復讐 (海洋帝国と類似性ありそう)
赤と緑に彩られた壁紙は華やかで、天井の灯りも相まって、美しい雰囲気を醸し出している。
窓際ではカーテンが揺れる。窓が開いていればさわやかな風が吹き込むだろう。
そうした中で、一度照明が落ちる。代わりに十五本のろうそくが一気に灯る。それは闇の中で鮮やかに輝いた。
「うわー、きれい」
まるで母がよく使う魔法みたい。
うっとりと、少女は口に出す。
わざわざ声に出したのは、その感動を表に出したかったからだ。
一方で彼女の姿は黒く、溶け込んでいる。つややかに伸びた髪も瞳も、暗い色。それが縁どる顔だけが白く浮き上がっているかのようだった。
「そうでしょう。今、ケーキを切り分けるからね」
にこにこと母が語り掛ける。
ケーキにナイフを入れながらニコリとする。
その髪は金色で暗い中でも目立って見えた。
彼女は母のその金色が好きだった。自分にはない色だからだ。
それから切り分けられたケーキは皿に乗り、二人で食べる。スポンジにフォークを入れ、細かくしたものを口に入れる。ふんわりとしたおいしさが口内に広がる。甘いクリームも舌で溶けた。おまけにいちごの甘酸っぱさもよいアクセントを醸し出していた。噛めば噛むほどおいしさが身にしみこむ。もっとたくさん食べたくなる。こんなにも食べるのが楽しいのは、この日が自分の誕生日だからか。いいや、きっとそうだ。この日は自分がいかに恵まれているのかを感じることができる。母に愛されていると知ることができる。それで自分は安心するのだ。ああ、生きていてよかったと。
「あまり食べすぎてはダメよ。残りはまた明日ね。今度はごちそうとして食べましょう」
にこりと笑いかけてケーキを箱にしまう。
少し名残惜しいけれど、明日の楽しみになるのならそれでよい。
でも、明日ってそれは誕生日ケーキといえるのだろうか。疑問に思うけれど、おいしければそれでいい。彼女は深く気にしないことにした。
こうして誕生日会は終わった。母がなにやら呪文を唱えると、照明に火が灯る。明るくなっていく室内に対して、彼女の心は少しだけさみしくなる。
それから一夜明けた。街は何事もなかったかのように動き出す。少女は窓越しに外の様子を眺めている。
大きな通りには市場が開かれ、ドレスやスーツで着飾った者たちが歩き、物色している。時々楽しげな笑い声がする。声はよく聞き取れないけれど楽しそうでうらやましい。
彼女はいつも内側から見ていることしかできない。外へ出たことはないし、それを許してくれるということもない。どうしてだろうと首をかしげたこともある。それをわざわざ聞きにいく気にはなれない。母もなにも語らなかった。そんなものだからいつまで経っても純粋なまま、ただ年齢だけが重なっていく。普通なら今頃働きに出ているころだというのに、自分はいつまでも引きこもってばかり。そうするように求められてはいるのだけど、本当にそれでいいのだろうか。考えるだけで曇りそうだ。
そうした中、大聖堂の鐘が鳴る。昼を告げる音が澄んで、天にまで届くようだった。
天高く上った日がいずれ沈む。その内空は夕焼けに染まる。暖かな光が町を染める。一層美しさを増した世界に生きている。でも、彼女に見える景色はそのひと欠片に過ぎない。どうせならもっと遠くに行ってみたい。そんなことを思いながら窓を離れて、ベッドに移り、布団に潜り込む。目を閉じれば闇が広がる。夢の中へ入ればどこまでも行ける気がするのに、結局のところ自分の世界はこの狭い部屋の中だけ。外の喧騒も心なしかむなしく響く。そうした中で彼女は目を閉じた。
そんな日々を潜り抜けてある日突然、彼女は部屋を抜けた。
十五歳になったのだからもういいだろう。本当はいけないことだと分かっているけれど、夜になったら帰ればいい。気づかれなければ怒られないから。一回くらいはいいだろう。もう、うずうずしてたまらないのだ。いい加減に外の景色を見てみたい。
そんなことを考えて、こっそりと家を抜け出した。まだ、朝になる前の静かな空間。人通りもない中、藍色の闇にまぎれるように町を歩いた。足が自然と覚えるように彼女はすいすい道を進むことができた。そのまま城壁を越えて、外へと出る。
そうして歩いている内に街並みは途絶えた。舗装された道を進めば、森の中へと入りこむ。そのころになると空は明るくなっていた。なにも考えずに突き進んできたけれど、このままだと帰り道を見失うような気がした。それでも外を楽しみたい。でも、遭難してしまうのは怖い。引き返そうか。迷い立ち止まっていると、上から声がかかる。
「かわいらしいお嬢さん、どうしたのかなこんなところで」
柔和な声だった。
顔を上げると優し気な顔をした男が立っている。
「私はちょっと外を歩いてみたかったんです」
正直に打ち明けると、彼はあっさりと、納得したようにうなずいた。
「それならいいところに案内するよ」
彼は少女を責めなかった。そればかりかどんどん町から離れた方へと導いた。
だけど彼女は彼を信じてしまったから、なにも考えずについていく。
森は避けて安全な道を通る。その端には草木が咲いていた。すぐそばの林からは青々しい香りが漂う。人の入り込めない領域というのは神秘的な気配を感じるもので、ただ歩くだけで魅了されてしまう。
空は広々とし、野原はどこまでも続いているような気がした。こんな暖かな日差しの下でごはんでも食べてみたい。少女は足が疲れるのも構わずに歩きまわった。一生分の楽しみを消費するかのように。
だけど、それもすぐに終わりの時が訪れる。
「そろそろ帰ろう」
「どうして? 空はまだ明るいのに」
「だからこそだよ。まだ昼の内に帰らないと心配をかけてしまうだろ」
言われてみるとそうだ。
これは家出のようなものなのだから、帰らなければならない。それも、夕方になる前に。
しかし、元の場所に戻れば自分はまた、小部屋にこもり続ける日々を送る。それは少しうんざりする。とはいえ仕方のないことだ。母に会えないことも寂しいし、自分はあの町で暮らしていかなければならないのだから。
かくして少女は元来た道をたどって、都に戻ってくる。
帰りを惜しむように淡々と。
最初はただ静かだった。なんてことのないゆったりとした空気だった。それが町に近づくにつれて不穏なものに変わる。空がおかしい。薄曇りか暗雲へと変わる。風が鋭く吹き荒れる。木々が揺れ、葉が舞い散った。なにかがおかしい。まるで嵐に突入したかのように、寒い。
なにかが起きていることを肌で感じる。これ以上先へは進みたくはない。だけど、確かめずにはいられない。葛藤に揺り動かされながらも、恐る恐る前に進む。
そうしてたどり着いた場所で、唖然とした。
空が赤い。まがまがしいまでの色。まるで燃えているかのよう。そこから燃える流星が町を焼いていた。
レンガの建物は勢いのままに砕き、破片すら残さず消し飛ばす。残りには遺跡のようになった家だったものが残される。彼方では立派な大聖堂が焼き焦げ、逃げ出した人々もまた炎に包まれる。
移民と思しき影も、金髪の住民たちも皆死ぬ。平等に、公平に。その町に生きる人々に降り注ぐ流星。炎に包まれた景色は夕焼けに似ていた。事実、これが落日だったのだろう。
美しかった都。世界の富が集まり、繁栄を築いた町。それが今や見る影もない。
あまりの惨状に言葉も出ない。ただそこに立ち尽くすことしかできない。ただ、人が死んでいったことだけは分かる。そこには屍の山が降り積もる。自分はいったいなにをすればいいのか。
現実を疑い、目の前の景色すら分からなくなる。
そうした中、影を見た。それは塔の上にあるものだ。それだけは無傷のままそこに立っていた。顔はよく見えない。ただ縦長のシルエットだとは感じた。それが今、転移したかのように姿を消した。
少女はそれを見届け、へたりこむ。体に力が入らない。逃げたいのに、ここから去りたいのに、立ち上がることすらできなかった。ただ目からは涙がこぼれる。
自分の過ごした町が、居場所が。いつも使っていた部屋すら今はがれきに消えてしまった。あれほどまで時を重ねて築いたものが、今やこのありさま。崩れるときはなんとあっけないものか。
本来ならいろいろと考えがめぐるところだが、今は真っ白になって動けない。そうしている内に空はしっかり暗くなっていた。ぬるい風が吹き抜ける。この夕闇に少し安心する。ここでなら自分の姿も都も、見ずに済むから。
「町はもうない。君が国には戻れないらしい」
淡々と男が口に出す。
「悔しくはないか? 自分の目の前で謀ったように行われて」
「はい。嫌です、とても。なによりも悲しくてたまらない」
「それならば、敵を追い詰めてはみないか」
「追い詰める?」
唐突な物言いに固まる。
「そうだ。私はそれを知っている」
彼が、なにを、どうして知っているのか。
困惑する。
だけど、手がかりを握っていることは確かだ。
「私はその人に会いたい。会って、話がしたい」
口に出したのは憎しみの言葉ではなかった。
今彼女の頭の中にあるのは疑問だけだ。どうして自分たちの国は滅ぼされなければならなかったのか。それを解決したい。それだけがすべてだ。
「ならば私についてくるといい。その者のところへ案内しよう」
手を差し出す。
少女は男を見つけた。
相手のことはよく分からない。だけどきっと悪い人ではないと思った。なぜなら自分をピクニックに連れて行ってくれたからだ。彼ならば自分の求める場所へ導いてくれるかもしれない。淡い希望に従い彼女は恐る恐る、彼の手を取った。
それから世界は夜のになり、何事もなかったかのように時は進む。
その夜明けの空を一人の男が歩いていた。朝露に濡れる茂みの中をひそむように通り抜けていく。その影でこっそりついていく存在があった。当然、それにも男は気づいている。
「なんの用だ?」
鋭い目で声をかけると、相手はすっと木々の隙間から現れ出た。
男は茶髪に緑の瞳をしていた。なんの変哲もないコート姿だが、携えた剣のまがまがしさが嫌な存在感を放っている。対する相手は切れ長の目が特徴というだけの、人畜無害そうな外見をした青年だった。ただ胸のあたりにあるバッジをつけている。その紋章に見覚えがあった。
「お前、王都の関係者か」
目を細めて言う。
たちまち相手は口ごもった。
「知っているんだな、王都の生き残りを」
畳みかけるように指摘する。
これにも相手は答えられなかった。
それを男は肯定と認識した。
「ならば案内しろ」
そう、笑いかける。
ちょうどよいことを思いついたとばかりに。
それはどちらかというと遊びを優先した物言いだ。男は別に相手の力を欲していない。このまま逃がしても構わなかった。だが、どうせついてくるし、相手は自分を止めたいはずだ。だったら引き留めてしまえばいい。彼はそのように考えた。
「なぜ王都を滅ぼした」
「そんなものは決まっている。復讐のためだ」
あっさりと彼は答えた。
「これからも殺すのか? 生き残りも含めて」
「当然だ」
当たり前のように男は言う。
「やめろ。そんなことをしてなにになる。もう彼らは敗北した。これ以上追い詰めることはない」
「それこそ無意味だ。俺はそいつらを殺したくて仕方がねぇんだよ」
それは台本を読んでいるかのようだった。
棒読みではない。劇場に立ってうまい演技をしているような、そんな雰囲気。
「とにかくやめてくれ。そんな憎しみのために誰かを傷つけるのは間違っている」
青年は分かったような口をきいているように、男には感じた。
その言葉は響かない。
元より彼にとってはどうでもいいのだ。
「勝手にしろ」
すたすたと歩いていく。
対して青年は唖然としつつ追いかける。
本当は憎しみを抱くこと自体を責められない。それでも、彼は止めたいと願う心があった。それだけのためについていく。
男は振り返らなかった。後ろを意識することすらない。追いかけてくる影のことなどいなかったものとして進む。そうして森を抜けて、開けた通りにやってきた。
そこには野原が広がっていた。風が吹けばさわやかな香りが鼻を突き抜ける。空気は清浄で人から離れた場所はやはり素晴らしいと実感する。そこには二つの影があった。片や整った髪をした男と、やや低い位置には黒髪の少女。見慣れない顔をした者たちである。
男は真顔で彼らを見ている。すっと隣にやってきた青年は、はらはらと様子をうかがう。
すると、少女のほうが振り向いた。彼女は純粋な目で彼らを見ている。緊張感もなにもない様子。人を見て顔を輝か出ることもなければ、泣き出すような情緒不安定さを見せるわけでもない。
青年のほうはなぜか気まずそうに視線をそらす。
彼は男と少女の正体を知っている。対して、当事者たるお互いはなにも知らない。仇が目の前にいるにも関わらず、少女はなにも分からないという顔をしている。本当に無防備だ。
対して男もなにも言わない。なにもなければ通り過ぎる予定だ。実際にそうするつもりで足を動かす。そのとき――
