和風フリーゲーム風

 休み時間も常に一人。教室の隅っこで固まり、弁当を広げる。楕円形の、中に冷凍食品を詰め込んだ華のない中身。そこに箸を突っ込みながら、おとなしく口にふくんでいく。その傍らで、女子たちは集まり、おしゃべりに花を咲かせる。

「最近神隠しがおおいんだって」

「それ行方不明ってやつでしょ」

「失踪? それとも誘拐かな」

「どっちにしろ怖ーい」

 神隠しとだけ言えばオカルトに片足突っ込んだようでドキドキする。だけど、そこに現実的な話を持ってこられると、微妙に冷める。とりあえず帰るときは道草を食わずに行こうというくらい。

 元より、どうせ自分には関係ない。神隠しなんて出くわすわけもない。なにも考えずに歩けばいいのだ。

 そうして放課後がやってくる。帰宅部なのでまっすぐに校門を出る。

 近くでは運動部の掛け声。ちらりと見ると野球部とソフトボール部の生徒が体操着姿で走り込みをしていた。校舎では文芸部や美術部なんかも、キャンパスや原稿用紙と向き合っているのだろう。貴重な青春を味わえないのは損をしている気分だが、きついのは嫌だ。やっぱり楽をしたい。少女は前を向いた。

 その傍らをカップルが通っていく。にこにこと見せつけるようにくっつきながら。そんな二人の姿を真顔で見つつ、彼女は歩き続けた。


 なにも起こらず一日が終わる。

 それから日付が変わり、次の日。

 その日は休日だった。

 青い空をただぼんやりと眺めている。

 やることがないわけではない。宿題をしたり、SNSをチェックしたり、ネット小説が更新されていないか確認したり。でも、どうにもやる気が起きなくて、なにもせずにぼうっとしていたくなるときがたまにある。

 そこへ暖かな風が吹き、ふんわりと甘い香りを運んでくる。季節はもう春だというのに私の周りは変わり映えしない。女子高生になったらモテると聞くけれど、ダメダメだ。誘いなんて来ないし、友達すらできない。こういうことを期待しているわけではないものの、ぼっちはさみしい。孤立している気分で、胸を締め付けられるような思いに駆られるのだ。

 どうせなにも変わらない。なにも起こらない。

 だけどただ一つ、気になるものがあったのだ。ちょうど、机の上に置いてある首飾り。きれいな翡翠の装飾品だ。産まれたときから手元にあった。両親にこれはなにかと聞いても、それといった答えは返ってこなかった。どこから来たのかは分からない。それでもきれいなので大切にしてきた。ちょうど、形のよい石を宝石のように扱うように。

 なにも起こらなくても構わない。元より期待などしていないのだから。それでもなにかがあってほしい。そんな思いが胸をかすめる。とはいえ、現実は夢などないことくらい分かっている。これからもなにも変わらない。そう思い冷めた心で目を閉じた。


 週は変わり陰鬱な月曜日を迎える。学校に行きたくないなと思いつつ支度を済ませ、眠たい目をこすりながら登校する。そこでもまた、変わり映えのしない時を過ごす。授業にはほどほどに集中し、一人で弁当を食べて、一人で帰る。いつだってそうだ。変わらない。

 さっさと眠ってしまいたくて、足早に家に帰る。すぐに制服からジャージに着替え、ぼうっとする。ネットサーフィンをする暇もなく横になった。そうして、目を閉じ、眠りにつく。暗くなった部屋の中で翡翠の首飾りがあいまいに光っていたことに、彼女は気づかなかった。

 疲れていたのであっという間に眠りについた。その暗闇に閉ざされた意識の中で、誰かが自分を呼ぶ声がした。それは気のせいだったのかもしれない。ただの夢だったのかもしれない。それなのに妙に感傷的な気持ちになる。その相手と自分はなにか特別な関係であったかのように。しかし、その中身は思い出せない。なにを言われているのかも分からない。その闇の中で翡翠の首飾りだけが嫌に主張をしている。その緑の光が彼女の脳裏にこびりついていた。

 朝、目が覚めると、いつもと変わらない場所に首飾りが置いてあった。泥棒が入った気配もなければ、夜に勝手に動いたわけでもない。だけど気になるのはそれが、古びた印象を受けるからだろうか。その癖、宝石の輝きだけはよく磨かれたもののように強い。見入っていると吸い込まれそうだ。なにかとてつもない力を感じる。そう思ってしまうのは、妄想が好きだからだろうか。

 だけどこの謎の首飾りは気になる。これはいったいなになのか。いったいどこからきたものなのか。なぜ自分の手に渡ったのか。考えれば考えるほど頭の中がぐるぐるとする。わけが分からなくなりそうだ。少女は首を横に振った。

 そのとき、どこからか強烈な光が差し込み、思わず目をつぶる。庇うように置いた指の隙間から覗いてみれば、それは机の上からだった。そこには首飾りがある。翡翠が発光している。

 困惑していると、今度は強風が吹き込む。宝石を中心に渦を形成し、吸い込もうとしているかのように。

 とにかくなにかを抑えようと手を伸ばす。直後に彼女の姿は消えた。ポンと音すらならず。机も空っぽ。部屋には虚空だけが残されていた。


 そうして少女は目を開ける。 

 そこは屋外だった。

 ただそう単純に表すにはいささか様相が異なる。

 なにせそこは彼女の見知らぬ土地だった。周囲には鬱蒼と生える森。まだ開拓が行き届いていない空間。田舎でもこれはさすがにないと思わせるほどだ。区切られた土地には田んぼが耕されてはいるものの、近代的な建物は一つもない。川べりに建つのは粗末すぎる民家のみだ。時代劇にすら登場しないほどの、ひと昔を通り過ぎた風情。そこを小袖を着た者たちが行きかう。明らかに、現実とは違うと分かる場所に、彼女は立っていた。


 01


「あれは、なんだ?」

 田んぼのあたりで声がした。

 見ると、直垂に小袴をはいた男が、引きつった顔でこちらを見てみた。

「大変だ。鬼が来たんだ!」

 その近くで別の男も叫ぶ。

 対する少女はきょとんと首をかしげる。

 鬼など、どこにいるのだろう。獣の気配すら感じ取れない。

「さあ逃げろ。よいか、一歩たりとも外へ出てはならぬ!」

 そのように言いながら農民は走り、掘っ立て小屋に引きこもってしまった。

「あの……」

 手を伸ばし呼び止めようとしたけれど、そのときには周りには誰もいなくなっていた。

 びゅーと寂しい風が吹き付ける。少女は一人立ち尽くした。

「あら?」

 そのとき別の声が発せられる。今度は高い、女性の声だった。

 振り返ると家から女性が出てくる。髪を整えて、小首をかしげている。その目線が見知らぬ人に対するものだと気づき、はっとなる。

「これは、違うんです」

 慌てて訂正しながら、自分はなにに対して「違う」と言っているのかと、疑問に思う。しかし、怪しいものでないことは確かなので、きちんと弁明をしなければならない。

「私は遠い場所から来ました。ここは、どこですか?」

 おそるおそる確かめるようにして問いを発する。

 女性はぼんやりとこちらを見つめてくる。

 一瞬の沈黙。

 緊張が走る。鼓動がドキドキと高まっていた。

「貴族の方はこんな生地も使うのかしら」

 女性は興味深げにこちらを見つめる。

 その視線に体が熱くなる。

 この格好は現代では普通だ。俗に言うジャージ姿で、過ごしやすい格好である。しかし、この世界では浮いている。当時のヨーロッパですら似たような格好はなかっただろう。ワンピースを着ていればごまかせたかもしれないが、今回は難しそうだ。

 とはいえ、相手は特別怪しんでいるわけではないらしい。この格好もおかしいとは思っているようだが、生地の扱いがうまいものであれば、こういう衣装も作れると感じたのだろう。ならばその判断に甘えるよりほかない。

「あの、私を働かせてくれませんか?」

 落ち着いて、口を動かす。

 どこかで聞いたことのあるセリフだが、とりあえず使わざるを得ない状況だ。

「力仕事でなければ任せてください」

「そう、じゃあ、喜んで。ちょうど人手がほしかったところなの」

 女性はにこやかに返す。

 そのやわらかな態度にほっと胸を撫で下ろす。

 とりあえずごまかせたらしい。後は順応していくだけなのだが、その前に帰り道を確保しておくべきなのではないか。

 などと考えたが、そんなものが早々見つかるわけがないので、場を整える必要がある。

 かくして少女はこの農村で世話になることを決めたのだった。


 それから彼女は小袖に着替え、村の一員としてこっそりと生活をすることになった。

 初夏には早乙女の祭りが行われ、女たちは泥色の水田に苗を植える。

 家に帰れば麻から布を紡ぐ仕事も待っている。

 料理も自分たちで行う必要がある。食べ物は自然から取れるし緑も豊富。だけど、米だけは足りなくて稗や粟で補っている。ダイエットになるかなどと言ってもいられない。働かなければならないのに空腹になる。

 やはり昔の農民は過酷なのだと、身に沁みる。おまけに粗末な家に泊まり、硬い枕を使っているせいで、夜は寒い。特に秋冬は冷たい風が吹き付けるのだ。火鉢なんぞ手元にはなく、とにかく凍えて過ごすしかない。

 そんな雰囲気に拍車をかけるように、砧が悲しげな音を奏でている。また夜通し女性が作業をしている。

 いつまでこんな日々が続くのだろうか。脱走したい気持ちもあるが、人から離れて生きていけるとは思えない。それにぶくぶく太っているよりは健康的でいられる。精進している感じも出ている。出家していないのにこれということは、出家をしたらどれだけひもじい生活を強いられるのだろうか。考えるだけで身震いする。

 とにかく一生を農村で終えるというのは絶望感がある。せめて隣町までは視界に入れたい。死ぬときは好きな場所、好きな季節で終わりたい。なにもできずに終わることだけは嫌だ。心の内側から焦りが生じる。眠る度に不安になり、夜が深くなるほどに心が追い詰められていく感覚があった。

 そんなとき頭に浮かんだのは平安京だった。この時代に都があるかどうかは分からないけれど、宮の住まう場所はあるはずだ。こんな底辺のような暮らしを捨てて、優雅に生きられないものだろうか。匿ってくれている相手には申し訳ないが、そんなことばかりを考えている。


 そうしてなにもできないまま一年が終わり、また田植えの季節がやってきた。

 田は緑に染まり、農民たちも忙しく作業をする。

 そんな中で異変は起きた。

 水路が枯れ、田は乾いている。

 空を見上げると鬱陶しいほどの鮮やかな青に染まっている。

 現代よりはいささかましだが、動いていると汗ばんでしまう。

 雨が降ってくれれば涼めるのだが、このところ一切水気がない。

「まさか、祟りではあるまいな?」

「貴人を島流しにでもしたのか?」

 農民たちがざわめいている。

 焦っているということは心当たりがあるということ。

 まさか、やったのだろうか。

「あれはしっかりと祀ったはずだろう。なにが不満なのだ」

 どうやら本当に心当たりがあったらしい。

 仮に触れてはならないものに触れたとしたら、祟を被って当然だ。しかし、しわ寄せが関係のないものにまで降り注ぐのはいただけない。こちらはいい迷惑なのだ。

 などと思いつつ、少女は木陰で編み物を続けていた。

 このまま様子を伺う日々が続くのだが、事態はそうも言っていられない段階に来てしまった。

「このところ見知らぬ影がないか?」

「いつの間にやら居着いていたものならいたな」

「それだ!」

 男が大きな声を出す。

「それこそが鬼だったのだ。やはり受け入れるべきではなかった」

 嘆くような声。

 これはまずいことになったと、影に隠れて見ている。

 そばには女性もついている。

「これはいけません。あなたは早く逃げて」

「でも、あなたは」

 眉を寄せて彼女を見上げる。

 この村民よりもなによりも、この女性のことが心配だった。

 相手は優しげな顔で首を横に振った。

「私は大丈夫。うまくやるわ」

 だから行くように促す。

 しかし、彼女を見捨てることなどできない。

 どうしようかまどい立ち止まっていると、声が近づいてきた。

「いたぞ、あそこだ」

 男たちが松明を掲げて迫ってくる。

 二人はあっという間に囲まれた。

「なによ」

 文句を言うつもりで口を開く。

 なにも自然現象を人になすりつけることはない。

 しかし、彼らからしてみれば疑わしいのは確か。少女としてはなんの言い訳もできない。もっとも、そんなものは彼らにとってはあってもなくても、どちらでもよかったようだ。

「お前のせいだ。お前がその娘を招いたから全てが狂った」

「そんな、最初の一年はなにも起こらなかったじゃない」

「それは慈悲だ。裁きを下す前の猶予をくださっただけなのだ」

 目の角を尖らせて、男たちが罵る。

 なんとか訴えかけても聞いてくれない。

「これまでなにもなかったんだ。異物を招いたせいに決まってんだろ。責任はその身でとれ」

 激しくまくし立てるように言う。

 その声を聞きながら頭上に影がかかるのを見た。

 顔を上げると、鎌が振り下ろされるところだった。

「あっ――」

 悲鳴ですらない滑稽な音が自分の口から漏れた。

 目を丸く見開いて硬直する。

 言い合っている場合ではなかった。

 早く逃げるべきだった。

 男たちのことをなめていた。

 だけど後悔しても手遅れだ。

 絶望が押し寄せるのを感じる中、目の前で紅が飛び散った。

 女性が倒れている。頭から血を流し、動きもせずに、石のように。

 少女はそれをぼんやりと見下ろしていた。これが現実だなんて思えない。まるでゲームの中の映像を眺めているかのようだった。しかし、確かに女性は死んでいる。眼の前で殺された。その事実を確かめると、恐ろしくなり、心の底から震えてくる。

「よし! 元凶は排除できたな」

 男は天を見上げ、大きな口を開けて笑った。実に気持ちよさそうな高笑い。

 本来なら怒りがこみ上げてくるはずなのに、なにも出ない。なんのリアクションもできない。状況に心が追いつかない。

「さあ、後は捧げ物だ。これであの悪神も許してくれるだろうさ」

 ニヤリと口角を釣り上げる。

 悪そうな顔は少女の視界には入っていない。

 彼女はただ呆然と立っている。

 そんな娘を両脇から取り押さえ、連行する。少女は村の外へと歩まされ、鬱蒼とした森の中心に放り捨てられた。どさっと冷たい地面に足を投げ出す。土に手をつけつつ、後ろを振り返る。そこにはすでに男たちの姿はなかった。

