最後の時を過ごしたい

 世界が終わると聞かされて真っ先に頭をよぎったのは、彼女のことだった。その女は昔の知り合いだ。同級生とも言う。昔は一緒に遊んだ。遊ぶといってもエロティックなことではない。子どものころに公園で集まったり、駄菓子屋で菓子を買いに行ったり、その程度のものだ。

 あるとき、俺たちは別々の高校へ進学し、別れることになった。以来、彼女とは会っていない。今の今まで、その存在を忘れてすらいた。だが、いざ自分のいや、人類の未来に先がないと分かった途端に、青春時代の思い出が電光のように流れ込んだのだ。

 終末を迎えて世間は混沌に満ちた。スーパーでは争奪戦が始まり、荒事が増えた。警察は荒くれ者を追いかけ、捕まえ回る日々。交通網は麻痺して、国会もいうことを聞かない。

 俺はそんな喧騒から逃げるように街を出た。そして、徒歩で足を進める。彼女のいる田舎へと。

 最初は終わりが見えなかった。野宿には苦労して、寝不足に陥るわ、疲労が蓄積するわ。それでも次第に慣れていく。無謀ではないか、諦めたほうがいいのではないか。そんな考えが頭をよぎっては、すぐに拭い去った。自分は彼女と出会うのだ。その意思が赴くままに、彼は歩き続けた。

 旅を続けて数ヶ月の時が流れた。山の間を縫うように進む。上り坂を上り、また下る。遠くに田畑が見えてきた。遠くにはまた大きな山がある。その麓にほそぼそと村がある。ポツポツと建った民家を視界にとらえて、安心感が胸に広がる。変わっていない。昔、過ごした故郷だ。

 確認するや足取りにも力があふれた。一歩一歩を踏みしめるように道路を歩く。人気はなかった。住民はすでに去っているのか、もしくは死んだか。縁起でもない考えが頭をよぎったとき、同時に懸念も浮かぶ。果たして彼女はここにいるだろうか。別れてからというもの、連絡は取れずにいる。電話番号を交換しなければ、文通を交わしたこともない。知り合いから近況を聞いてもいなかった。

 どうか、そこにいてほしい。大切な思い出を噛みしめるように唇を噛み、また一歩を踏み出す。

 岩崩れ注意の看板がかけられた細い道を通り過ぎ、民家の並ぶ通りへと出る。古びた商店や純和風な喫茶店のそばを歩き、坂を上る。いくつかの民家を越えた先に、彼女の家がある。赤い三角屋根の建物だ。木製の家屋は昔と変わらない。変わったことがあるとすれば庭だ。いつも色鮮やかな花が咲き誇っていたカバンは土で覆われ、池にも鯉がいない。

 もしかして……。懸念を振り払うように足を進める。玄関の前で立ち止まり、インターフォンを押す。ピンポンと音が鳴る。俺は手を離し、腕を下ろした。それからすぐに扉が開いた。引き戸を真横に滑らし、家主が顔を出した。

 色白の肌を艶のある黒髪が縁取った女。女性というにはあどけなさの残る顔立ち。服装は大きめのシャツにコットンパンツといった簡素なもの。部屋着にしても色気がない。素朴な雰囲気の彼女を見て、安心感を得た。

「どうしたの、あんた?」

 彼女は元から大きな目をさらに大きくして、驚いた。

「君に会いに来たんだ」

 俺は素直に打ち明ける。

 恋人でもない相手に対してこの言い草。言って早々、恥ずかしさを覚えた。だが、会いたかったのは事実だ。今、自分が持っている感情がなになのか分からない。それでも、この会いたいという気持ちだけは確かだと、自信を持って言える。

「大変だったでしょ。入って」

 言われるがままに扉の奥に入る。

 土間に足をつけると彼女が後ろで扉をしめた。

 上がり框の手前に靴が揃えて置いてある。OLらしい低いヒールのパンプスに、運動部の学生がはくような運動靴。後はショートブーツもセットで置いてある。全て、彼女の私物だろう。その隣から少し離して、俺も靴を脱いだ。

 玄関ホールにはスリッパがあったため、端のものを選んで、履き替えた。


 それから風呂に入ってさっぱりとしてから、居間に通された。四方をふすまと障子で覆われた空間だ。床は畳張りで芳しい香りがした。ちゃぶ台には二つの茶碗。中には薄緑の液体が入っている。飲んでみると緑茶だった。涼やかな匂いと一緒にほのかな甘味が、口に残った。

 俺たちはとりとめのない会話をした。談笑し、笑い合う。昔の話や大学時代、就職してからのこと。とりとめのない話をしていると、生き返ったような気分になる。彼女と別れたから喪った時間が戻ってくるようで、気分が盛り上がった。

 ついつい長話をしてしまったようで、外は暗くなっていた。窓ガラスは鏡のようになり、ちゃぶ台で向き合う二人の男女が映っている。

 世界はこれから終わる。その運命に人は逆らえない。

 だがこの瞬間だけは特別で静寂で、豊かなものだった。だからこそ、俺は気付いた。自分があんな苦労をしてまで、ここに着た理由を。

「なあ、一つだけ頼めないか?」

「なに?」

 彼女は可愛らしく首を傾けた。

「ここにずっと、いさせてほしい」

 口を大きく開ける。

 彼女の目をまっすぐに見つめ、はっきりと告げる。

「最後の最後の瞬間まで、お前と一緒に過ごしたい」

 それは俺にとっての一世一代の告白だった。

 失敗したらどうなのかなどと、考えてはいない。

 自分が告白をしようがしまいが、世界は終わる。チャンスは一度しかない。ここで全てが終わるのなら、彼女に思いを伝えても構わない。

 ゆったりとした沈黙が流れる。かすかな間の後、彼女はくすっと笑った。その口元が春の花のようにほころんだ。

「ええ。私もずっとあなたのことを考えていたわ」

 顔を上げ、じっと俺を見つめる。

 その目が優しげに細められ、彼女はたしかに笑った。

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