終末

 どうやら数日後、世界が終わるらしい。その発表は五年前から行われていた。なんでも隕石が衝突するとか。生存者はいないとか。陰謀論、インチキの予言。色々な話題が飛び交ったが、ついに撤回されなかった。

 世間はあることないこと騒ぎ立てる。ここ数年で町の治安は悪くなった。自暴自棄になった者たちは物を盗み、人を殺す。ある者は絶望から自殺を試み、店は次々としまっていく。

 僕はその世間の荒波を防寒しつつ、平和に暮らしていた。町の辺境、普通の家で寝て起きてを繰り返す。滅ぶのならさっさと終わってほしいと日々、願っていた。だから、世界滅亡の日が数日に迫って、ほっとしたような気分だった。

 終末なんてどうでもいい。生きる希望もなければ死ぬ勇気もない。自ら死ぬことはできあにから、終わらせてくれるのなら、それにこしたことはない。死ぬ時はどうなるのだろう。できるのなら苦しまずに死にたい。夜、寝ている間に世界が滅んでいるという展開が一番だ。

 死を恐れる理由はない。悔いを残したくないとはよく聞くが、死んだ後はプツンと意識が途切れるのだから、やり残したことがあろうがなかろうが関係ない。悔いを残す間などないはずだ。

 死ぬ時は全員一緒。全てが平等に平になるのだから、誰かを羨む必要もない。

 気持ちは落ち着いていて、今日も優雅にティータイムを楽しむ。こうして沈みゆく夕日と、夕闇を眺めながら、ティーカップを口につける。淡い黄緑色の液体を流し込むと、涼やかな味がした。


 次の日の朝、買い出しのために町に出てきた。この期に及んでのんきに買い物とは、自分でもどうかしていると思う。ただ、空腹で死ぬのだけは勘弁だ。餓死なんて苦しいに決まっている。それと、最後の晩餐という言葉もあるだろう。最期くらいは贅沢な食事をしたいという気持ちは分かってもらえると思う。もっとも、僕は食事には興味がない。ただ、食べられるものがあればそれでよし。だから、パッケージに入ったパンをいくつか購入すると、即外に出た。

 広場に通りがかって、ぼうっと突っ立っている影を見つける。それは少女だった。学校の制服を着ている。紺色のブレザーにプリーツスカート。臙脂のリボンを胸元できっちりと結んでいる。すらりと伸び足は黒いハイソックスで覆われていた。

 じっと彼女を見つめていると、急に相手が振り返る。互いの目が合った。気まずさはない。二つの視線は融解し、空気に馴染んだようだ。しばらくの間、僕らは口を引き結んでいた。ただ穏やかな沈黙が流れ、ゆるりと風が吹き抜ける。

「あなた、誰?」

 最初に口を開いたのは少女だった。彼女は怪訝げに眉をしかめる。

「なんでもない男だよ」

 詩的な表現だとは分かっているが、格好をつけたわけではない。実際に僕はなんでもない人間だ。取り柄もなにもない。将来の夢もなければ、ほしいものすらありはしない。漢字一つで現すのなら、空か虚といったところか。

