青い世界で


序章


 気がつくと薄暗い城の中に立っていた。

 あたりには鉄の臭い。

 血で汚れた床の上に無数の屍が積み上がっている。

 鎧を着込んだ者や厚い衣をまとった者たち。近くには黄金の冠も転がっていた。

 外は嵐だった。雨が斜めに降り、漆黒の空には稲光が走る。

 轟音と共に放たれた閃光が、青年の姿を映す。

 彼は剣を持っていた。その手の内側は赤く汚れている。

 気づいてすっと頭が冷え、視界がクリアになった。

 果たして自分はなにをやっていたのか。どのような罪を犯したのか。ビデオのテープを巻き戻すように、記憶を脳内で再生する。

 暗闇に飛び散った鮮血、肉をえぐる刃。

 生々しい感覚が手のひらに蘇り、息を呑む。

 指先がガタガタと震えていた。

 過程は分からないが、自分の所業は察した。

 それによってかえって心には静けさがよぎる。

 同時にかすかな苛立ちも。

 こんな者たち・・・・・・のために、自分は手を汚したのだと。

 結局、残った感情はむなしさのみ。

 いったいなにのためにここにいてなにをしているのか。

 分からなくなって、無心で歩き出す。

 彷徨い歩いた。

 暗闇の中をただひたすらに。

 視界はゼロ。一寸先も見渡せず、どこを歩いているのかすら把握できない。


 暗転した景色の中にポツポツと、過去の栄光がちらつく。

 最初に思い出す。名は破魔雄二だったはずだと。

 彼は田舎の高校に通っていた。

 ある日、うっかり魔法陣を踏んでは見知らぬ場所に転移した。

 目の前には見知らぬ王族たち。派手な服装に身を包み装飾品で飾った彼らは、「世界を救ってくれ」と頼む。青年は命令に従って剣を振るった。

 彼らのために何度も戦った。

 別の世界でも同じように。

 胸を張って言えるはずだった。

「俺は世界を救いました」

 だが、それを信じる者は果たしているだろうか。

 魔法を使えると話したところで、冗談だと人は嗤う。

 異世界ではヒーローになれても、日常ではただの人だ。

 くすんだ肌に乱れた髪。ぶかぶかとした服装も相まって、田舎臭さが漂う。

 言われなければ誰も彼を勇者だとは思うまい。雄二はどこにいても溶け込めそうなほど、オーラも覇気もなかった。

 思考を巡らすたびにああ、そんなものだったかと思い出す。

 勇者としての活躍はすでに過去のもの。

 仲間たちと積み重ねた経験は、思い出で終わった。

 今の自分では決して掴めぬものだ。

 なんでもよかった。このまま終わってしまって構わない。

 投げやりになっても物語は続くから、歩き続けねばならないのだろうか。

 うんざりとしつつも彼の足は動き続けた。


 第一話


 歩き続けてどれだけの時が流れただろう。

 ふと気がつくとあたりが明るくなっていた。

 顔を上げる。

 視界に飛び込んだのは一面の青。抜けるような透明感はあれど、温度はない。青の色だけが前方に広がっていた。


 一旦は立ち尽くし、また無言で前を向く。

 気を取り直して足を動かす。

 ここは辺境の地だった。

 鈍色のアスファルトが延々と続いている。地平線すら見えており、ウユニ湖にでも足を踏み入れた気分だ。

 近くを川が流れている。浅いせせらぎ。土手を覆い尽くすは白い菊の花畑。

 ひたすたに歩いていると市街地が見えてきた。個人の領域を区切るように、糸杉が生えている。民家は白く四角い。大きな施設は見当たらなかった。

 空気は穏やかでたまに柔らかな風が吹く。

 大地を蹴る感覚はなくふわふわと浮いているようだった。

 ひたすらに無機質。

 夢の中にいるかのように不思議な印象を受ける。


 そのとき、通りの反対側に少女が立っているのが見えた。ふんわりとした白のワンピースを着ている。色白の肌とは対照的に、髪は黒い。背中に流れたそれがさらりと揺れる。

 雄二は横断歩道を渡ってそちらへ行って、声をかけた。

「すみません」

 彼女はこちらを向く。

 整った顔だった。

「あのひょっとして、別の世界からいらしたんですか?」

 ややあって慎重な態度で尋ねてくる。

「あなた、このあたりは見ない顔ですし。新しい住民なら歓迎しますよ」

 なんと彼女は初対面で言い当てた、おのれが外の世界の住民だと。

 それならばごまかせない。

「ああ、そんなところだ」

 素直に肯定しつつ、次のように申し出る。

「来たばかりだから、家がなくてさ。宿を探してるんだ」

「あら」

 口に手を当てて、言う。

「でしたら私の家にどうぞ」

「ありがとうございます」

 事情を話すとすんなりと話が通った。


 かくして雄二は彼女の案内で、相手の家に入る。

 そこは一言で表すと空の箱だった。見た目は無機質な白さ、内部は無。部屋の間取りはシンプルで、台所も風呂もない。テーブルもテレビも本棚も。かろうじて個室が完備されているくらいだった。

