祭り シンデレラ

 財布の中には小銭が三枚。三百円。中身を開いてため息をつく。部屋の中はこざっぱりとしている。シンプルというにはそれは寂しく、なにも詰まっていないと称してもいい。祖母のものと思しきタンスやクローゼットは完備してあるものの、中身は空だ。親戚から古着をもらってはいるものの、まだまだ足りない。おしゃれ着なんて自分には縁がない。数枚の服を毎日着回して過ごしている。

 壁紙はいたんでいて、ところどころにひびが入っている。ニスを塗った柱も地震が起きれば折れてしまいそうな危機感があった。それでも、どうにもできないのが私の家だ。

 いつまでもこんな調子で日々を過ごしている。ほしいものは山程あれど、自由に使う金もなく。おまけに通っている高校はバイトが禁止だ。自力で稼ぐことすらできない。

 高校を卒業したら即、就職。進学なんてしてもらえない。そんな話題を耳に入れてから一気に勉強と向き合う気が失せた。高校に入ってから初めての夏。皆がきらびやかな格好に身を包んで祭りを楽しむ中、私は一人で閉じこもる。ろくな服もないのだから、制服以外で人前に姿を見せる勇気はなかった。このまま孤独な夜を過ごすのだろう。遠くで響く花火の音を聞きながら。

 私はいつもこんな感じだ。窓のサンに肘をついて、外を見つめる。夜道を歩く数人の影が視界を横切った。色鮮やかな色に染められた浴衣を身に着けている。手にはうちわと巾着。彼女たちが歩くと下駄の音が軽やかに鳴った。

 その影を見送って、ため息をつく。急に自分が惨めに思えてきた。母は遅くまで働いている。それでもなお満たされない。裕福な家に生まれてこればよかったとは思っていない。どこの家庭で生まれたかなんて関係なく、この世に産まれることができたのは母がいたからだ。母に対する感謝の気持ちを忘れたことはない。それでも、ほんの少しだけ寂しいのだ。自分がなにもないことに。なにも得られないことに。

 青春らしいことを何一つできていない。私はこの夏いったいなにができるのか。なにを許されるのか。視線を上げれば満天の星空が輝いていた。その黄金の輝きすら今はひどくまぶしく、心が痛む。

 せめて浴衣があれば周りと同じように、客として溶け込めるのに。お金なんていらない。私には見栄さえあればよかった。でも、こんな中途半端なプライドを持っているからこそ、私は駄目なんだろう。本気で青春を楽しみたいのなら、プライドをななぐり捨てて、へんてこな格好で表に出ればいいのに。私は駄目だ。欠片の勇気も出ない。

 でも、同級生のあの子は言っていったけ。私はなにもない。きれいな浴衣がなければ祭りには行ってはならない。貧乏なお前が露店を回っても冷やかしでしかない。祭りに参加する資格もないのだと。

 自分で自分が恥ずかしい。自身の格好を見つめる。上下のジャージ。裾がちぎれていて、膝のあたりの生地が破れて、穴ができている。転んだときにできた傷だ。

 いずれにせよ私は祭りには行けない。その事実がむなしくのしかかる。私はまた、ため息をついた。


 そんなとき、急にインターフォンが鳴る。椅子から立ち上がって、部屋を出る。廊下を通って、玄関までやってくる。扉を開けると、着物を着た女性が立っていた。年齢は三十代後半あたりだろうか。薄い顔立ちに楚々とした着物が似合っている。その手にはなにやら反物らしきものが見える。色は真っ赤でとても上質な生地だと伺える。売り物だろうか。

「キャンセルが出たの。許可は得たから代わりに受け取ってくれる?」

「え、いいんですか?」

 突然のことで戸惑う。

「そう。彼女、薫ちゃん。しってるわよね? 彼女が薦めてくれたの」

「薫……」

 彼女の名を知っている。学校でよくしてくれる女の子だ。友達というわけではないけれど、知り合いではある。だけど、なぜ彼女が。疑問を隠せない私に対して、女性は優しげな態度で教えてくれる。

「気にしてたみたいよ。あなたにお金がないことを知ってる。だから力になってあげたいって」

 にっこりと笑う。

「ああ、別にあなたが惨めだとかそういうわけじゃないわ。でも、あなただってきれいな浴衣は着たいでしょう?」

 興味がないといえば嘘になる。だけど、いいのだろうか。自分のためにこんな上等な浴衣を譲ってもらって。それに袖を通すなんて自分にはもったいない。

 ああ、だけど、他人の厚意を無下にするのは、それこそもったいない。せっかくこちらを気遣ってくれていたんだ。ここは甘えて後でお礼を言うべきだろう。そう結論づけ、私はうなずいた。