「昼間からなにをしてるの?」

「それはこっちの台詞だよ。学校はどうしたんだ?」

「学生らしいあなたがそれを気にかけるのね」

 少女は片眉を器用に釣り上げ、薄く笑った。

 また、互いに口を閉じる。

 ぬるい静寂が二人の間を通り抜けていった。

「私、明日香」

 淡い紅の唇が動く。

「あなたは?」

「僕は、草字だ」

 さらりと答える。

 すると彼女はくすりと笑った。

「そうじ? どこかの天才剣士みたい。もしかして剣道が得意だったりする?」

「頼むから比べるのはやめてくれ。僕は大層なやつじゃない。ただの草の字だよ」

 両親ももっとかっこいい漢字を当てはめてくれればいいのに。なにを考えているのかさっぱり分からない。

「比べられるわけがないじゃない。あなた自分が偉人と並べられると思ったの?」

 比較対象に上がるということは、そういうことだ。

 単なる冗談を真に受けたようで、恥ずかしい。

 黙って目をそらす僕をまた彼女は笑った。でも、そこにはなぜか温かみを感じて、悪い気はしなかった。

「私、思い出を作りたいの」

 少女はじっとこちらを見て、口を開く。彼女は真剣な目をしていた。

「ほら、もうじき世界が終わるでしょう?」

「ああ、知ってる」

 それがどうしたのか。

 自分には関係ない。

 当事者ながら寝ぼけたことを考える。

「私、恋人がいなかったの」

「へー。モテそうなのに?」

 なんの気なしに口にすると、彼女がムッとしたように唇をすぼめる。

「嫌味?」

「まさか」

 思いがけず煽る結果になって、半笑いになる。

「君は美人だよ」

「嬉しいことを言うじゃない。口説き文句にしては退屈だけど」

「別に僕はナンパがしたいわけじゃないよ」

 また、顔をそむける。

「ナンパしてくれたっていいのに」

 ぼそりと少女がつぶやいた。

「え?」

 顔を上げる。

 ゆっくりと明日香と視線を合わせる。

 彼女は眉を垂らして、そっと笑った。さみしげな雰囲気がした。

「言ったでしょ。思い出を作りたいって。私、誰かとデートをしてみたい」

 それは切実な思いのこもった発言だった。

「いいでしょう。どうせ世界が終わるのだから」

 まっすぐにこちらを見つめる。

 その目を見ていると急に彼女がいじらしく感じてきた。

 彼女も結局自分と同じだ。誰にも愛されないまま、愛さないまま、独りでこの地を彷徨っている。そんな彼女に思いを懸ける義理はないが、別にいいだろう。なに、減るものではない。彼女のためになるのなら一肌脱いでもいい。僕はそういった性格をしていた。

「いいよ」

 だから自然とそう口に出していた。

「本当?」

 明日香の声が高くなる。口角は上がって、顔が嬉しげに輝く。

「僕がいいって言ったんだ。それ以外の答えはないだろう?」

 煽っているつもりはない。

 だが、あまり素直になりたくはないから、ツンとした言い回しになってしまう。

 なお、彼女は言葉の端にあるトゲには気づかずに、素直に喜んだ。

「ありがとう。じゃあ、さっそく行きましょう」

 彼女が迫り、こちらの手を取る。

「ちょっと待て。いきなりか?」

 僕は抵抗もできずに相手に引っ張られるような形で、歩き出した。

 彼女は止まってくれなかった。


 明日香の歩く場所に僕も進む。僕は彼女に振り回されるような形で、町を巡った。冬の枯木が並ぶ道を通り抜け、香ばしい匂いのする喫茶店に吸い込まれると、熱いコーヒーを注文する。フレンチトーストを二人でいただくと、料金を払って、外に出る。

 それから水族館で魚や海洋生物を眺め、しまいには遊園地にまで足を運んでしまった。

 観覧車の中で町を見下ろす。ガラスの向こうの景色には人気がない。店はシャッターがしまっているところが多い。民家も空き家が多く、そのどれもが朽ち果てているようだった。すっかり廃れてしまったなと、寂しくなる。

 観覧車は地上は地上に戻る。

 遊園地を後にしたころにはすっかり日が暮れていた。


「そろそろだね」

 明日香が腕時計を睨みつけてつぶやく。

「帰りの時間?」

「ううん」

 彼女は首を横に振る。長い髪はぱらりと揺れて、頬にかかった。

「隕石」

 明日香の二対の目がこちらをとらえる。

 僕はなんと反応していいか分からなかった。

 世界の滅びなんて知っている。それが今日になることくらい、誰だって分かっている。僕は普通とは違うのだ。他人が慌てふためく様を見ても共感できない。僕は延々に生きていたいわけではないのだから。

「あなたは怖くないの? 私は怖い。いいえ、嫌だ」

「嫌って?」

 眉を動かす。

「だって嫌でしょう。私たちの人生、ここで終わってしまうのよ。まだやり残したことがあるのに。まだ道の途中なのに、大人になり切れないまま強制終了だなんて、理不尽とは思わない?」

 同意を求めるようにこちらを見る。睨みつけるような目つきだった。

 僕は口を閉ざした。

 彼女の気持ちは分かる。まだ生きていたいという望みも分かる。ただ、それらの感情が僕にはないというだけのこと。

「僕は生きていたいとは思わないんだ?」

「どうして? 変な人」

 彼女はツンと顎をそらした。

「そうだろうね。でも、僕の考えは万人に受け入れられると思ってる。だって、誰だって生きるのは面倒だ。苦労も多い。嫌な経験ばかり。なんでもない日々を当たり前のように繰り出す。なんのために生きて、なんのために死ぬんだろう。なにが楽しくて、生きてるんだろう。ずっとそんなことばかり考えてたよ。僕にはなにもないんだ。なにも得られない」

