夏 おとなになる

 窓を全開にして、扇風機を回しながら、涼を堪能している。とはいえ、まだまだ暑い。じっとしているだけで汗は吹き出すし、タオルは手放せない。テーブルには水滴のついたコップが置かれ、中には茶色の液体が入っている。麦茶だ。薄めたコーヒーのような味がして美味しいけれど、飲みすぎるとなんともいえず、味気ない。とにかく淡い味なのだ。

 畳張りの部屋には制服が立て掛けてある。ブレザーの中にはシャツブラウス。首元にはリボンタイもかけてある。きちんとアイロンがかけてあって、きれいだ。夏が終わればそれを着て、学校に行くことになる。

 長いと思っていた高校生活も今年で終わりだ。私は就職をすることになるのだけど、気が進まない。将来の夢もなければ、働きたくもない。なにより実感が湧かない。できるのならまだ学生でいたい。なんの責任も負いたくないし、ダラダラと過ごしていたい。この夏休みのように。

「美咲ー」

 母親の若い声が近づいてくる。

 エプロンを着たあの人は手ぶらでこちらに迫り、口を開いた。

「お使い。キャベツとお肉」

 財布から千円札をいくつか取り出し、こちらによこす。

 私は露骨に嫌な気分になりながらも立ち上がり、潔く受け取った。

 外には出たくないけれど、実質的なお小遣いだ。お釣りで自由に好きなものを買える。だから渋々家を出て、灼熱の太陽の下に身を晒す。

 一瞬、外のほうが涼しいかと思いそうになったけれど、前言撤回する。中のほうが断然、涼しい。家だとまだ日陰に値するからいいけど、太陽が頭上にあると、秒でブワッと汗が吹き出す。

 ああ、嫌だ。歩いているだけで目眩がするし、熱中症になりそうだ。顔をしかめながらも坂を歩いた。


 それから私は近所の商店で買い物をしてから、表に出る。自動販売機にお釣りを入れて、ボタンを押す。ガゴンと音を立てて、缶ジュースが落ちてきた。ラベルは青く、水滴が描かれている。氷という感じで涼しげだ。中身はレモンスカッシュ。私の好きな味だ。

 さあ、帰ろう。そう思った矢先に、自販機が突然喋り出す。

『おめでとうございます。当たりが出ました』

 全文をカタカナで言っていそうな、機械の声。

 本来なら喜ぶべきところだが、今は違う。うげぇと顔をしかめる。

 別に当てるつもりはなかったのにな。これじゃあ、荷物の邪魔だ。戸惑い突っ立ったままでいると、後ろから謎の声がした。

「じゃあコーヒー頼めるかな?」

 誰だろう。聞き覚えはない。少なくとも同級生ではないだろう。

 振り返ると、そこには短髪の青年が立っていた。格好はTシャツに七分丈のパンツ。足元はスニーカーだ。見るからに涼しげだ。顔立ちは整っていて、爽やかな雰囲気がする。こんな人、うちの学校にいただろうか。人数はそれなりにいたから覚えていないだけかもしれないけど、こんなに見目の整った人なら目立つだろう。どこかで話題になっていてもおかしくない。それがないということは、町の外から着た者だろうか。都会的だし。

 色々と考えていると、急かすように彼が言う。

「ほら。時間、終わっちまうぞ」

「ああ、うん。分かった」

 あわてて自販機のほうに体を向けて、ボタンを押す。きちんと冷たいコーヒーを選んだ。

「サンキュー」

 落ちてきた缶コーヒーを掴んで、顔の近くに持ってくる。

「それ実質私のおごりだからね」

「分かってる。ありがとう」

「え、お金は出さないの?」

「ないから頼んだんだ」

 なんてケチな男。

 口をすぼめるも、別に怒っているわけではない。むしろ、余計な荷物を背負わずに済んでラッキーといったところだ。


 私たちは町を歩いた。

 ちょうど顔のあたりをトンボが飛んだから即振り向いて、追いかけた。だけど、すぐに見失った。

 草むらではバッタが飛んでいる。虫取り網がないから見逃した。

 こんなに暑いのに虫は元気だ。実際のところは知らないけれど、生き生きとしているように感じる。


 それからまた歩道に戻って、足を動かす。すると、せせらぎの音が鼓膜を揺らす。河川敷が迫ってきた。土手に下りてみる。小さな石ころで作られた坂道を下って、水の元へやってきた。ちょうど影になっていて、気持ちがいい。

 靴と靴下を脱いで、水に入る。ひんやりとしていて、体に溜まった熱が引いていくのを感じた。このままずっとここにいたい。

 そういえば、子どものころ、よくここに入ったっけ。唐突に思い出す。子どものころといっても今も子どものようなものだけど。あのころは特別、子どもだった。背丈も低いし、勉強にはついていけない。黄色い帽子を被り、赤いランドセルを背負って、通学路を歩いた。

 放課後に友達と一緒に遊んだのを覚えている。公園でブランコに乗ったり、ジャングルジムを攻略したり、滑り台を滑ったり。例の商店で駄菓子を買ったりもしていた。懐かしくも輝かしい思い出だ。