「そう、よかった」

 途端に女性は弾けるように笑う。

 それから私は彼女を家の中に通して、着付けをした。浴衣に袖を通して、きちんと帯で締める。真っ白で絹のような肌触りがした。灼熱の赤に雪のような色が映えている。

 髪もお団子状にまとめて、かんざしを挿した。すると見違えるようにきれいになった気がする。まるで魔法にかかったかのようだった。

「大丈夫。似合ってる。勇気出して!」

 女性は暑苦しく言って、物理的に背中を押す。

「浴衣は後で返していいからね。なんなら薫ちゃんに直接渡してくれればいいよ」

 女性はそう言うと持ってきた荷物を回収して、体の向きを変える。彼女は廊下に出た。その後を追いかけて表に出ると、すでに玄関で靴に履き替えていた。

「私は行くね。祭り、頑張ってね」

 顔を上げ、こちらの目を見て、告げる。

 最後にまたニカッと笑って、背を向け、扉を開ける。

 また前方で扉が迫る。その外側で足音が遠ざかっていった。

 相手がいなくなったのを見計らって、肩から力が抜く。ふっとため息が漏れた。

 別に勇気がないわけではないんだけどな。複雑な思いを抱きつつ、私も外に出る。下駄に履き替えて、歩き出した。

 下駄を履くのは初めてだったので、歩きづらい。なんとか転ばないように、慎重に進む。まだ空は夕焼けに染まる前だった。薄暗くはなっているものの、まだまだ明るい。

 神社の境内にはすぐにたどり着く。なんとか祭りには間に合ったようだ。所持金はゼロだからなにも買えないけれど、せめて空気だけでも味わいたい。周囲をよく見渡しながら、立ち止まる。


 普段は静謐な空気に包まれている神社も、今はにぎやかだ。宙を提灯で彩られ、周囲に暖色の光を散らす。カラフルな屋台が列を成し、浴衣を着た客たちが食べ物を片手に練り歩く。私は所持金がないからなにも買えないけれど、香ばしい匂いを嗅ぐだけで満足した。

 と、そのとき、急に体の中心に重たいものが下りるような感覚が走る。その視線の先に三名の女子がいた。長く獣の毛のような髪を横に縛った少女、ボブカットのそばかすが目立つ少女、和風に切りそろえたロングヘアを持つ少女。その全員が私のほうを見る。その睨むような鋭い視線を浴びて、私は凍りつく。戦慄に似た感覚が肌を撫でた。頬を汗が伝う。唇を開いてもなにも言えない。私はただその場に立ちすくむ。

「どの面下げてこっちに着たわけ?」

「その浴衣、誰から盗んだのよ。そんな金、あんたにはないはずでしょ」

 女子たちがこちらに迫り、口々に言う。

「さっさと帰りなさいよ。あんたなんて、この場所にはふさわしくないのよ」

「そうよ。こんなところに手ぶらでなにしに来たの? なにもする気もない癖に」

「なんとか言いなさいよ。それかさっさと帰って。邪魔なのよこんな道の真ん中で置物になってると」

 怖い。

 言い返せない。

 唇が震えて仕方がなかった。

 足がガクガクとしている。足の裏が地面に貼りついたように、動けない。

 やはり来るべきではなかった。このにぎやかで華のある場に私は不釣り合いだ。

 泣きたくなる。

 言い返したいのになにもできない。

 目をギュッと閉じ、涙をこらえるように固まっていると、どこからか声がした。

「邪魔なのはそっちもじゃないか?」

 見知らぬ声。

 低くて爽やかさをはらんだ男の声。

 ゆっくりと目を開けて、そちらを向く。そこに立っていたのは藍色の浴衣を着た青年だった。髪を短くカットしている。肌はほどよく焼けていて、凛とした目つきが特徴的だった。

「なんなのよ、あんた」

 一人の女子が怯えたような目で、彼を見澄ます。

「みっともないなって言いに着たんだ。ほら、こんな場所で人をいじめる君たちのほうが、祭りには不釣り合いだとは思わないか? それに、この道を三人で横並び。通りを妨げているのはそちらのほうだろう」

 口調は厳しくはなかったが、その指摘は彼女たちの胸にグサグサと突き刺さったらしい。

 グッと口ごもる。

 言い返せなかったらしい。

 それでもなお睨みつける女子たちだが、やがて自ら背を向けて、去っていった。

 ようやくあの人たちから解放されて、肩から力が抜ける。心にも安堵の感情が戻ってきた。

「大丈夫か?」

 そんな私に声がかかる。柔らかな声音だった。

 顔を上げて、彼を見つめた。改めて見ると整った顔立ちをしている。私の学校にはこんなにきれいな人はいない。

「あの、ありがとう」

「いいってことよ」

 おずおずと感謝の気持ちを伝えると、彼は爽やかに笑った。

「一人か?」

「はい」

 問いかけに答える。

「俺もなんだ」

 さらっと彼は打ち明ける。

 私は黙って話を聞く体勢に入った。

「よかったら一緒に行かないか?」

「一緒に……?」

 彼を見上げる。

 本当にいいのだろうか。自分なんかが彼と一緒に歩けるなんて、幸せなことを。でも、この機会を逃すわけにはいかない。せっかく彼が誘ってくれたのだから。

 かくして私たちは二人で祭りの会場を歩くことになった。

 互いに初対面ではあったが悪い印象は受けながった。一緒にいても心地よい。会話も自然で、無理をする必要性を感じなかった。どんな話をしても向こうから話を広げて、盛り上げてくれる。時には笑わせてくれる。自然とこちらも笑みがこぼれる。