 壁にはカレンダーが貼ってある。大きな紙に書かれた八月の字だけが生活感を演出しており、かえって異様だった。

 天井の近くには丸い時計。必要なのだろうか。雄二は訝しむような目で見上げる。


「こんなところで生活できんの?」

 居間に座り込みながら問うと彼女は首をかしげる。きょとんとしていた。

「ほら、例えば食べ物とか」

「それならきちんともらってますよ。昔は多く。でも、今は時々、お菓子が届けられるくらいで」

 それで生きていられるのか。

 ますます怪しく思えてくる。

「でも嬉しい。まだ私を覚えてくれる人がいるなんて」

 なんとも不思議な言い回しをする娘だった。

 とはいえ暮らせるのならばいい。

 雄二も特に追求はせずに現状を受け入れた。


 彼は彼女の家で寝泊まりをする。

 食べ物は届かなかったが、平気だった。

 空腹感はない。

 体は常に清潔で入浴も不要だった。

 なにもしなくとも勝手に時が流れていく。

 日がな一日、移り変わる空を眺めて過ごす。

 退屈ではなかった。

 ぼうっとしていても許される環境は、心地がよい。

 今の彼は自由だ。

 なんでもできるはずなのに、なにもする気が起きない。

 胸がすっきりとせず、閉塞感が漂っている。

 まるでなにもしないことを押し付けられ、縛られているかのようだった。


 第二話


 ただただ時だけが流れていく。

 怠惰な日々だった。

 最初はぬるま湯に身を浸すかのようだった彼だが、次第に焦りも出てくる。

 本当はまだやるべきことがあるはずだ。

 そう、世界を救わねばならない。

 助けを欲している場所はある。

 勇者は彼らに希望の光を与えねばならない。

 けれども雄二は縁側に留まる。

 なにもしたくない。

 動きたくない。

 心は相変わらず空虚だった。

 頭を抱えたくなる。

 ぐだぐだと足踏みを続ける自分に腹が立った。

 行けよと心の中で叫ぶ。

 彼の肉体は動いてくれなかった。

 ぬるま湯からは抜け出せそうにない。

 今日も空を見上げる。いつの間にか天を鉛色の雲が覆っていた。

 青さが消えて陰鬱で暗い雰囲気へと変わる。

 彼の顔にも影が差し込んだ。


 そこへ白い服を着た少女が寄ってくる。

「私、外の世界のこと、よく知らないんです。よかったら話を聞かせてくれませんか?」

 そばに腰掛けるなり、顔を向ける。柔らかな表情をしていた。

 対して雄二は戸惑う。

 大きなことを成し遂げたという認識はあった。

 しかし、それを他人に聞かせる自信はなかった。

 悩んだすえに口を開く。

 まずはちょっとしたことから話すことにした。

「泉を見たんだ。森の中、神秘的な場所のさらに奥深くに、それはあった。そいつはどんな傷でも癒してくれる力を持っていてさ」

「なんて幻想的。それはきっと美しいものだったんですね」

 彼女は素直に感嘆する。

 ならばと彼はさらに続けて話す。

「山を登った。火山とか色々。ゴツゴツとした場所を踏ん張るように上って、だけどそれは最初だけ。今じゃひとっ飛び」

「まあ、なんて身体能力。あなた凄いんですね」

 話をするたびに彼女は新鮮な感想をよこす。

 それが気持ちよくて何度も冒険の中身を話した。