「よかったら、一緒に行きませんか?」
無邪気な声がした。
「たくさんの人と一緒のほうがずっと楽しいと思うから」
純粋な笑顔を向ける。
男は言葉をなくした。足を動かすことを忘れ、石となる。
「ね、いいでしょう?」
にこりとした顔。
それは運命か導きか。
「構わないが」
あっさりと口に出す。
もしも男が彼女が王都の人間だと気づいていれば、乗ってはこなかっただろう。彼女のほうも相手が仇だと知っていればこんなことを言い出さなかった。
なにやらわけの分からないことになった。隣で青年は眉を寄せ悶々としているが、彼にできることはなにもない。そのまま流され、付き合うことが決まる。少女のそばにいる男もなにも口を挟まなかった。
かくして四人は共に旅を進めることに決めるのだった。
01
皆、互いの名前は教え合った。魔剣を携えた男はハヤテという。対する少女はシオン。そばに仕えるようにして構えている男はシーザーだ。また、こっそりとついてきている青年もアオと名乗った。しかしながら、それ以外はなにも話さない。自分の素性や過去など、伝えるまでもないと考えているのか。もしくは詮索されたくないといったところか。ともかく、なにも話さずともやってはいける。相手のことはなにも分からないが、なにかあれば助け合えるはずだ。シオンはそう、楽観的に考えていた。一方で、アオはひやひやとついてきている。彼としてはどうしてこうなっているのか分からない。成り行きで旅に同行してはいるのだが、本当ならハヤテとシオンを一緒にしてはならない。しかし、とうのハヤテ自体が動きださないのも奇妙だ。彼はなにもする気がないのか。彼の復讐にシオンの存在は入っていないのか。疑問に思い、首をひねる。よく分からないままおかしな面子による旅は続く。なにも起こらないままただ歩き続ける。それならばそれで構わないのだが。できるのならこのまま平穏に終わってほしい。そのようにアオは願う。そして思慮するアオの前でシオンはルンルンと鼻歌を歌いながら歩いていく。彼女の警戒心のなさにはあきれるほかないが、できるのならずっと笑ったままでいてほしいと願うのも事実。空よ永遠に曇らないでくれ。祈るように天を見上げた。
「それでお前が探しているのは王都を燃やした犯人だというのだな」
ハヤテが素知らぬ顔で問う。
あまりにも自然で落ち着いた様子だったので、聞いているアオもぎょっとする。
「はい。私は逃げていく影を見ました。それが、咎人だと思うのですが」
少し悩まし気に眉を寄せる。
彼女は罪人と会いたがっている。それは危険だと分かっていながら、どうしても確かめたいのだと、彼女は言う。それは復讐心からではない。純粋に疑問を解決し、心に整理をつけるための行為だ。
本当だったらハヤテが自分が罪人だと打ち明ければそれで済む。街を滅ぼしたのは復讐のためだと白状すればそれでよい。それなのに、目の前に少女がいて、ハヤテは口を割らない。気にしているのかいないのか分からない。おかしな男だとアオは感じた。
「それで当時、君が見た滅びはどんな印象だったんだ?」
優男が問いかける。
彼は現場を目撃しているはずだ。それをわざわざ質問にして投げたということは、彼女自身の手で回答を掴むように求めている、ということ。そして、シーザーはきっと答えとやらを知っているのだろう。知った上で促すとは微妙に意地が悪いとアオは感じた。
一方、シオンは視線を上げる。考え込むような顔をして、口を開く。
「それは災害のようでした。無数に隕石が降り注いで、町が燃えて。たくさんの人が死にました」
瞳が揺れ動く。
その色は燃える空を映しだしているように見えた。まるで嫌な思い出を回想するように。
「そうだな。相手は直接剣で殺したわけではなく、天に裁きを任せたんだよ。返り血も浴びずに、手も汚さずに。卑怯なことだと思うよ」
しれっとシーザーが語る。
「もっとも、本当に神が裁きをくだしたわけじゃない。君の家族はそんなものではなかっただろう?」
「はい。母は私を愛してくれました」
彼女は町の片隅でひっそりと暮らしていたが、それを咎める者はいなかった。
あの都は美しかった。それが奪われていいわけがない。
「それは人為的な災害だよ。何者かか魔法を使って災いを降らせたんだ」
明るい声で言う。
その答えを分かっていながら彼女の口から言わせたシーザー。なんとも嫌味な話だ。
対して、とうの下手人はなにを考えているのか。アオはちらりと茶髪の男を盗み見た。相手は口を堅く引き結んでいる。視線はやや下がってはいるものの、表情は変わらない。自分のことを語られて怒っているわけでも、少女に同情しているわけでもない。ただ黙って歩いているだけだ。
先ほどのシオンの言葉や解答は、ハヤテ自身からも答えを聞きたがっているようでもあった。それはアオが詳細を知っているからで、本当にシオンはなにも知らないのだとは思う。しかし、こんなときだからこそハヤテから真実を聞きたかった。とはいえ相手は一向に口を割らない。そのまま、なにも起こらないまま時間だけが過ぎていくのだった。
そのまま進み続けて、村のほとりまでやってきた。そろそろ日も暮れる。今日はここでキャンプを張って夜をやり過ごそうか。立ち止まり、無言でそのように意思疎通をする。そうして準備に取り掛かろうとしたとき、なにやら高い声が聞こえてきた。それはなにを話しているのか聞き取れなかったが、ぎゃーぎゃーと騒いでいるようだった。子どもだろうか。
近づいてみると、村の中で複数人の子どもが一人の相手を囲んでいた。
「ほらほら出して見ろよ。お前の家、儲けてるんだろ? いろんな石も持ってるんだろ」
「ずるいよ。一人だけ持っててさ。少しくらい私たちに分け与えたりしないわけ?」
「どうせなにも渡したくないんでしょう。心が狭いわね。性格の悪さもにじみでてるみたい」
くすくすと男女が笑う。
対する中心の男子は肩を狭め、うつむいている。彼は泣きそうな顔をしていた。今すぐにでもここから逃げてしまいたいが、一歩も動けない。言い返すことすらできないといった様子。気弱なのだろうとうかがえた。
「もういい。知らない」
「やーい、ケチ野郎」
「みんなに言いふらしちゃおっかな。ケイくんは意地悪だってさ」
「そうよ、そうしましょう」
口々に言い走って、皆は離れていく。
走り振り返りにらむ少女。その目は軽蔑の色にあふれていた。
また、彼らから離れた少年も気まずげに顔を伏せる。そのまま一人ぽつんと突っ立っている。どこかへ逃げることも向かうこともせず。そうして、寂しい風が吹き抜けていった。
様子を見ていると、不意にシオンが動き出す。
「おい、なにをしに行く?」
「事情を聞くんです」
「そんなことをしてなにになる?」
シオンが振り返って答えるとハヤテがばっさりと切り捨てる。
「悩んでる様子じゃないですか。なにか聞かないと」
それは答えになっていない。
事情を聞いたところで自分たちにはなんの見返りもない。こんな子どもが情報を知っているわけでもないし、放置しておいたほうがいいだろう。なにしろ、関係ないのだから。
しばしハヤテとシオンはにらみ合う。もっとも眼光鋭く飛ばしているのはハヤテだけで、シオンは特に敵対心を出していない。
「まあいいさ。行ってくるといい。別に損はしないのだろう」
優し気に促す男。
「はい。ありがとう」
彼の声に背を押されるように、少女は駆けていった。
そのまま彼女は少年の元にやってきて、身を縮めた。
「どうしたの?」
少年は目をそらした。
「大丈夫。悪いようにはしないわ。私はあなたの力になりたいの」
柔らかな声音で問いかける。
すると、彼はこそこそと箱を取り出す。
「これは?」
目をぱちりと開けてみる。
興味深げな顔をする少女も前で、少年は蓋に手をつける。
目の前で箱が開かれる。
そして彼女は目を丸くして、感嘆の声を上げた。
中にはぎっしりと宝石が詰まっていた。
「行商で手に入れたのかしら」
「うん、一部は売るはずだけど、僕に渡してくれたんだ」
「誕生日プレゼントみたいに?」
少し感傷的に言う。
「僕はこれを守りたい。両親からもらった大切なものだから」
少年は力強い目をしていた。
その意思は宝石が高価だからではない。それが両親からのプレゼントだからだ。つまり彼は高価なものよりも両親からの想いをもっと優先している。それならばぜひ力になってやりたい。シオンはそのように思ったのだろう。
「分かったわ。なんとかする」
明るく声に出す。
それを聞いて少年は希望を持ったらしい。
「本当に?」
「うん」
笑顔でうなずく。
それからシオンは青年たちの元へ戻ってきた。なにやら楽し気な彼女を訝しむように、ハヤテが言う。
「なにをするつもりだ?」
「彼に力を貸すだけです」
「なにを無駄なことを」
吐き捨てるようにつぶやいた。
「別にいいじゃないか。この過程でなにかを得られるかもしれないからね」
優男はフォローするように言う。
「はい。でも一番は彼を助けることが重要です」
許可を得たことでシオンは俄然やる気になった。
そんな少女を横目に、ハヤテは背を向ける。
「勝手にやってろ」
彼はさっさと歩き、離れて言ってしまった。
さて、ともかく作戦は始まった。
しかし、肝心な内容はまったく伝えられない。
なにをすればいいのか分からないし、彼女がなにをやろうとしているのかも分からない。
ただ、作業をしているのは分かった。森のほうに赴き、はしゃいでいるのだ。まるで虫取り最終に励む子どものよう。彼女も童心に帰ったのだろうか。否、年齢で考えると彼女もまだ子どもなのだが。
そうこうしている内に夜になる。皆は彼の家に入ることになった。いつの間にかハヤテも戻ってきている。しかし、特になにも語らない。他の者たちも不用意に尋ねたりしなかったので、気にすることなく、時は進む。
一方、シオンはなぜかうきうきと外の様子を眺めている。なにかをしようとしているのは明白だが、その詳細はうかがい知れない。当日までは秘密にしておくのがいいのだろう。したがって、詮索しないことに決めた。
そして朝を迎え、日は上り、昼になった。
家の周りにはいじめっ子たちが集まる。皆、目を尖らせピリピリとしている。
「ほら、さっさと渡しなさいよ」
女子が強く言い寄る。
「ほらほら」
「うん」
少年はあっさりと箱を渡した。
「素直ね、いい子」
にやりといじめっ子が笑う。
少年は眉を困らせ、相手を見つめる。
それから女子たちはたむろし、遠くへ行った。
その様子を見て、アオは眉を寄せた。これでは意味がない。守りたいことを守れずにいたら、なにもできない。シオンはこれとなんとかするために尽力していたのではなかったのか。なんとも解せない。
違和感を覚えて固まっていると、遠くのほうで絶叫が響く。それは平野に雷が落ちたかのような叫びだった。
なんだと顔を上げ、寄ってみると、大量の蜂が渦巻いてみた。
「あれは……」
青は足を止める。
蜂に囲まれているのはいじめっ子の少女だ。
「なんなのよもう!」
目をつぶり、絶叫する。
逃げようにも周囲を囲まれては仕方がない。
そもそも体に力が入らない様子だ。
そのありさまを見て、シオンのやりたかったことを理解した。これはつまり、宝石の入った箱をすり替えたのだ。空の箱に蜂を詰め込み、放出させた。それまで暗示だったり、凍結の魔法でもかけていたのだろう。
これは助けずに放っておいたほうがいい。そのように考え傍観していると、急に蜂が動きを止めた。おやと見てみると、蜂はメタリックな素材で作られているようだった。つまりはおもちゃ。心配する意味すらなかったことになる。
「なによ、なによ。次やったら本物を持ってくるってこと。いいえ、次渡される箱が本物とは限らない。本物、本物って、なに? どうしたらいいの?」
少女は混乱に陥った。
「うわああん」
そのまま髪を振り乱して逃げていく。
その様をアオはため息をつきつつ見送った。
それから数日村に滞在し、シオンたちは少年の様子を見守った。
「あれからどう?」
「大丈夫だよ。もう関わってこないって」
もう怖がって近づかなくなったらしい。
「それはよかった。でも、さみしくはない? やりすぎちゃったかな」
「いいや、そんなのどうでもいいよ。あんなやつ、関わりたくもない」
「でも、付き合ってみれば楽しいかもしれないよ」
笑顔を向ける。
自分からいじめっ子を撃退しておきながらなんたる言いぐさか。
アオは内心あきれ返っていた。
「そうか、うん。そうかもしれない」
目を落とし、言う。
「ともかく、これからはあなたがやるのよ。大丈夫、なんとかなるわ」
根拠もなく言う。
だけど、それはそれで勇気を与えてくれるものだった。
一度、撃退には成功した。相手の見る目は変わるだろう。
後は強気になってみればいじめられることもない。他の仲間に交じることもできるだろう。ともあれ話し合うことは大切だ。アオは勝手に解釈し、うなずいた。
