた。

 ずぶ濡れになりながら、ふと息をつく。

 すっと海のほうを向けば、波は穏やかだった。先ほどの怪異はなにだったのか。怪訝げに眉を寄せる中、美弦がおずおずと口を利く。

「私のせいかな?」

「なぜだ?」

 きょとんとして尋ねる。

 美弦は気まずそうな顔をしながら、目をそらした。

「ほら、舟霊様は女神だし。女が乗ると怒るとか憑かれるとか言うんだよ」

 話を聞いて、怪異の原因はそれかと、納得した。

 だが、そうではない可能性もある。鴻はあえて肯定しなかった。

「生きているということは許されたのだろう。問題はない。神はそれほど心は狭くないからな」

 彼女を安心させるように、優しく声をかける。

「海が荒れたのはちょうど嵐の神が横切ったためだろう。ちょうど、このあたりとは縁がある」

「そうかな、そうかも」

 それでもなお、彼女は自信がなさけにうつむく。

「なんにせよ、無事であったのだから、いいだろう」

 本人としては特に気にすることではなかった。波に巻き込まれたことは災難ではあったが、大した問題ではない。それよりも先を急ぐのだ。

 先ほどの難破で舟は失った。港から舟を出しにいく。そう決めて、歩き出す。まずは森を通り抜けた。


 ***


 深奥と環境は似ているかどこか霊妙な空気が漂う。音はなく風だけが吹いている。青々と茂った葉を見つめつつ、歩いていく。と、そことき、隣で短い悲鳴が上がった。

「きゃっ!」

 見ると木に白骨死体がぶら下がっていた。ボロ衣を身に着け、だらりと腕を下げた姿。思わずぎょっとしつつも、すぐに冷静になる。

「風葬か。初めて見た」

 普通は石の棺に収めて、暗い場所で眠らせる。身分の高い者は巨大な塚を築き、装飾品や土偶などと一緒に、埋める。国が一つになってからは墓も統一されたが、このような弔いからをしていた場所がまだあったとは。感心する鴻とは対照的に美弦は目を泳がし、震えていた。

「もう嫌。さっさと抜けるよ」

 白骨から目をそらすなり、眉にシワを寄せ、歩き出す。彼女は大きく腕を振って、ガンガン進んでいってしまう。

 鴻も静かに後を追いかける。

 彼女は駆け足になり、振り返りもせずに、森を抜けにかかる。

「おい」と呼びかけようとしたとき、前方から声がかかった。

「その先は危ないよ」

 少年の声だった。

 二人は揃って足を止め、そちらを見る。

「黄泉の国に繋がっているからね」

 二人が行く先には下り坂がある。その先は見えず、暗闇に覆われている。おそらく先へ進めば奈落へ落ちるのだろう。現世との結界だというようにしめ縄が巻かれていた。今頃気づき、ぞっとする。

 それから鴻は声のしたほうを見た。視線の先、うっすらと敷かれた道の上に、とある少年が立っていた。精悍な顔つきをした者で、無地の衣の下からたくましい四肢が覗いている。

「俺の名は高雄だ。あんたらここ出身じゃないだろ。案内してやろうか?」

 どこか勝ち気に口角を釣り上げ、彼は誘う。

 その高雄という少年とは初対面で、心を許せるわけではない。ただ、彼に頼らない限りは安全な道を進めない気がするのも事実。二人は顔を見合わせた後、また前を向いて、口を開いた。

「ああ、そうさせてもらう」


 かくして高雄に案内されて、人気のある方へ足を踏み入れる。

 そこは浜辺だった。

 涼やかな音と共に波が寄せる。その水に混じってなにやら細いものが砂を這う。

「おお、ウミヘビだ」

「神の贈り物だな」

 村人たちはウミヘビに群がり、迷いなく掴むと、薪を起こしていある場所まで持ってきた。

 彼らはウミヘビに小刀を向け、切り分けると、焼いて食べ始めた。

 異様な光景だ。ただ、まぎれもなく神への畏敬が込められた儀式でもあった。それを二人はなんともいえない感情を抱きながら通り過ぎる。


 いつの間にやら日が暮れている。ひとまずは高雄の元で泊まって、一夜を明かすことにした。

 その次の日、海は荒れていた。しばらくは外に出られそうにない。



 彼方を見つめ、目を閉じる。両手を組んで祈りを捧げてみたが、変化は起きない。相変わらず空は曇っていて、吹き付ける風は強い。潮の香りを浴びながら、美弦は表情を曇らせる。

