宝石のやつ
どこか遠くへ来た気がする。
散歩の帰り、迷うはずのない道に迷って、気がつけばこのざま。
黄昏の空を眺めながら、ため息をつく。
「おいおい、見慣れない顔だな」
そこに立っていたのは着物姿の彼だった。
「俺も現世を行き来するが、まさか本物がこちら側に来るとは思いもしなかった」
面白げに彼は言う。
その尖った目で少女の姿をなめるように見つめる。
彼女はそれをなにも感じていなさそうな目で、見つめ返していた。
実際に少女に見られても恥ずかしいところはない。胸は平凡、顔も整ってはいるものの、地味な部類だ。ただそれだけ。自分に対して無頓着だからこそなにに対しても心が揺るがない。少女はそういった存在だった。
「送ってもいい。ただ少し、遊んでいかないか」
「いいわね。それ。少しだけなら」
「おうとも」
彼はにこやかに笑った。
かくして二人はこの世界を歩き回ることになった。
それから短くも濃厚な旅が始まる。
自然を見た。建物を見た。
現実世界と似ているのにまったくの別世界。
現実が濃い絵の具で犯された場所なら、ここは水彩画。ただひたすらに透明で、なにもかもが淡く溶けてしまいそうな気配があった。
そこで彼女はいくつもの夜を越えた。
今日も野原で座り込み、夜空を見上げる。
「こういうのをラピスラズリの空というのかしら」
感嘆と息を漏らす。
そこには紺碧が広がっている。まばゆい輝きは金そのもの。
「例えるのなら確かにそうだな。だが、空が天界に繋がっているわけでもあるまいし、その例えは思い場合もある」
「そうなの」
「ああ、それはあくまできれいなだけの空だからな」
あっさりと事実を伝える。
きれいなだけ。
それは十分な価値だ。見入るだけの理由があるし、惹かれるだけの理由もある。
だが、それは宝石ではない。だから駄目だと彼は言う。本当にそうだろうか。少女は訝しむように眉を寄せた。
また、いくつもの自然を股にかけた。
渓谷を渡り、絶景を見た。
滝の飛沫を浴び、色鮮やかな花畑を見た。
ここで祝福を浴びたらどれほどよかっただろう。
ちょっとした夢を見る。
少女としては幸福だった。彼に案内をされて、いくつもの場所をめぐり、また同じ場所へと戻ってくる。
彼女としてはそれで十分。ほかに望むものはなかった。
それなのに彼は最後にこう言うのだ。
「ありがとう」
「どうしてあなたがお礼を言うの?」
不思議そうな目をして少女が聞く。
お礼を言うのはこちらのほうだ。彼に案内をされてよい思いを味わった。受け取ってばかりなのはこちらのほうだ。それなのに。
「俺、お前と一緒にいられてよかったんだよ」
いきなりおかしなことを言う。
それはこちらだって同じだというのに。
「だからさ」
まだ分からないのかというように苦笑いをして。
「一目惚れだったんだ。だからお前を案内した。少しでも引き止めるために」
だから、そう。
納得を覚えた。
だが、彼は彼女を手放そうとしている。
楽しい時間はこれで終わり。約束はもう済んだのだから、ここで帰すしかないと。
「だから最後にお礼。受け取ってほしいものがあるんだ」
真剣な思いを込めて、彼は伝える。
だけど彼女にとってはよく分からないことだったので、少女はきょとんと首を傾けた。
それから二人は移動をする。
そこは川辺だ。
清らかな川は水晶を溶かしたようにきれいで、水面は太陽の光を反射して、キラキラと輝いている。
川底にもまたキラキラとしたものは光っている。よく見るとそれは色とりどりの宝石だった。
「どうだ? いいだろ。土産だ。一つ、もらっていかないか?」
案内人が誘う。
少女は一つひとつ、見て回る。
川底を覗き込んで、どれがいいのかを確かめるように。
彼女にとってはどれもきれいに見えた。赤、緑、青――色鮮やかな宝石たち。ただ、どれも一緒に見える。どれか一つを選んでも、ほかのなにかで代用できる。それらはただきれいであることしか分からない。伝わってくるものがなかった。