「それじゃあ私たちはこれで」
席を立つ。
手前のテーブルにはパンやスープが並んでいる。共に空っぽになっているが今も温かさと芳しい香りが残っていた。
「食事ありがとう」
そのように笑いかけ、歩き出す。
皆は外に出た。
シーザーはずっと無言のままだ。村ではろくに口も利かなかった。しかし、文句をつけることもなかった。まるで黙認しているようだった。彼の心の内は読み取れないが、シオンに対してなにを思うのだろう。気にはなるが問うことはなかった。これは別段、明らかにする必要のないことだ。だから、アオは黙っておくことにした。彼が王都を滅ぼしたことも隠し通せば傷つかずに済む。苦しませるのならなかったことにしてもいい。それを彼女が望んでいるのなら、そうするべきだ。アオの心は依然惑ったまま。それでもその足は進んでいく。
一方、離れている影を見送り、少年は一息ついた。
シオンやその仲間たちは村から出ていく。関わり合ったのは少女だけで他の相手とは話もできなかった。彼女とも力を貸してもらった間柄ながら、なにも返せていない。きっと彼女は戻ってこない。それは本当に残念だ。本当は少しでもなにかを返したかったのに。
しかし、彼女との関係は終わろうと、自分たちにはまだつながりを経てないものが残っている。取り返しはつくのだから、どうとでもなるはずだ。そんなことを思いながら目を伏せる。そうして彼は踵を返す。なにもない空間に背を向けて、新たな方向へと歩き始めた。
02
唐突に獣の声が響いた。
それはイノシシだった。毛並みを針のように立たせ、爪を鋭く尖らせて、襲い掛かる。狙いは少女だ。白いローブに身を包み、長い黒髪を隠す彼女。白い肌は清楚な雰囲気と共に弱弱しさを示している。他の面子はどれも男で、獣の狙いにはならなかった。
少女はぽかんと立っている。なぜ自分が襲われるのか分かっていない様子だ。イノシシは勢いを止めない。そのまま獣の餌食になるかと思いきや、横から斬撃が飛ぶ。銀の色が目の前を一閃し、獣が吹き飛ぶ。それは木の幹にぶつかり、地面に落ちた。敵は派手に血を吹きだしている。起き上がってくる気配がない。
「あ、ありがとう」
シオンはちらりとハヤテを見上げ、お礼を言う。
男は無言のまま剣を収めた。
見るとその刃はただの銀色だった。魔剣のようにまがまがしい色を放っているわけではない。他に剣を持っているわけではないため、同じ剣なのだろうが、奇妙だ。アオは訝しむ。
なお、本人がその事実を口にすることはなく、何事もなかったかのように歩いていく。
好意的に接するシオンとは対照的に、ハヤテは気難しい雰囲気だ。相手の好意を無下にしていると思われるのだが、それでシオンが怒る様子はない。自分が一方的に感謝しているのだから、なんのリアクションがなくとも構わないというのだろう。しかし、アオとしてはもどかしい。ハヤテも少しは応えてやってもいいのではないか。そうは思っても、仕方のないことだ。
一方で二人の相性は悪くはなかった。ハヤテの態度をシオンが許しているからだ。ハヤテもまたシオンのそんな様子を否定したりはしなかった。互いが互いを知らないがゆえに成立している関係性。奇妙だが、これを崩したくないと思っている自分もいる。そんなアオをちらりと盗み見る男がいる。シーザーである。彼はいったいなにを考えているのか。アオの視点からは読み取れないのだった。
「しかし君も奇妙なものだ。咎人を探すというのに、復讐する度胸もないようじゃないか」
おもむろにシーザーが口を開く。
「私は復讐なんてする気ありません」
唇を尖らせて主張する。
「いいや、そんなはずはない。君は両親を殺した者を許してはいないんだよ」
シーザーは諭すように言う。
「私はその人に地獄に落ちてほしいと思ってるわけじゃ」
「それでは、野放しにしてもいいと言うのかな? 罪を犯した者がのうのうと生きていても」
「それは……」
言葉が途切れる。
彼女は相手の罪を許しているわけではない。両親の死に対して心の整理はついていない。王都が迎えた結末に関しても納得してはいないのだろう。しかし、町を滅ぼされた側にしては彼女の態度はきれいすぎる。本来ならもっと憎しみを表に出してもいいはずだ。それとも、そういうものを口にしないように気を付けているのだろうか。
「私はただ知りたいだけなのです。なぜ母は死んだのか、街が滅ぼされなければならなかったのか」
凛とした目で言葉をつむぐ。
彼女の意思は固い様子だった。
しかし、それは衝撃を加えればあっさりと壊れてしまいそうで、危なっかしい。
いてもたってもいられず、アオは声をかける。
「詮索はよしたほうがいい。なにも知らなければあなたは穏やかでいられるんだ」
これ以上、事を進展させてはならないような気がした。
彼女が犯人を知れば、ハヤテに対する態度も変わる。得なくてもいい憎しみを抱いてしまう。それは避けなければならない。この少女には清廉さが最も似合うのだ。なにより復讐のために人生を浪費するのはよくはない。彼女は幸せであるべきだ。
「相手はどうせ悪人だ。話を聞いても言い訳しか飛び出さない。不快になるのなら放っておけばいい。なにもかも忘れて」
とうとうと語る。
横でシーザーが無言で聞いている。
すると、シオンが振り向いた。
「私は生き残りです。残された者としてそれを知る義務があります」
眉をつり上げ、真剣な顔をして主張する。
彼女の声には芯が通っていた。
そう、シオンには覚悟がある。それを否定することは今の段階のアオにはできなかった。
真実を伝えてしまえばいいと彼は思った。自分だけが王都を滅ぼした者を知っているのだから、教えてしまえばいい。それですべてが解決するのだから。だけどそれをしてしまえば旅が終わってしまう。この旅は偽りであっても構わない。彼女が平穏に生き続ければそれでいい。だからだましだまし続いていけばいい。ただ、それだけだった。
結局、アオはなにも言わなかった。シオンは前を向き、歩き続ける。また沈黙が降りる。そうこうしている内に町が見えてくる。それが次なる目的地、もとい補給地点だった。
そこは王都に近い雰囲気の町だった。教会があり、市場もある。宿が建ち並び、商業人も多く行き交う。祭りの日が来れば通りはきれいに飾り付けられ、より一層華やかになるのだろう。ぜひその日に立ち会いたいのだが、そうのんびりしてもいられない。それでも少しでもにぎやかな雰囲気を楽しみたいと思う。
「わー、私もっといろんなところに行ってきます」
宿を取るなり、シオンは駆けて行った。
買い物はほどほどにしてほしいが、彼女のことだから無駄遣いはしないだろう。
安心感を抱きつつ、アオは個室に入るのだった。
一方で他のメンバーもそれぞれの場所へ赴いた。
彼らがどこにいるのか、アオは知らない。シーザーはともかくハヤテから目を離すべきではなかったかもしれない。そうは思っても見失ったものは仕方がない。気を抜けば辻斬りでも犯すかもしれないと考えると、気にはなるが。
などと言いつつ、彼は腰を上げた。
それからしばらくして、少女は帰ってこない。
これを不信に思ったのはハヤテであった。彼はなにもせずにアオの隣の部屋にいた。アオはなぜか出払っていていない。なにをうろうろしているのかよく分からないが、彼のことはどうでもいい。問題はシオンだ。彼女は危うい。目を離せばどんなことに巻き込まれているか分からない。念のために探しにいったほうがいいだろう。ハヤテは宿を出た。
空はまだ青い。しかし、夕暮れになるのも時間の問題だ。
大きな通りを抜け、角を曲がり、路地裏に入った。するとあたりは薄暗がりに沈む。ハヤテは影を踏むようにして進む。いかにも怪しげな雰囲気。乞食が集まり、様子のおかしい若者たちがふらふらと歩いていく。こんなところにあの娘が来るわけがない。眉を寄せつつ首を振ったとき、不意になにやらはっきりとした声が耳に届いた。
「これは上物だ。あんなものが降って入るとはな」
「ああ、あんな真っ白なものはこの町では珍しい。皆、俗物になりきっているからな」
「そうそう。純粋な女は几帳なのさ。そいつを穢してしまうのもまた面白い」
なにやら怪しい話をしている。
ハヤテは即、つま先をそちらへ向ける。
直感的に関係があるものと判断し、歩き出した。
「おいお前、なにをしている。話せ」
「なんだお前は」
男たちが一斉に振り返り、にらみつけてくる。
喧嘩を売る気満々である。
対してハヤテは眼光鋭く相対する。
たちまち男たちは目を泳がせ、縮み上がった。
「話せ」
自然な感じで繰り出した言葉。
特別低いわけでも、力を入れたわけでもない。
それが、目の前の男が言ったから。それだけの理由で、男たちは震えあがる。
「はい、教えます。だから命だけは助けてくれ」
リーダーと思しき男が平伏する。
周りの者もそろって頭を下げた。
その様子はハヤテは冷めた目で見下すのだった。
シオンは暗い倉庫の中に閉じ込められていた。手首は後ろで縛られ、身動きが取れない。かろうじて口は空いている。それは嫌だと泣き叫ぶところが見たいがためにあえて自由にしているのだろう。そう、うかがえた。されども彼女はみじめな振りなどしない。毅然とした態度で敵と相対していた。
「なぜ、こんなことをするのですか?」
にらむような目で見上げる。
「なにって? やられたらやり返すんだよ、当たり前のことだろう」
たむろしている男たちは盗賊風の外見していた。
荒れた衣をまとい、ナイフをもてあそんでいる。
「私があなたに、なにをしたと?」
目を丸くして問う。
自分は彼らのことなど知らない。街に来たのだって初めてだ。それどころか王都にいたころは部屋から出たことすらない。関わり合いんあんてないはずだ。だから、なぜ見ず知らずの相手から怒りをぶつけられるのか、理解ができなかった。
なお、相手はそんな少女の態度がなによりも気に食わなかったらしい。
「俺たちはさんざん搾取されたんだよ。帝国に支配されて、労働力としてこき使われ、作物は根こそぎ奪われた。やつらのたまに働かされる日々だ。そんな毎日からようやく解放されたんだぜ。その分、自由にふるまったっていいじゃねぇか」
眉を吊り上げ、口を大きく開けて言い放つ。
その言葉の意味をまるで理解ができない。
それは、意味が通らない。相手がひどい目に遭ったことは分かる。自由がなかったことも分かる。だからといって、それを知らない相手にぶつけてなにになる。それは私刑ですらない。復讐になんてなっていない。
「お前らはそのための生贄なんだよ。相手がやってるんだからいいよな。誰だってやってもいいんだろ」
それで自分が満足すればそれでいい。
自分たちの行いの罪はない。
「せいぜいこき使われろ。醜い豚のような連中の元首輪につながれ、擦り切れてしまえばいい」
自分がやられたのだから、自分以外の誰かもそうあるべきだ。
それを本当に信じているという態度。
シオンはうすら寒さを覚えた。
「それとも、ここでやっておこうか」
「え?」
予期せぬことを言い出され、シオンは固まる。
「関係ねぇよな。売り物だろうと先に手を出したものが勝ちだ。いつだってそうだ。やらなきゃなにも得られねぇんだ。やるしかねぇよなぁ」
男はシオンに迫る。
「やめっ」
悲鳴を上げそうになる。
後ろに下がりたかった。
しかし、縄で縛られて身動きも取れない。
死ぬと思った。いいや、死んだほうがましだ。穢されるくらいならここで終わってほしい。少女は目を閉じた。
そのとき不意に鋭い音がした。
「なんだ?」
男がそちらを向く。
続いて、光が差し込む。扉が真っ二つに切り裂かれていた。ひび割れたそれはばたんと倒れ、入り口を開ける。
「やれやれ、こんなところか」
剣を下ろす。その刀身がかすかに紅に光ったのを、シオンが見た。
それは見るからに危険な剣だった。一度抜けば血を浴びるまで沙也に収まらない。それと悟ったのか、男は後ずさる。しかし、もう遅い。現れた影は一瞬で距離を詰め、敵を斬り伏せた。
悲鳴が響く。血が飛び散る音がした。しかし、それは影の中に沈みシオンの目からは見えなかった。
ほどなくして、シオンは表に出される。ハヤテがなにかをしたことは分かる。その所業も。しかし、シオンは彼を否定する気にはならなかった。あの男がまともな立場でないことくらい、なんとなく分かる。その正体は知れずとも悪い人ではないことは知っている。ただ単に容赦がないだけの。
自分は助けられた身だ。文句を言う資格はない。ただ、怖いと思ってしまった。いつかその刃が自分に向くかもしれないことが。あっさりと人が殺せる精神性が。
そのことがほんの少し嫌になる。心のしこりとして残りそうだと感じた。
「バカなものだよ、本当に」
そのとき隣で声がした。
視線を向ける。その先にいるのはみすぼらしい布一枚をまとった女性だった。