「貢物を捧げろということだろうか」

「もうないよ」

 彼女は困ったように言う。

 ならば待つしかない。

 二人は海に背を向け、山のあるほうへと足を進める。そこには先日会った少年がいた。遠くを見やり、なにかを探しているようだ。

「なにをしているんだ?」

 気軽に尋ねてみる。

「大蛇だよ」

 少年は答えた。

「大蛇? 捕まえるのか?」

「倒すんだよ」

 堂々と、彼は答えた。

「え、どうして?」

 ぽかんと聞き返す。

「もちろん、たさの大蛇じゃない。俺が探してるのは八俣の怪物だ」

「そいつはまた、大層なものを狙っているな」

 確か、名のある山の神ではなかったかと、鴻は考える。

「話は聞いている。瑶の国からやってきては若い娘を生贄に求め、海から渡ってきた牛角の神に倒されたのだったか? 手を出すにはいささか強すぎる相手だ」

「やめておけってか? いいや、知らない。俺は俺の力を見せつけたいだけだ」

 少年は堂々と主張する。

「服属した者だからって、なめられたくはないんだ」

 だから力を見せるというのだろうか。それならば仕方がない。同じく国に呑み込まれた側からして、彼の言い分には思うところがある。

「分かった、協力しよう」

 快くうなずく。

「おお、本当か?」

 急に高雄の表情は明るくなった。

「いいの?」

 美弦が顔色を伺うように尋ねてくる。

「ああ」

 彼は答えた。


 かくして皆は山の奥へと足を踏み入れる。

 しかし、大蛇は見つからない。

 ならばと川へとやってくる。そこはいくつかに分かれた大川だった。水の底は澄んでいて、かすかに砂鉄の色が透けている。

 ぼんやりとそのあたりを眺めているとき、唐突に霊気を感じた。腰に挿した剣が震えている。瞬きをして、川の源のあたりを見やる。

 どのとき、頭上を影が通っていった。八俣の大蛇だ。それは素早く目の前に降り立ち、鬼灯色の瞳を光らせた。

「叢雲の剣か。なぜそなたが持っている」

 大蛇の目は確かに鴻の持つ剣へと向けられていた。

 それを聞いて驚いたのは青年ではなく、少年だった。

「叢雲の剣だって? なぜそんなものを持ってるんだ? 王でもないのに」

 遠慮なく口をついた言葉。

 なにも知らない者からすればそれは不思議なことなのだろう。

 ただ、本来の持ち主は大原王朝のものだ。そこから考えると別段、不思議なことではない。鴻は堂々と大蛇と相対する。

「俺も元王族だ。朝廷が紛失したこの剣を、俺は託された」

 叢雲の剣を持っていることを、朝廷側も知っているはずだ。それなのに看過されていることはおかしいと思う。泳がされているのか、騙されているのか。それでも剣は本物だと教えられてきた。剣を巡って戦いが起こり、いくつかの国が滅びた。それくらいに重要な剣。なにしろ、それを手に入れたものが王になるというくらい。いうなれば、そう、それは王権なのだ。

 だが、それは今や彼が振るうにつれあらゆる怨念が積み重なり、禍々しいものとなっている。その刃はもはや神器とは呼べないほど、濁っている。だからだろうか。見逃されているのは。

「フン、くだらん。その剣は元は我らの宝だ」

「我らの?」

 ぴくりと眉を動かし、聞き返す。

「神器は唯一無二のものであらねばならない。それにふさわしい格があらねばならない。元は竜王の宝。それを主らが無断で支配権という価値に置き換えただけのことだ」

 皮肉げに笑いながら、大蛇は告げる。

 鴻は眉をひそめながらもなおも恐れは見せず、毅然とした態度で相手と向き合う。

「つまりあなたは、己が宝を取り戻したいというのだな?」

 その気になれば戦ってもよい。

 その意志を持って彼は大蛇と向き合う。

 ぴりぴりとした空気が漂う。美弦と少年が不安げに様子を伺う。

 鴻としてはいつ戦ってもよかった。だが、その前に言いたいことがあるのだった。

「それはそれとしてあなたのように大きな大蛇を見たのは、生まれて初めてだ。人間の世に今もってあなたのような神がいるとは」

 鴻は素直に感激している。

 そう、彼は大蛇が好きだし、崇拝する対象でもある。今は失われた蛇の神への信仰を、この青年は持っていたのだ。

 それを聞いて、大蛇は目つきを変えた。意外、とでも思ったのか。自身を敬う者が存在したのが。自身をまだ神と呼ぶ者がいようとは思わなかった。そう言いたげな反応だった。

「その上、手をあわせられる幸福。これが運命というものだろうか」

「我の相手になるとでも? 主がか」

「ああ。あなたからすれば人間ごとき矮小な存在、視界にも入らない。だが、それでも俺はあなたに見てほしかった」

 素直な気持ちを相手にぶつける。

 対して大蛇は嗤うように口を開いた。

「剣の持ち主と認められたくば力を見せよと。確かにそのように示すつもりであったが」

 妙に苦々しく、大蛇は語る。

「やめだ。いくら猛威の象徴とあろうが、我を崇める者を無下にはすまい」

 落ち着いた声音で大蛇は告げる。

「場所を変えるぞ。話をしてやろう」

 大蛇はのそりと体を向け、宙へと飛び立つ。その姿は影となり、宮のある方角へと消え去った。


 皆は宮にやってくる。そこは人気のない場所に建っていた。やけに高い。地方にあるものとしては豪華すぎるほどの存在感を放っていた。

 その宮に上り、大蛇は勝手にくつろぎ、酒を飲み始める。元は他人の宮だと思われるのだが、うながされては仕方がない。鴻や美弦もそこに座することにした。

「かつて東と西で大きな戦いがあったことは存じておろう。いくつかの国に分かれ、秋津島を支配していたが、あるとき思想を互い、互いの擁する神の代行者として、戦いをした。結果、今の王が国を支配する形となった。ここまでは分かるな。だが、それ以前のことは、汝も知らぬだろう」