 殺されなかったのは温情ではなく、捧げ物にされただけ。どうせ自分は生贄だ。そのためにこちらまで持ってこられたのだから殺されるも同義だ。

 しかし、このような場所に落とされたのなら、死んでいるのと変わらない。最初はただ迷い込んだだけだったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。彼女はもはや帰る方法を探す気もなかった。なるようになれ。朽ちるのなら朽ちてゆけ。そんな全てを投げ出すような心持ちでいる。

 磐座の前、座り込む。殺すのなら殺せばいい。ただ死を待ち、佇んでいる。そうした中で、ふと違和感に気づく。この森、苔むした磐座に、さらさらと流れる川。この地形に覚えがある。小学生のころによく入り込んだものだ。ちょっとした冒険のつもりで入り込んで、奥へと進んでしまった。どんなに遠くへ行っても元の場所に戻ってこれるのが不思議だった。

 なぜ、この場所があるのだろうか。疑問に思った瞬間、頭がすっきりと冴えるのを感じた。いままで視界を覆っていた靄は取り払われ、クリアなものになる。

「なんだ、早くに逃げればよかったものを」

 不意に声がした。

 それは雷が降るような鮮烈なものだった。

 思わず身が引き締まるのを感じ、恐れながら振り返る。

 そこには謎の男が浮いていた。艶のある黒い衣をまとい、頭に角をはやしている。一目で人間ではないと分かったのは、彼がまとう禍々しいオーラだ。目に入れているだけで息が詰まりそうになる。目をそらしたいのにじっと見つめてしまう。自分の存在がピンで止められたかのように動けない。ただ、汗だけがだらだらと流れ続ける。少女は目を見開いたまま硬直していた。

「我が領域を犯したのならば、相応の覚悟をしてもらおう」

 赤い瞳が見下ろす。自然と繰り出した言葉のはずなのに、威圧感がある。

 食われると即座に認識した。

 逃げなければならないのは分かっている。しかし、体が動かない。こわばってしまっていうことを聞かないのだ。

 このままでは死ぬ。いや、死んでもいい。逃げなければ。どうやって? 逃げても無駄。それでも走ってみればなんとかなるかもしれない。見逃してくれるかも。いいや、そんなはずはない。

 頭の中をぐるぐると考えが巡る。それは思考というにはとりとめもなく、半ば現実逃避に近いものだった。その癖、中身は諦めに満ちている。絶望の中に生じた希望をねじ伏せるように、彼女はそこにいる。

 そうした中、男は眉を寄せた。

「貴様……なんだそれは」

 訝しむように少女の胸元を見澄ます。

「え……?」

 ぽかんと口を開いて固まる。

「その首飾りをどこで見つけた」

「これは、私が生まれたときから手元にあったもので」

「そんな言い訳が通じると思ったか?」

 怒気強く彼が発する。

 前方から強い風まで吹き付ける。

 思わず目をつぶり、身をすくませる。

 彼は明らかに怒っている。なにやら、この首飾りは相手にとっての特別なものにあたるらしい。彼女は胸元の翡翠を見てからまた、男を見上げる。

「差し上げます」

「なんだと?」

 訝しむように眉をひそめる。

「この首飾りは元の持ち主を求めていたのでしょう。それがあなただというのなら、返します。これは私が持っているべきではないのでしょうし」

 まっすぐに訴えかける。

 彼女の素直な態度に男もあっけにとられたらしい。しばし無言のまま硬直している。

「いらぬ」

 男は冷めた口調で告げた。

「それは俺のものではないのだからもらっても仕方ないだろう」

 きっぱりとした口調だった。

 本気でいらないと言っているようで拍子抜けする。

 しかし、それならばそれで自分はどうしたらいいのだろう。首飾りのチェーンに触れつつ、顔を曇らせる。

「あなたは私をどうしたいのですか?」

 彼はなにがほしいのだろう。

 自分の命でいいのなら差し上げても構わない。だが、相手はそれこそ興味がないというように鼻を鳴らす。

「どうにかしてほしいのか? その期待に答えてやらぬでもないな」

 冗談みたく彼は言う。

 さらりとした口調だったが、二対の瞳には硬い光が迸っていた。

「そうだ。貴様は生贄なのだったな。ならば相応の扱いをしよう」

「と、いうと?」

 やはり結局はそれに行き着くのか。

 眉を曲げつつ、尋ねる。

「妻としてめとろう。無論、本物ではない。あくまで表面上の扱いだ。それで構わないな」

 突然の物言いに驚く。

 うまく飲み込めず、口が開いてしまう。

 男は撤回しなかった。

 本当に妻役として扱うことで決まったらしい。

 彼女に拒否権はなかった。相手が言ったのだからそういうものとして話は進む。

「行くぞ」

 圧のある視線を向けられる。

 逆らえば殺される。

 背を冷たい感覚が撫でる。

「はい」

 こわばる体を強引に動かし、一歩を踏み出す。

 かくして生贄は成立した。

 少女はこれよりこの男の後ろを進む存在となった。


 02


 目を開けると薄暗い空間だった。地面は荒く、周りをごつごつとした岩壁で覆われている。そこには松明の光が見えるけれど、それが余計に原始的な雰囲気に拍車をかけているように思えた。

 それはそうとここは洞窟である。そういえば村を離れて神とやらと行動を共にしていたのだったと思い出す。ちらりと相手のほうを見る。彼はなにもせずにそこにいた。ただそれだけなのに、威圧感がある。まるで仏像かなにかの前にいるような気分だ。もっとも、似たようなものだとは感じるのだが。

「ほら、朝食だ」

 折敷を差し出す。艶々とした器には強飯が盛られ、隣には野菜の和え物が見える。実に庶民的な食事だ。見た目は貧相だが文句を言うほどでもない。現代でも似たようなものだったので、特に気にしなかった。

 一方で神は猪口に酒を入れて呷っていた。朝から酒とはどうかと思うけれど、本人は気にする様子を見せない。

「文句があるか? これは貢物だぞ」

「神様たるもの、信者からの供物は受け取ると?」

「まあな。だが、神と言われるのは違うぞ。俺はあくまで鬼だ」

 確かに額には角が生えているけれど、祀られているのなら神になるのではないだろうか。

 神社に妖怪や人が祀られていることがあるけれど、妖怪だから神ではないとはされないだろう。

「ありもしない信仰など受けてなんだという。もっとも、俺はそのおかげで相応の力を手に入れたわけたが。そこは、まあ、皮肉なものよな」

 男は口角を釣り上げる。

 神と鬼、どちらが印象がいいかと言われれば、それは前者だ。そりゃあ、神は理不尽な印象はある。だけど、鬼は怪物だ。そんなものとして扱われるよりは、神であるほうがいい。それとも神と化しても鬼は鬼だと言いたいのだろうか。分からない。

 なんだか釈然としないものを感じるが、相手が鬼でありたいのなら、口出しは無用だろう。

 そんなことを考えていると、男は無言で立ち上がる。

「ついてこい」

 鋭い目でこちらを見下ろし、告げる。

 それは命令だった。逆らえば殺される。そんな予感が体を突き抜けた。

 だけど、いったいどこへ行こうというのだろう。祀られているのなら同じ場所に座していればいいものを。それとも出雲にでも集合するつもりか。今はまだ神無月でもあるまいに。

 首をかしげながらも立ち上がる。

 男が振り返りもせずに外へ出ていくから、少女もその後をついていく。

 折敷の上には空の器が残され、洞窟に放置されるのだった。


 少女は鬼と共に表に出た。

 青い空から降り注ぐ日の光がまぶしくて、目を細める。先程まで暗いところにいたのも相まって、余計に身に沁みるようだ。

 くわえてこちらの世界でもインドア派であったので、外を出歩くのは新鮮だ。それはそれとして動き回るのはかったるい。彼はどこへ向かうつもりなのだろう。そう遠くない場所がいいと思いながらも、文句は言えずに歩き続ける。

「あの、なんのためにこんな」

 眉をひそめつつ相手を見上げる。

 鬼は答えなかった。そんな義理はないということだろうか。別に答えを教えてもらえなくてもいいのだが、不穏な気配を感じるのは確かだ。相手がなにをしようがしったことではないとはいえ、危ない場所に連れて行かれるのは困る。そんな嫌な感覚は歩く度に強くなっていった。

 頭上には薄暗い雲が垂れ込める。雨が降るのなら吉兆であろうとは思うのだが、それでも少女の気持ちは晴れない。

 そんな中、不意に足音が止まる。顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。格好からして下人だ。褪せた袍を身に着けている。携えた剣を手に、ギラギラとした目でこちらを睨む。見るからに物々しい雰囲気だ。出会ったら逃げなければならない。疾走る気持ちの中、男は口を開く。

「見つけたぞ。今度こそその首、渡してもらおう」

 男が襲いかかってきた。

 眼の前で銀の軌跡がひらめいた。

 それはいきなりの動きだった。

 少女では対応ができない。なにかをしなければならないと思いながらも、身がすくんで動けない。目を見開いたまま硬直してしまう。

 対する男は冷静だった。携えていた剣を抜き、刃で切り返す。

 刹那、視界に鮮やかな赤が舞った。それは現実を疑うほどに鮮烈な光景で、当たり前のように行われた出来事に頭がついていかなかった。

 そのまま男はどさっと崩れ落ちた。地面には赤い色が広がり、中へ染み込んでいく。

 それを目の当たりにして少女は目を丸くしたまま、ぼうぜんとした。

 グロテスクな光景には慣れていない。だけど、それ以上に信じられなかった。こんなにもあっさりと人が死ぬなんて。それも、鬼が殺してしまうなんて。いままで、なんやかんやいってなんとかなると思っていた。一緒にいれば安全は保証されていたものと思っていた。それが根底から崩されたようで、衝撃を隠せない。

「なにを呆けている」

 白くなった少女を侮蔑するように、鬼は振り返る。

「なぜ殺したのかと問いたいか? この男に同情したか?」

「いいえ、違います」

 激しく首を横に振る。毛先の整っていない髪がさらにバラバラに乱れた。

「私はなにも、考えていません」

 気持ちをごまかすように、顔色を伺うように、激しく否定する。

「いいや、考えていたな。なにも殺すことはなかっただろうにと」

 彼は今口にした言葉そのものを鼻で笑うように、彼は続ける。

「俺は鬼だぞ。人くらいは殺す。それとも貴様は神となった存在に温情を期待していたのか?」

 その言葉を聞いて、心が穿たれるのを感じた。

 確かに自分は甘く見ていた。もしかしたら殺されないかもしれない。見逃されるかもしれない。そんな期待を胸に抱いていた。なんというお花畑の脳か。平和ボケにもほどがある。同時に鬼という恐ろしいものと相対していると実感して、そら恐ろしくなる。

 だけど、自分だけは違うと信じていたかった。そばに置いておくことを許されたのだから、自分も生きていていいのだと、飲み込んでしまったから。それを覆されたような気分で、足元から揺らぐような気配があった。少女は縮こまり、自身の胸に手を置く。うつむき、目をそらしながらも、また目を合わせたい感覚があった。答えを知るのが怖い。それでも問い質さずにはいられなかった。

「私は、あなたにとっての私とは、なにですか?」

 見上げ、口に出す。

 声が震えた。

 手を差し出せば振りほどかれそうな関係性。

 互いの理解は遠く、もう二度とその距離は埋まらないだろうと、感じている。

「……貴様など、単なる捧げ物だ」

 与えられているから置いておいただけに過ぎない。

 彼にとってはただ気まぐれで生かしているだけだ。

 その気になれば見殺しにできるし、食べてもいい。

 それは事実として彼女の耳にも伝わった。

 やはりと、重たい息を吐く。

 こんなこと最初からわかっていたはずだ。相手は神である以前に鬼なのだと。それを承知でついていくと決めたのだ。今更前提を覆されて、発狂したところでどうにもならない。

 それでも、なぜかむなしさを覚える。彼に認められても嬉しくはないのに、振られた気分になる。自分のことはなんでもないように扱われて、悔しさが胸にこみ上げる。それがどうしようもなく嫌で嫌で仕方がない。彼によって心をかき乱されたという事実を、受け入れがたくてたまらない。どうしてそんな思いになるのか、自分でも分からない。

「俺の目的はこの国の打倒だ。朝廷を打倒し、新たな秩序を築き上げること」

 淡々と男は語る。

 それは国を滅ぼすと同義ではないか。

「やはり殺すのですね」

「当然だ。俺は人ではない」

 人ではないものからしてみれば、人間などただの餌だ。あっても敵。相対することこそあれ、分かり合うことはない。

 村民は彼を祀った気でいるが、その実縛ることすらできていない。なにもかも無駄ではないかと思うと、体から力が抜けて足元から崩れそうになる。

「それを止める覚悟が、貴様にはあるか?」

「ありません」

 うつむいたまま、素直に答える。

「そのような意思も力も、私には」

 神のごとき存在をこの地に留めることすら、ただの人間には難しい。元より自分は相手にすらされていない。そんな身でいかにして目の前の鬼を動かせようか。なかば諦めながら、彼女は言葉をつむぐ。

「それでも私は人殺しには加担しません。人が死ぬところをなにも感じず過ごすことなど、私にはできません」

「では、貴様はなにをする」

 鋭い問いが投げかけられる。

「なにも……」

 目を伏せる。

「私はこの世界を救うために来たのではありません。見ず知らずの相手を助けたいと思うほど情が深くもありません。それでも、滅びてはならないとだけは思います。この国の端で鬼も知らずに過ごしている人がいるのなら、ずっと、笑っていてほしいだけなのです」

 顔を上げ訴えかけた。

 それを鬼は一蹴する。

「世迷い言を。それで俺を止めるつもりか?」

「いいえ、これはただの私の意思です。その中身を問うてきたのはあなたでしょう」

 眉と目の間を狭めた顔で、彼女は返す。

「私ではあなたを止められません。あなたが人間の敵だというのなら、敵対するのは当然です」

 それが鬼というものなら仕方がない。

「だけど、あなたはきっと討たれる。それが、鬼というものです」

 その過程で自分も殺される。

 助けが来る前に見殺しにされる。

 残酷な運命は見えていた。

 それでも自分はみっともなくも、生にすがりつくことしかできない。

「私は人間です。あなたとは相容れないし、殺されたくありません。私はただ、生きながらえたいだけ。そのために無力なままあなたに従うしかないのでしょう。それでも、どうか生かしてほしい。私にとってはそれしかないのです」