「私たちはどこまでも虐げられる。弱い私たちはどこでも同じこと。それなのに、なにをあがけばいいのやら」
彼女は同じ蔵に閉じ込められていた女性だ。
ずっとうつむき、あきらめたような目をしている。
「自由が得られたら、希望が得られるのではないのですか?」
「そんなことは知らないよ。支配者層が変わるだけだよ。現この街は変わらなかったじゃないか。敵が去っても、貴族が入り込めば、そいつらが君臨する。民は奪われ続ける。みじめに這うだけだよ」
やけになったように女性は笑いだす。
それを見て、言葉を失う。
ほんの少しの希望があればいいと思った。一人での多くの人間が助かればいいとも願った。それでも現実は変わらない。
「それにしたってくだらないよね。自分がされて嫌なことこそ、やり返したくなるってね。そんなことをしたってなにになるのさ。相手はもういないのに」
皮肉げに笑う。
「あんたはどう思うのさ?」
「私……ですか」
ぽかんとしつつ、聞き返す。
「そうさ、あんたはどうありたい?」
そのことに対して、うまく答えられない。
自分はただ清廉でありたいだけだ。
どうあがいても復讐鬼のように、堕ちたくはない。そちら側に行きたくない。自分にとっては、ただそれだけだったのだから。
それは逃避だ。仇すら討たず起きた悲劇に清算すらする気がない。それでも自分は穢れた自分になりたくなかった。それを言葉にしてもよいか迷った。けれども結局、なにも言えなかった。そんな少女を軽蔑するように見て、女性は去っていった。
それから、シオンはハヤテと合流した。
「なぜ私を見つけられたのですか?」
「気配を追った」
彼は正直に答えた。
なぜそんなことができるのか。
男は語らない。
だけど、扉を破ったときに見た紅の光。それと関係しているように感じた。
「本当は、そうであってほしくはなかったが」
そう、彼はぼやく。
意図が読めず首をかしげる。
男はまたしても口を閉ざした。
シオンは追及しなかった。
そのまま日は暮れる。夜になる前に二人は宿のほうへ戻った。
それから一夜明けた。
事情はきちんと説明した。アオには叱られ、単独行動を禁じられた。シーザーは締め付けすぎるのは哀れだというのだが、前例ができたのだから仕方がない。したがって団体行動を心がけることになった。
そんなこんなで全員で街を出る。
結局、なにもできないまま後にしてしまう。
心残りはあるが、自分にできることはなにもなお。目を伏せ、うつむく。そのまま少女は歩き出す。
一陣の風が吹き抜ける。黒い髪をさらいなびかせるそれは、乾いた温度をしていた。
四人の姿は遠くなっていく。その影はどこまでも伸びていった。
03
旅は続く。
淡々と。まるで旅をしているのが当たり前だというように、ごく自然に歩いている。
けれども、シオンの中には迷いがあった。自分は母を都を滅ぼした犯人を知りたい。なぜ殺されたのかという疑問を解決したい。その想いが強い。しかし、彼女は復讐を望んでいるわけではない。自分がされたからといって、相手が同じように苦しんでほしいわけではない。いいや、それは一種のごまかしだろう。本当はもっと暗い気持ちを抱えているのかもしれない。それが表に出てこないように気を付けているだけだ。そうなりたくないから、きれいなままでいたいから。自分ではない感情に支配されたくなかった。だからそれを考えないようにしている。今は相手と会うことだけを考えていればいい。その後、なにをするのかはそのとき次第だ。
それでも時々思う。いっそすべてを忘れられたらと。なにもかもなかったことにできれば、また新しい自分になれる。そのまま無垢な人生を歩んでいける。そのまま遠くへ行ってしまえたら、それでいい。
だけど、それでも母のことが頭に残る。最期に彼女はなにを見たのだろう。なにを思ったのだろう。燃える痛みで苦しんだのか、壊れていく街を見つめ、嘆いたのか。その痕跡すら今やたどれない。それがなによりもむなしくてならない。
シオンはひそかにまぶたを閉じた。
そのまま流されるように旅を続ける。どこへ行きたいのか分からない。情報収集だけをしても、得るものは特になかった。
シオンはいまだに迷い続けている。彼女は結論も下せぬまま意味もなくさまようだけだ。こんなことになにの意味があるのだろうと自問自答をした。誰かに相談したい。だけど、この考えは自分の中だけにとどめておきたい感覚もあった。
そうしている間にあたりは夜に包まれる。暗くなってきたので近くの村に寄ることにした。そこはなにもない空間だ。田園風景があり、古い家がぽつぽつと並んでいる。川の近くには水車が周り、風情ある響きを感じさせる。
食事は貧相なものだったが、味はよかった。寝室も落ち着く。なにより静かなのがいい。ここでなら心の整理もつきそうだと思った。しかし、やはり答えは出ないし、出したくもないと思っている自分もいる。結局、自分はどこへ行きたいのだろうか。このまま、なあなあと説きをやり過ごすことが、自分が求めていることなのだろうか。いろいろと考えてはみたものの、やはり意味はない。彼女は嗜好を放棄した。
朝になった。買い出しをしてから、村を出る準備をする。ここには特になにもないし、長居する理由もない。だけど、移住するにはよい場所だと思ったので、少し名残惜しい。
そうした中、不意に明るい声が聞こえてきた。見ると町の中心あたりに子どもたちが集まっていた。背の低い彼らは笑いながら、遊んでいる。そして、市場の横を家族の一団が通る。手をつなぎ合い、にこやかに。それを見て胸が締め付けられる思いに駆られる。なぜならそれは自分が失ったものだったからだ。ほしいものがすぐそばにある。それは他人のもので自分にはかなわない夢だ。どうして失ってしまったのだろう。なくなってしまったのだろう。理不尽さが身に沁みて、泣きたくなった。
「おや、こんなところにも」
シーザーがなにやらつぶやいた。
独り言にしてはやけに大きく聞こえた。
それにつられるように見ると、壁に紙が貼ってある。中には顔写真と名前。どこにでもいそうな青年の姿だ。懸賞金を懸けられているあたり大罪を犯したのだろうが、そんな風には見えなかった。
「村一つ消した悪か」
皮肉げにハヤテが言う。
「国が犯した罪は見過ごされるってのに、なにが殺人罪なんだか」
口の端を釣り上げて笑う。
「でも、罪は罪です。それで個人が許されていいわけがありません」
はっきりと少女は主張する。
ハヤテは無言で彼女を見やる。
鋭い目つきで瞳だけが動いた。
彼はなにも話さなかった。それが余計に圧を感じさせ、シオンは汗をかく。
ハヤテはそのまま目線を外す。なにが言いたいのか分からないまま歩きだす。シオンもようやく肩から力を抜いた。
皆は歩き続ける。どこへ向かうべきか分からないまま。
いちおう地図で寄れる町は把握している。
道順はシーザーに任せていた。彼の後を追うように進んでいた。
いつものように木々の隙間を縫うようにして進む。とても人間が入り込むような場所ではない。獣の住む区域に足を踏み込んでいる。大丈夫だろうかと様子を伺いながら歩く。
そうして神経をとがらせていると、なにやら細かな音を拾った。目を大きくしつつ、そちらを向く。なにか、気配をたどるように視線を動かす。足元を見て、はっとなる。乾いた地面には血痕が残っていた。まだ鮮やかな色をしている。乾ききっていないのだ。だとすると、近くにけが人がいる。
「おい」
止める声を聞かず、奥へと進む。岩をよけ、木々を越えながら、もっと先へと。
すると、今度ははっきりとうめき声を聞いた。もっと奥へと入り込むと、木の幹にもたれかかるようにして座り込んでいる影があった。若い男だ。険しい顔つきをしている。鎧を着ているが、砕けている。脇腹からは血が流れ、その傷口を押さえ、固まっていた。
「まあ、大変。すぐに治癒を」
口に出すや否や手のひらを相手に向け、シオンは治癒術を発動させた。
白い光が手のひらからあふれ、彼を包む。傷はみるみる内に癒え、血も止まった。
「どうしてこんな真似をする?」
怪訝な顔で男が問う。
どうしてと言っても怪我をしているものがいればなんとかしなければならないと思うのが自然だ。自分は別におかしなことをした覚えはない。それとも、放っておいてほしかったのだろうか。このままでは衰弱して死に至るであろうときだったのに。
そこへ、新しい足音が迫る。
「そいつ、手配書の男だな」
「え?」
驚きの声を上げつつ、向き直る。
後ろに立っていたのはハヤテだった。彼は木の幹のそばにいる男を見下している。相手もまた彼を見上げる。互いの鋭い視線がぶつかり合う。彼らはその瞳になにを見出したのだろうか。シオンの目からはうかがい知れない。
「ああ、そうだ。俺は村を滅ぼした。そのために逃げている」
笑いながら男は言う。
悪びれもしない顔。
隠す気などないようだった。
たちまち、シオンの心はどよめく。自分の近くにいる者が罪人だなんて思わなかった。そうすると急に恐ろしくなり、ぞくぞくと肌が泡立つのを感じる。しかし、そうだとしても治癒を施したことに後悔はない。彼は傷を負っていたのだから、助けたのは当然だ。
「ちょうどいい。憎いやつを言ってみろ、代わりに殺してやろう」
堂々と、告げる。
信じられないことを口にした気がした。
また心臓がどよめく。
シオンは気づかないが、ハヤテの目も揺れていた。その反応を見て、男は少し面白そうに笑んだ。
対して、シオンはうつむく。深刻そうな顔をして、それでも顔を上げ、答えを告げる。
「いりません。そんなこと」
毅然とした表情。
「なんだと?」
解せぬとばかりに男は眉間にしわを寄せる。
「手を汚さずに済むんだぞ。それを受けないとはどうかしている」
「私はそんなこと、望んではいません」
震える瞳で相手を見つめる。
すると男はさげすむような目になった。
「ありえないな、お前は。もしくは、そんなこと必要ないって言うくらい、満たされているのか?」
なにか、核心を得たような顔をして、問い質す。
「違います。私は、すべてを失いました。私の帰るべき場所はがれきの山です。それでも私は憎みません。そんなことよりも幸福を。平穏に生きる道を選びたいのです」
振りすぼるように言葉を伝える。
それは祈りだった。
そうありたいと願う自分の姿。
本当のことなどどうでもいい。ただ、きれいであればよかった。
そんな彼女の本質を穿つように、男は話す。
「ハ、笑わせる。なにもかも失って、それで幸せを得ればいいだと? そんなものはどこにある。失ったものは取り戻せんだろ。それを分かっていながら、ほかに希望を求めるのか?」
瞬間、胸が大きく波打つ。
思わず身じろぎし、背中を冷たい汗が流れていく。
そうだ、自分のほしい幸せなど、この世にはない。本当に大切にしていたものなど、もう失った後だというのに。希望を求めるなんて、それこそ現実から逃げていた証だ。ここから自分が幸せになるだなんて、そんなこと、できるわけがなかったのに。
シオンは下を向いたまま、なにも言い返せなくなる。彼が言うことは的を得ていた。自分などよりもっと、遺された者の心を分かっている気がした。そして、その直感は当たっていた。
「俺だって幸せはあった。平穏はあった。小さい村の中でも母親と二人で生きていられたらそれでよかった」
苦々しい顔をして、男は語る。
「だがそんな平穏を許さないやつらがいた。母親が笑っているのを嫌う連中もいた。だから迫害したんだ。なんてことはねぇ。ただ、よそ者だったってだけで。その果てに、あいつらは殺しちまった。嫌悪感のまま、ただ嫌いなものがこの世からいなくなってほしいと願った、それだけのために」
陰鬱な村だったのだろう。
日差しは差し込まず、じめじめとした環境で、ひたすらに閉鎖的。
そこにはやさしさはなく、狂気だけがあった。
「俺は殺した。あいつらをまとめて切り裂いて、あの地に赤い花を咲かせてやったのさ。それでいい。それで本当によかった。これで母も報われただろうな。そりゃあ、そうだ。やったもの勝ちなんだよ。被害者になればそれで全部失うが、加害者になれば消えない爪痕を残せる。どんな手段を使ってでも、殺せばそれで報われる」
言いつつ、男は高らかに笑った。
楽しそうに、満たされたように。
それでよかったと本当に思っているような、晴れ晴れとした顔で。
「あなたは本当にそれで、よかったのですか? 殺めてしまえば、鬼に堕ちるのに」
眉を寄せ、尋ねる。
「知ったことか」
男は吐き捨てるように言った。
そんな態度を見ていて、ますますやるせなくなる。
彼は被害者のままでいられたら、まだよかった。幸せにはなれずとも、罪を犯すことはなかったのだから。どうせならきれいなままでいればよかったのに。罪など相手にだけ押し付けていれば、それで済んだだろう。
「あなたは罪人になったことで、救われなくなったのに」