「ああ」

 見上げ、答える。

 この土地は山や谷・川などで陸路を封じられている。各地の伝承は広まりづらい。鴻も各地を巡ったことはあれど、その伝承を聞いた経験は薄かった。

「叢雲は古くは蛇神の統べる土地であった。それも今は昔の話。人と神は切り離され、別々の世界で暮らしている。元は人は神に仕えるだけの存在。従うだけの存在であったというのに」

 名残惜しそうに、大蛇は語る。

「叢雲の剣を人間が手に入れたから、か?」

 人が神から独立したその理由をたぐり寄せるように、鴻は口に出す。

「フン。所詮は授かりものではあるがな。我を倒した牛の神はおのれを王と名乗り、それに倣い、国の代表を王とした。そして牛の神は姿を消した。以来、剣は王権として機能した」

「それをあなたはよしとしたのか?」

 見上げ、尋ねる。

「元よりこの土地に住まう神は寛容でな。敵対者であろうと受け入れ結びつき、一つになればよいと考えたのだ。結果、伝承は今もこの土地に染み付き、残っている」

 淡々と大蛇は語った。

「もっとも、信仰は途切れ、神々はこれより零落していく。大半の神は隠れ、今は裏側の世界にいる」

「だが、あなたはここにいる」

 核心を突くように鋭く切り込む。

「ああ。神は生きているのだと示すためにな」

 どこか楽しげに大蛇は語った。

「俺は、朝廷に仇を打とうと考えている」

 素直におのれの目的を打ち明ける。

 するど相手の鬼灯色の瞳にある瞳孔が、がするどく縮小するのが見えた。

「神々はそれを求めているわけではあるまい」

「それでもだ。俺は亡国の生き残り。義務を果たさねければならない」

 確固たる意志を持って、青年は大蛇と相対する。

 緊迫した様子の中、美弦が不安げに様子を見守る。少年も固くなっている。

「フン。我は汝の事情になど関係がない」

 嘲るように大蛇は笑った。

「それはそれとした宝剣はほしい。が、汝には見どころがある。目的を達成するまで、預けておこう。終わった後は知らぬ」

 大蛇が口角を釣り上げる。

「そうだな、占いとやらをしよう。汝が我を認めるにふさわしい者なれば永遠をもたらし、そうでなければ破滅する。覚悟はよいな?」

 最後の問いかけだというように、問いかける。

 目の前の蛇におのれの運命を預ける、その覚悟はとうの昔にできていた。

「ああ」

 短く答える。

 その時点で占いとやらは実行され、後はおのれの未来に運命を託すこととなった。

 目的を達成すればそれまで。仇を討った後のことなど、考えたことがなかった。

 今更ながら気づいて、目の前が暗くなるのを感じた。その感覚に混乱する中、目の前で蛇が浮遊を始める。

「戦いは?」

「すでにそれに値するものは済んでいる」

 満足げに口角を緩め、蛇は言う。

 それは稲妻と化して天へと消えた。

 嵐が去った後のような奇妙な余韻。

 そこに足音が迫る。

「凄いな、八岐大蛇を引かせるなんて」

 感激した様子で目をきらめかす、少年だった。

「相手が引いてくれただけだ」

 ハッキリと彼は伝える。

「いいや、あんたの意志に感銘を受けたからだよ」

「俺の?」

 きょとんとして聞き返す。

「あんた、朝廷と戦うんだろ。俺、あんたを応援するよ」

 声を高くして彼は言う。

「自分のため以外に戦えるなんて、凄いな。でも、あんたにだって自分のためにやりたいことはあるんだろ?」

 なんの気なしに放たれた言葉。

 どうしてか、それは鴻の胸を穿った。

「なあ、あんた」

 目と目が合う。

「なにかしたいことはないのか?」

 唇が震える。

 なにか、言葉を探る。

 空白に染まった脳内で、目を泳がしながら。

 しかし、なにも浮かばない。

 自分のほしいものは、なにだっただろうか。

 混乱する彼をよその頭上ではうっすらとした影が横切っていった。


 ***


 夜の闇が訪れる。

 篝火の明かりが灯った室内にて、二人の男女が顔を合わせていた。

「舟は沈んだか。おおかた海の加護でも味方につけたのだろう」

 王は淡々と言葉をつむぐ。

「直接出向いたところで並大抵の相手では勝ち目がない」

「ゆえに私を向かわせるのでしょう?」

 赤い唇をした女が誘うように呼びかける。

「ああ、行くがいい」

 男は堂々と告げた。


 ***


 昨夜は少年の家に泊った。

 朝になるとさすがに海の静まっていた。

 舟を借りて、乗り込む。手漕ぎで海を越え、陸路を目指す。

 そして、瑶にやってきた。そこは昔は緑色の石を利益としていた土地らしい。だが、今となってはその文化はすっかり廃れている。そのことを瑶の酋長は残念そうに語っていた。

 それから二人は南へ下る。ここから近江へと向かい、淡海と呼ばれる水場を通って、水の都へと着く算段だった。

 だが、二人が歩く先にはとある女が立っていた。鎧と剣で武装した彼女は勇ましい印象を受けた。女でありながら凛とした姿。彼女はいつか、同盟を組むはずだった村を焼き払った存在だ。それに気づくと急に恐れが出てきた。肌に粟が立つ。刃を持つ手が震えた。