 自分が勇者だったということだけは教えなかった。

 勇者の身分はステータスではある。

 さりとて自分がそれだと彼女に思われたくはない。

 坂道を転がり落ちて闇の底に落ちるような者だとは。


「今日はありがとう。久しぶりに娯楽というものを知った気がします」

 笑顔で言って、彼女は離れていく。

 居間へと消える少女。

 その後姿を見送って、感傷を抱いた。

 自身が話したようなくだらない話が娯楽になるほど、この世界にはなにもないのかと。

 ただ、少しでも彼女の楽しみになるのなら、自分のことを話してもよいかと思えてきた。


 それからというもの雄二は毎日少しずつ、冒険譚を語った。

 その度に少女はよいリアクションを見せる。

 雄二も調子に乗って、どんどん話していく。

 口を動かすために体に血がめぐるような感覚を抱いた。

 気持ちが明るくなり死んでいた心と体に活力が蘇る。

 時には失敗談も語った。

 自分はダメな奴だったと自虐を交えて。

 しかし彼女は。


「私はそうは思いません」

「だけど俺なんか」

 勇者というにもおこがましい。

 たとえ功績があったとしても、堕ちてしまえば全てが台無しになる。

「たくさんの人を救ったあなたはもっとご自分に誇りを持つべきです」

 確かにそうだ、そうなのだが……。

 どうしてもそれはできないと拒んでいる。

 それをしてしまうと一線を越える。

 自分を許しては本当の黒に染まってしまうような気がして。

 まだ罪悪感に苛まれたまま、間違いを犯したままでいたほうがいいように思う。


 第三話


 どうあればよいのか答えが出ぬまま、時が流れる。

 今日も彼は縁側に座っていた。

 少し伸びた前髪を邪魔くさそうに弄びながら、空を見上げる。

 そうして人形のようになっていると、少女が寄ってきた。

 名はいったいなにといっただろう。

 そもそも聞いていなかったかもしれないが、どうでもいい。

 彼女とは長らく一緒に暮らしているため、隣にいるのが当たり前で、安定感すらある。

 彼も安心してその場に留まっていられた。

 だから、そろそろ話してもよいだろう。

 自分の話に常に嬉しそうに耳を傾けてくれる彼女になら。

 ついに雄二は口を開く。

「最初はただの人助けだったんだ」

 同級生からのパシリをしたり、老人の荷物を持ったり席を譲ったり、ボランティア活動に精を出したり。

 色々な善きことをやった。

 彼はおのれが特別な存在だと分かっていた。身体能力が高く、スポーツも万能。様々な大会で優勝し、実績を重ねた。そんな強い彼だからこそ、誰かの力になるべく、尽くした。

 雄二には霊感があった。幽霊や妖怪が見える。無論、それに襲われている者たちも。

 その現場を目撃し助けに入ったら、なんと戦えたし、倒せてしまった。

 よく分からない敵を圧倒する姿を陰陽師に見つかって、戦いに巻き込まれた。

 そしてあるとき彼は異世界に召喚されて、勇者となる。

 それが全ての始まりだった。

「何度も旅をしたさ。いろんなところを見て回ったよ。楽園も地獄も。何度も何度も戦った。得られるものはあった。成長したっていう実感も湧いた。失敗しても次がある。悲しいことがあっても糧にできるって」