「ルビーは宝石の女王だ。愛と美を象徴する。不滅の炎を秘めし光は、持ち主に勇気と情熱を与える」
堂々と青年は説明を始めた。
「サファイアは司教の石だ。天空を投影した輝き、神聖な石。叡智の結晶。優雅さと気品を併せ持つ色は、一途さと堅固な愛を意味する」
彼の指す方向には青い宝石が沈んでいる。
「エメラルドもまあ、似たようなものだ。元へベリルでコランダムのルビー・サファイアとは違うがな。こいつは聖職者の石。神聖、予言、癒し、富、権力……。慈愛と結婚、貞節を意味する」
翠色の石は見るからに癒しの波動を感じて、見入ってしまう。
彼の説明を聞いているだけで、この石たちは素晴らしい力を持っていることが分かった。
だけどそのどれもが身に余る。一人の少女が持っていてもいいものとは思えなかった。
そして最後に青年は一つの石を指す。
「ダイヤモンドは最強の石だ。いかなる攻撃をも寄せ付けない。なによりも硬く、永遠の輝きを放つ。だからこそ結婚指輪に使われるんだろうな。同じ純粋無垢――純潔を意味するプラチナと一緒で。純愛の象徴たるその石はなによりも価値があるもので」
選ぶのならそれにしろと、彼は促す。
だけどそれはどこか別の響きを持っているような気がして。
そこで気づく。
彼が宝石を与える意味を。最後に彼がなにをしたかったのかを。
「ねえ、あなた」
顔を上げる。
視線を合わせる。
澄んだ瞳で彼を見つめた。
「あなたは私に愛を与えたいの? それとも約定がほしいの?」
真顔で尋ねる。
青年は黙り込んだ。
それは図星だというように。
少女はすっと微笑んだ。
正直な話、彼の気持ちは嬉しい。自分ももらえるとしたら愛がほしかった。その透明で力強い輝きが自分のものになるとしたら、それはどれほどよいだろうと。
けれども、持ち込めるとしても自分はそれを選ばない。
少女は静かに水の中に手を入れた。腕がまっすぐに下へと伸びる。腰を曲げ、かがんでいる。指先で触れたのは固い塊。つかみ、引き上げ、宙に晒す。
日光に照らされたのは、手のひらよりも小さな丸い石。
色は単なるグレーで、曇り空よりもくすんでいる。
それでも触れてみるとつるつるとしていて、ひんやりとしているのもあって、気持ちがいい。
「そんなものでいいのか?」
不思議そうに青年が尋ねる。
「うん」
少女は答えた。
うっすらと色づいた唇に、微笑みをたたえた。
誰かにとっては単なる石ころ。なんの価値のないものでしかないのだろう。それでも今の彼女にとっては、それが最も価値あるものに見えるのだ。
純粋に、とてもきれいだと感じたから。
石の価値なんて分からない。希少性や色鮮やかさや透明感など。
それでも気に入ってしまったのだから仕方がない。触れてしまった時からなぜか心を掴んで離さなかった。
だから彼女はそれに決めたのだった。
「ねえ、私が本当にほしいものはきっと、ここにはない」
宝石は所詮、宝石なのだ。
象徴的なものが込められているにせよ、それは単なる石でしかない。
「いいのか。これは最後のチャンスだ。こんな高価なものは、ほかにはない」
それで構わない。
彼女には迷いがなかった。
だから真実を伝えるのだ。
「ううん、それは形だけのもの。受け取ったところで、本物は手に入らない」
静かに首を横に振って。
「私はあなたの気持ちがほしいの」
ただまっすぐに気持ちを打ち明ける。
たまらず青年は固まる。
思わぬ告白にあっけにとられた様子だ。
それから彼は気恥ずかしげに頭をかく。
その様子を見て少女はまた花のような微笑みを漏らす。
先程のおのれの言葉を標とするように、ただ一言。
「また会いましょう」
再会の約束を。
涼やかに告げるなり、背を向け歩き出す。
長く伸びた髪がさらりと揺れ、背中を隠す。
彼は動かない。
川辺に留まったまま、ただ一点を見つめ続ける。
青年の視界の中で少女の影は点となり、やがてなにも見えなくなった。
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