 彼を止められない。

 彼の存在を認めるつもりもない。

 それでも悪に加担する気もなかった。

 鬼は無言で彼女を見下ろしていた。重たい沈黙が降りる。じわじわと緊張感が心に迫る。少女は体を狭めるような心持ちで答えを待った。その頬を冷たい汗が伝っていった。

「……勝手にしろ」

 冷めた声で言い放ち、鬼は背を向けた。

 彼はそのまま歩いて行く。

 見逃されたということでいいのだろうか。

 目を閉じ、息を吐く。

 まだ生きた心地はしないし、心臓はバクバクと言っている。

 とはいえ、じっとしていればなにかが起こるわけでもない。ついていかねば指針すら失う。意を決して一歩を踏み出す。そのまま静かに彼女は鬼の後をついていった。


 結局のところ、なにも変わらないまま旅は続く。

 神は自分の足で歩き、彼女はその後をついていく。

 どこへ行きたいのか分からないけれど、問いただすのがなぜか怖くて、聞き出せない。

 彼を止める術も分からないまま、事態だけが進んでいく。

 一夜明ける度に生きているか不安になる。新しい宿につく度に心臓が捻り潰されるような感覚を味わう。

 なにもできない。なにができるかも分からない。

 この世界に来た自分に、いったいなにを変えられるのだろう。

 どのような意味があって、この世界に迷い込んだのだろう。

 今一度翡翠の光を思い浮かべる。湖の輝きを反射したような、透き通った光だった。けれども、それだけだ。胸元の首飾りを見ても特別な輝きを放つわけではない。道標はない。

 自分にはなにもない。それでも進むしかないのだろう。その旅の果てにおのれの存在の意味を知れるはずだ。そう信じて、彼女は旅を続けた。


 03


 森だか道だか分からない場所を進んでいる。

 足元にいちおう道はある。舗装されてはいないものの、踏み固められている。周りは緑一色で、爽やかな空気感を演出している。深く呼吸をすれば、清浄な空気を吸えそうだ。いうなれば自然に溶け込んだ環境である。自分が人ではないものに染まっていくような気配がする。

 前には鬼の姿がある。正気であれば目が合う間もなく逃げていた。それをしないのは単純に、怖いからだ。鬼が恐ろしいのも確かだけど、一番は見捨てられることが。一人になれば生きていけない。

 いつ逃げるか葛藤をしても実行に移せないのは、自分の弱さのせいだ。迷いを振り払わなければならないというのは分かっている。しかし、一人ではどうすることもできないから、現状に甘えるしかない。鬼を恐れながらも彼に頼らざるを得ない。その矛盾にもやもやとした気持ちが募っていく。だからといって、なにになるのだろう。葛藤をしても答えは出なかった。なにを考えても無駄になる。それならば、すがりつくしかない。少女は自分の心をごまかしながら、歩き続けた。

「おやおや、人間がいったいなにの用かね」

 そのとき不意に声がした。

 それはエコーのように何度も耳に響いた。

 とっさに顔を上げるも、声の主は見当たらない。見えない位置から話しかけているのだろうか。

「ここは人間が入り込んでいいところではないよ」

「ほらほら、さっさとお行きなさい」

 周囲をぐるりと見渡しても、視界に映るものは緑ばかり。

 いいや、よく見ると木々がざわめいている。風が吹いているわけでもないのに、葉を揺らす。その一枚が枝を離れては地に落ちていく。

 まさか――

 ぞっとする暇もなく次の声が耳に届く。

「さもなくば、どうなるか分かっているんだろうな?」

 木の幹に空いた穴が顔に見えた。

 それに気づいた瞬間、ぞっとした。

 ざわめきが一層強くなったように感じた。

 木々が、喋っているのだ。

 うろたえたのは話の内容ではない。人ならざるものと接していること事態に畏怖を感じた。なぜならそれば森羅万象そのものの概念にほかならないのだから。

 鬼が静かに佇む中、少女は今頃になってぶるぶると震え始めた。しかし、怖がるばかりで逃げようとはしない。身動きすら取れなかった。

「さあ、食らえ。食らってしまえ」

「ヒトなど土に還ればいい」

「そしてそれは我らの血肉となるのだ」

 木々が枝を広げる。

 さらに大きく葉が揺れた。

 眼の前で緑色が淡く散る。

 少女は立ちすくみながら、悲鳴に似た息を飲み込んだ。

 ぎょっと目を見開きながら固まった。

 死ぬと理解した。

 頭が真っ白になるや、時間すら停まる。

 凍りついた空間の中、自分の存在だけがくっきりと浮き上がるような感覚だった。

 だが、次の瞬間、木々は一斉に動きを止めた。

 眼の前で銀色が一閃する。

 鋭くもクリアな音がした。

 それを持って、幹はなぎ倒される。倒れた木々は消失し、断面のみが残される。前方が一気に晴れた。枝はない。残された葉っぱだけがぱらぱらと落ちてくる。

 少女はその光景を唖然と見ていた。

 硬直してしまった彼女の前で、鬼が静かに刃を納める。

 彼が切り倒したのだ。少女はそれを信じられなかった。

「どうして。そんなこと、する必要がないのに」

 慌てて身を乗り出す。

「黙らしただけだ」

「でも、あっさり倒しちゃっていいんですか?」

 鬼は振り返りもせずに答えた。

「構わんが」

 自分が不快に思ったから倒した。それだけだと彼は語る。それで自分の元になにが返ってきても知ったことではないという口ぶりだ。実際に、なんてことはないのだろう。仮に呪いが跳ね返ってきたとしても、彼の身にはなにも起きない。それほどに強大な存在が鬼神だ。つまり、格が違うのだろう。

 そして、彼はその気になれば先程と同じように、こちらを殺せる。そんな相手が目の前にいる。そのことはひどく不安だ。それなのに今のところ、彼はなにもしてこない。それどころか結果的に助けるような真似までしてきた。ただ火の粉を払っただけだと言われればその通りだが、妙に釈然としないものを感じる。




「それにしても、妙に騒がしいな」

 眉を寄せている少女を無視して、鬼が勝手に話を進める。

 彼は別のことを考えているようだが、彼女からしてみればよく分からないだけだ。話に加わる気もなければ、ついていく気すらない。

 そんな中、また空気が震えだす。

「ああ、このごろ動いているようですぞ」

 それは笑いの混じった、愉快犯じみた声色だった。

 これまた姿がない。どうせあやかしの類だろう。

「現在、賊の巣は空っぽなんですな」

「出払っていると。村でも襲うつもりか」

 顎に指を添えて、言う。

 あっさりとした口調で放たれた決め打ちに、びくっとなる。

 彼女には関係のないことだが、村が潰されるとなっては、他人事ではない。

 はらはらして汗が出てくる。

 対して鬼はすぐに前を向いて、歩いていってしまう。

 彼は人間を救う気などないのだろう。村は確実に滅びる。都のように退魔師が充実しているわけがないのだから、当然だ。対抗する手段もないのに、どのように持ちこたえるというのか。

 もしも道中に廃村を見かけたら、どのような気持ちで眼の前を通ればいいのだろう。なまじ中途半端に知らされたせいで罪悪感が募る。どうせなにもできないのなら、なにも知らないほうがよかった。

 自分のせいではないと分かっていても、聞いてしまったのだから無関係ではいられない。せめて、なにも見ずに済むようにと、少女はひそかに目を閉じた。


 そうこうしている内に日が沈み始めた。空は紅に染まり、涼しい風が吹き抜ける。落ち着いた気候だが、薄暗くなるのは不吉でしかない。どうか、自分の目の前でだけはなにも起こりませんように。祈るように歩みを進めた。

 そんな彼女の気持ちを裏切るように、森の中を悲鳴が轟いた。それは絶望を告げる鐘のように彼女の耳に届いた。少女は張り詰めた顔をして、立ち止まる。一気に足元から恐れが上ってくる。力が抜けて崩れそうになる。

 終わりだ。よりにもよってそんな現場に出くわすなんて。村民よりも自分に対して不運だと感じた。そして、それを察知しておきながらなにもしようとしない自分に対しても、嫌な気持ちがあふれてくる。けれども、それに気づかないふりをして、少女は目を伏せる。

 しかし、鬼はすぐに動き出していた。彼は木々の間を抜けて、少し開けた空間へと歩みを寄せる。「あ……」と声をかける間もなかった。勝手に行ってしまう彼を遅れて追いかける。

 震える心を抑えながら駆け出した。

 村には予想した通り、あやかしで溢れていた。見た目は人間に近いものもいれば動物と大差ないものもある。そのいずれも禍々しい気配をまとっていた。それは夜の空気を我が物として、跳梁跋扈している。まさしく百鬼夜行といったところだが、それにしては低級だ。雑多に溢れすぎている。

 一方で村民は鍬を放り投げて、掘っ立て小屋に引きこもっている。そこへ人外の頭をしたものが襲いかかっている。思わず声が出そうになった。しかし、彼女がなにかを言うよりも先に、鬼が飛び出した。彼は剣を振るい、あっという間に蹴散らした。

 これには他のあやかしたちも反応する。そちらを向き、「なんだなんだ」と群がる。相手が同じ人外だとも気づかずに、にやにやと、新たな餌を求めて襲いかかる。されども、鬼は冷静に対処をした。まずは剣で弧を描くようにして一閃する。たちまちあやかしは薙ぎ払われ、血しぶきが舞う。

 それはまさしく一瞬だった。あっという間にあやかしたちは片付けられた。その跡にはなにも残らない。肉片すらも落ちた瞬間から霧のように溶け、目の前から消えた。

 少女は一部始終を傍観していた。してしまった。

 見知らぬ村のことを心配し、そうあってほしくないと願いながらも、自分はなにもしなかった。あれほど無情だと決めつけた鬼が人を救ったのにも関わらず。

 本当に無情だったのはどちらだろうか。本当に人でなしだったのは誰だろうか。

 結局自分は助ける気すらなかったではないか。村は壊滅する。それだけしか考えられなかった。

 なんて恥ずかしい。

 少女はうつむき、唇を噛んだ。


 周りでは家が一斉に開き、わーわーと人々が鬼に群がってくる。

「まあ、助けてくださったなんて。なんて慈悲のある神さまなのでしょう」

「ああ、本当に神さまはいたのだわ」

「この恩は忘れませぬ。寺院にも欠かさず参りましょう」

 皆、キラキラとした目で鬼を見上げる。

 その歓喜に満ちた光景すらも、今は胸が痛くて仕方がない。

 同じ人間なのに部外者になった気分で、いたたまれなくなる。

 こうなっては口を挟む資格すらない。

 少女はこっそりと柵の外側へと周り、しゃがみ込んだ。

 顔を伏せ、膝を抱えて、背中を丸める。

 頭の中をぐるぐると考えが巡る。だけどそれは聞いたことのない数式のようにとりとめもなく、言葉にはならない。自分が今、なにを考えているのかすら分からない。

 その言葉がなぜか自分を責め立てているような気がした。

 それに耐えきれなくなって目を閉じた。

 視界が黒く染まっても、やはり頭の靄は晴れてくれなかった。その分、どっと疲れが押し寄せてくる。現実から逃れてもがいている間に彼女の意識は暗闇へと閉ざされていった。


 ――視界が揺らいでいる。

 よく磨かれたフローリングに、数十もの机と椅子が並んでいる。前方の広々とした壁には、黒板が立てかけてある。

 端っこは自分の席で、そこに座っているはずだ。ぼんやりと考え、目を向けてみるも、そこは空白だった。誰もいないのに自分は存在している。自分はどこにいるのだろうか。首をひねりながらも、まあいいやと切り捨てる。

「ねえ、あの子、来ないね」

「不登校でしょう? 勉強についていけなくなったんだよ」

「でも、勉強は真面目にやってたよ」

「成績はどうなのよ。誰かテストの点数知ってる?」

 軽い女子高生の問いに全員が首をひねった。

「そうでなくても浮いてたじゃん。いつも来たくないって顔でさ」

「まあ好きにさせてればいいんじゃない? 別に誰も困らないでしょう」

 淡々と会話を進めている。

 誰も空席には目も向けない。あそこに座っていた少女の顔など、覚えてはいないのだろう。そのことに寂しさを覚えたが、それが自分なのだから仕方がない。自分は所詮、そういうものなのだから。

 落ち込んでいると、急に景色が切り替わる。

 白い壁紙がはられ、側面には本棚が立てかけてある。勉強机は小学生から使っているもので、幼い雰囲気がする。ベッドはきちんと整えられており、カーテンからは新鮮な風が入ってくる。そこは、元の部屋よりもきれいに掃除がされていた。

「なにがあったのかしら。きちんと聞けたらよかったわ。そうしたら、こんなことにならずに済んだかもしれないのに」

 嘆きの声が聞こえる。

 見ると母がカーペットを整えていた。

「あなたが帰ってくるまでちゃんとここを残しておくからね」

 なにもない部屋に声をかける。

 それは慈悲にあふれていた。

 自分からはなにも返せないのに母はまだ、この部屋を大切にしている。そう思うと熱い気持ちが押し寄せてくる。しかし、帰ってこない娘を思う母の愛は痛ましくすらある。見ていて辛い。だから目をそらしたい。

 しかし、これを見せられて無視することはできない。帰りたいと切実に思った。今すぐに見えない壁を越えて、そちらへ顔を出したい。少女は身を乗り出した。その透明な体が前へと向く。

 刹那、前方から突風が吹き込んだ。それは竜巻のように、もしくは掃除機のように、少女を吸い込もうとしている。

 彼女ははっとなった。

 歯車と歯車の隙間に体が入り込むような恐ろしだを覚えて、目を開ける。

 瞬間、彼女は現実に戻っていた。空は明るく藍色に染まっている。昇りたての日が透明な光を届けてくる。まぶしくて細めた視界に、虹の彩がちらつく。

 呼吸はまだ荒ぶっていた。体には微妙に汗がついていて、じめじめとしている。

 自分の中で先程の出来事は、整理がつかない。なにが起きたのか分からない。ただ、あれが夢だったとは認識できる。もしもあのとき、風に吸い込まれそうになったときに目を開けなければ、現実に戻れたのだろうか。

 曖昧な思考をしつつ、首元の翡翠に触れる。相変わらず鈍い光を放つそれは、触れてもなにも起こらない。自分を守ってくれることもなければ、呪術を発動させることもない。ただの飾りだ。

「起きたか?」

 隣から声がかかる。うんざりとした口調だった。

 ぼんやりと見上げると、隣に鬼が立っていた。

 ごく当たり前のように、なにもせずに。

「まさか、ずっと」

 朝まで自分を守っていたというのか。

 信じられない気持ちで目を見開く。

 鬼は答えなかった。ただ「行くぞ」と歩き出す。

 少女もまた身を起こして、足を踏み出す。

 彼はどんどん先へと進んでしまう。だから彼女も走るしかない。ちらりと、曇った顔で村を見つめる。結局、なにもしないままこの地を後にしてしまう。自業自得だから仕方がないけれど、なんだかむなしい。

