死を賭した演奏
青年は音楽が分からない。
ドビュッシーだとか、ベートーヴェンだとか。
さすがに名前は分かるものの、なんの曲を作った人なのか、よく知らない。
音楽がいいのは分かっている。ただ具体的にそんな部分で魅力を感じるのかがしっくり来ない。
彼にとっての音楽とは歌のこと。合唱コンクールもそこそこやれるほどに、歌うことは好きだ。登下校の際、イヤホンで常に好きな曲を聞いている。そうでなければ落ち着かないのだ。
彼にとってはクラシックなんかは硬質すぎて、手を出せない。
だが、そんな彼とは反対に、音楽が異様に好きな娘がいた。彼女は中学が同じだった。合唱コンクールでは伴奏を担当し、その完成度は歌をも凌駕する。まさにプロ顔前だった。
そんな彼女が学校にきていない。
寝は真面目だったからズル休みではないだろう。
風邪か。
適当にあたりをつけた。
念のために様子を見に行こう。
そう思い、学校の帰りに少女の家に寄った。
場所は知っていた。近所だし、子どものころはよく一緒に遊んだこともある。
そういえば、彼女は一人暮らしだったか。両親を事故でなくし、今は国から援助が出て生活している。難儀なものだと思うのだが、彼にはどうすることもできない。
と、家が近づいてきた。
演奏の音が聞こえてくる。
彼女のものだ。
学校にも行かずに一日演奏をしていたのかと、なかば呆れながらドアを開けた。
玄関を踏み越えて、廊下に出る。
部屋へと続く扉を開けて、中に入った。
瞬間、青年は息を呑む。
確かに彼女はそこにいた。大きなピアノと向き合い、演奏を続けている。
その奏でる音は清らかで天にまで届くと思わせるほどだった。
けれどもピアノと向き合っている彼女の顔色はひどく悪く、額にはいくつもの汗が浮かんでいた。
「おい」
すぐさま駆け寄り、肩に触れた。
途端にまた愕然とする。
ひどく熱い。
熱を出しているのだ。
「お前、なんでったってこんなときに」
叱るように声を張る。
少女は目を伏せた。少し寂しげな顔をして、指を止める。
「いいの」
「よくない。お前、ただでさえ病弱なんだ」
「分かってる」
少女は言う。
「私、もういいの」
「え……?」
少女が振り返る。
今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「全部、失った。私にはピアノしかない。もう、終わってもいいの。だからそれまで私はピアノを引き続ける」
声を大きくして言い切るなり、また鍵盤に指を触れて伴奏を続ける。
その気迫たるや。
完全に圧倒されて、なにも言えない。
彼女を止めることはできなかった。
これが彼女の思い。そして、悲哀。
彼女はなにも得られない。両親を失い、健康な肉体すらとうになく、唯一残されたことがピアノ。
ああきっと彼女は死にたかったのだろう。
それ以外はいらないとばかりに。
そう考えている時点で彼女の生は終わっている。
そして、演奏は終わった。
すばらしい曲だった。
名前も作曲者も分からない。
それでも響くものがある。
それは彼女の持つ輝きそのものであり――
きっと魂を燃やして行われたものだと、青年には分かった。
月光が照らす闇の中で、少女はすっと微笑んだ。
花を散らすような笑みだった。
その顔があまりにもきれいで思わず声を失ってしまう。
今にも透明になって消えてしまいそうな彼女。
それでもピアノを引いている時の彼女はありえないほど生き生きとしていて、その分は死ぬことはないだろう。
そう安心していた。
しかし、彼女は死んでしまう。
あれから少女は眠り続けた。
その目は二度と開くことはない。
二度と鍵盤に手を置くことすらなく、彼女は灰になった。
葬儀の後、青年はひそかにその家を訪れた。
家財が撤収され、空き家に近くなった部屋。
唯一壁際に残されていたのはピアノだった。自分の身ではあまるほどの大きさ。重厚な黒と白の物体。こんなものと彼女は常に向き合ってきたのか。
感慨深さと共になんともいえない感情を抱きながら、彼は鍵盤に触れた。
埃をかぶっていた。
演奏なんてできない。知っている曲などありはしない。
それでもなにか引いてみたい。
彼女への鎮魂曲のために。
そんな思いに突き動かされるように、彼はピアノの前に座った。
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