 女が襲いかかってくる。とっさに刃を抜いて、防御した。彼女は自分を殺しにかかっている。恐れていてはならない。彼女を倒さなければ。いや、違う。真におのれが恐れているのは、自身が背負う怨念だ。これを解放すれば強い力が手に入ると分かっているのに、臆している。それをしてしまうときっと、乗っ取られるから。闇の力に呑み込まれるから。

 だが、背後には美弦がいる。彼女を護る。そのために力を振るう。使命を果たすのだ。

 怯えている場合ではない。

 だからこそ彼は剣を振るった。刃がひらめく。赤黒い光が目の前に飛び散った。

 さあ、今こそ真の力を発揮すること。

 刹那の斬撃に女は目を見開き、半歩下がった。かろうじて直撃を避けた。だが、その力の余波は彼女にも伝わっていたのだろう。驚愕の表情を浮かべ、頬を汗が伝う。

 目が震える。

 その瞳がなにかにとらわれたような色をしていた。そう、その一瞬で彼女は彼に魅入られた。だからこその動揺。困惑。その心の揺らぎに体は勝手に動く。そのまま彼女は背を向け、飛び立った。

 その姿はどこかへと消え去ってしまう。


 思うがままに走り逃げた。

 どうしてか、ときめきがとまらない。

 同時にとなりにいた女の顔が脳裏をちらつく。

 なぜか胸がムカムカとしている。嫉妬している。

 なぜあの女ごときが彼のそばにいたのだろう。思うと同時に奥歯を噛みしめる。ああ、許せない。やるせない。


 そのまま彼女は走り続け、気がつくと都へと戻ってきていた。

 宮に行き、呆然と立ち尽くす。

 なにか罰でも受けるのではないかと今更ながら思う。

 だが、王は悠然と笑うだけだった。

「あの男の力を見たか。やるではないか、生きて戻るとは」

 煽るように彼は言う。まるでそれが目的であったというかのように。

「しかし、私は命を果たせず」

「構わん」

 彼女の言葉を切り捨てるように、王は言う。

「今は戦力を無為に消費している場合ではなかろう。だがしかし……そうだな、別のやり方に移行するとしよう」

 顎に指を添え、唇を動かす。

 なにやら勝手に結論を出したような様子。女にとってはなんのことやら分からず、ただそこに突っ立っているのだった。


 ***


 ひとまず窮地は脱した。

 なにがなにだか分からないがひとまず、逃れられたということでよいのだろうか。

 鴻と美弦は様子を見つつ移動を始める。

 近江にはすぐに着いた。湖の周りにはポツポツと家が建っている。水門を中心に発展しているようで、人気もある。住民たちの間を縫うように道を進む内、ある話が聞こえてきた。

「深奥には蛮族がいて、国を乗っ取ろうと兵を挙げた。だが、それも我らが英雄の手にかかれば、たやすく抑えられる」

「俺たちの英雄は村を救ったんだ」

「おおー!」

 拳を突き上げ、大きな声を上げる。

 無邪気な男たちの様子を見て、美弦は不機嫌そうに眉を寄せた。

「自国の豪族は英雄扱いでまつろわぬ者たちは悪者ね。その武勇を作るためにどれほどの国を滅ぼしてきたのやら」

「相手からしてみたら、そうなのだろう。まつろわぬ者たちにとっての英雄は、中央にいる者にとっては反逆者でしかない。国の平和を脅かさんとしているのだから」

 鴻は落ち着いて解答を繰り出す。

「でも、あの人たちは穏やかで品のある人たちだったよ。あんな風に貶められる必要はなかった]

 彼女は悲しげに酋長する。

「どうして殺されなくちゃならなかったのか。あげく捕まって」

「結局はあちらの事情だ。君たちは特別な力を持っていた。技術力も、そうだ。国の発展のために君たちが必要だったのだ」

「だから中央に連れてこられて、奉仕されてる。そんなの奴隷と同じだ。名誉でもなんでもない」

 美弦はうつむき唇を噛み締めた。

「そうだな」

 彼は肯定する。

 よき人々の真実が隠され、抑圧されているという事実は、耐えられない。

 だが、それが歴史というもの。


 そして二人は歩き出す。

 水門に着いた。

 舟に乗り、巨大な湖を渡る。手漕ぎで進むと、速浪が見えてきた。安堵を得たのもつかの間、二人の表情はげっというものに変わる。

 視線の先、岸には複数の兵士が待ち構えていた。予想はできていたとはいえ、厄介だ。

 上陸するなり戦いになる。剣を抜いて相対する。だが、数が多い。一気に薙ぎ払おうかと思ったとき、目の前で敵が倒れた。血の赤が地に広がる。目を丸くして立っていると、敵の影から一人の男が現れた。