 一方で相手がなぜ村を救ったのか、少女は気になっていた。人間の自分すら助けることはなかったのに、鬼である彼になんの義理があるのだろう。それに、彼は国を滅ぼそうとしているのだろう。たとえ成り行きとはいえ、村を救う意味はなかったはずだ。

 気になってモヤモヤする。だけど、これは触れてはならない問題のような気がした。だから口を閉じ、感情は胸に納める。

「どうかしたか?」

 彼がちらりとこちらを見る。

 相変わらず鋭く、冷たい目をしているか、心なしか口調が柔らかい。

 気遣っているように聞こえるのは、気の所為だろう。

「いえ、別に」

 視線をそらす。

「そうか」

 鬼はすぐに前を向いた。

 少女はずっと目をそらし続けた。

 自身の気持ちすらごまかすように、彼女はなにも言わなかった。


 04


 ぼうっとしている間にいくつもの山を越えた気がした。

 その途中で川を渡り、渓谷も通った。

 足元に飛沫がかかるすれすれを歩いた。

 人が通るべきではない場所も行った。

 だけど、全く記憶にない。妙にふわふわとしていて、幻の中を歩いているような感覚がする。

 とても疲れているし、体もだるい。足元もおぼつかなくて、ただなんの意味もなく足を動かしている。なにのために旅をしているのか分からない。巡礼でもしているかのような気分である。

 しかし、この状況にも慣れてしまって、理由もなく旅を続けているのが現状だ。

 行き先も理由も聞かされてはいないけれど、今となってはどうでもいい。相手の正体もなにもかも。自分にはどうしようもないことなのだから、好きにすればいい。どこへなりとも連れてゆけと、心を無にして歩み続ける。この行為になんの意味があるのかは分からないけれど、もはやそういったものは必要としていなかった。意味など持っても仕方のないことなのだから。ただ、なるようになってゆけばいい。彼女の心はどればかりだった。


 空が夕焼けに染まり出した。吹き抜ける風は冷たく、乾いているように感じる。葉はすっかり枯れ果てて、地に落ちる。足元は絨毯になり、踏むとカサカサと音が鳴る。香ばしく気持ちのよい音。だけど少しさみしくもある。ああ、もうそんな季節がやってきたのかと。こういった環境では心もしくしくとしてくる。そんな中、鬼は洞窟のほうへ近づく。今晩はここを宿代わりにするらしい。少女も黙ってついていく。

 そのまま持ち歩きの鍋で米を炊き、汁物を作った。高級そうな味噌を使い、薬味まで載せて振る舞われる。少女はそれを当たり前のように受け取り、食べていた。真顔のまま、死んだ心持ちで。

 しかし、冷静に考えるとおかしいのだ。食事を振る舞うにしても、貴族のような食べ物である必要はない。庶民のような粗末なものでいいはずだ。食べるにしても個人で独占すればいいだけだろう。それをわざわざこちらにも与える意図が分からない。一度気になるとモヤモヤして、食事に集中できなくなる。箸を動かす手も止まり、体も硬直する。

 石とかした様子の少女へ、鬼が不躾な視線を投げる。

「貴様は本当に飯をまずそうに食うな。それでは振る舞い甲斐がないというもの」

 煽るように口角を上げる。

 そんな態度になぜか心にトゲが立つ。

「気に食わないなら殺せばいいじゃないですか」

 つい口を滑らす。

 対して鬼は眉を動かすだけで、表情を変えなかった。

「なぜそうなる」

「だって、おかしいでしょ。ただの人間をそばに置いておく意味がない」

「鬼とて食らわぬときもある」

 それは人を食らわない理由にはならない。

 彼は鬼だ。

 自分は人間で、餌でしかない。

 それを生かしておくこととは、肥え太らせ、熟したところを食べる。ただ、それだけしかないのだろう。

「私は生贄です。生きる意味なんて本当はなかったんだから、黙って受け取っていればよかったのに」

 愚痴のように吐き捨てる。

「鬼が鬼らしくないことがそれほど気に食わぬか」

 鬼は静かに彼女を見澄ます。落ち着いた目線。だけどその瞳は冷たい光を放っていた。それは夜の湖に反射する光のように幻想的で、その美しさが余計に恐ろしさを際立たせているように見えた。

「なにもできにから死を選びたいと? 自死を選ぶ度胸もないというのに惨めなことを。それこそが逃げだとなぜ分からない?」

 鋭い指摘に胸を突かれた思いになる。

 はっと息を呑み、瞳が揺れる。

 頭がうつむくように動くと、横の髪がふわりと揺れた。

「そんなこと……私は……私を繋ぎ止めているのはあなたじゃないですか。わざと殺さないように放っておいて、なにを言い出すんです」

 震える声で言葉を振り絞る。

 頭で考えるよりも先に口が動いていた。

 口調は早口になり、半ば逆恨みでもするような姿勢になっていた。

「私はあなたに守られるために村を追い出されたわけじゃありません。あなたと一緒にいる理由なんてないんです」

 それほどまでに自分で考えて動いてほしいのなら、その通りにする。

 すっと立ち上がると、尖った目で相手を見下ろす。

「もう知りません」

 もうどうにでもなれと思った。

 勢いよく背を向けて、走り出す。

 彼の顔も振り返らずに洞窟を抜ける。空はすっかり暮れ果てて漆黒に染まっていたけれど、もはや気にする余裕もなかった。

 とにかく駆ける。どこでもいいから遠くへ行きたかった。行き先など考えてはいない。ただ、自分の向かう先に安住の地があればよいと思ったのだ。

 目をぎゅっとつぶり、腕を激しく振る。力強く地を蹴り、前へ進める。自暴自棄になっているはずなのに、体に力が入る。頭のあたりがかっと熱くなる。汗をかいてもなお熱が上る。息が切れて肺が苦しくなっても、なお走る。この心のどよめきをぶつけるように、ただ道のあるほうへとひたすらに。

 そのままどれだけの時間が経っただろう。全力疾走を繰り返して、さすがに足に力が入らない。へなへなと座り込む。

 そうしてあたりを見渡せば、視界は闇一色に染まっている。かろうじて木々や岩壁の輪郭はつかめるものの、自分がどこにいるのか分からない。その事実に気づくと一気に背中が冷えた気がする。勢いにまかせて飛び出すんじゃなかったと、今更になって後悔する。そもそも、一人では生き残れないのだから、感情に任せて動くべきではない。それなのに癇癪を起こして自分から死ににいくなんてどうかしている。くわえて夜といったらあやかしの本領だ。闇にまぎれてどこからともなく襲ってきてもおかしくはない。なんなら怨霊も見えるかもしれない。そう思うと恐ろしくて目をつぶりたくなる。近くを流れる川の音にすらぎょっとする。

 身動きも取れずに固まっている。びくびくとしながら周囲へ気を配る。なにが起きてもいいように身構えても、なにも起きない。焦らされているような気分だ。処刑を引き伸ばしにされるほどの苦痛はない。いっそ潔く殺せばいいのに。見えない対象へ向かって睨みを利かせながらも、このままなにも起きなければいいと思ってもいる。朝までじっとやり過ごそう。自分の運ならいけるはずだ。そう言い聞かせたとき、不意に松明の光が視界に飛び込んだ。少女は目を見開いた。視線の先――平野があるであろう場所から、炎がどんどん近づいてくる。それは人魂のように前方でゆらめいていた。

「おい、そこでなにをしている?」

 どすの利いた男の声。生身の人間であることは、なんとなく分かった。だからこそ、不安になる。人間よりも不穏なものはないと、知っていたからだ。

「あやかしか? そうであれば、焼き殺すところだが」

 冗談のように口にしつつ、相手は松明を動かす。揺れる炎が少女の影を照らす。彼女はびくびくと縮こまりながら、男を見上げた。

 その光は男の顔をも照らした。ぼんやりと、人間の顔が浮き出る。平凡な容姿だった。いかにも農民という風情で、顔には泥がついている。着物は乾き、袴の裾も汚れている。武士ではないことは分かった。そして、その顔には見覚えがあった。

「お前、こんなところでなにをしている?」

 男は眉を潜めながら、苛立たしげに声をかける。

「あなたのほうこそ、こんなところまでなんの用ですか?」

 眉を引き締め、唇を尖らせながら問い返す。

 彼女にとって彼は知らない人だ。ただし、見覚えがあった。この男は村にいた。普段は日の下で農作業に取り組み、夜になると掘っ立て小屋に戻ってしまう。ごく当たり前の生活を送る誰かにすぎない。それなのに心が煮えたぎり、仇を見るような目で相対してしまう。実際に彼は仇そのものだった。

 また、鍬の鋭さが頭をよぎる。刃にべったりとついた血も、浮かんだ。生々しい鉄の臭いまでが鼻をつく。

 そう、男は母代わりであった女性を殺した張本人。くわえて、少女を生贄として鬼神に捧げた者だった。

「なぜこんなところに、だと? あんな終わった村にいられるかよ。だからこうして遠出してるんだよ」

 いまいましげに男は吐き捨てる。

「全部お前のせいだ。お前が殺されなかったから日は上ったまま。雨は降らない。稲は枯れ果てる。神もきっと怒ってるんだろうな。それで俺たちに裁きがくだされちゃあ、たまっちゃもんじゃないよ」

 口を激しく動かし、詰め寄る。

 松明の炎も迫る。

 今にもこちらを焼き殺しかねない勢いだった。

「お前は生贄なんだろ。黙って殺されればすべて解決してたんだ。それがのうのうと生きてる罪深さが理解できるか?」

 眉を吊り上げ、血走った目で彼女を睨む。

 たちまち少女は瞳を震わす。

 顔がこわばり、足元から崩れそうになる。

 それでも、彼に責められるのは理不尽だった。黙って聞いていられるかという気持ちが心にあふれてくる。

「そんなこと、あなたが決めることじゃありません。生きるも死ぬも、私の自由です」

 生贄であることを認めながら、自己を主張する。それはひどく矛盾していることだと、自覚していた。それでも言い返さずにはいられなかった。

「お前の感情など知ったことか。さっさと死に晒せ。それですべて救われるんだ」

 語気荒く主張する。

 少女にはそれがまったく理解ができなかった。

 なぜ、同じ人間に向かって同じことを言えるのか分からなかった。

 人の命をなんとも思っていないという顔。他人が生きることを迷惑に思っているという態度。それほどまでに自分は罪深いのだろうか。そう思いたくはない。それでも生贄は死ななければならない。その事実が胸にのしかかる。視界が端から暗く染まっていく気配がした。どうせどこにも逃げ道がないのなら、いっそこの場で殺してもらったほうがいいのではないか。ここで終われば一瞬で済む。苦しまずに済むと。だけど、この男に命を捧げたくはない。そんなもったいないことをするくらいなら、引き換えしたほうがいい。だけど、あの鬼は自分を探すだろうか。彼は自分を求めてくれるだろうか。そんなはずはない。所詮は人間だ。どうでもいいもののために気を配ることなどない。すべてを諦めて目を閉ざした。

「こんなところまで来て、なにをくだらぬことをやっているのやら」

 不意に離れた位置でため息交じりの声がした。

 それは闇夜に差し込んだ光のように聞こえた。

 はっと顔を上げてみれば、いかにも不機嫌そうな顔をした男が立っていた。彼は貴族のような新品の衣を身にまとい、裾も汚さずに歩いてくる。まるで足が地からわずかに浮いているような雰囲気で。なによりも目立つのは額に生えた角だ。おぞましくも整った形をしたそれは目につき、頭上より降り注ぐ月光が、彼の神秘性を引き立たせている。

 彼の姿を目の当たりにした男は目を見開き、息を呑むと、勢いよく平服した。

「ああ、我らが神よ。どうぞ慈悲を。私たちに救いを」

 仏像に手を合わせる信者のように、拝みにかかる。

 鬼はそれを虫を見るような目で見下ろすと、即座に視線を外した。

「村のことは村人でやるがいい」

 侮蔑するように吐き捨てる。

「しかし我らは十分に苦しんでおります。これを打開するにはあなた様の力が必要なのです。そのために祈りを捧げましょう。供物を与えましょう。女子供残さず殺しましょう。そうであってもいけませぬか? ここまでしてもお許しにならないのですか?」

 すがりつくように、訴えかける。

 眉は垂れ、目は潤む。男は自身に憐憫しているかのような顔をしていた。

「そうしてほしいと誰が頼んだ? 元より俺はそのようなことのために生じたわけではない。それとも自ら裁きを受けたいとでも? そのようなことのために故郷を捨て、逃げ果せたのではあるまい」

 鋭い目が男を見下ろす。

 冷たい瞳。開いた瞳孔が人ならざるものとしての雰囲気を加速させる。

 たちまち男はすくみあがった。

「おやめください。どうかお許しを。命だけはお助けくだされ」

 目を泳がせながら、激しい口調で訴えかける。

 動揺が全身に広がり、被っていたであろう仮面が崩れていく。男はその破片を拾い直すことすらせずに、ひたすら頭を下げ続けた。結局のところ、これが彼の本性なのだろう。この男に高潔なところなど、一つもない。村のことなどどうでもいい。災いによって人が死のうが、関係ない。自分さえ生き残っていればよい。要は保身しか考えていないだけだ。

「疾く失せよ」

 切り捨てるように吐き捨てる。

 たちまち男は悲鳴を飲み込んだような声を上げ、またたく間に身を起こすと、飛ぶように逃げ出した。

 彼の気配は星に消えた。

 嵐のような邂逅だったというのに、去るときは一瞬だ。

 少しだけ気は晴れたが、まだ鬱々としている自分がいる。生贄は生贄。自分は死ぬために捧げられたものだ。そうと分かっているのに、まだ生きている。なぜ、自分はまだ、生きているのだろう。答えのない疑問を呈示したくなる。

 一方で、鬼はそっとこちらへ近づく。彼の表情は硬く、なにを考えているのかは分からないが、よくは思っていないのだろうと予想できる。なにせ、なにも考えずに飛び出してしまったのだ。怒っていないわけがない。心配は、しているわけがない。彼はただ、自分の獲物が他者に取られるのを我慢できなかっただけなのだろう。