 しかし山あり谷ありといっても、限度がある。

「一回目は勇者の役を奪われたんだ。パーティ外に有能な奴がいてさ。活躍できなくてふらふらしている間に、そいつが解決したんだ」

 淡々と語り、遠い記憶をたどるように目を動かす。

「二回目は英雄になった。ちゃんと世界を救ったし、銅像も建ててもらったよ」

 それは輝かしい記憶だった。

 好みの女子に花束を送られるよりも嬉しく、宿泊研究に挑むよりも、有意義な体験だった。

 そこで終わっていれば完璧だった。

「三回目は悪党として追われたよ。濡れ衣を着せられてな」

 真実を伝えようとしても誰も信じてくれなかった。

 事態は悪化していくばかり。

 心も体も追い詰められていく。影のような陰鬱な空気が漂う旅だった。

 最後の最後になっても彼はなにもできず、世界は悪が支配したまま、物語を終える。

「四回目は全滅だよ。みんな死んじまった。俺だけを残して」

 天を仰ぐ。

 空は曇っていた。

「五回目は、そうだな……」

 青い世界で時を重ねるにつれて、はっきりと思い出せるようになってきた。

 凄惨で空虚な記憶。

 それを体験したからこそ彼は二度と同じ場所に戻りたくないと思った。

「正しい人たちを殺した。俺を呼んだ連中は国王軍だったけど、魔王みたいなもんだ。やつらは世界全土を支配して、圧政を敷いていたんだ。そいつらから国を取り戻そうと剣を取った人たちもいた。それを俺が殺した。利用されたんだよ」

 むなしくて悔しくて。

 怒りと悲しみでいっぱいになって。

 彼は王宮の者たちを皆殺しにした。

「どうしても許せなかった。世界が、俺に全てを押し付けては翻弄する運命が。けどさ、誰に八つ当たりをしたって、うまく事が運ぶわけでもないんだ。どんどん泥沼にはまっていく。俺は坂道を転がり落ちるように、堕ちていったんだよ」

 合算すれば自分が救った命よりも、殺めた命のほうが大きい。

 どうしようもなくもどかしく、むなしい。

 ふと冷静になると思い浮かぶ。特に安楽を求めている時には。

 脳裏には血の海に沈んだ屍たちがちらつく。

 時にはおのれを庇って死んだ仲間たちの姿も。

 何度も何度もフラッシュバックした。

 その度に胸が痛んだ。どうしてこうなってしまったのかと、天を恨んだ。しかれどもどうにもできない。今は俯瞰するだけ。あのときはつらかった、嬉しかったと。そう客観的に感じるだけだ。ほかはなにも分からないし、感じない。

 果たして、なにをしたかったのだろう。

 ヒーローになりたいわけではなかったのに。

 彼はただ空っぽだった。

 思考を止めて言われるがままに動く操り人形。それが英雄の名を借りた雄二の姿だった。


「どんな結末になっても俺だけは元の世界に戻されるんだ。その世界からはドロップアウト。良い結末でも悪い結末でも変わらない」

 彼はおのれの救った世界のその後を見ていない。

 エピローグの後はどうなったのか。残された者たちや仲間たちは?

 想像したことはある。もっとその世界にいたいと願ったことも。

 思いは通じない。強制的に打ち切りを食らう。これでは余韻もなにもあったものではない。

 時が経てば細かな部分は古ぼけて薄れてしまう。次第に関心もなくなる。

 ただ一つ思い浮かぶのは仲間たちのこと。今でも夢に見るのだ。彼らの笑った顔が脳裏に浮かんでは、消えていく。線香花火がろうそくの火のように。

 今となってはそれでよかったのかもしれない。おかげで自分は逃げられる。どんな結末になっても。どれほどの責め苦に襲われて、苦痛を背負ったとしても、その世界から脱出する方法だけは残されていたのだから。