「こちらだ」

 名乗る間もなく、彼が示す。

 男はこちらを導くように走り出す。

 なにだか分からないなりに二人も走り、追いかけた。

 それから皆は山奥の集落へと足を踏み入れる。

「ここまでこれば安心だろう」

 男が振り返る。

 二人が入ったのは農民と比べるとずいぶんと立派な建物の中。土を掘ったような生暖かい感覚がない。四本の柱を建てた、大きめの家だった。そこに座すはこれまた豪族のような装いをした男。髪も長く、艶もある。首元には飾りをかけていた。

「私はかつての王の息子だ」

 真面目な顔をして彼は言う。

 その王の息子という響きに、鴻は反応した。

「本来なら王位は私が継ぐ予定だった。にも関わらず、あの男は王位を奪った。王家の血を引かぬ者が王権を手にし、天に立とうとしている。それを許さずにはいられるか」

「ゆえに、反逆せんとしているのか」

「ああ、協力してもらえるか?」

 互いに目を合わせる。

 目的は一致している。手を組まない選択肢はない。ゆえに二人で手を差し出し合い、握手を交わした。


 いわく、たった二人で朝廷に挑むのは無理がある。

 兵力を集め、集団で攻めるという。

 そのためにまずは別行動を取る。正体を隠して村に居座り、時には野宿をして、意志を同じくする者を集める。

 思いのほか人はすぐに集まった。それは鴻や美弦に協力しているというより、元王族の人望に寄るものだった。ともかく、これで人員は集まろう。攻めるには十分だ。

 そう思った矢先に事件は起こった。


「嘘だろ……」

 村に戻り、気落ちした声を漏らす。

 基地に戻ったとき、男はすでに土の下に埋葬されていた。あの王族は殺されたのだ。

 一族郎党滅ぼされ、最後は自害。

 墓である塚の周りには人々が集まり、嘆きの声を漏らす。その両目からは涙が漏れる。

 そしてまた天が曇る。雨が降り出しそうなほどに湿っぽい空気の中、青年はただ立ち尽くす。

 なにも声を出せない。ただ沈痛な思いだけが胸に染み込む。


 ***


 ***


 女はまつろわぬ民だった。本来なら虐げられる立場であったにも関わらず、彼は彼女をそばにおいた。実力さえあれば上に進めるような仕組みを作り、徴用した。そのことを喜ばしく思っていた。


 いつか王と交わした話を思い出す。

「貴様はなぜ王に仕える?」

 自らを指して王は言う。

「我らは神話のころより王の臣下だった。滅んでなお、その事実は消えない」

 ゆえに仕え続けるのだと彼女は話した。

 今もその気持ちは変わらない。たとえ相手がどのような存在であったとしても、おのれの本質は臣下であること。だけど、それ以上に胸に膨れ上がるなにかがある。その熱い想いに導かれるように彼女はおのれの意志で、動き、宮を飛び出した。


 一方、鴻と美弦の二人は村を出て、道を歩いていた。

 どこへ向かえばよいのかは分かっている。宮だ。だけど、それまでの道のりはどのように進めばよいのか。どのようにして突入すればよいのか、測りかねている。下手に大きく動けば敵に見つかる。兵を送り込まれて全滅する。ここはこっそりと動かなければならない。だけど、どうにもならないのが現状である。

 そんなときだった。

 林の中を進む。ちょうど近くに村がある。そこまで移動するつもりだった。

 だが、鴻の足が途中で止まる。顔を上げて出口のほうを向いた。その視線の先には女がいた。無骨な鎧を身に着け、禍々しい剣を携えた女。

 彼女は口角を釣り上げ、歌うように言葉をつむぐ。

「私はあなたがほしいわ。ねえ、私のものになってよ」

 誘うように手招きをする。

 対して鴻は硬い表情で剣に触れる。切り伏せる。そうと決めた。だが、先に動いたのは美弦のほうだった。

 彼女は弓矢を放つ。その矢はあっさりとかわされた。ならばと小刀を抜いて挑みかかる。その刃で切り裂こうとした。だが、相手はたじろがない。それどころかいともたやすくいなし、逆に彼女に一撃を加える。