「生贄はそれほどまでに、独り占めしたいものなのでしょうか」

 皮肉のように問いかける。

 鬼は口元を引き締めたまま、答えない。

「捧げられたものを受け取らない理由はなんですか? どうしてさっさと楽にしてくれないんですか? どうして私を解放してくれないんですか?」

 どうだっていいはずだった。

 生きていようと死んでいようと。

 それなのに、言葉が溢れてくる。

 揺らぐ気持ちが喉元まで押し寄せてくる。

 その心に動かされるように、聞きたくもないことを尋ねてしまう。

「私がただ生きていてもなにも救えないのに。なんの役に立たないのに、どうして……。さっさと死ねばいいと分かってる。でも、私は自分が生き残ることだけ考えてしまう。なんて卑しいんだろう。逃げて逃げて、その先にはなにもないと分かっているのに」

 うつむき、か細い声で言葉をつむぐ。

 目をぎゅっとつぶれば、雫がこぼれそうになる。震える胸元で翡翠が淡く光った。

「もうよい。おのれでおのれの弱さに言い訳をするような懺悔など、聞きたくもない」

 聞いても意味のないことだと、鬼は切り捨てる。

「貴様はすでに生贄ではない。なにのために貴様を生かしていると思っている? 妻の代わりであると、最初に伝えたはずだが」

 真顔でそんなことを言う。

 当たり前のように、さらりと。

 それで思い出す。確かに最初に出逢い翡翠の首飾りを見て、彼はおのれを妻とみなした。それは言葉の綾だと思っていたのだが、彼にとっては本気だったのかもしれない。

「でも、私は、私が救われたいだけの女です。そんな存在なのに」

 言葉ではおのれを否定しておきながらも、彼女は自分をかばうように、胸に手を当てる。

 対して鬼は表情も変えずに、あっさりと口にする。

「人の善悪など俺には関係ない」

 彼は人ではなく鬼だ。

 人から人への言葉ならともかく、人ならざる彼が言うのなら、信じられる。

 彼にとっては本当にそれだけの認識なのだから。

 だから、ほっとした。温かな気持ちが心に流れ込んでくる。

 彼の言葉で少し救われた気になる。そんな自分が惨めで情けなく思えてくるけれど、今はそれでよかった。

 そのとき初めて思ったのだ。彼のそばにいたいと。陰鬱で排他的で、自分の居場所なんてどこにもなかった。たださまようことしかできないのなら、せめて彼と共に歩みたい。それでようやく旅をする理由を得られた。そのことがほんの少しうれしい。

 顔を上げる。口元がほころぶ。にじむ笑みに意味はない。それは彼に向けたものでもないし、ただ意味もなく笑っただけ。それでも、笑えることそのものに喜びを感じる。生きていてもいいのだと、自分は自分でいていいのだと。そう分かると闇の中でさえも光が差し込んだようだった。

 それならばいっそう、この一瞬が終わらぬようにと。

 月光の中で祈りを捧げた。


 05


 それからというもの、ごく自然に少女は鬼と共に歩くことになった。彼を恐れる気持ちは自然と癒えた。まさしく傷口に軟膏を刷り込むように。だから、彼と行動を共にすることに抵抗はない。不思議なのは、彼が鬼にしては人間に甘いこと。どうしてヒトと敵対する側なのに、これほどまでに優しくしてくれるのだろうか。なぜ、彼のような存在が鬼になっているのか。考えるだけで眉間にシワが寄る。おそらく、彼は彼なりに考えて、鬼という立場を取っているのだろう。そうでなければあっさりと神として存在していた。彼が鬼であることに理由はある。その理由はなになのか。やはり、彼は人を滅ぼしたいのだろうか。そう結論を出せればいいのだけど、いままでの行動を考えると矛盾がある。

 彼という存在が分からなくなる。

 鬼は鬼。彼はきっと、人を駆逐する。そんなビジョンは消えない。だから惑っているのだ。そうなったとき、自分は人間を見捨てる覚悟ができない。

 そうした中、鬼はちらりとこちらを見る。

「止められると思うのか、貴様が」

 こちらを試すような視線だった。

 切れ長の瞳からほとばしる光は硬く、彼の意思を垣間見えた。それは決して砕けぬもの。自分ごときが口を出していいものではない。止めることなんてできないと分かってしまう。 

 だけど、彼女の心は違う。村人たちにどれほどのひどい扱いを受けたとしても、自身が人であることに変わりはない。鬼になど、落ちはしないのだ。なにが正しいのか分かっているのに、実際には口に出せない。彼女には目の前の鬼を否定する覚悟がなかった。

 鬼も答えを求めてはいない様子だった。すぐに前を向くと、どんどん先へと進んでいってしまう。行き先はどこだろう。都には近づいているのだろうか。地図がないためはっきりしないが、より奥深い場所に入り込んでいる予感がする。緑は深く、厳かな雰囲気が漂う。空気は冷たく、澄んでいる。夜の月も相まって、結界の内側に入り込んだかのようだ。現実に例えると、神社だろうか。そして、その感覚の正しさを証明するかのように、前方には大きな社が建っていた。朱色の門をくぐり抜けた先は、やはり聖域だ。こんな場所に入り込んでもいいのだろうか。平民である自分と、なによりも鬼である彼が。

 不安が加速するのに、歩みを止められない。なにかが自分を呼んでいる気がした。遠くに見える祠の内側で、なにかが光っている。それは決して目には見えないものだけど、重要なものであることは感じられた。

「おや、これまた妙な稀人で」

 不意に、声がした。

 ゆったりとした雰囲気の男の声。妙に艶があった。

 見ると前方に狩衣姿の人間が立っていた。狐面でも被っていそうというのが第一印象。見るからに怪しかった。その癖、衣の純白はおのれの潔白を証明しているようで、それが却って不穏な気配を煽っている。

「このような場所になんの用かね? いいや、おおよそ分かっているがな」

 口角を吊り上げ、挑発するような視線を投げかける。

 するとたちまち鬼は瞳孔を開き、剣に触れた。

 見るからに彼の放つ空気が変わった。

 深淵を覗き込んだように深く、禍々しい。トゲを闇が覆い隠したかのよう。

 これまで人やあやかしと相対したときとは違う。明確な敵意だ。

 そう、いままでとはまるで違うのだ。

 当事者ではない自分のほうが動揺してしまう。

 おろおろと様子を伺う中、鬼は低い声で問いかける。

「ああ、どうやら目的が変わったらしい。なるほど、俺か? 俺を殺したくてウズウズとしていたんだな」

 納得したようにうなずき、押し殺したように笑う。

「なんでだろうな。俺は悪いことなどした覚えはないのだが。いいや、一人殺した気がするな。哀れな女をな。だが、あれはくだらないやつだったよ。執着する価値もない」

 細めた目から挑発的な光がこぼれる。

 鬼は剣を柄をさらに強く握りしめた。

「おや、本当にあの女のことかよ。お前、あんなものを愛したというのか」

 男の心情を理解した上で、逆立てにかかっているような雰囲気だ。

 分かっていないわけがないと思った。

 彼はあえて煽っている。これはまずい展開だと直感した。けれども、加速したこの展開は止められない。

「なるほど、そうか。貴様にとってあの女とは、そのようなものだったか」

 視線を下げ、奥歯を噛む。

「そう怒るなよ。死んで当然の女だったろ。なにせ、鬼と契りを結ぼうとした輩だ。この禁忌、見逃せるわけがないよな?」

 口角を吊り上げ、哄笑が轟く。

 そのふてぶてしさはこちらの身が冷えるほどだった。

 そして、鬼は勢いよく剣を抜き去ると、一歩を踏み出した。

「よく言ってくれた。これで、殺す理由を得た」

 鋭い瞳が男を射抜く。

 これまでよりも深く、濃い闇に似ている。

 彼がまとうあやかしらしい気配も、さらに強く感じる。

 彼が遠くへ行ってしまう。自分の知らない彼になってしまう。そのことがなによりも怖くて身がすくむ。

 対して男は堂々と構えていた。戦いは避けられない。避けるつもりもない。元よりそのためにここで待ち構えていたのだから。


 そして、鬼は地を蹴り、飛び出した。

 剣を振り上げ、斬りかかる。

 男は一歩も動かず、受け取りにかかった。

 その弧を描く唇からは、余裕を感じられる。

 事実、男は鬼を前にしても一歩も引かなかった。それどころか、押してさえいる。

 攻撃は見切り、次の一撃を叩き込む。

 鬼もただではやられないが、状況は好転しない。なにより、鬼が全力でかかっているのに対して、男は軽くいなしているだけ。まだ、本気を出していないのだ。

 その時点で相手が普通の人間ではないと察した。もしやあやかしの類ではないかと感じたが、それにしては妖の気配がしない。それどころか、神なるものの加護を受けている気配すらする。男の周囲は凪いでいるかのように静かだった。呼吸の気配すら感じられない。いうなればこれは、人であるからこその強さなのだと、彼女は感じた。

「いままで何千とあやかしを斬って来たようだが、お前は甘いのだよ。村一つ滅ぼさんくせに、なにが国を滅ぼすだ。笑わせる」

 重たい一撃を叩き込みながら、鼻で笑う。

 衝撃で、鬼は一歩下がった。

 一度顔を伏せながらも、顔を上げる。

 歯を食いしばり、眉を吊り上げ、前を見据えた。

 そんな彼が視界にとらえたのは、目の前で揺らぐ剣だ。それは陽炎の中に沈んでいるかのように見えた。魔剣の類か。おおかた強さの正体はそこなのだろう。それによって多くのあやかしを葬ってきたに違いない。そして、神をも。

「畏れろよ。ひれ伏せよ。お前がいままでそうさせてきたように。今度はお前がこの力を知る番だ」

 男が突撃してくる。

 目で追いきれないほどに早かった。

 そして、その一撃は深く鋭い。

 鬼が受け止める暇もなく、彼は斬りつけられた。

 血が舞い散る。さながら紅葉が散ったかのように。

 たちまち男の体から力が抜ける。

 がたがたと崩れ落ちるかのように、重心が沈む。

 膝は地につき、動かない。

「フン。やはりお前は霊体ではないのだな」

 不満げに唇を尖らせ、鼻を鳴らす。

「いっそ神であれば俺もいささかやりやすかったのだが、そううまくはいかないか」

 淡々と吐き捨てる。

 彼は剣を地面に向けた。

 その刀身が紅に揺れていた。

 それはきっと、退魔の剣だ。一振りすれば、神であろうと殺せてしまう。

 見ているだけで身がすくむ。

 いや、それよりも、この戦いが恐ろしくて仕方がない。

 鬼が圧倒される場など初めて見た。彼が敵わない存在など、会ったことがなかった。彼が負けるかもしれない。敵わないかもしれない。それだけは嫌だと心の底から叫びたくなる。

 知らず知らずの内に鬼に感情移入していた。

 そして、彼の敗北から目をそらしたくなる。

 息が詰まって仕方がない。ピリピリとした緊張感に呑まれて、声すら出ない。

「まさしく筆頭、か。通りで都が落とせぬはずだ」

 納得したようにつぶやきながら、身を起こす。

 彼はふたたび剣を握りしめた。

 目は鋭く尖り、気迫があふれている。

 その、本来なら押しつぶされそうなオーラを冷ややかにやり過ごしながら、男は相対する。

「お前になにができる? 妻一人救えなかった鬼に」

 そこに侮蔑の笑みはない。

 心の底から相手を嫌悪しているといように、凍りついた表情だった。

 鬼は唇を動かした。けれども、言葉は出なかった。 

 暫時、世界から音が消える。呼吸さえ止まったような気がした。

 停止した空間の中で、男だけが動く。彼は上から攻撃を放った。容赦はなく、同情もない。ただ敵を処理するといった風情で、敵を倒す。それだけだ。そして、鬼はふたたび地に伏せた。そこにはまた新しい血が流れていく。

 瞬間、世界がモノクロに染まったような感覚がした。悲鳴が出そうだった。顔がこわばり、体が震える。頭にあったのは、「次は自分」だという予感ではない。ただ、現実を否定したい気持ちだけだ。

 心がどよめいている。震えている。

 そんな声にならない心の悲鳴をかき消すように、男は大きな口を開けて、笑い出す。

「そうだよな、やはりこうなるよな? こうなると知ってなお挑んできたんだよな? ならば潔く受け入れろ。それがお前の運命だ。お前は所詮、そんなものなんだよ」

 おかしくて仕方がないというように笑い続ける。

 刃は地に向いたままで、天を仰ぐ。

 完全に勝ち誇った顔をしている。

 倒せればいいとばかりに、気持ちよさそうに笑っている。

 その声が頭から抜けて、虚空に消える。

 ショックが胸を衝いている。怒りすら湧いてこない。どうしてこんな気持ちになるのだろう。なぜ自分は鬼に勝ってほしいと願ったのだろう。複雑な感情が胸にこみ上げ、唇を噛んだ。