 いつの間にか彼に惹かれている自分に気づいた。彼はとてもきれいだ。自分を助けてくれた存在でもある。こんなにいい人は早々いない。だけど、いつかは別れなければならない。この祭りが終わったら、彼は姿を消してしまう。そう思うと、悲しくなってきた。

「おい、どうした?」

 不意に声がかかる。

「え?」

 なんでもないのに。

 目をパチクリとして、様子を伺う。

 彼は眉を寄せて、哀れむように言った。

「だって、泣いてるから」

 言われて初めて気づく。おのれの頬が濡れていることに。

 即座にゴシゴシと拭いて、目をそらす。

「違うの。なんでもない」

 ごまかすように主張した。

 けれども、彼を安心させることはできなかった。

「どうしたんだ。なにか悩んでいることがあったら」

「違う。違うんだって。私はなにもない。考えてないの」

 もう耐えきれない。

 私はなにかをごまかしたくて、逃げたくて、仕方がなくなっていた。

 気がつくと彼に背を向けて、逃げ出した。

 その折、髪がほどける。まとめていた髪が下りて、ころんとかんざしが落ちた。

 私は振り返らなかった。ひたすらに走って、境内を移動する。鳥居をくぐって、石段を下った。そうして、家に戻ると引きこもる。

 夜はふけっていく。どうしようもないほどまでに。

 ああ、どうして自分は逃げてしまったのだろう。彼を求めていたのは自分なのに。別れたくないと思ったのも自分なのに。それはきっと別れたくなかったからこそ、自分から姿を隠さざるを得なかったのだ。

 そんな瞬間を体験するくらいなら、自分から姿を消したい。なんて我儘なのだろう。別れの言葉も繰り出さずに。自分の態度で彼を傷つけてしまったかもしれない。せめて弁明くらいはするべきだっただろうか。

 けれども、彼とはもう会えない。祭りが終われば彼の姿は見えない。私はまた一人になる。せっかく着た浴衣も返さなければならない。今日と同じ日は二度と訪れないだろうに、もったいないことをしてしまった。

 後悔が心をよぎる。ああ、落ち着けばよかった。突拍子のない行動をするべきではなかった。取り返しのつかないことを悔いても仕方がないのに、時間を巻き戻したいと、そんな感覚が心を焼き付いて離れなかった。


 それから私は浴衣を洗って、返した。薫は祭りはどうだったと聞いてきたけれど、楽しかったと無難な言葉を返すことしかできなかった。彼女とのやり取りはよく覚えていない。心ここにあらずといった感じだったのだと思う。

 一人になってようやくかんざしがなくなっていることに気づいた。私はそれを返さなければならない。重たい腰を浮かして、外に出た。神社に出かけてみたけれど、そこにはなにもなかった。屋台で賑わっていた通りは今や静謐に包まれている。一通りは皆無で祭りの後とはいえ、より寂しく感じられる。

 涼しい風が吹き抜ける。木の葉が舞い上がって、灰色の地面に落ちた。

 結局、あちこち探し回ったけれど、かんざしは見つからなかった。いったい、どこに落としたのだろうか。

 そんな中、頭をよぎったのは彼のこと。少し日に焼けた彼の横顔が目に焼き付いている。彼とはもう二度と会えないのに、なぜ今頃未練に思うのか。すがりつきたくなるのか。一人は嫌だ。誰かに傍にいてほしい。心細さが加速して、心に潮臭さが広がった。

 神社の鳥居に背を向けて、石段を一段一段下りていく。境内を離れて、町に着た。公園のあたりを通り掛かる。私はこれからどこへ向かえばいいのだろうか。かんざしの在り処も見つからず、目的もなくさまようばかり。まるで私の人生のようだった。

 こうやってすぐに諦めてしまうから、なにも果たせない。私はいつまでも底辺を彷徨ってしまう。それでももしも希望を一つだけ言うことを許されるのなら。

 また、彼に会いたい。今度はもっと話をしたい。きんと本心から、彼と目を合わせて。そんなこと、できるわけがないのに。

 口元に自嘲の笑みが浮かんだとき、すっと背後に影が伸びた。

「探したよ」

 低く爽やかな青年の声。

 この間聞いたばかりのように、懐かしさを感じる声だった。

 思わず目を見開く。

 振り返ると確かに後ろには彼が立っていた。名前も知らない青年。彼は口元に微笑をたたえて、私を見ていた。

「これ、返しにきた」

 手のひらにはかんざし。私が身につけていたものと同じものだ。

 これを返すために私を探してくれた。そう思うと嬉しさがこみ上げてくる。今ならきちんと彼に対して、伝えられるような気がした。

「あの、私、あなたともっと話がしたいです」

 二対の目に甘く熱い思いをとろけさせ、彼を見上げる。どうか伝わってほしい。その手を引くように私は彼を見つめていた。

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