 肩を貫かれ、木の幹に叩きつけられる。

「どう? あなたなんてこんなものなのよ。どれほどすがっても、私には敵わな」

 言いかけて口が止まる。

「美弦」

 鴻が近づき、彼女を相手から引き剥がす。

「おい」

 必死になって呼びかける。

 傷は深いが手当てをすればなんとかなる。手持ちの包帯を使って、なんとか。

 焦る気持ちを抑えながら準備を進めようとした、そのとき。

「もういい。やめて」

 なぜか彼女が止めるのだ。

 その意味が分からない。そのまま彼は固まった。

 それを女は見下ろしている。攻撃を加えなかった。しても意味がないと分かっていたからだ。そう、彼女は目の当たりにした。互いにとっての大切なものとはなになのか。

 自分は彼を手に入れたい。そのためにここにやってきた。

 だけど、強引に迫っても美しくはないと知っている。であるのなら、潔く引くべきだ。どうせならきれいな自分でいたいからと。

 そう、これは自分の敗北なのだ。

 悟り、女は静かにその場を去った。


 しばらくして美弦は目を覚ました。

 そこは空き家の中だ。今は藁の上に寝かされている。

 まだ視界がぼんやりとしている。思考すらはっきりしない。

 ただ、そばに彼がいることだけは分かっていた。

「治さないのか?」

 落ち着いた口調で鴻が問いかける。

 少女は答えなかった。

 ただ、無言を貫く。

 それで彼女の言いたいことは分かったらしい。

「お前ならできるだろう?」

 鴻が問いかける。

「できない」

 彼女は答えた。

「私の力は攻撃に傾いてる。誰かを癒やすことはできない。なにより、もういいんだ。生き残りたいわけじゃないから」

 なにか、自分の運命を嘆くように彼女はこぼした。

「ずっと、気になっていたんだ」

 鴻が切り出す。

「お前はずっと前に出て戦っていた。なにも考えずに特攻していたな。それは猪突猛進だったわけではない」

 確信を得たように彼は語る。

 少女は目をそらした。

「お前、死にたかったんだろう?」

 少女は口を開かない。

 ただ、その瞳が震えたのを彼は見逃さなかった。

 しばし、深い沈黙が降りる。誰もなにも語らない。沈鬱とした空気の中、美弦はうつむき、重たい口を開いた。

「本当は私たちに朝廷を仇なす資格はなかったんだよ」

 彼女は語る。

「私たちは厚遇された。かつての王は三人で盃を交わし、兄弟となった後、秋津島へ攻め込んだ。深奥から。その祖は王となり、国を収めるようになった。始まりは同じだったんだよ。だからこそなんでもない私たちは朝廷で重宝されるようになった。特別扱いだよ。でも、私たちはそんなの知らないんだ。元から深奥の白妙出身。そこで生まれ育った者。朝廷のものなんかじゃなかった」

 彼女は続ける。

「だから反発したんだ。だけど、一線を越えた。私たちは殺すべき人ではない者を殺してしまった」

 彼女が思い出したのはあの日の出来事。

「いい人だった。私たちのことをきちんと考えてくれた地方官だったのに、私たちは」

 それを悔やむように少女は目を伏せた。

「その時点で私たちの正しさは崩壊した。だからどうすることができないまま、皆で死のうとした。死にきれなかった者は私が殺した」

 あの日、彼が見た屍の群れを思い出す。

 あれは、彼女がやったのだ。

「私だけが生き残った。国に反逆したところで意味はない。私がほしかったものはあの村での温かい日々だけ。失ったものは戻らないんだよ」

 少女は涙をこぼす。

「あなたはどうなの? なんのために戦うの?」

 少女が見上げる。

 彼は答える。

「そうあるべきだと思ったからだ」

 それが残されたものの義務だと、彼は語る。

「自分の欲はないの?」

「ない」

 答えつつ、目をそらす。

「もう寝よう」

 なにかをごまかすように、青年は告げる。

 ちょうどあたりは暗くなっている。

 格子の隙間からは夜の闇が広がる。その空には星が流れていった。


 ***


 王族の暗殺事件を鑑みて、二人は敵の強大さを知った。二人で攻めて行っても返り討ちに遭うことは分かり切っている。兵力を集めに各所へ赴く。

 そんなとき、ふらりと出くわしたのは宮廷に仕える兵士だった。警戒をする二人であったが、相手は即座に落ち着かせ、協力しようと申し出る。

 相手を信用したわけではないが、手を組みたいところではある。この流れに逆らうことはできず、二人は顔を見合わせた後、相手についていくことを決めた。かくして、皆で屋敷に入る。そこで会食を行った。並ぶ品は豪華で庶民とはまるで違う。これが差なのかと痛感した。まるで朝廷側に帰順したかのようで複雑な気分だ。だが、これも仕方のないことだ。呑み込み、食事を進めた。

 その夜、皆で集まって作戦を立てる。朝廷では大陸の使者を招く儀を行う。それは嘘のものであり、実際にはなにも起きない。要は嘘の儀式を仕立て上げる。そして、その隙に暗殺を企てるのだ。

 従えばおのれは暗殺の片棒を担ぐことになる。いざとなれば切り捨てられるのは自分だと分かっていた。それでもやるしかない。少なくとも今は。そのように思い、鴻は心の中で決意を固めた。


 順調に事が運ぶ中で考える。自分はなにがほしいのか。

 元より欲を捨てた身。自分になにかを求める資格はない。大切なものを奪ってきたし、自分を生かすために様々な人間が死んだ。皆、庇い、自分を守ってくれた。そして生かされた。それなのに朝廷に仕え、相手の思うがままに動くだけだった自分に怒りを覚える。