「さて、次はお前だ」

 唐突に笑いが止む。

 次に男は少女を見据えた。

 彼は口元を吊り上げながら、息を吸った。

「お前は同じだ、あの女と同じだった。人間でありながら鬼を選ぼうとした。だから殺した。分かるだろ? それと同じになるんだよ」

 事務的な態度で呼びかける。

 途端に心が凍りつく。

 少女は目を見開いたまま、固まった。

 こうなることは分かっていたはずだ。次の標的は自分だと。覚悟はしていたはずなのに、衝撃は想像よりも大きく、がつんと地震が来たかのように震えている。

 分からない。分からない。どうすればいいか分からない。自分がなにをするべきかも分からない。立ってすらいられず、腰から崩れ、座り込む。

 生きたいのなら逃げればよかった。だけど、視線が倒れ伏した鬼へと向く。

 彼を置いて、逃げられるか。

 そんなことは、できるのかと。

 葛藤している間に男が迫る。刃が揺れる。その先についた血が滴り、地面を濡らした。

 男が剣を振り上げる。

 銀の軌跡が頭上できらめく。

 月光を浴びながら、男は口角を吊り上げた。

 さあ、死ねと。

 なんの憂いもなく終わってしまえと。

 彼女はそれを間の抜けた顔で見上げ、終わりを悟った。

 けれども、一撃は来なかった。

 刃は彼女の上で停まっている。

「なんだ……?」

 男が目を見開いたまま固まる。

 なにが起きているのか分からないといった様子だった。

 少女の視点からも、なにが起きているのか分からない。

 ぎこちなく、かくかくとした動きで見ると、男の胴体に剣が突き刺さっていた。

 それは後ろからの攻撃だった。

 彼の視界には入っていない。

 そして、後ろで刃が鋭く抜き取られ、噴水のように血が噴き出す。

「うわああああ!」

 男はうろたえ、わめき出す。

 彼は痛みに震えるよりも先に、自身が攻撃された事実に怯えた。

 元より、痛みすら感じていないのだろう。

 ただあやかしに出逢った素人のように震えながら腰を抜け、ひざまずいたかと思えば、地を這い出した。

「貴様は油断し過ぎだ」

 そこへ静かな声が降り注ぐ。

 いつの間にか鬼が立ち上がっていた。

 彼は剣を引きずりながら、相手を追い詰めにかかる。

 切れ長の瞳に温度はない。顔には色が抜け落ち、感情すら浮かばない。ただひたすらに冷徹な視線が、相手を貫く。

「待て。待ってくれ」

 両手を上げ、訴えかける。

 それが見えていないかのように、鬼は進む。

 男はそれを振り返り、情けない声を上げながら、祠のほうへ這っていく。

「あれは渡さんぞ。そんなもの、与えてたまるか」

「知っている。国を滅ぼす秘宝。それが祠に眠っている。元より俺はそれを回収する度にここに来た」

 淡々と鬼は語る。 

 たちまち、男の顔は蒼白となる。

「やめておけ。それは神より賜りしもの。鬼ごときが手を出してよい代物ではない」

「そうか。であれば、もっと頑強に封印を施しておくべきだったな」

 地面の上で手を伸ばす男を蹴り飛ばし、鬼は祠へと近づく。

 彼に躊躇はなかった。

 男の目的は本当にそこにしかなかったのだろう。

 今となっては地を這う戦士も、ただのゴミにすぎない。

 ただ、一度だけ振り返り、憎悪に満ちた目で虚空を睨んだ。

「貴様たちが望んだ力だろう。ならばその通りに滅ぼしてやろう」

 その言葉は脅しではない。

 本当にやるつもりだ。

 彼は祠へと手を伸ばす。

 その前方で淡い光が放たれる。

 蛍のような、宝石のような。

 幻想的な輝きだった。

「待って」

 息を呑みながら、叫んだ。

 なぜ止めたいと願ったのか、自分でも読めない。

 ただ、それを手にしてほしくなかった。

 国が滅ぶからではない。彼が変わってしまうと思ったから。

 嫌な予感が体を突き抜けたのだ。


 鬼の動きが止まった。

 伸ばしていた手が下がる。

 その指先が地へと向いた。

 少女は言葉も出せずに見守ることしかできない。

 今、この瞬間、彼はなにを思って祠の前に立っているのだろうか。

 鬼は振り返らなかった。

 少女はその背中へ呼びかける。

「やめてください。お願いします」

 それは祈りだった。

 彼にはその先へ進んでほしくない。

 衝動に駆られるように前のめりになりながら、駆け寄る。

 鬼はなにかを言おうとした。

 けれども唇を動かすことすらせず、諦めた。

 そのまま彼の体はふらりと傾く。

 地に落ちるその体を受け止めにかかる。

 両手に重たい衝撃がかかるも、なんとかこらえた。

 鬼は地面に横たえられた。

 目は頑なに閉じない。

 少女はその手前で静止している。

 頬を汗が伝う。

 心臓がバクバクと音を立てる。

 背景では風が吹き荒れ、枯れ葉と共に髪がそよぐ。

 音はない。

 いっときの静寂。

 まずはほっと一息つく。

 まだ、世界は終わる気配を見せない。

 今回はなんとかなったが、次はどうなるのか分からない。

 鬼は人間の敵だ。

 国を滅ぼすことが彼の目的。

 分かっている。

 分かっているのに、彼の元から離れられない。

 鬼もまだ、目を覚まさない。

 終わったのに、終わった気がしない。

 心のざわめきも止まなかった。


 06


 闇の中で枯れ葉が落ちる音だけが耳に入る。じっとしているだけで鼓動が速まる。焦りが全身を包み、頬を汗が伝う。

 今にも頭まで暗くなってしまいそう。だけど、かろうじて周りの景色は感じ取れるから、まだなにかできるはずだ。

 パニックになりそうな心をなんとか落ち着け、深く息を吸って、吐く。

 現実逃避して逃げることもできたけれど、今更そんなことはやるつもりはない。だけど、この状況は自分の手には余る。なんせ近くに宿敵であろう人物と、倒れた鬼。彼を助けないことには事は始まらないし、終わらない。

 鬼なのだから生きられはするだろう。ただ、回復となれば話は違う。自分では治療どころか、止血すら難しい。だから、他の人の手を借りる必要がある。ただ、彼を人の手に渡したくはない。そうしたら、なにをされるか分からない。まともな人――陰陽師などの役人なら、鬼を始末しようとするだろう。それだけは避けたかった。

 今、動けるのは自分だけ。いいや、もう一人いるではないか。

 凛とした表情で面を上げ、まっすぐにけが人である男へと、目を向ける。

「な、なんだ? 仇を討ちたいか。それはできない相談だ」

 へらへらと引きつった笑みをにじませ、下がっていく。

 ただし腰を抜かしているようで、なかなか離れられない。

「死んだ? 甘く見ないでいただけますか」

 眉を寄せつつ、そちらへ寄る。

 彼女がやることは一つだけだ。

 心の奥底に宿る熱い炎をじりじりと燃やしながら、凛とした態度で告げる。

「神官を呼びなさい。笛を吹くなり、鷹を飛ばすなり。そうでなければあなたも死ぬことになる」

 これは脅しではない。

 治癒しなければ危ないのはそちらも同じだ。

 回復の術を使う神の使いを呼ぶのは、彼にとってもメリットがあろう。

「はい、はい! 今すぐに!」

 もっとも、気遣いとやらは相手には伝わらず、すっかり震えている。

 すっかりと青ざめた顔をして、こわばった顔には明確な怯えが見える。

 脅すつもりはなかったのだが、そうとらえられたほうが都合はよい。彼女は無視をすることにした。


 なにはともあれ、賭けには出た。

 彼は鬼だが神でもある。神の使いなら丁重に扱ってくれるのではないかと期待した次第だ。

 うまくいくかは不安ではあった。どうか、これ以上の危害を加えないでほしい。そう祈るように人を待った。


 ほどなくして現れたのは狩衣姿の男だった。

 絹の衣をまとい、漆黒の烏帽子を身に着けたその姿は、陰陽師に似ている。顔は切れ長で狐を思わせる。涼しげな印象は、その人の心のなさを感じさせる。

「おや、なんの因果かね。これは」

 男は口元に笑みを浮かべつつ、興味深げに相手を見下ろす。

 見るからに怪しげだ。本当に大丈夫だろうか。

 目に力を入れて見守っていると、相手の目がこちらを向いた。

「そう怯えずともよい。きちんと治療はするさ」

 わざとらしいほどに爽やかな声だった。

 いまだに警戒は溶けぬ中、鬼は社のほうへ運び込まれて、外側とは隔離された。

 少女は遠くで立ち尽くす。

 なにをしているのかは分からないけれど、なにも起きないのだから、問題はないということでいいのだろうか。

 色々なことが起こりすぎて、心の整理がつかない。なにより精神的にも疲れている。休みたい気持ちと、彼が心配だと思う心とで葛藤し、彼女は結局その場を動けなかった。

 それはそれとして、例の男を生かしてしまったのは若干癪だ。別段、死んでほしいとまで思っていたわけではない。だけど、その存在が気に入らない。死なせたくはないけれど、わざわざ助けるほどの義理もない。それは結果的に救わなければならない対象になるわけだが、それがなんともいえず気持ちが悪い。

 しかし、彼が止めを刺さなくてよかったとも感じた。

 あの、今にも秘宝に触れそうな瞬間を思い出すと、またぞわっと背中の毛が逆立つ。彼は魔に堕ちてはならない。人を滅ぼしてはならない。

 その上であれは死んでよかったと内心思ってしまう自分に寒気がする。あんな人でも人間たちにとっては必要な存在だし、生きていてもいい。その上で、相手の存在を許せないと思うのは、自分があの鬼に感情移入をしているからだろうか。

 それでも自分が人間でいる以上、彼が滅ぼしたい相手の中に、自分も入ってしまっている。それがなんともむなしいのだ。

 決して相容れないことは分かっている。だけど、信じたい気持ちもある。あの鬼の中にある心と、ある人物を想う気持ちを。だから、全てを諦める気はなかった。これこそが想うということなのかと、彼女は今実感した。


 それから夜が明けてきたころ、例の神官がふたたび顔を出した。

「夜明けまでそこにいたのかい? 健気なことだね」

 爽やかに笑いかける。

 彼の言葉が皮肉か嫌味のように聞こえる。ただし、他意自体はないことは、なんとなく分かっていた。

「いつまでも待たせるのも申し訳がない。別棟で休むといい」

 神官の提案に、少女は目をパチパチとさせる。

 相手がなにを考えているのかは分からないが、休みたいのは確かだった。

 あの鬼の手当をしてくれたのなら、信じてもいいだろう。

「はい。ではそちらへ移ります」

「そう言ってくれて嬉しいよ。では、行こうか」

 爽やかに言い、歩き出す。

 足取りに迷いはない。必ずついてくると分かっている雰囲気だ。

 彼女もひとまずそちらを向き、一歩を踏み出した。


 社の近くには宮が建っている。平安時代でいう野宮のような場所だろうか。中はなにもないが、広々としているのがよい風情を醸し出している。ひとまず、じっと座り込む。そうしていると、出家でもしたような気分になる。

「なに、尼のように山菜だけ食す必要はないよ。好きなだけ食べるといい」

 皿に出されたのは果物を干した菓子だった。

 本当に唐菓子を目にできるとは思わず、少し興奮する。わくわくしつつ手に取り、口に放り投げる。歯で果肉を潰すと、自然の甘みが舌の上を転がった。パティシエのように凝った菓子でもないのに、甘いものを食べているだけで幸せな気分になる。我ながら単純だと、苦笑いをしたくなる。

「さて、君には色々と聞きたいことがあるな」

 前に神官が現れる。

 その涼しげな顔を見て、びくっと肩が震えた。

 そういえばここは敵地のようなものだったと、今更思い出す。しかし、疑問だ。相手は客人としてもてなしたいようだが、彼らにとって自分は捕虜のような存在ではないのか。なにか罠でも仕掛けるつもりではないか。たとえば自白を促すとか。別段、隠すことはないのだけど、緊張は溶けない。

 少女が訝しむような顔をしていると、神官は柔和に語りかける。

「なに、そう構えずともよいさ。なんなら嘘をついてもいい。殺しはしないからね」

 そう言われると、逆に怖くなる。

 嘘を言ってもいいと安心させておきながら、嘘を見抜けば即殺しに来るのではなかろうか。

 とはいえ、そうなってはもはやなにもできない。ここは素直に構えることとし、肩から力を抜く。

「なにを聞きたいんですか?」

 唇を尖らせ、彼を見上げる。

「そうだな。君と彼の関係性。彼をどう思っているのか。その思想をね」

 切れ長の目が鋭く光る。

 真実を射抜こうとしている目だと感じた。

 それなのに心はなぜか落ち着いている。凪いだように静かだった。だからなのか、彼女は自然に唇を動かせた。

「私は彼に捧げられた生贄。今は彼の気まぐれで生かされている状態です」

 目線を落とし、淡々と言葉をつむぐ。

「彼は鬼です。きっと人間に恨みがあり、この国を滅ぼそうとしている。それは、看過できないでしょう」

 それは自分の考えであり、意見だ。

「だから鬼を殺してほしいと、そうおっしゃるのかな?」

 口角を上げたまま、優しげに問いかける。

 少女は顔を上げた。

 その拍子に横髪が揺らぐ。

 一度、奥歯を噛む。

「違います」

 彼女はこの期に及んで自分の想いを口に出す。

「でも、止めたい気持ちはあります。生かしたいという思いもある。彼には、死んでほしくない。解放してあげたいんです」

 憎しみから、因縁から。

 彼が憎まずにいられる世界を作りたいとすら思った。

 それはどうあがいても困難だけど、どうにかして鬼から人へ変えられないだろうかと、願ってしまう。

「そうか」

 神官は腑に落ちた様子で一言。

「ならば、君にすべてを託したい」

 そう、声を掛ける。

 少女は目線を上げた。

「その前に、私の知っていることも語っておこうか」

 手のひらを差し出すように向け、笑いかける。

 それを訝しむように見つつ、相手の反応を待つ。

「構いやしないだろう? 彼の過去は君も知っておくべきことさ」

「過去?」

 少女は眉をひそめる。

「ああ、私が知っているのは伝説のようなものだけどさ」

 そのように前置きをしてから、神官は語り始めた。

「この国は元は、別の王朝があったのさ。いくつかの国が集まり、勢力を築いていた。あるとき、中央に強力な国ができてね。他の国を征服していったんだよ。もちろん、元からいた人々は抵抗した。支配されてなお、反乱を起こした。朝廷はそれを鬼や土蜘蛛として貶め、平定していったのさ」

 そう、何度も語り聞かせたようにすらすらと、彼は話した。

「そんな昔話を教えて、なにになるんですか?」

 言いつつ、彼女には確信があった。

 鬼、土蜘蛛。

 単語だけなら聞き慣れてはいた。

 その正体を垣間見たような気がして、心が震えた。

「そりゃあ、彼の正体そのものだからさ」

 神官は笑いかける。

 気の良さそうだ、だからこそ怪しげな笑みで。

「一人、朝廷に反乱を企てたものがいたね。遠い昔、それこそ神話に近い時代に。まつろわぬ民はそれを崇め、奉った。いわば整復された民の想いが結集して、形になった存在とでも、言えるのかな。朝廷はそれを鬼と呼んだ。伝説は伝説を呼び、信仰が彼を鬼へと転じさせた。それが、彼の正体だよ」

 聞いて、息を呑む。

 まつろわぬ民。

 そんな単語は初めて聞くが、言おうとしていることは分かる。

 それならば反逆を選んで当然だ。彼はそう望まれて生まれたのだから。

「でも、そうだとしても」

 この国にもまっとうに生きている人がいる。

 そう言おうとして、止めるように、神官が口を挟む。

「ああ、違うよ」

「なにが?」

 ぼんやりと聞き返す。

「君は彼が人を恨んでると思ってるだろうけど、人そのものは恨んではいないんだよ。だってさ、彼もまつろわぬ民、人であったのだしね。今ある秩序を破壊しようとはしても、人そのものに仇なそうとは考えていないんじゃないかな」