 自分の人生に価値はない。

 誰かのために生きることはできないし、自分のためにも生きられない。そんな自分にも価値はない。ならばいったい自分はなんのためにここにいるのだろうか。

「そうね。あなたはきっとそういう人生を送ってきたのね」

 少女は彼方の空を見つめて、つぶやいた。それは自己完結した発言だった。

「私だってそうよ。なにもなかった。誰にも愛されなかった。勉強ができなければ運動もできない。常に落ちこぼれ。両親には叱られてばかりだし、小学生のころにはいじめも受けたわ。でも、生きるしかなかった。それが私たちに課せられた義務だから」

「君はそう命じられたらか生きるのか? それってつまらなくないか?」

 神の教えだから死ぬことは許されない。自殺は悪いことだからしてはならない。それは変だ。誰だって生きるのは辛い。だったら、逃げてもいい。自分のために死ぬのは自由だ。それを誰が縛るという。生まれ落ちたのは両親の意思。生きているのは自分の意思。だったらそれを終わらせるのは僕らの意思。それでよかったはずだ。

 それを誰かの意思で左右されたくはない。支配されたくなかった。

「分かってる。私、結局は誰かに支配されてないと、生きていけないのよ」

 ポツリとこぼす。

 また、遠くを見つめる。空は暮れがかっていた。

 そんな彼女を見て、納得が心の底に落ちた。

 彼女も同じだ。なにもない。なにも得られなかった。たった独り追い込まれた哀れな存在。彼女に手を差し伸べてくれる者はいなかったのだろう。それは僕も同じだ。僕は誰の目にも咎められなかった。サボっていると最初は叱られたが、徐々に見放され、ついには「好きにしろ」と突き放された。僕の存在は透明人間のようなもの。いてもいなくても変わりはない。だからふらりと姿を消してもいいだろう。そんなことを思った。

 ここに二人。似たもの同士が見えない糸に引かれるように出会ったのには、意味がある。そのはずだった。

 だが、無情にもその時は迫る。隕石の衝突は間近に迫っていた。スマートフォンはない。テレビが見れる場所にいないから、状況は分からない。今頃生で中継がされていることだろう。その世界が終わるギリギリまでテレビはニュースを届け続けるに違いない。

 いざ、その時が来ると実感が湧かない。今はまだ生きてるのに、呼吸をしているのに、終わってしまうなんて。

 死は怖くはない。痛いのが嫌なだけ。後悔も無念も思いも残さないはずだった。心は空っぽなままで終わりを迎える。その準備は整っていたはずなのに、なぜか寂しさが心の中を突き抜ける。

 空っぽになった心にかすかに思いを抱く。

 心残りがあるとすれば、彼女のこと。頭に浮かんだのは制服を着た明日香のこと。彼女を幸せにできればよかった。ずっとそばにいたい。この時間が長く続けばいいのに。生まれて初めてそんな気持ちになった。それになによりも驚いた。

 それでも彼女と一緒に最期を迎えられるのなら、ほかに望むことはない。黙って死を受け入れようと覚悟を決める。


 ところがいつまで経っても、衝撃は訪れなかった。町は無音に包まれている。

 祈るように閉じていた目を開ける。

 いったいなにが起きたというのか。なにも起きないのが不自然で、首をかしげる。

 明日香も同じように眉をひそめて首を傾けていた。

 それからまた時は流れた。やはり、世界は滅びない。風は流れて枯れ葉が舞い、時計の針は動き続け、鼓動は止まらず、僕らはまだ息をしている。


 結局、隕石は衝突しなかった。

 なにものかの意思でもかかったのか、地球からそれた後、勝手に消えたらしい。


 それを知らないまでも、無事だったと確かめ合い、僕らは笑った。

「なんだ、結局杞憂だったじゃない」

「ああ、そうだよ。騒いぐだけ損だったんだ」

 終末の余韻はほどほどに、明日になれば日常に戻る。

 なんだとがっかりするところだが、不思議と今日は違った。

 生きていてよかった。

 終末が今日でなくてよかった。

 そう心から思うのだった。

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