 他人のために生きてきた。そこに悦びはない。当然のことだと思うだけ。

 実際にはなにもいらない。なにも求めてはいない。ただなにか、ほしいものがあったことだけは心の底に残っている。だけど、なにも望むことはないことだけは分かっている。だから今の気持ちの整理がつかずにいた。それでも今のままではいけない。自分がないのだから。そんな自分を切り替えようと、彼は思いを入れ直した。

 自分はどこへ行けばいいのか。全ては明日に起こる儀式で決まる。今はただ暗殺を成功させることだけを求めればよい。そう彼は自身に言い聞かせた。


 いざ、儀式は始まる。

 朝廷に集まり、使者の偽物は儀式を行う。

 その隙に二人は迫る。暗殺者のように忍び、素早く剣を抜いて。

 だが――

 刃を振りかざした隙に相手は動いた。その剣を抜き、攻撃を受け止める。

 防御された。対して王は笑う。それは分かっていたとばかりに。

「王位を簒奪せんつもりか?」

 王は尋ねる。

 その目は鴻ではなく、傍らに構える男へと向かった。

「その通りだ」

 彼は答える。

「鏡を持っているすなわち王権に選ばれた身。だが貴様は王族ではない。王族以外の者が玉座につくわけにはいくまい。国を思うがままに牛耳れば天から罰が下ろう」

 男の指摘を王は鼻で笑った。

「ハ。降らぬということは赦しを得ているということ。赦しすなわち王権だ」

 真なる王は自分自身であると迷いなく言い切った。

「生前譲位は禁忌であろうと、死んでもらおう。処刑だ。なに、罪状はいくらでも用意しよう」

 男は口角を釣り上げた。


 状況が分からない。

 今はどんな状況でなにが起きようとしているのか。分からぬまま、様子を見る。

「簒奪者はおびき寄せられたか」

 そう言って王は宙へ手をかざす。そこから鏡が現れた。

「持っていきたいのなら、いくがいい」

 そう告げるや否や、男はそこに飛びついた。

 だが、彼の手は見えない壁に阻まれる。

 神は男を選ばなかった。

「なおも権力も固執するのか!」

 叫ぶ男に対して、王は告げる。

「ああ、それでも俺は繁栄を望む」

 その言葉を聞いてハッとなる。

 王の真意は分からない。ただ、彼の本質はそこなのだと分かった。どんな手を使ってでも国を栄えさせ、盤石なものにする。そのために彼は王位に就いている。その事実に気づき、心が震えるのを感じた。

「関係ない!」

 男は刃を振りかざす。

 鴻はすぐさま割って入る。

 その刃で相手の攻撃を受け止めた。

「なぜ止める?」

 火花を散らす中、男が聞く。

「強引な手に打って出ても王にはなれないぞ」

「俺が王になりたいがために反乱を企てたと? あいにくとそんなものに興味はない。俺はただ滅ぼしたいだけだ」

 この王朝を、この国を。

 聞いてハッとなる。

 今の自分にできることは、本当はこれなのではないか。

 この国を護ること。それだけではないのか。

 そうだ、滅ぼさせるわけにはいかない。この国には生きている者がいる。彼らの平穏を護る。今まで関わってくれた者たちの顔が脳裏を巡った。

 そして、鴻は相手を切り捨てた。


 ***


 一つ、頭をよぎった。

 これで最後だと理解できていたからだろう。

 尊い血を引く皇子はその実、諸皇族から厄介者扱いを受けていた。存在するだけで権力を分散させる者だ。朝廷から疎まれ、孤立。会議にも出られなかった。

 彼は夜に宮を訪れ、詰め寄った。

「どこまで民を支配し、権力をほしいままにすれば気が済むのだ」

 皇子は激怒した。

 対して王は豪快に嗤う。

「王権、王権と。固執しておるのは果たしてどちらか!」

 指摘され、ハッとなる。

 事実だと自覚し、言葉をなくした。

 皇子は聖人君主なようで、実は傲慢だ。

「王族として国の中心にいたころを懐かしく思う。それがいつのころからか蚊帳の外に置かれている。平民との関わりで気安い・親しみやすいとされたことでプライドが傷ついた。あのころに戻りたかったのだ」

 ポツポツと語りだす。

 そうして彼は栄光にすがろうとする。

「それはできぬ」

 王は切り捨てた。

「国を守るために人事を尽くした。基盤を整えた。足りぬのは人望のみ。誰もが認める王がほしい。この俺を討てばそいつは英雄になろう。俺の代わりに国を治める大義名分を得るのだ」

 彼はおのれの考えを述べる。

 それを聞いて、皇子は理解する。王の目的を。

 そして王はそちらへ視線をよこす。

「どうだ? この国のための礎にならないか?」

 口の端を釣り上げて。

 対して皇子は答える。

「仕方あるまい。この身をお前に捧げよう」


 ***


「大義名分。そうだ。俺を打てば正義の勇者になれる。そして自然な流れで王権が手に入る。どうだ、この俺から奪い取ってみる気はしねぇか?」

「そこまで言われて素直に受け取る者がいるか」

 青年は言う。

 その様子を見つつ王は口を開く。

「俺の役割は終わっているのだ。後は潔く散る前だがその前に簒奪者を廃して起きたかった。このような欲深な者をな」

 目を地面へ落とす。

 彼は倒れた男を一瞥してからまた青年を見澄ます。

「俺は神の血を引いている。この国の成り立ちも。俺たちは侵略者だ。この国を乗っ取り、繁栄に導いた。だが、その功績があって今はある。俺だけはその歴史を否定せん。だが、俺は王権の担い手ではない」