 自信を持って、彼は語る。

「だからこそ託したいのさ」

 淡い瞳で少女を見澄ます。

「その、翡翠の首飾り。あの女も持っていたね」

「彼の、お嫁さんのこと、ですか?」

「おや、検討がついているんだね」

 神官は感心したようにうなずく。

「ああ、鬼と契りを結び、滅ぼされた娘だよ」

 知っていたことさが、改めて口にされると、うっと声に出したくなるほどの痛みを覚える。

 そして、それがなぜか自分のことのように感じてきた。

「君、あの娘の生まれ変わりではないかな?」

 不意に、衝撃的な言葉が耳に飛び込む。

 少女は目を見開き、彼を見た。

 神官は真剣な顔をしている。冗談ではなさそうだった。

「君は翡翠の首飾りを持っているね。それと同じものを、あの娘も身に着けていたんだ。きっと、時空を越えて継承されたんだろうね」

 言われ、自身の胸元を見る。

 そこには、翡翠が輝いていた。

「いえ、そんな……」

 顔が熱い。

 自分は鬼の妻と同じなど考えるほど、うぬぼれてはいない。

 そんな存在ではない。

 あっさりと否定したいのに、なんとなく口にはしずらかった。

「気を悪くしたかな?」

 静かに、尋ねてくる。

 切れ長の瞳から鋭い光がほとばしる。

 それは、本音を聞き出そうとする目だった。

「どうとらえればよいか、分かりません。でも、私は現代から来た存在ですし、彼が愛した人そのものではありません」

 でも、生まれ変わりだと言われるのは、嫌いではなかった。

 自分はきっと、そばで誰かを支える存在にはなれないけれど、同じように彼を想い、想われたかった。

「そうでなくとも大切にしておいてくれ。ただ、全ては君次第だということを覚えておくといいさ」

 そのように口走りつつ、神官は腰を上げ、出ていった。

 去っていく狩衣姿を見送り、少女は机へ視線を落とす。

 皿にはまだ一つ、干菓子が残っていた。


 衝撃は延々と尾を引きそうだった。

 自分がかの妻の生まれ変わりだという話は荒唐無稽だけど、そうであってほしいと思ってしまった。

 気持ちが落ち着くと、今度はこの世界と現代が地続きであるという話に、動揺する。

 現実がこんなファンタジーな世界なわけがないだろう。

 ツッコミを入れたくなる。

 しかし、目には見えず、常識という枷に隠されているだけで、本当はあやかしなどもいるのかもしれない。そう考えたほうが夢があっていい。

 なにより翡翠の首飾りの存在が、二つの世界の繋がりを証明しているではないか。そう考えると気持ちが明るくなり、自然と口元がほころんでいた。

 現実を受け入れると心もクリアになる。妻だと言われると荷が重いけれど、自分にしかできない役目があるのなら、自分はそこから逃げない。妻という称号を否定したりもしない。自分がこの時代に飛んできた理由は、そこにある。

 会わなければならない。

 心に浮かんだ言葉を、口の中でつぶやく。

 少女は顔を上げて、前を見据えた。

 ここはまだ宮の中で、あたりは壁に覆われている。

 行かなければならない。

 皿に置かれた干菓子には触れずに、黙って立ち上がる。

 外へ出ると、景色はすっかり澄み渡っていた。空はまだ青いが下のほうにはうっすらと朱が滲んでいる。今にも暮れそうで、でも日の光が強く残る、透明な瞬間。

 少女は神の通る道を抜けて、社のほうへと赴いた。

 鳥居をくぐり、砂利道を歩き、奥へと歩く。

 そして、そこにある宮を覗き込む。人気がないことを確かめ、息を殺して進んでいく。

 その最奥、御簾を越えた先で、彼は横たわっていた。広々とした空間には人払いがほどこされてある。少女が通り抜けられたのは、彼女だけは接触を許された存在だからだ。

 なお、本人はそんなことは気づきもせずに、堂々と鬼に近づく。彼はひどく弱ってはいるようだが、顔色は悪くない。放っておけば回復するだろう。治癒など施す必要はなかったのではないか。自分のやったことは余計なお世話だったのではないか。

 ぐるぐると卑屈な考えが頭をよぎる。

 しかし、どうでもいい。今自分がしなければならないことはそれではないのだから。

 ふーと息を吐く。

 目を伏せ、準備を整えようと思ったところで、足元から声がかかる。

「俺は、知ってほしいとは思っていなかったが」

 目線を下げると、鬼がこちらを見ていた。

 夜の色に似た瞳だった。

 ごく自然なのに、少し責められているように感じた。それは、彼の声に温度を感じられなかったからだろうか。

 対して少女はゆるやかに弧を吊り上げて。

「私は知ってよかったわ」

 そう、本音を口に出す。

 聞いたことに後悔はない。

 彼の正体を知ってようやくそばに立てる。

 だからこそ、彼から話を聞くこともなた、義務だと思うのだ。

 覚悟を決めて鬼を見澄ます。対して彼は、少し気難しげに視線をそらした。


 07


 空気は依然として張り詰めている。それこそ空中に一本の弦を張ったように。緊張で息も詰まりそうな雰囲気だが、少女の覚悟は決まっていた。ぱっちりと開けた瞳を彼へ向け続ける。視線はそらさない。そして彼女は口を開いた。

「話は聞きました。あなたの正体も、過去になにが起きて、そうなったのかも」

 淡々と言葉をつむぐ。

 彼は反応を示さなかった。

 話は聞いているが、どうでもいいと。

 自分のことになど関心はないと言いたげだった。

 構わず、少女は続ける。

「まだ、あなたの口からは聞いていません。今、あなたがなにを考えているのか。本当はなにを思って、鬼を名乗っていたのかを」

 真剣な表情。

 まっすぐな目に熱がこもる。

 彼女が求めているのは正しい答えではない。彼の想いだ。それを汲み取りたいだけ。

 その脳裏に浮かんだのは自分の知らない女の顔。ただしそれは自分自身の顔によく似ていた。死んだ彼の妻を想像したのだから、自然とそうなる。

 果たして彼は彼女をどう思っていたのか。聞くまでもないと思うのだが、一度だけでも聞いておきたかった。


 対して、鬼は静かに目を伏せた。

 唇は頑なに閉じたままだった。

 けれども、もはや隠しておくことはできないと悟ったらしい。

 重たい息を吐いた後、ようやく口を開いた。

「俺は確かに人そのものは嫌いではない。だが、この魂は朝廷への復讐を訴えかけている」

 最初は淡々としていた口調に、熱が入っていく。

「俺は鬼だ。人に仇なすように求められた存在だ。俺をこのように定めたのはほかでもない人間たちだ。だったら、俺はそのように振る舞うしかあるまい」

 彼の意思は頑なだった。

 けれども、それがすべてではないことを、彼女は知っている。

 だから、簡単に鵜呑みにする気はなかった。

 それでも、言葉自体は本音を言っていると思われる。ここは、下手に否定することはなく、うなずくことにした。

 その上で少女は問いかける。

「あなたは人間に戻るつもりはないんですか?」

 神として祀られている以上、鬼ではないなにかになれる可能性はあるだろう。

 それをしないということは鬼である自分を受け入れていること。

 それが妙に納得がいかない。

 そんな悲しさと苛立ちが混じった想いが胸に広がる。

「こんなあり方をしているやつだぞ。戻れるわけがなかろう」

 鬼は苦笑いを浮かべた。

 完全にあきらめている顔だ。

 それがなによりも悲しくてならない。

 しょぼんと眉が垂れる感覚がした。

 彼がいいならなにも言うべきではないのだろう。それでも、納得がいかなかった。

 なにかを口にしようとして、やはり閉じてしまう。なんと言葉をかけてよいのか分からない。彼が鬼である理由は分かるし、まつろわぬ民が復讐を望む気持ちも分かる。彼としては神になどなりたくないのだろう。それでも、朝廷の言う通り鬼のままでいるなんてことは認められない。

 拒絶感が表に出てくる。少女はひそかに拳を握りしめた。

 そんな彼女の反応を横目に、鬼は冷たく息を吐く。

「貴様ももう眠るがいい。ここには筵もあるだろう」

 促されるように見ると、やや離れた位置に本当に筵が敷いてあった。

 とはいえ、少し尻込みする。確かにこのところあまり眠れていない。彼のことが気になるし、ぼうっとしていてもそのことばかり考えてしまう。目をつぶろうとしても妙に頭が冴えてしまって、眠りに入れそうになかったのだ。

 それでも疲労はある。自分が起きていても状況が変わらないことくらいは分かっている。いっそ、現実逃避くらいしてしまってもいいのではないかすら考えた。

 少女はすっと筵の上に身をすべらし、横になった。近くには衾も置いてあったため、こっそりと被って、頭を隠す。

 そのころにはすっかり体から力が抜けていた。彼の話ができて安堵していたのもあるのだろう。少女はごく自然に眠りへと落ちていった。



 眩んでいた視界に透明な光が差し込む。ぱちぱちとまぶたを開いてみれば、明るい色が見える。ぼんやりと顔を上げて、遠くを見つめる。格子越しに青い空が見える。もう夜が明けていたかと、口の中でつぶやく。

 実際にはそう時は経っていないのだろうが、ずいぶんと長く眠っていた気がする。そのおかげか頭はすっきりとしていた。二度寝する気にもなれない。

 そうしてぐるりと視線を宮へと戻し、はっと息を呑んだ。そこにはなにもなかった。床は磨かれたようにきれいになっているだけで、夜にはあったものは取り払われている。

 彼が、いないのだ。

 気づいた瞬間、恐怖にも似た衝動が全身を駆け抜けた。

 気がつくと少女は衾をどけて、飛び出していた。外には草履も置いてある。そこに足を入れるなり、地を蹴った。

 彼がどこへ行こうとしているのかは分からない。都を滅ぼしたいのならもっと北へと進んでいるはずだ。問題は、都を滅ぼすには例の秘宝を手に入れる必要があることだ。彼が触れてはおしまいだ。それだけはさせてはならない。

 とにかく取り返しのつかなくなる前に行かなければならない。彼女は焦っていた。

 そうして勢いのまま森へと入った。秘宝が保管されている社なら近くにあるはずだと踏んだからだ。間に合わない可能性、すでに奪い取られている可能性など、考慮していない。そうなっていれば終わりだからだ。

 しかし、森というものは入り組んでいるほか、霧まで立ち込めてきた。気がつくとどこを走っているのか分からなくなっている。すでに社は通り過ぎたのか、まだまだ先にあるのか。その判断すらつかない。惑わしの術でも食らったような気分だ。

 少女は汗をかきながら、足を止める。

 それから自分が立っている位置を確かめようと思い、周囲を見渡す。しかし、同じような風景が並んでいるだけで、なにも分からない。これは本格的に迷ってしまったようだ。少女は頭を抱えた。

 だから、なにも考えずに突っ走ってはならないのに、なにを考えているのだろうか。

 自分で自分にツッコミを入れたくなる。

 そうした中、遠くであおーんと吠えるような声がした。

 空耳かと思った。

 しかし、それはどんどん近づいてくる。

 足音と共に。

 まさか。

 可能性は頭をよぎった。

 森なのだからいるだろう。

 だけど、考えないようにしていた。

 こんなところで出くわしたら終わりだから。

 どうか、気の所為であってほしい。何事もなく過ごさせてほしい。

 棒立ちになったまま祈る。

 けれどもそれは天には通じなかった。

 次の瞬間、草が軋むような音がしたかと思いきや、それを切り裂くように狼が飛び出してくる。

 それは口を開け、鋭い牙をこちらへ向けた。

 殺される。

 血の気が引くのが分かった。

 少女は青ざめ、後ずさる。けれども、彼女に逃げ場はない。このまま狼の餌食になるだけだ。

 実際に食われて血の海に沈む光景が頭に浮かぶ。自身は肉片となり、地に転がるのだ。その欠片すら狼たちに舐められ、咀嚼される。なんてグロテスクな死に方だろうか。そんな事、考えるのも嫌だった。一気に全身に鳥肌が立つ。そのぞわりとした感触が上っていくのに耐えきれず、少女は目をつびり、叫んだ。

「いやあああああ!」

 絶叫が轟く。

 高い声だった。

 それが天を切り裂くように響き、上空では小鳥たちが雷から逃げるように飛び去っていく。

 そんな中、少女の胸元で翡翠が淡く輝いた。さながら月光を浴びたかのように。

 そして、それからそう間も待たず、声がした。

「全く、貴様を一人にはしておけぬな」

 呆れたような物言いと共に、鋭い音がなにかを一閃する。

 少女はゆっくりとまぶたを開ける。

 すると前方には血に濡れた狼たちが転がっていた。

 木を切り倒したかのような、見るも無惨な光景。

 いささか心が痛むが、助かったことは事実。

 少女は顔を上げ、相手を視認した。

 凛とした顔をした男がそこに立っている。艶のある絹を身にまとい、額に角を生やした存在だ。彼は一本の刀を持ち、その血を払い、鞘に納める。

「あ、ありがとう」

 自分を助けてくれたことは感謝をしたい。

 素直にお礼を言っておく。

 この気持ちは確かなのに妙にぎこちない。

 探していた相手を見失い、彼のほうからくるなんて思いもしなかった。おまけに迷い、襲われたところを助ける形で。それが気まずくて仕方がない。そのせいで、少女はなかなか鬼と目を合わせられなかった。


 しばらく、また無音の時が流れる。彼はまだなにも言わない。静かにこちらを見下ろすだけだ。もしかしたら自分の言葉を待っているのかもしれないと、少女は考えた。しかし、彼女としては切り出す言葉に迷ってしまう。

 左右に瞳を泳がせながら、口をかすかに開けて、言葉の準備をする。

 自分がなにを思っているのか、なんのために彼を探していたのか。

 自分が本当に言いたいことはなになのか。

 なにを一番に思っているのか。

 これを言えば最悪、殺されるかもしれない。彼の怒りを買うかもしれない。それでも、ごまかすことはできない。まっすぐに思いを伝えなければ、なにも帰ってこないだろう。だから意を決して顔を上げ、彼を見上げた。