「それがどうした?」
冷めた目で見下す。
温度のない声色。
思わずぞっとする。
「確かに俺は罪人になった。衛兵にも追われたよ。だからこうして死にかける。だが、なんだ? 俺にはもうなにも残ってないんだ。だったら、なになってでも、清算はするべきだった。失ったものは、取り戻せないのだから」
それは本当に正しいのか。
彼の行いは本当に合っているのか。
「お前には分かるまいよ。所詮、きれいなだけの女には」
その言葉は少女の心を穿った。
なにか、大切なものが崩れる気配がした。どうしようもなく震えて仕方がない。ただ、吹雪の中に立つような心境の中、少女は黙り込んだ。
「いたぞ。囲め」
男の声が響き渡る。
続いて大きな足音が迫ってくる。
シオンは静かに立ち上がる。
ハヤテは距離を取り、遠くを見つめる。
「さて、もう逃げられまい。あきらめるのだな」
衛兵たちだ。
鎧と槍で武装した彼らは勝ち誇ったような顔して、取り囲む。
男は一瞬、こちらを見上げた。いちおう、逃げる算段はあったのだろう。先ほどまで、逃げ出す隙はどこにでもあった。それでも彼はここにとどまり続けた。意味のない会話に付き合い続けた。それは、本当は分かっていたのではないか。もう逃げられないことを。逃げる意味すらないことを。自分は救われないことを。
男は目線を外す。
視線は交錯しなかった。
彼を囲うように衛兵がやってきて、男を取り押さえられる。
シオンは無理やり距離を離され、なにもできないまま、一部始終を見守る。
そして男は衛兵たちと共に森を離れる。
遠ざかっていく影をなにもできないまま見送った。
喧騒は去り静かになった森の中。
少女の目からはぽたぽたと涙がこぼれていた。泣いている意味は分からない。なにも悲しくはないのに、自然と目が潤んでしまう。
「復讐すればいいのですか? それですっきりするのですか? 私には分からない。本当は殺したいのだとか言われても、仇を討ちたいんだろうと指摘されても。私にはそんなことできない。私はただ、今の私のままでありたいだけなのに」
それを失ったらなにも残らなくなる。
自分は自分でいられなくなる。
母の愛した自分が失われることが、なによりも怖かった。
「私は穢れたくないだけなのです。母のことよりも悪を征することよりも、そんなことしか考えられない。こんな薄情な私を許してはくれるのでしょうか」
分からない。
分からない。
なにも考えたくない。
なにも分からないままでいたい。
少女はただ、思うがままに泣き続けた。
胸に塩辛い感情がこみ上げる。一度それを解放してしまえば、あとは躊躇すらなく、彼女は涙をこぼすままになる。
そんな彼女を抱き寄せる影があった。
胸を震わし、それを見上げる。
「お前には憎む権利がある。それでも、そんな悪のためにお前が穢れる必要はない。お前がすべてを賭ける価値は、それにはない」
そう言ってくれて、心が鎮まっていくのを感じた。
自分のままでいいと、ただそれだけで安心する。
少女は目を閉じた。
自然でないことは分かっている。憎しみを抱かない意味がない。
それでも、すがりたくなる。彼の言葉を信じたくなった。
だからその言葉は胸に沁みた。
自分は自分のままでいていいと。
自分のための未来を選んでいいのだと。
しかし、彼女の心にはなおも乾いた風が吹き抜ける。
風は泣き止んでくれない。
それがなによりもむなしくて、たまらなかった。
04
延々と同じような道が続いている。迷い込んだのではないかと思うほどに、変わり映えのしない風景だ。目的地にはまだたどり着かない。元より、仇を探すという目標にもほど遠い。
ふとしたときにそれがすっと頭から抜けることがある。憎くないわけではない。許すと決めたわけでもない。しかし、いっそ忘れてしまいたいと思うことはある。このまま相手と出会えなければ、ずっと変わらないままだから。自分は決定的ななにかを踏み外さずに済むから。だから引き延ばしてくれて結構だ。なにも得たくもないのだから。
そのまま彼女は歩き続けた。足だけを動かしていく内に大切なものまで淡く溶けてしまいそうだった。
きっと、旅をするのに疲れていたのだと、シオンは考える。どこへ行っても自分の行きたい場所が見つからない。帰るべき場所すらない。そろそろ、安住できる場所がほしい。安心して過ごせそうな場所がいい。そこでなら永遠に暮らせるはずだから。いつしかそんな思いにすがるようになっていった。
そんなとき、彼女はある噂を聞いた。なんでも、金色の髪をした者たちが集落を作り、暮らしているのだという。それは間違いなく王都の生き残りだ。そこでなら自分は仲間として生きられるかもしれない。帰るべき場所になるのかもしれない。そんな希望を胸に抱き、彼女はそこへ赴いた。
集落は山奥に隠れるようにしてあった。木々を倒して家を作り、それを組み合わせて村にしたという雰囲気だ。近くには畑があり、住民はそこで細々と暮らしているのだろうと予想がつく。
ひとまず仲間たちは入り口に残し、一人で進む。
真ん中あたりで足を止めて、あたりを見渡す。希望を得られたはずなのに気持ちが盛り上がらない。陰気な空気が漂うせいだろうか。まるで惨劇があった後の村のように。実際に王都は滅んだのだから間違いではない。しかしこの空気感はどちらかというと、後ろ暗いものを隠しているような印象だった。
「ひっ、黒髪……」
そのとき、押し殺すような声が聞こえた。
ぼんやりとそちらを向くと、青ざめた顔をした男がいた。金色の髪はくすみ、衣も貧民のようにボロボロだ。そこにかつての王都の暮らしの影はうかがえない。
「ここになにしに来た。俺たちを殺そうってか?」
ぞろぞろと周りに集まってくる住民たち。
目はとがり、鋭い光がほとばしる。
皆同じ髪色で、同じ敵意を向けていた。
「違うのです。私は皆さんに会いに来ました」
両手を上げて訴えかける。
自分は彼らの仲間だ。同じ都で暮らしていたのだから、言えば信じてくれるはずだった。
「よく見たら、深窓の娘か」
ある人物が声を出す。
髪を短く切った青年だった。その顔に心当たりはない。そもそも顔が薄いため記憶に残っていないのだろう。
「ああ、知ってる。お前がよく覗き見ていた」
「確かに顔はいいな。見とれるのも無理はない」
「もしやあの女がかくまっていたという娘か?」
知らぬ話が次々と出てくる。
彼らの話はよく理解ができなかった。
誤解は解けたことは分かるが、緊張感にも似たとがった雰囲気は緩和していない。
ここはもっと説明をして分かってもらわなければならない。
「私はあなたたちのことはよく知りません。でも、同じ都に住んでいた者でもあります」
両手を広げてアピールをする。
口元を緩めて友好的であると示す。
しかし、周りの者たちは一層険しい顔をして、口を開いた。
「悪いがなおさら受け入れるわけにはいかねぇ」
どうして。
疑問を飲み込み、硬直する。
「お前は不義の娘だ。隷属民の男と交わり産んだ子だ。市民権が与えられれば確かに都の一員となろう。だが、それですべての人間が一つになれるわけじゃない。人種が違うお前は、俺たちとは違う」
はっきりと拒絶を示す。
仲間ではないと。
自分はあくまで不義の娘だと。
言われた言葉が頭を通り、抜けていく。
頭が真っ白になり、重心を失った。
しかしなんとなく、自分がかくまわれるようにして生かされてきた理由うがわかった。
結局のところ自分は彼らの仲間ではなく、本来はそこにいるべきではない存在だったのだと。
「出ていけ」
「もう俺たちとは関わり合いもなく、ただの人として生きていけばいい」
住民たちが離れ、ぞろぞろと帰っていく。
シオンは広場に取り残され、突っ立っている。
追いかけることはできなかった。
拒まれてしつこくできるほど大胆にはなれない。
現実は分かっている。
それでも悲しさが止まらない。
結局、自分の居場所はここではなかった。その事実に打ちのめされてしまった。
一方、陰にとどまっている者もいた。
シオンはその気配に気づき、そちらを向いた。
すると相手は表に出てきて、ひっそりと近づく。
顔を上げ、相対する。
「あの、近くに霊園があります。どうか、弔ってやってください」
そのように言い残し、彼は去っていった。
名前は分からない。きっともう会うことはない。それでも、弔う必要はあるのだろう。それくらいは許されるはずだ。
少し口元を緩め、前を向いた。彼女は伝えられたほうへと歩み始めた。
霊園は村からだいぶ離れた場所にあった。
そこは厳かな雰囲気のする山を背に、開けた土地を使って、墓が立っている。
石には花が供えられている。かすかに香の匂いも漂う。
魂を鎮めるために用意された空間なのだろう。事情は分からないが都から骨を拾って持ってきたのかもしれない。
ともかくここで霊園にたどり着けたのもなにかの縁だ。自分だけが弔わなければならない。
そして、ここに立つと妙に落ち着くのが分かった。自分に近いものを感じるのか、そこへ帰りたいからなのか。仲間ではないと拒絶されても、やはり彼女の心は都にある。それを否定することはできなかった。
そんなとき、急に後ろに何者かが立つ気配がした。
振り返ると、そこには顔をひきつらせた青年が立っている。どこにでもいそうな見た目だが、髪が黒髪であることに親近感を覚えた。しかし、彼の口から発せられた言葉は、彼女が予想していなかったものだった。
「裏切り者!」
糾弾するように彼は叫んだ。
その意味が分からず、ぽかんとする。
「なぜ黒髪の者が祈りをささげる。そんな者のために、なぜ」
ありえないとばかりに言葉を浴びせる。今にも指をさしそうな勢いだった。
「私は死後の安寧を祈りに」
「そんなものは許されるわけがない!」
彼は強い言葉で否定した。
「なにをされたか知らないわけがなかろう。俺たちはそいつらのために犠牲になり続けた。死んで当然だったんだ。こんな墓、できるものなら壊してしまいたいよ」
忌々し気に彼は語る。
その話をうまく呑み込めない。
死んで当然だったなんて思えない。母が死んでいいわけがない。そうして否定されるような謂れはなに一つないはずだ。
沈黙が走る。立っているだけで苦しくなるほどの重さだ。
「出ていってくれ」
鋭く吹き付ける風の中、低い声で告げる。
「顔を見るだけで胸糞悪くなる」
そう言って、青年は背を向けた。
「俺は山菜を採りに来ただけだから」
それっきり。
彼は言葉すら発さず、すたすたとどこかへ歩き去っていった。
シオンは悶々とした気持ちを抱えながら、元来た道をたどっていた。
疑問はまだ頭の中をめぐっている。
先ほどの青年の言葉はなにかの間違いではないかと思いたい自分もいる。けれども彼には明確な憎悪があった。
それに冷静に考えると自分は国の名前すら知らなかった。教育はろくに受けたことがないし、母から事情を聞いた覚えもない。ただ、父とされる者が隷属民であったことは確かなようだ。金髪ではない、隷属民の血が濃く出た少女。一見すると、王国民ではない彼女は、仲間ではないと否定された。その時点で複雑な事情が見え隠れしている。
なので、今一度考えなければならない。確かめなければならない。
自分が所属していたはずの国は、自身が愛した都は、本当はどういったものだったのかを。
そうしてシオンは本当の仲間たちの元へ戻ってくる。
アオは気まずそうに眼をそらす。
シーザーは陰のほうに控えている。
最初に声をかけたのはハヤテだった。
「どうした? 浮かない顔をしているが」
本当に気になっているといった感じだった。
「いいえ。ただ、あそこにも私の居場所はなかったと」
そこが帰る場所でないのなら自分はいったいどこへ行けばいいのだろう。
理不尽さを噛み殺す。
それでも道筋は見えている。
「図書館へ行きましょう。調べたいことがあるのです」
少し大きな町へ行けば、あるだろう。
伝えると他の者たちもうなずき、地図を広げた。
そうしてなにも考えずに近くの町へやってくる。
そこは特徴のない場所だ。大都市の間に点々と存在するような環境である。必要最低限の設備はあるものの、それ以上でも以下でもない。ただ暮らしていけるだけの町だ。
図書館は広場の通りに沿う形で建っていた。長方形で大きな面積を取っている。中に入ると人気はなく、静かだった。壁のように区切られた本棚の間を進み、本を選ぶ。歴史書のコーナーは分かりやすい位置にあった。国の名は分からずとも島の名前は分かっていた。だから目的の本はあっさりと見つかった。カウンターの目が届かない場所で、こっそりと読む。あまり期待をせずにペラペラとページをめくる。
そして、シオンは愕然と目を見開き、硬直した。
それはないと思っていた。本当は滅んだ理由などないと。ただ理不尽に奪われただけだと思い込んでいた。しかし、理由があった可能性はあった。だから気にはなっていたのだ。それを、その欠片は、いとも簡単に見つかった。