 淡々と彼は語る。

「神の意志で王権は俺から離れた。それを握るにふさわしくはないと」

 その背で鏡が動く。その透き通った面が映したのは鴻だった。

「王権の所有者を担ぎ上げ、王になる。そのためには英雄に仕立て上げる必要があった」

「それがあなたを殺させることか」

 そうすれば英雄として王になれる。

 だがそんな道は今更選べない。

「俺はなにも望まない」

 はっきりと答えた。

 それでもよいと王は言う。

 自身の退場までが計画であり、それより先は知らぬ。だが王は確かに未来を見据えていた。おのれ以上の王にふさわしき存在が、ほかにもいる。王権はいずれ王を選ぶ。それだけは確かなのだから。

 その背後で炎が上がる。宮が燃えていた。予め仕掛けていたものだろう。

 驚き目を見開く青年の前でただ一人、王だけが冷静だった。


「最後に聞いておこう。貴様、望むものはあるか?」

「俺はなにも求めてはいない」

 言い書けて、いやと思いとどまる。

 ただ一つだけ、望みはあった。

「俺はなにも起こらないことを望む」

「なにだそれは。無欲だな」

 王はあざ笑うように口角を釣り上げる。

「そうだろうか」

 苦々しく笑いながら、首を傾ける。

「おのれの身に降りかかる災厄を全て封じる。強欲以外のなにだという」

 笑いながら彼は言う。

 すると相手もまた声を上げて笑い出した。

 おかしくて仕方がないというように。

「気に入ったぁ!」

 思いっきり叫ぶ。

「川へ行き、剣を戻せ。さすれば望みは果たされよう」

 そう、なにかを予言するように、男は言う。

 それは、ただ一つの方法を示していた。


「待て」

 男が駆けつける。

「この国の繁栄は政治の実権を握ったお前のおかげだ。俺だけは知っている。その事実を、お前の真なる心を」

 訴えかけるように呼びかける。

 だが王は肩をすくめるだけだった。


「あんたひょっとして」

 いい人なのかと聞こうとした。

 だが、それを察し、先手を打つように王は言う。

 顔を歪め、やれやれというように。

「おいおい、やめときな。我の預かり知らぬところで人の本質を決定づけるな」

 あくまで悪役ぶろうとする王。

 だが、彼は知っている。少なくとも真なる悪なら滅びを選ばなかったと。

 それこそが答え。

「フン。どちらでも構わん。好きに解釈するがいい。ただ一つ覚えておけ。歴史はいくらでも書き換えられよう。ただし、そこに刻まれた事実だけは変わらん」

 彼の硬い声が胸に通る。

「ではな、瑞穂の英雄」

 爽やかに告げる。

 聞いて、はっとなる。

 風が吹いて、髪がなびいた。


 その向こうへ王は歩いていく。

 歩む先に宮がある。

 それはすでに炎に包まれていく。

 夕焼けにも似た赤い色の中へ、彼は消えた。

 その場で彼は死を選んだのだ。

 そして、それを止めることはできなかった。


 ***


 その裏側でまた一つの戦いに決着がつく。

 少女の前で切り伏せられた男。

 彼女の兄。

「ああ、これでよかったんだ。これで、国が続く」

 安堵したように彼はこぼし、動かなくなる。

 それを見下ろし、少女は目を伏せる。

 その頬を透明な雫が伝った。


 ***


 王は死んだ。

 後継者はおらず、国は混乱した。

 その様を他人事のように眺めながら、青年はある川へと赴いた。

 もはやこれに用はない。事を果たした今、持っている理由もない。

 すっと手放す。

 剣は川底へと吸い込まれていった。

 消失を見送り、去ろうとしたとき、違和感に気づく。

 手のひらに玉があった。それこそが秘宝。竜王の持ち物だった。


 秘宝で願いを叶えた。

 鴻と美弦は丘の上にいた。

 小さな家が建ち、悠々自適に暮らしている。

「ねえ、これでよかったの?」

 彼女が尋ねる。

「ああ」

 彼は答えた。

 得たのは永遠の平穏。

 自分たちの名前は歴史には残らない。それでも構わない。真実を知るのは自分たちだけでいい。この物語を覚えているのは二人だけでいい。だからこそ美しく特別だった。

 実力がありながらも、かつての王朝出身の人物であったがゆえに、蔑まれてきた。力だけをいいように使われる。それでも、最後の最後で認められた。

 王との邂逅がまぶたの裏に蘇る。

 ――「ではな、瑞穂の英雄」

 思い出し、彼はそっとほほえみをたたえた。

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