「あなたには、あなたのままでいてほしいんです」

 まっすぐに伝えると、彼は眉をひそめた。

「なぜそうなる。俺はどうあがいても鬼にしかなれぬぞ」

 その言葉が心底不愉快だというように、顔をしかめる。

 彼の気持ちは分かる。

 その上で少女は首を横に振った。

「いいえ。あなたは鬼にもなりきれません。だってあなたは優しいもの」

 本当の鬼――あやかしと同じになっていれば、人間の村などあっさりと滅ぼしていただろう。

 あやかしに襲われる村だって、見捨てていたはずだ。

 生贄として放り込まれた少女の命も、救わなかった。

 後者は私情も入っているのだろう。それでも彼が自分を守ってきたことだけは確かなのだ。

「あなたは、鬼ではありません」

 ただ事実を述べる。

「貴様は俺を愚弄するのか? このあり方を否定するつもりか?」

「人の心を捨てきれない者のどこが、鬼なのですか?」

 彼は人間たちに望まれて鬼になった。

 だけど、その心までは鬼に染まりきっていない。

 そしてなにより、彼のような人間が鬼として貶められるのはおかしい。

「くだらない。俺は鬼のままでいい。汚名もなにも、俺が選んだ道だ」

 彼は断言する。

 だけど、彼は情を捨てきれてはいない。それだけが事実だ。

「分かっていないな。俺はお人好しなどではない。国なんぞ、その気になれば滅ぼせるのだぞ」

 眉を吊り上げ、目の角を尖らせる。その瞳から鋭い眼光が放たれた。

 その殺気にも似たオーラに、少女はひるまない。

「本当に? 人間の女を愛したあなたに、そんなことができるとでも?」

 目を細めて指摘する。

 途端に相手は口を閉ざす。

 言葉が出ない。

 頭が空白に染まったような雰囲気だ。

 そしてその沈黙が、それが図星であると示していた。


 また、周囲を風が吹き抜ける。空は相変わらず青ざめていた。頭上から太陽が降り注いではいるものの、朝はまだ冷え込む。秋という季節も相まって、寒々とした雰囲気だ。それこそ、全てが枯れ落ちていきそうなほどに。それなのに周囲に生えているのは針葉樹なので、視界には緑色が映っている。その色を嫌に意識してしまう。

 二人で相対している。それを意識すると視界が晴れ、世界に彩りを添えられたような気がした。

 やがて彼は大きく息をついた。

 それから諦めがついたように口元を緩め、眉を下げた。

「あの女への愛、か。それだけは、否定ができぬな」

 彼が笑いかけたのを見て、こちらも肩の力が抜ける。

 鬼が妻を愛していた。それを認めてくれて、ほっとしている。

「そうだな、本当のことを話そう」

 そう前置きをしてから、鬼はふたたび口を開く。

「貴様は自分のためにとは、言わなかったな。だが、俺としては困るのだ。なにせこの国を滅ぼせば、未来への道が途絶える。貴様は帰る場所を失うだろう」

 どこか悲しげな、陰のある表情で彼は伝える。

 それを聞いて、彼は本当にこちらのことを想っていたのだと実感が湧いた。

 それが意外で、嬉しいけれど、受け止めきれず、心がどよめく。

「俺は人を殺せる。国も滅ぼせよう。しかし、貴様の未来を奪うことだけは、できないのだ」

 眉を寄せ、振り絞るように言葉をつむぐ。

 それが、彼の答えだ。

 彼がどうしても越えられない一線。

 自分という存在がこの男に楔を打ち込めた。それに気づいたのは、ワンテンポ遅れてからだった。それはひどくおぼろげで掴みどころのない感覚だった。この瞬間も実感が沸かない。それでも、彼の言葉に偽りはないと思える。自分は彼を信じられる。そのことがなによりも嬉しかった。思わず頬が緩み、笑みがこぼれそうになるほどに。

「本当に、あなたは私のために?」

 口に出すと泣いてしまいそうだった。

 それほどの感動が、胸に押し寄せてくる。

「ああ、俺は、その想いだけは裏切ることはできない」

 男は目を伏せ、うなずいた。

 ああ――

 また、想いがこみ上げる。

 彼のそばにいてよかった。彼を止めることができてよかった。彼が振り返ってくれてよかった。

 ようやく、自分がここに来た理由が分かった。その目的を果たすことができそうだ。それだけで報われた気分になる。

「では、約束してくれますか? 二度とこの国の敵にはならないと」

 確かめるように尋ねる。

 男は苦々しい顔をしつつ、はっきりと頷いた。

「ああ、貴様がそれを望むなら」

「いいえ、そうしたいのは、あなたの望みでは?」

 自分のために引くという決断は、彼のものだ。

 彼女はそれを否定しないし、拒まない。

 無論、彼は憎しみを捨てたわけではない。その気になりさえすれば、人の国など滅ぼしても構わないのだろう。これは単純に、本来の目的よりもたった一人の女を選んだだけのこと。

 だからこそ、少女としては特別な想いが溢れてくる。

 彼が、選んでくれた。

 その事実に胸が震えて仕方がない。

 そうしてそのまま、ゆるやかに時は流れていった。


 終


 秋はなおも深まっていく。

 草花は枯れ、世界から彩りが消えていく。

 近くの町の民家を借り、食事を馳走になり、寝床を使って眠りにつく。

 やることといっても特になく。縁側に座っては枯れ落ちる葉を眺めている。

 顔を上げると、空は曖昧に曇っている。もうすぐ雪が降る季節になる。もしくはすでに冬なのか。いずれにせよ、長い冬を越えなければならないのは確かだった。

 同時に彼女は気づく。自分はこの世界で役目を終えてしまった事実を。それは少し胸が晴れるが、やることがないというのはむなしいもので、よりどころがなくなった気分になる。

 また、同じ夢を見た。現代の四角い家屋が並ぶ通り。カーテンや壁紙で飾られた部屋と、勉強机。その部屋が自分を呼んでいる。意識する度に引っ張られるようなのだ。

「どうやらこの地に居座るのも限界のようだな」

 鬼が声を掛けてくる。彼はなにかを悟ったような顔をしていた。

 その姿がヴェールをかぶったように薄れていくのを見て、心がキュッと縮まるような心地になる。

 少女は目を伏せた。

「案ずるな。その翡翠の輝きはどこにいようと見つけられる」

 頼もしく、彼は語りかける。

「その光を導にして、必ず会いに行く。次は鬼としてではなく、神として」

 言葉に迷いはなく、口調ははっきりとしていた。

 彼を信じていいと思った。

「本当に来てくれるのですね」

「ああ、信仰があるのなら、俺も神の端くれだ」

 そう彼は口角を上げて話す。

 それを聞いてほっとした。少なくとも永遠の別れということではなさそうだ。

 彼と離れるのは寂しい。できるのならずっとこの時代にとどまっていたかった。頼り切るわけではないけれど、この男のそばでならどんな不便も乗り越えられるような気がしたからだ。

 しかし、もう離れなければならない。行かなければならないのだろう。

 うつむき、奥歯を噛みしめる。

 それでも彼女は顔を上げた。

「分かりました。私はもう行きます」

 口元は弧を描き、瞳には光が宿る。

 彼女は彼を信じている。

 自分を忘れないでなどとは言わない。

 彼ならばきっと約束を守ってくれると思っている。

 だから、もう行かなければならない。

 その足取りは怖くはない。自分が向かう先は絶望ではないはずだ。もう一度会えると分かっているのなら、あっさりと背を向けることもできるはずだ。

 少女の決意は固まった。彼の手を自ら外す。

 途端に浮遊感が体を包んだ。足元からふわりと浮いて、なにかに吸い寄せられている感覚がする。

「もう、時間のようです」

 彼に伝える。

 鬼はただうなずくだけだった。

 また、胸元で翡翠が力強く輝く。その、雪の結晶のようなきらめきをたどれば、元の場所に戻れるような気がした。事実、そうなのだろう。自分はなにもしなくてもいい。自分が過去にさかのぼったのは翡翠の首飾りの力だ。発端がそれなのだから、終わりに導くのも翡翠だけのはずだ。

「さよなら」

 その言葉を終わりにはしたくなかった。

 終わりにはならないと知っていたからこそ、終わりを告げられた。

 少女は目を閉じる。

 真っ暗になった視界。

 体重すら失われ、魂だけとなった感覚。

 そして次に目を開けた瞬間、少女の体は部屋の中にあった。

 普段と変わらない、なんの変哲もない空間だ。近くにベッドが置いてあり、窓際ではカーテンが揺れている。その隙間から柔らかな光が差し込む。外では自動車が走行する音がする。

 平和にもほどがある場所だ。

 少し気が抜けて、息をつく。

 しかしまあ、帰ってきたといっても夢から覚めたようで、実感が沸かない。あまりにもあっさりとした帰還に、掴みどころのなさだけを掴んでしまう。だけど、その胸元には翡翠の首飾りだけが、変わらず光を放っていた。彼女は宝石の部分を押さえ、目を閉じた。

 なにもかもが失われた気分だけど、繋がりはきちんと残っている。見えない糸はまだ繋がっている。その実感は沸かないけれど、今すぐにでも手を伸ばしたい。衝動にも似た感情が胸の中を突き抜けていった。

 それからすぐに、少女は外へ飛び出した。スニーカーを履いて、道を抜ける。人気のない場所へと進み、柵を越えて、森に入る。そこには鬱蒼と緑が茂っている。踏み固められた道はいずこへ続くのか。少なくとも彼女の視点からは読み取れない。

 そこにはなにもなかった。神秘の気配はしない。獣の姿すらない。胸のざわめきはやまない。針葉樹の隙間をくぐり抜けるように歩いても、結局はなにもなかった。

 ああ、そうか。過去と現在は違うのだ。あれほど感じたあやかしの気配も、今は雑踏の海に沈んでいる。それを強く感じられて、切なくなる。あのとき、自分が感じた気配が遠い。それはもう二度と手に入らないもののような気がしてならない。

 また、無性に泣きたくなった。

 少女は諦め、帰路についた。それからまた平凡な日常に戻ったけれど、頭の中にはまだ過去の情景が残っていた。あの日見た鬼と、古びた家屋。鳥居のある社に、暮れゆく空と枯れた葉っぱ。その情景をカメラに映すようにまぶたに焼き付けておきたかった。だから、キャンパスに向き合い、筆を走らせる。記憶を元に、情景を描き、何度も書いた。

 美術部員でもないというのに、美術室に居座る少女を不審がる生徒たち。構わず彼女は絵を描いた。

 夜になれば小説を書く。それは自分の体験を元にしたものだ。けれどもそれは荒唐無稽で夢の内容を書き写したようなものである。文章もめちゃくちゃで、売り物にするにはほど遠い。それでも彼女はちっとも恥ずかしくなかった。だから堂々と、クラスの仲間にも話を見せた。しかし、その相手は内容を見るなり、怪訝に顔を歪めた。

「あんたね夢見すぎなのよ。そんな世界、あるわけない。いい人なんて見つからないし、現実は現実でしかないのよ。分かってる? 理想なんて手に入らない。あんたのほしい人なんて、いるわけないのよ」

 唇を尖らせ、咎めるように話す。

 少女は唖然として固まった。

 色をなくして彼女を後目に、相手は席を立つ。そのまま、元の席へと戻っていく。そのすぐ後に、授業の始まりを告げる鐘が鳴った。先生もやってきて、勉強が始まる。しかし、少女はなかなか集中できなかった。


 どうして、こうなってしまうのだろう。

 なぜ、否定されなければならないのだろう。

 夕焼けの染まり空を背に、トボトボと帰路につく。下を向きながら白線の内側を丁寧に進んでいた。その足取りは力はなく、表情も曇っている。

 彼女の心境はぐちゃぐちゃだった。

 ショックだったのは、咎められたからではない。彼が、否定されたからだ。

 確かに自分は夢を見ている。物語の中の情景が実際に証明するなんて、誰にも証明できない。

 自分でもあれは夢だったのではないかなどと、不安に思うときもある。それでも胸元の翡翠は輝きを止めない。まだ繋がりは生きている。そう信じたいのに、時々心が折れそうになる。元の時代に戻ったのに過去よりずっと独りになった気がする。誰も自分の話に耳を傾けてはくれなかった。誰も物語の中身を信じてくれなかった。もしも自分がもっとうまく文章を操れたら、誰かの心に届いただろうか。そう思っても、願っても、仕方がない。この想いはもはや誰にも届きはしないのだから。

 誰か一人でもいい。分かってくれる人がいればよかった。それが今の自分には存在しない。彼がいた痕跡すらも失われ、何の変哲もない世の中が漂うばかり。

 翡翠の輝きだけが拠り所だった。もしもそれを失ったら、自分はどこへ向かえばよいのだろう。不安が胸に押し寄せてくる。もうどこにも行きたくないのに、自分の体がふわりと浮いて、霧に溶けてしまうような気配がする。

 うなだれながらも顔を上げる。その視線の先には黄昏に染まった空だけがある。同じ空なのにあの時代とはまた違って見える。この建物の群像も、電信柱も、なにもかも、あの時代にはなかった。鬼と共に駆け抜けた日々は戻ってこない。それをまざまざと実感し、耐えきれなくなる。

 少女は走り出した。どこでもいいから逃げ込みたかった。できれば人のない方へ。

 深い森を彼女は進む。行き先など決めていない。より深いところまで迷い込んでしまって構わなかった。そこからまた、戻ってこれなかったとしても、後悔はしないだろう。泣き叫んだりもしなかっただろう。それでよいと思った。

 そうは思っても、それはなんの気休めにもならない。荒れた心を癒すことなどできない。少女は崩れ、膝をついた。その先にはきっと社がある。けれども、なにも探す気にはなれなかった。どうせ、自分に手に入るものではないと知っていたから。

 それでも彼女は見たかった。なんでもない、希望になるものがほしい。たとえそれが夢だったとしても、すがりつきたかったのだ。

 とはいえそんな幻想はありはしない。ため息をつき、首を振ろうとした。

 そのとき、背からやや離れた位置で、声がかかった。

「ああ、ようやく見つけられた」

 低く、闇を切り裂くような声音だった。

 少女は目を見開き、振り返る。

 その目にはある男が映った。艶のある絹をまとい、裾までもきれいに整っている。艶のある黒髪が背を流れ、穏やかな目をして笑いかける。その顔は軟弱ではない。むしろ戦士を思わせるほど凛とした風貌だった。そして、その額には象徴であったはずの角がない。彼がまとっているのは、静謐さだ。いつか感じた恐ろしげな空気感は今は遠い。それを感じ取って、なんだか涙がこぼれてきそうになる。

「貴様が望むのなら、何度でも辿ろう。その翡翠の軌跡を」

 その解をもって少女は理解した。

 彼を思えば、何度でも自分たちは巡り会えるのだと。

 それこそが運命。

 彼と自分の関係だった。

 そうであればなんら恐れることはない。

 彼を求める声に、男は応えた。それだけで十分だった。

 そんな二人を太陽は温かく降り注ぐ。淡い光がウェーブを作り、周りを照らしている。さながら森の中から二人だけを切り抜いているかのように。そうして二人はいつまでも見つめ合った。

 もうこれで終わってもいいと思った。だけど、これが始まりであることを彼女は知っている。

 それでもまだ、この余韻に浸っていたい。いつまでも夢の中にいたい。

 うっとりと思いながら少女の口元は笑みを引いた。


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