一言でいえば、その国は侵略国家だった。富を求めて世界の海をまたにかけた。奴隷を売っては稼ぎ、他国で鉱山が見つかれば攻め入り、自分のものにする。支配された土地はその国のものになる。他国の民は搾取され続ける。彼らに自由はない。国の一員としての誇りはない。文化も言語も押さえつけられた。反乱が怒れば鎮圧し、民間人は万単位で死んだ。戦争では下等とされる民族を使う。
侵略戦争で勝利を重ねた回数は千を越え、略奪が繰り返された。富は首都のある小さな島に集まった。その完成形があの王都だ。
シオンは緻密に設計された街並みを思い出す。そこはきっと王のための都だったのだろう。税を徴収して作った宮殿、水辺に造られた城、金銀宝石で飾られた大聖堂、路地にあふれる子どもに泥水のそばで暮らす平民たち。
様々な情景が浮かんでは消える。
実体はつかめないがその国は間違いなく帝国だった。
そうであってほしくはないと願っていたのに、どうして確定してしまうのだろう。
知ろうとしなければ甘い幻想だけを信じていられた。
なにも知らなければ幸せでいられた。
こうなることは分かっていたのに、調べずにはいられなかった。
なにも考えたくないのに、事実だけが重くのしかかる。
シオンは口もとを固く閉じ、泣き出しそうな顔をしながら、本を棚に戻した。
それから静かに図書館を後にする。
外はなにやらにぎやかな様相を呈していた。
よく見ると町は色とりどりに飾られ、広場には人が集まっていた。誰もが笑い合い、ドリンクを片手になにかを祝っている。
これはなにをしているのだろう。聖人をたたえる集まりなのだろうか。
アウェーの中、立ち尽くしていると、大きな通りからラッパの音が響いてきた。
続いて楽器の演奏する音も流れ込み、奥のほうからは乗り物に乗った者たちが、手を振りながらやってくる。
パレードだ。
周りでなにか、歌を歌っている。
シオンは一人、立ち尽くす。
周りから人が押し寄せる。
自分が小さくなり、どんどん押し込まれていく。
そのはざまで確かに聞いた。
この者たちは確かに滅びを祝っている。
王都に降り注いだ隕石を讃えている。
王都に起きた惨劇を聞いて、歓声を浴びる人々の顔が思い浮かぶ。皆笑い、もろ手を挙げて喜んだ。今のように、悪の破滅に歓喜する声のように。
耳をふさぎたくなる。目をつぶりたくなる。
とにかく、ここにいたくなかった。
体にぞくぞくとしたものが駆け抜けていくのを感じた。
その最中、喫茶店のテーブルを囲む男女がある会話をしたのを、聞いた。
「あんな国さえなければ世界はもっと穏やかでいられたのに」
「生き残りがいると思うだけで、なんだか憂鬱。全滅していたらもっとすがすがしいのに」
「今からでも探し出して殺せばいい」
「そうよ。女・子どもも含めて、全滅したってかまわないんだから」
シオンはうつむき、眉を細かく震わせた。
唇を噛み、瞳を揺らし、弱弱しく距離を取る。
歓声の渦は呪いの声だ。
聞いているだけで心が追い詰められ、気が狂う。
踵を返し、地を蹴る。
腕を振り、走り出す。
もう耐えきれなかった。
いてもたってもいられず、なにも考えずに逃げ出した。
そのままシオンは走り続けた。
その姿を、ハヤテが見て、止めるように声を上げる。
「おい」
聞こえてはいたが振り返らず、彼女は下を向いて走り続けた。
そうして町を出て、林のほうへ駆けていく。
気が付くと泣いていた。
胸が苦しくて仕方がない。
仲間にはなれないと分かっているのに、おのれが愛した都が否定され、自分自身まで否定されたような気になってしまう。
ただひたすらに理不尽だった。
悪の歴史を背負っているのが悪いのか、産まれてきたことこそが罪だというのか。
結局、自分にはどこにも居場所がなかった。
歓迎してくれる国などとこにもない。
大切なものはとっくの昔に崩れ去った後だったのだ。
そうしている内に開けた場所に出る。乾いた大地の上で足を止める。
遠くを見つめてもなにもない。
そこには温度のない風だけがひたすらに吹き付けていた。
一方、ハヤテはすぐにシオンの後を追っていた。
しかし彼女の姿はどこへ行っても見当たらない。
その気配すら感じ取れない。
あの娘は運動が得意なようには見えなかったのだが……。
そのままなにも得られないまま時間だけが流れていく。
ついにハヤテは少女を見つけることはできないまま、立ち尽くした。
05
ハヤテは祭りを見ていた。
実に華やかな光景だ。街を一層賑わいを増し、夜空にはあまたの花火が打ちあがる。喧騒や笑いは絶えない。皆、今日という瞬間を楽しみに生きてきたという風情である。実際にそうなるのは仕方がない。ずっと支配を受けていた者からすれば、帝国など悪でしかない。全て死んでほしいと願うほどに、かの住民は憎まれていた。
それでもハヤテはどこかすっきりとしない顔をして、現場を眺めていた。それは決して彼が言えたものではない。否定する権利など彼らにはなかった。それでもやるせなさを覚えてしまったのは、自身が国を滅ぼした者だからだろうか。それだけは皮肉に思う。しかし、それを差し置いても人間は残酷だと感じざるを得ない。敵であるのなら死をも願える。滅びを喜んで当然といえる精神。ぞっとしたものを感じる。
人が死んで当然だと、それが当たり前だと本当に言えるのか。その相手の顔も名前も、人種すら知らずに。その人物がどんな生き方をしてきたのかも分からないまま因果応報だと言ってもいいのか。
けれども、それを口にすることはできなかった。ほかの誰が指摘しても、彼にだけはできない。許されないから口を閉ざして町を出る。そのまま彼は流れるように、人気のないほうへと歩いていった。
頭をかすめたのは紅に染まった空から流星が降り注ぐ光景だった。おそらく、それと同じものも、祭りの参加者は想像していたのだろう。それは美しくもあり、だからこそ恐ろしかった。隕石は建物を焼き尽くし、人々を死に至らしめた。雷光が激しく鳴れば、街に広がる炎も一層激しく燃え広がった。逃げ場はない。時にはカヌーで脱出を果たそうとした者もいたけれど、波が荒れて沈んでいった。生き残った者はそもそも街の外に出ていた者くらいだ。総督として覇権されていた兵や、旅行者。それらと出会うことはあっても、燃える街を覚えている者は珍しい。皆、想像で語ることしかできない。
そして、高台からその凄惨な光景を、ハヤテは見ていた。顔を上げ、ただ笑った。嬉しかったわけではない。楽しかったわけでもない。その声は乾いていた。もう、どうすることもできなかった。その手が握った魔剣は紅に輝く。血を求めるままに人々を殺し尽くした。
都にいたのは金髪の者だけではない。外から連れてこられて働かされていた者たち、異国から働きにきていた者たち。貴族でありながら分け隔てなく接する者、仲良さげに茶会を開いていたはずの者。それらが例外なく焼き尽くされた。
無差別だった。その人物が善人か悪人かなど関係ない。産まれたばかりの子どもですら逃げられなかった。
きっと、関係なかったのだろうと、ハヤテは想像する。彼が握る魔剣には情など欠片も残っていない。許しを求めたところで、許さないと帰ってくるだけだろう。
それでも問いかけずにはいられなかった。
「これがあんたが求めたものなのか?」
苦々しく笑いながら眉を寄せる。
首を曲げても、答えは返ってこない。ただ、燃え尽きた街には灰すら残らず、形すらない。
栄華は永遠に失われた。誰かが見上げた聖堂も、聖人を祀る像も、人々が行きかう市場も。
ハヤテは王都のことなどろくに知らない。しかし、これだけは言える。あの街にいたもので真の意味の罪人は一人もいなかった。皆、当たり前のような日常を営んでいるだけだ。昼間は働き、夜にはパーティが開かれる。時には世間話に花を咲かせ、カフェに行けば金の話をする。紙幣のやり取りは絶えず、毎秒貨物船が河口に届き、ほんのりと芳しい香りが漂う。
だからこそ許せなかったのだろう。罪なきことが解せなかったのだろう。これこそが天罰だと誰かが話す。しかしその中にただの犠牲者も混じっていたことなど、誰も気にしない。そんなものはいなかったものとして扱われる。だからこそ皆、無邪気に笑える。その滅亡を心の底から祝えるのだ。
そもそも、なぜ彼が王都を滅ぼしたのか。
殺した動機はなにだったのか。
強いていうならそれは彼が望んだものではなかった。
始まりは遠く異郷の地より一人の青年が流れ着いたことだった。彼は船旅の途中で舟が沈み、漂流の末に陸に上がった。そこは南国と呼んで差支えのない環境だった。大きな木々はうっそうと茂り、色鮮やかな果実がたわわに実っている。見るからにみずみずしさの漂う場所。そこにある少女がいた。
意識もなく倒れていた彼を、彼女は拾った。テントのような家に持ってきて、筵に寝かせて看病したのだ。薬のようなフルーツドリンクを飲ませた甲斐もあって、無事に青年は目覚めた。
少女の名前はアオイだという。彼女は見ず知らずの相手によくしてくれた。本人も一人では寂しいからと、近づいてくる。その明るさに心が和む。気が付くと彼は故郷に戻ることなど忘れていた。
あるとき、尋ねたことがある。なぜ一人なのかを。彼女は切なそうな顔をしてうつむいた。言いづらそうに、それでも顔を上げて、口を開いた。
「悪い人がきて、みんな殺されちゃった」
それは帝国の侵略だった。
支配のために一部は服従し、抵抗するものは殺した。
今いる区域は彼女が潜む唯一の土地。ほかはすべて帝国のものだ。
「本国まで遠いのに」
唖然とする。
世界を支配しているとはよく言われたが、そこまで強欲だとは思いもしなかった。
「だけど私は見逃されてる。存在すら認知されずに。それって少し悲しいな」
泣きながら笑うような顔。
それを見て胸が締め付けられるような思いに駆られる。
彼女の望みを叶えたいと思った。
二人は共に生活を続ける。原始的ではあったが満たされていた。島の風景を見ているだけで癒される。ほかの誰と過ごすより彼女と暮らす日々を選びたかった。しかし、それも長くは続かない。
深い闇に沈む前、森に火が明かりのようについた。木々は燃え、鉄靴の音が迫る。戦士たちがやってきたのだ。最初に彼らは少女たちが潜み暮らす家を壊した。二人は長い草むらの影に隠れて息をひそめた。しかし、そこにも炎が蒔かれ、彼らは表に出ざるを得なくなる。
影の中で二人の姿を見て、中心に立つ戦士は口角を釣り上げた。
「最後の仕上げだ。徹底的に消さなきゃな」
なんの悪びれもなかった。
自身の行いを正義だと信じたような顔で、堂々と剣を抜く。
次の瞬間、闇の中に鮮血が舞った。
声すら出ない刹那、彼女の体がなぎ倒され、地に転がる。
青年は立ち尽くした。
こんなにもあっさりと彼女が死んでいいわけがない。
どうしてこうなったのか。
やるせない気持ちがこみ上げる。
しかし、それは言語として表にも胸の中にも浮かばなかった。
「うおおおお!」
気が付くと叫んでいた。
剣を抜き、戦士に挑みかかる。
「なんだそれは!」
戦士が瞠目する。
そのリアクションの意味に彼は気づかない。どうでもいいとすら思った。
だから勢いのまま突っ込み、斬り伏せる。
戦士は倒れ伏した。
他の敵も動く。
しかしなにもできずに死んでいく。
青年は殺した。殺し尽くした。
息を切らし、剣を下ろしたときには屍の山だった。
それから青年はアオイの元へ駆け寄る。彼女はまだ息が合った。しかし、もはやそれは燃え尽きる前の灯火に過ぎない。彼は何度も彼女の名前を呼んだ。彼女にはまだ生きていてほしい。この死をなかったことにしてほしい。ただ、それだけしか考えられない。
しかし、彼女はそんなことはいいとばかりに口を開く。
「なぜ私たちは滅びなければならなかったのか。答えを知りたい」
ただ、今更聞いてなにになるのか。
それで自分たちは消えてしまうのに。
「このまま消えることなんてできない。自分たちの一族やその悲劇がなかったことになるなんて許せない。だからせめて痕跡を残してほしい。私たちはまだ生きていると知らせてほしい」
祈るように見つめる。
青年は心を突き動かされるような感覚に支配された。
身を乗り出し、言う。
「約束する。必ず」
彼女の望んだ光景を作り出すと。
想いのままに宣言する。
少女は安堵したように笑った。
握りしめた剣。その刀身が紅を帯びていった。
彼の持つ剣はいつしか魔剣と化していた。
彼女の想いがそうさせたのかは分からない。ただ明確に情念は彼の身に取りついている。その剣は血を求める。特に王都に住む金髪の者たちを殺したくて仕方がない。だから彼の意思とは関係なく出会った時点で、その命を奪ってしまう。
彼一人の力で災いは起こせない。全ては魔剣が求めた結果だ。しかし始まりはおのれが彼らを憎んだことだ。感情に突き動かされるように戦士を殺した。あの日、仮に怒りを抑え冷静になれていたら、狂うこともなかっただろう。それでも、もはや取り返せぬことだから、どうすることもできない。