「流されるなよ」

 上のほうから彼が呼びかける。

「大丈夫だって」

 転がりはしない。

 調子に乗って、先へと進む。石のところを通って、どんどん奥へ。

 ちょうどそのとき、川の流れが強くなる。水に濡れた石で足が滑って、体が傾く。視界が暗転。体がふらりと浮いた。

「え……?」

 間の抜けた声が漏れる。

 が、間一髪。

「ほら、言わんこっちゃない」

 気がつくと彼がそばにやってきて、私の体を支えていた。

「ありがとう」

 体勢を立て直して、素直にお礼を言う。

 ちょっと、はしゃぎすぎて恥ずかしい。せっかく引いた熱がまた上る。体が熱くて仕方がなかった。

「ほら、もう上がろう」

 私は彼に従って、岸に上がる。

 淡々と道を歩いて広場にやってきた。木陰のベンチに腰掛けて、ジュースを飲み合う。缶はまだ冷えていた。ラベルには水滴がついていて、持っているだけでひんやりとする。手のひらが凍るようだった。

 プルタブを開くと、炭酸の泡が飛ぶ。甘酸っぱい果汁の匂いが鼻についた。缶を仰いで、中身を喉に流し込む。炭酸のシュワッとした刺激と、果実の甘酸っぱさが爽快だった。隣では彼も缶コーヒーを飲んでいる。苦そうで実につまらなさそうな飲み物。大人は中毒者も多いと聞くけれど、なにがいいのだろう。私には点で分からない。かろうじてミルクコーヒーなら飲めるけれど。訝しむように彼を見た。

 その横顔は整っていて、モデルのようにきれいだった。

 ついつい見入ってしまう。見とれていると、ちょうど彼がこちらを向く。

「なに?」

「なにも」

 慌てて顔をそむける。

 別にやましいことはないのだけど、どことなく気まずい。

 そんな気持ちをごまかすように私は声を張った。

「木陰なのに暑いなんて、さすがは夏。アイス買ってこればよかった」

「ここに来るまでに溶けるだろ」

 彼はばっさりと切り捨てる。

 それはそうなのだけど。私は口を閉じて、むすっとする。

 それからまたぬるい風が吹く。熱気は蒸し蒸しとしていて、また汗が流れる。手を団扇代わりに扇いでいると、唐突に彼が切り出した。

「俺、実家に戻ってきてるんだ。夏休み中はここにいるよ」

「へー」

「興味ない?」

「ううん」

 首を横にする。

 むしろ、興味ありまくり。彼とはもっと会いたいと思っていたし、一緒に時を過ごしてもいいとすら思う。この夏で出会いが終わるなんて実感が湧かない。彼と過ごした時間は極わずかだけど、学校の同級生なんかよりもずっと打ち解けているような気がした。

 中学生まではともかく、高校からは離れ離れ。私は隣町に行った。知り合いはいなくて常に孤独。コミュニケーション能力に優れているわけでもなかったから、友達もできなかった。高校生活は充実していない。退屈だけど、学生でいることは楽だ。

 そんなことを考えていると、急に吹く風が涼しく感じた。いつの間にか、日が落ちかけている。目の前には炎を焼き付けたような、夕焼けがあった。

「きれい」

 無意識の内に口に出していた。

「俺もそう思う」

 彼が肯定する。

 気が合って、少し嬉しかった。

 それと同時に切ないような、なんともいえない感情がこみ上げてくる。なぜだろう。なぜこの夕日を見て泣きたくなるのだろう。それが終わりを連想するからか。一日が終われば時が加速する。私たちが子どもでいられる時間は少ない。

「私、就職するんだ」

「へー」

 切り出すと彼が生返事を繰り出す。

「俺は大学かな」

 付け足すようにおのれの情報を口に出す。

「大人になるのが私が先ね」

「なんだよ、大学生だって大人の仲間だろ?」

「でも、学生でしょ?」

「学生舐めるなよ」

「舐めてないよ」

 笑って答えた。

「でも、社会に出ちゃうと子どもでいられなくなるの。学生で許されてることでも、大人じゃ駄目。責任は負わなきゃいけない」

 口を動かす。

 人形のように言葉をつむぐ。

「いままで勉強だけはやってきた。社会のこととか教えられたつもりよ。でも、ただ、それだけ。上まで押し上げて、途中ではしごを外された気分なの。私、これからどうなるんだろう。まともに生きていけるのかな」

 急に不安になってきた。

 いつの間にか気温が下がっている。先ほどまであれほど蒸し暑かったのに、今は妙に過ごしやすい。涼やかな風があたりを吹き抜け、髪がさらりとなびいた。

「私、大人になりたくないな」

 うつむき、本心を口に出す。

「時間、停まってくれないかな」

 ずっと、こんな日々が続けばいいのに。

 口の中でつぶやいた。

 対して彼は冷静に言葉にする。

「それはありえないことだろうな」

 やけに冷めた温度で彼が言う。

「時は停まらないし、俺たちは大人になっていく」

 それは列記とした事実だった。

「安心しろよ。お前はお前のままだろうよ。変わっていかなければならないのは俺たちのほうだ。流されちゃいけない。きちんと覚悟をもって挑むんだ。そうやって生きていく」

 確かな真実を口にするように、彼が話した。

 それを聞いても気持ちは変わらない。勇気が出るわけでもなければ、背中を押されたわけでもない。ただジュースの甘ったるい匂いだけが鼻についた。

 それでも時は停まらない。嫌だ嫌だと言いながらも、誰もその流れに逆らえるわけではない。子どもは大人になっていく。学生でいられる時間は残り少ない。将来の夢もなければ、目標すらない私だけど、それでも仕事はしなければならない。

 ダラダラとしてはいられない。誰かのために生きる。誰かを生かすために働く。それが私に課せられた義務なのだから。

 また時が流れた。夕日が沈みきって世界が暗く染まる前に、彼は立ち上がった。

「また会おう」

 さっぱりとそう言い残して、歩き出す。その背中が遠ざかっていく。影が小さく、町の向こうへと消えた。誰もいなくなった広場に私は一人、いつまでも立ち尽くしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る