そして、もう別の道に進むこともできない。始めたのは自分だ。だったら最後までしなければならない。しかし、頭をかすめたのはやはり、あの少女の存在だった。彼女は魔剣が反応しない。間違いなく王都の者だったにも関わらず、住民にカウントされていない。それでも彼女はあの国の一員であったことは明白だ。決着はつけなければならない。魔剣ではなく自分の意思で。それは果たしてできるのか。心すら擦り切れた自分に。
思っても惑っても、動きだした宿命には逆らえない。
そしてハヤテは隠れ家へと赴いた。魔剣が導く先にそこはある。シオンが入った場所だ。離れた場所には霊園もある。
入口から半ば強引に中に入る。彼の姿を見るなり、住民は恐怖におののいた。相手が何者なのか、本能が察したのだろう。
「なぜ私たちを殺したのだ?」
あるものが尋ねた。
「お前とはなんの因縁もない」
「私たちはただ平和に生きていただけなのに」
「ずっとずっと、あんな日々が過ぎていくと思っていたのに」
「お前がすべてを奪っていった。なんの意味もなく、ただ死を望まれて」
憎しみが発露する。
その嵐のような渦の中で青年は立っている。その手が握る剣が紅く輝く。背後の夕焼けを背にした無言の姿は不気味で、彼らはますます慄いた。
しかし、その恐怖に意味はない。
次の瞬間、魔剣から紅の魔力が触手のように広がり、住民を焼き尽くしていった。
悲鳴を上げる暇もなく彼らは倒れていく。燃え尽きた魂は形を失い、灰となる。
生き残ろうとしたものは泣きながら走っていく。その逃げる先に炎が迫り、その者は死んだ。
殺す理由は言わなかった。問われても答えようがない。
なにもかもなくなった村の跡で、ハヤテは立ち尽くす。
自分はなにをすればいいのだろう。なにを最初は求めていたのだろう。もはやなにも救われないのにこれ以上なにをすればいいのか。
悲鳴には聞きなれた。この凄惨な光景も当たり前のようになりつつある。自分が動けばこうなると分かっていた。今更なんの感慨も湧かない。それなのに、どうしようもなく、むなしくなる。
またこうだ。結局はすべて同じになる。
色の抜けた顔をして、口の中でつぶやいた。
自分が直接殺したわけでもないのに、体から力が抜けるよう。
こうして何度も滅ぼして意味のないことを繰り返して、心がすり減るのを感じる。
しかし、どうにもならない。どうすることもできないのだ。もういっそう、雨に打たれてしまいたい。けれども空は相変わらず赤いままで彼の心も乾いていた。
「どうして」
夕闇に染まりつつある風景に、か細い声が現れた。
ハヤテはおもむろに振り返り、固まった。
その視線の先には少女が立っていた。彼女の白いローブは薄暗い中でもよく見えた。同じくその顔も、絶望に満ちた表情も、はっきりと分かった。
ついに相対していた。この現場だけは見せまいとしていたのに。
だが、悔いても遅い。言い訳をしようとしても無駄だ。自分はただ魔剣に従い殺してきた。その事実だけは変わらないのだから。
ハヤテはなにも語らない。しかし、彼が持つ剣は紅に染まっている。そして、村の現状。人一人残らない惨状に、少女は震えた。
「あ、あああ……」
うつむき声を震わせる。
揺れる瞳に動揺を隠せない。
しかし、彼女はハヤテに向って言葉を繰り出さなかった。
理由を尋ねなかった。
事実さえあれば十分だというように。
もしくはその現実すら受け入れられないというように。
シオンは顔をそむけると、悲しみをかみ殺すような表情で唇を噛む。
そのまま目を合わせず背を向ける。
地を蹴り、走っていく。
森へ消える影。
追いかけなければならないと直感で分かった。
しかし、体はなかなか動かせない。
なにもかも空虚になったような心持ちだ。
果たしてどうすればよかったのかと自問自答する。
結論から言えばなにも言えない。言うことなど許されない。
なにを話しても言い訳になる。
なにより、言いたい言葉などない。
彼に残ったものなどなにもない。
今ある自分は代行者だ。魂に従い村を滅ぼす機構でしかない。
彼はもはやなにを思うことすらない。なにかを思うことすら許されない。
彼女とも本当はあってはならないはずだった。
気づいていたはずなのに近づいてしまった。
関係を続けてしまった。
その結末がこれだ。
もうなにもかも終わりだ。
青年はただ、空を仰いだ。
06
燃え尽きた木々と、崩れ落ちた石の建物。焼き焦げた聖堂に、地に散らばる人の影。何度もまぶたの裏によみがえった光景だ。それを再び見ることになるなんて、思いもしなかった。悪夢なら十分に見たのだから、これ以上はないだろう。これからは平穏に生きていけるはずだと楽観していた。それは誤りだったと気づかされた。そして、炎に燃えた村と記憶の中の滅びは結びつく。あの日、紅の空より降り注いだ災いは、それだったのかと。彼が、滅ぼしたのか。説明されずともはっきりと認識している。彼もきっと認めるだろう。話せば分かるかもしれなかった。だけど、逃げてしまった。尋ねるのが怖かった。現実だと確定させてしまうのが嫌だった。なにも見なかったことにすれば、なかったことになるのではないかと思った。しかし、現実はいつまでも彼女の背を追いかけてくる。
彼が罪人だったなんて今でも信じられない。だけどあの独特の雰囲気は、ただの人ではなかった。なにか闇に片足を入れたような雰囲気だった。そんな相手を信じ、心を寄せてしまっただなんて、それこそ信じられない。自分を恥じたい気分だ。
もう、なにもかもを失った気分。いいや、本当はなにも手に入れてはいなかったのだろう。どこへ行けばいいのかすら分からないけれど、来た道をたどれば、どこかへはたどり着けると思った。だから彼女は進む。その姿は闇夜に溶けて見えなくなる。星すらも瞬かないくらい夜、彼女の足音は虚空に消えた。
木々の隙間を越えて、道なりに進んだ。夜が深まればキャンプをし、草を枕に眠りにつく。獣が来たら逃げて、身を隠してはまた出発する。賊が来ても無視をして、それでもしつこく襲ってくるようなら走って蒔いた。危険な場所――獣の巣にでも行けば、足止めをしてくれるだろう。そうして、どこか居場所を求めてさまよった。
旅の途中に訪れた町にやってきたのだ。そこではまだ、人々が平和に生きているはずだった。市場は賑わい、時々聖堂の鐘が鳴るのだろう。しかし、実際に行くとそこには面影すらなかった。石の建物が空となり、木製の家は焼き付きている。畑があった場所は更地になり、代わりに無数の墓石で埋まっている。
ぞっとするような感覚が背を這った。気が付くと彼女は逃げていた。
おかしな場所に迷い込んだような気がして、妙な予感を振り払うように走り続けた。花畑でも見たら落ち着くかと思った。しかし、そんなものはどこにもない。あるとはただの荒地だけだ。
そして、彼女が通った場所は例外なく荒れ果てていた。街は壊され、人々は地に埋められている。どうしてこうなったのだろう。誰がそれを為したのだろう。分からない。賊が略奪をしたのかもしれないし、内乱が起きたのかも分からない。もしくは最初に王都を滅ぼした者が同じように滅ぼした可能性もある。真実はいかようにも塗り替えられる。しかし、もうそんなものはいらなかった。シオンはもうなにも考えたくはない。なにも見えないことにして、歩みだけを進めた。歩き続ければ楽園があると信じたから。
しかし、どこまで行ってもそんなものはなかった。あるのは荒れ果てた村に、壊れた家屋。人の姿すらなくなった廃墟ばかりだ。これまでの大地はなにだったのだろう。栄えていた街並みはどこへ行ったのやら。自分が通ってきた道だけが刈り取られたかのようになくなっている。それはあまりにも無惨だった。
動揺が胸に広がる。視界に入れる度に心が曇る。作為的なものを感じる。誰かがわざとこのような光景を自分に見せているのだと分かった。しかし、今更引き返せない。少女は逃げるように町のあった場所を通り過ぎ、また新しい道を通っていった。
そうしてたどり着いたのは最果てだった。そこには島があり、王都があった。遠く、潮騒の音が聞こえる。潮の香りが鼻腔をかすめ、少し感傷的な思いに駆られる。
やはりそこにはなにもない。夢も楽園も跡形も。全ては遠き日の夢のように、残骸だけがそこに残っている。
シオンは眉を寄せた。瞳を揺らしながら、なにかをこらえたように唇を引き結ぶ。叫べば誰か、応えてくれるだろうか。そんなことをしても一人であることに変わりはないのに。
うつろに光る夜空の下、少女は力なく崩れ落ちた。冷たい地面に膝をつき、腕をだらりと下げる。唇を開いても嘆きの言葉すら生まれない。出てくるのは嗚咽のような息のみだった。
静寂が延々と続いた。
時が停まったかのようだった。
そこだけ切り取られて絵画の世界に入ったかのように。
さざ波の音すら遠くに聞こえる。このまま自分という存在が溶けて消えていくような感覚すらした。
しかしどれだけこの場所が静かでも、彼女の心が休まる気配はないのだった。
「すごいよね。見てみろよこのありさまを。ここまで見事に壊れると、まるで芸術品のようじゃないか。取り壊さずに残しておきたい気分になる」
それは、雑音のように少女の耳に届いた。
男の声。
この空間における異物。
そのようにシオンは認識した。
「いいや、君はすでに見ているのだったな。僕だってこの現場を目撃した。でも、傑作だと思ったのは本当だ。皮肉じゃない」
喜々として男は語る。
相手が誰なのか、シオンは分かった。
彼女はすっと立ち上がる。けれども、振り返ることはなかった。
「どれほど栄えた都市も、あっさりと滅び去る。悪逆を為して成り上がれば、その報いを必ず受ける。この世の摂理とはそういうものだ。そういう風にできているのだよ」
「分かり切ったことなど、聞きたくもありません」
彼はなにが言いたいのだろう。
さんざん思い知ってきた事実を突きつけ、こちらの神経を逆なでして、なにがしたいのだろうか。
無言でいると相手は構わず続ける。
「しかし不思議だな。どうしてあの町が滅びたのだろう。門には衛兵が構え、いかなる敵も通さない。空から攻めようにも魔法障壁で遮断される。もしかしたら結界を貼り忘れたのかもしれないな。うっかり、というものだよ」
「なにを、あなたはなにを……」
「いいや、可能性はあるな。頑丈な門に鍵をかき忘れ滅ぼされたような感覚で、そうあっさりと敵を通してしまったのだよ」
少女の背後で彼は口角を釣り上げた。
まさしくそんな感じを察し、胸に熱い気持ちがこみ上げるのが分かった。
体が熱くなる。
激しい感情に心を蹂躙される。
たまらず振り返り、相手をにらんだ。
「あなたはいったいなにを知っているというの? なぜすべてを知ったような口で語れるの?」
平然と、なんてことのないように。
彼女にとってはそれが一番に腹立たしい。
それがあまりにも楽しそうだから余計に苛立ちを煽るのだ。
「それは当然、僕がそれをやった張本人だからさ」
手を広げて堂々と言う。
あまりにもあっさりとした態度だったから、聞き間違いかと思った。
元よりいままで自分によくしてくれた青年だ。今更そんな本性をさらけ出すことなど、想定していない。
「どうして、そんなことを」
色を失い、思うがまま口に出す。
意味が分からない。彼がそれをする理由などないはずだ。
混乱の渦の中、何も信じたくないといった感情で、少女はいた。
対するシーザーは悪びれもせずに、伝える。
「面白いからさ。僕は愛憎がなによりも好きでさ。きれいに終わるよりもぐちゃぐちゃにかき回してくれたほうがいい。純粋なほど、悪意を受けたときに大きく揺らぐ。善良であればあるほど、苦しむ。僕はそれを見たかったんだ」
本当にただそれだけだったのか。
それだけのために多くの民が犠牲になったというのだろうか。
「どうせなら憎しみに堕ちてほしかったのさ。理由を聞きたいなんてなまぬるいことは求めていない。相手が許せないなら逆襲すればいい。やられっぱなしじゃつまらないだろ。どこかでやり返したほうが面白い。もちろん、自分はきれいなままなんて思ったらいけないよ。復讐するなら同じくらいまで落ちないと。それくらいやって初めて報いを得られるんだ」
また、なにかが崩れ去る予感がした。
目の前の青年は楽し気に語っていた。言葉を一つ繰り出す旅に声が跳ね上がる。自分の心を打ち明けるために自分に酔っているかのように笑うのだ。
「これまでだってたくさんやった。君の憎しみを煽るために、いろんな言葉をかけたよね。村だって潰した。本当はそんなことする必要はなかったけど。うじうじした君への罰だと思ってくれ。ほら、悪いやつには相応の罰が下るだろう?」
当たり前のようにシーザーはつむぐ。
瞬間、目の奥で火花が散る音がした。
視界が赤く染まる。
体の内側から外へ、妖しい気配があふれ出すのが分かった。
この男を地獄に落とさずにはいられない。
深く息を吸い、顔を上げた。
「そんなに報いが欲しいなら、まずあなたが落ちるがいい」
声を上げ、とがった目から眼光をほとばしらせる。
瞬間、魔力は渦となり、シーザーに襲い掛かる。
男は目を見開いた。
なにが起きているのか分からないし、それがなになのかも分からない。だが、それが自分に向けられていることだけは分かった。
だが、今更気づいたところで遅い。
「うわああああ!」
男は叫び声をあげた。
その肉体は魔力で覆われ、炎に包まれる。
まさしく業火に焼かれる殉死者か。それを連想するのはなんとも皮肉だ。彼はなにに殉じたわけではない。悪事を働けばそれが返ってくる。当たり前のように死ぬだけなのだから。
男は絶叫を続けた。だが、それもだんだんと弱くなる。あるときその声はぱたりと止んだ。魔力の炎が収まると、彼は打ち落とされた鳥のように地に落ち、動かなくなった。
その末路を少女は無表情で見下す。その瞳にはなんの感情も宿っていない。目の前で人が死んでもなにも感じない。嬉しくも悲しくもない。それを感じると胸が震えてくる。自分がとてつもなく空虚な心を持った存在に思えてくる。
そして殺そうと思って実際に殺してしまった事実。自分を守るために抑えてきたものを解放してしまった。どうしてもこらえられなかった。ここでやるしかないと思った。そのためだけにこれまで耐えてきたものを無駄にした。自分は人を殺せるものだと証明してしまった。
なによりも相手を堕とすというシーザーの目的だけは達成されてしまった。彼の思い通りになってしまったことが、なによりも悔しい。
今一度屍を見下す。変わり果てた男の姿を視界にとらえても、心は動かない。シーザーを哀れだとは思わない。だけど、殺すのが自分であってはならなかった。誰かが代わりに殺してしまったらよかったのに。そんな考えが胸をかすめた。だけど、それは押し付けているだけに過ぎない。これは自分の問題だし、自分に振りかけられた試練でもあった。だったら自分の手でなんとかしなければならなかった。
手にかけたのは自分だ。殺せたのは自分だ。それなのに、むなしくて仕方がない。
いっそ、今の一瞬を切り取って消してほしい。全てなかったことになればいいのに。思いながら屍に背を向ける。逃げてはならないと分かっていても、やはり目をそらしたいものもある。とにかくいてもたってもいられない。重たい絶望を引きずりながら少女はその場から立ち去った。
とぼとぼと体を引きずるように、岬へとやってくる。海は荒れていた。闇色に染まった水面に月の光が反射し、鈍い光を放つ。時折大きな波が押し寄せ、飛沫が上がる。今飛び込めば、悲しみごと飲み込んでくれるかもしれないと思った。いっそ、海の底まで行きたい。
そうしているとすっと体から熱が引いていく。確かに自分は勝ったようで負けた。復讐者と同じように堕ちてしまった。さけど、もはやどうでもよかった。大切なものすら残されていない世界で、希望を得たところでなにもならない。こんなところできれいなものを守ったところでなにになる。堕ちたいと願えるのなら堕ちてしまいたい。身も心も滅ぼして、それでようやくすべてを手放せる。
はかなげな顔で空を見上げる。けれどもその夜空はなにも映してはくれなかった。
「お前、なんでここに……」
唖然とした声を背中に聞く。
シオンはぼんやりと振り返った。
黒い瞳が映す彼は、驚いた顔をしていた。
それから少女はすぐに視線を元に戻す。先ほど彼が繰り出したのはただの独り言だ。答えるまでもないと思った。しかし、ちょっとしたおしゃべりには付き合ってもいい。元より少しわしたくなった。
「私はあの人を殺しました。激情に任して、売られた喧嘩を買うように」
軽く、口を滑らせるように語る。
口元にはほんのりと笑みがにじむ。
こうなってしまえばかえって気は楽だ。いつでも飛び降りてもいいように、ふんわりと羽ばたくような感覚になれる。
「私はすべてに裏切られました。信じていたものはどこにもなくて、国の歴史すら悪そのもの。もうなんでもいいのです。きっと私もろくでもない。あの魔力が、人の命を奪った魔法が証明しているのでしょう」
自身の力は魔剣と同じだ。振るえば必ず命を奪う。強い力に突き動かされ、呪いをかける。
「ふふ、目論見通りに堕ちました。私たちは救われません。誰も憐れんでなどくれないのです」
笑いながら、声を震わせる。
そこへ、ハヤテは駆け寄る。
しかし、彼はなにも言い出せぬまま足を止めた。
はっと目を見開いた先で少女は笑っている。今にも崩れそうな顔で、切ないほど嬉しそうな表情で。
そのありさまに言葉を失う。
これはもはや手遅れだと察しざるを得なかった。
「私はもう終わっています。この国は滅びる定めだったのでしょう。それでも私は悪を許せない。それを為した者を認められない」
はっきりと言葉をつむぐ。
彼女は男を見ていた。
「誰かが言いました。それは神の裁きのようだったと。たとえ応報で滅びたとしても、私はこの国の住民であったことを、捨てることはできない」
澄んだ声で訴えかける。
震える瞳から涙があふれる。
それを視界に入れて、ハヤテはひそかに奥歯を噛みしめた。
「お前を殺したくはないなどと、言うつもりはない。俺にはそれをする義務がある」
臆するように、震えるように、男は語る。
「俺はただの代行者だ。思いもなく災いを振り下ろすだけの機構だ」
だけど、彼は自分の意思でそれを為した。
始めたのは自分だ。
そして今でも彼はあの少女を忘れられずにいる。
仇を討ってほしいと彼女は託した。自分の見たいものを見せてほしいと言われた。
彼が都を滅ぼした理由は、たったそれだけなのだ。
だけど、解せないのは彼女はどこまでいっても犠牲者にしかなれないことだ。
魔剣は反応しない。勝手に滅ぼすようなことは起きない。
「お前は違う。違うから、俺には殺せなかった」
命を奪うことは、できなかった。
すると少女は笑いかけた。
「ならば救いを与えてください」
それは一縷の望みだった。
はっと言葉を飲み込む。
また沈黙が降りる。
夜空の色に染まった空間で、二人はただ相対する。
暫時様々な思いが胸を駆け抜けた。
いままで望みを叶える生贄として動いてきた人生と、それまでの普通であったはずの日々。
そして最後に残された女への感情と。
結局どこまでいっても青年はそれを捨てられない。
なればこそ、彼は決着をつけなければならない。
ハヤテは息を吸い込み、一歩を踏み込む。
少女は逃げなかった。
ハヤテは彼女を抱き寄せるように迫り、刃を突きつける。
刹那、二人の影が重なった。
最後に赤い魔力が広がり、爆発のように二人を包む。
それが収まったとき、縦にあったはずの影は見えなくなった。
夜が明けた。
瓦礫を踏み越え、アオは島に乗り込む。
端のおうはマシだが中心は破壊され続けている。
王の都も今や廃墟だ。
呪いがはびこっていそうなほどにまがまがしい空気感。これではなかなか次の住民も住みつかないだろう。
そうしてぼんやりと散歩するように歩いていると、岬がみえてきた。
そこには見慣れた影が二つ並んでいる。
冷たい地面に男女が倒れていた。
寄り添うように、手をつなぐように。
アオは彼女たちを黙って見下ろす。
そこへ乾いた風が吹き抜ける。
潮の香りが胸に沁みるようで、またなにか思いがこみ上げる。
しかし、彼はなにも言う資格はないと考えた。
かける言葉はなかった。
なにをしようと今となっては、なんの意味も持たない。
アオは口を引き結んだまま二人に背を向け、歩き出した。
エピローグ
あれから十年が経った。
かつて王都があった場所は今も誰も寄り付かない。建物は朽ち、ところどころに蔓が巻き付いている。かつてはきれいに整えられていたはずの庭園も荒れ果て、草ばかりがのびのびと生えている。
帝国が滅んでからというもの、属州では反乱が勃発した。駐在する兵に攻撃を仕掛けてる。相手も応戦するも、長を失った兵はまとまらず、あっという間に駆逐される。大きな秩序が崩壊して世界は混乱に陥るも、人々はなんとかまとまり合い、生活を続けた。
それから日常も落ち着きを取り戻し、かつての都を訪れる者もいた。彼らは栄華を極めた都市の末路を憂いながらも、その場に住み着こうとはしなかった。滅んだ場所はそのまま残され、廃墟となった。
島には今でも静けさが残っている。
その一方、いまだに活気で満ちている島もあった。すぐさばにくっつくようにしてある島である。以前は占領されていた土地だが今は独立している。海辺では舟が行きかい、漁に勤しむ光景が見られる。ビーチでは水着姿の女性が集まり、高い声を上げながら水遊びをしていた。市場には潮気が漂うも、かんかんと照る太陽も相まって、爽やかな気候であった。
自由を取り戻した町は一層生き生きと活動を続ける。広場では人々の笑い声が響いていた。
そうした中、ある男が島を訪れる。褪せた茶髪の男だ。かつては青々しい雰囲気だった彼は齢を重ね、相応に貫禄を身に着けた。頼りなさげだった顔も今では端正に引き締まっている。
不意に彼らは足を止めた。そこには人が集まっていた。その中心には白い像があり、その前にはリュートを手にした男が立っている。緑色のマントで体を覆った相手は目を閉じ、ゆっくりと弾きながら語り始める。
「あるところに敵同士の二人がいました。彼らは愛し合ったけれど、宿命には逆らえずついに心中してしまったのです」
その物語には既視感があった。実際にそのままの光景を見たことがないけれど、似たようなものなら覚えがある。
今頭に浮かんだのは、血の海に沈む男女の姿だった。あの娘は胸を突かれ、男は呪いによって命を落とした。凄惨な光景だった。しかし、彼の目には赤いバラが散っているように見えたのだ。
彼女は目を閉じたまま微笑んでいた。それで自分は救われたのだと。そう信じた顔で。
そうと感じたとき、アオは胸が締め付けられるような思いに駆られた。それは、彼女が死んだことではない。もちろん犠牲なんて求めてはいなかったし、あの娘には幸せであってほしかった。自分がむなしく感じたのは、彼女が自分の見えない場所で救いを得たことだ。
結局のところ、彼女はあの男を愛してしまった。相手のほうは分からないが、憎からず思ってくれていたのだろう。そのことに安心した。
だが、事実として自分では救えなかったという感情だけが残った。
一目ぼれだったのだと思う。
彼女とは深く接したわけではない。
ただ、行商人として都に寄るとき、いつも深窓の少女を見ていた。
彼女とは関われないと分かっていたし、これ以上近づくことも考えなかった。
ただ、自然と姿が目に飛び込んで、彼女の容姿が忘れられなくなっていたのだ。
二人には復讐をやめろだとか、憎しみはなにも言わないだとか、いろいろと伝えた。
それは本心ではあったが、実際はただのきれいごとだ。
アオはただ、あの娘に死んでほしくなかっただけだ。
彼女に幸せになってほしかった。
復讐とは無縁の、普通の少女らしい生活をしていてくれればそれでよかった。
ただ、それだけだったというのに。
思い出すとかすかな後悔が胸をかすめ、アオは目を閉じた。
本当の気持ちを伝えられなかったことを悔いているわけではない。
ただ、生きていていいのだと、彼女は犠牲にならなくてもいいと、幸せになっていいと、ただそれだけ言えたらよかった。
彼女の心に寄り添えたらよかった。
しかし、その役目は自分ではない。
自分はただ一度として彼女に近づこうとはしなかったのだから。
その役目はあの男のものになる。
だから、二人で死んだ光景を目にして、アオは自分の負けを認めた。
これこそが自分にとっての失恋だったのだと。
吟遊詩人は語りを続ける。
悲劇を脚色し、美しい物語に仕立てる。
ここで起きた出来事はいずれ忘れられるだろう。
歴史としては遺っても、都で生きた無辜の民のことなど、誰も覚えてはくれない。
今を生きる人間にとってもそれは例外ではない。
誰も彼も忘れている。
ただ胸にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残り続ける。
語り継ぐ者はいるのだろう。
ちょうどこの吟遊詩人のように。
だから本当にあったことは胸に仕舞いこむ。
あの二人の男女のことなど自分だけが覚えていればいい。
贖うことはできないし、終わったことを続けようとも思わない。
だから歩き続けるしかないのだ。
それでも、祈ることくらいはできるだろう。
そのために、名もなき人々の鎮静を祈ろう。
それくらいならば許されるはずだ。
そう思い、アオは聖堂のほうへと歩みを寄せた。
ロングコートを着た彼の背を、やわらかな風が撫でていった。
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