 けれども自分が動かずに世界の問題を解決してしまう様はひどく惨めで、むなしかった。

 自分がいる意味はあるのだろうか。英雄としての存在意義は? そんなものになぜ自分が選ばれたのか。問い質したくて仕方がない。

「どうすればいいんだよ。なにをしたらよかったんだよ。誰か教えてくれよ」

 独り言のように吐く。

「疲れたんだよ。どうでもいいんだ、本当に」

 いったい何度繰り返したらよいのか。

 結末が見えない。

 こんなループに意味がないことは分かっている。

 だから辞めたかった。

 平穏がほしかった。

 世界のことなんてどうでもいい。人が死ぬところは見たくはないが、彼らの命を背負いたくはない。彼が求めるものは凪いだ世の中。ただ一つ。

 わがままなのは分かっている。やらねばならないことだということも。

 そこにおのれの意思はない。やりたくてヒーローになったわけでもないし、やらされているだけだ。ただ縛られているだけ。

 それでも運命は彼を逃さない。

 あきらめの感情が心に浮かんだ。


「そう、あなたは自分を許せずにいるんですね」

 不意柔らかな声が鼓膜を揺らした。

 雄二は顔を上げる。

 彼女のほうを見た。

「でも、本当は逃げたいんですよね。今ある世界も崩れ去ってほしくないし、終わってほしくないとも考えていますよね」

「そんなこと……」

 視線が泳ぐ。

 彼女の言葉は的確に本心を穿っていた。


「でも、ダメだ。俺にはそんなこと」

 声が震える。

 本心を相手に知られてなお抗おうとする。

 それが彼のすべきことであり、運命だった。

「俺にはやらなきゃいけないことがあるんだよ」

 勇者として。

 世界を救わなければ。

 だけど、本当にそれでいいのか。

 手を汚してしまった自分がふたたび光ある道に進めるのか。

 できない。

 できるわけがない。

 一度でも闇に堕ちてしまえばもう二度と、這い上がれないのだから。

 ああ、それでも。

 だからこそ。

 その本心は。

 彼女のはなった言葉はどうしようもなく、彼の心を震わせた。


「あなたはあなたの好きなように生きても、いいのよ」

 静かに彼女が告げる。

 緩めた口元にかすかな微笑みを浮かべて。

 その姿は女神か聖女。

 ただなにか、引っかかる。

 待てと、心の中でつぶやく。

 先ほどの口調を自分は知っているのではないか。

 急速に頭が回転を始めた。

 瞬間、閃く。

 気づいた。

 そのときには彼女の肉体が透けていた。その影が蜃気楼のように揺れている。今の清楚な見た目の中に幼い少女の姿が見え隠れしていた。

 その少女に見覚えがあって、思わず息を呑む。

 ああ、そういうことか。

 合点がいって複雑な感情が胸の底からこみ上げてくる。悔しいような哀しいような、そんな飲み込めない灰色で、半透明な気持ちが。

「決めるのは、あなた」

 彼女ははっきりと告げた。

 そんなこと、今更言われても困る。自分には選択肢はない。ただ運命に身をまかせるだけ。

 だけど少し引っかかることがあって、上を向く。果たして自分は最初になにがしたかったのだろうか。なんのために生きようと思ったのか。ドラマチックな人生は望んでいない。ほしいものもない。平穏な日々だけがほしかった。だけどそれよりももっと、大切なものがあったはずだ。

 記憶をたぐる。古びた本のページをめくるように。


「あなた、間に合わなかったのね」

 不意に脳裏に蘇った誰かの声。か細く消えかかった、だけの芯の通った少女のもの。

「でもいいの。だけど、その代わりに約束して。私の代わりに私以外の誰かを助けてあげて。困っている人に手を差し伸べてあげて。それだけが私の望み」

 その身は血で濡れていた。肉は潰れて、ぐっちゃりとなっている。

 ただ細い腕を伸ばす。その手を取った。けれども少女はそれを振り払うようにまぶたを閉じる。その目が開かれることは、二度となかった。

 しかし、彼女は確かにそこにいたのだ。そして望みを託していった。

 自分は救われなかったと。その痛みだけを残して。

 あの日の出来事は雄二になにをもたらしたのか。それは散漫で抽象的で、とらえどころがない。

 ただ一つ言えるのは自分はもう二度と、足を止めることは許されないということ。今はただ、一人でも多くの人間を救い、闇を振り払う光であらねばならない。ただそれだけだ。

 それはきっと強いられたこと。望んで足を踏み入れたことではない。けれども、それは確かに自分の意思だった。それだけは否定できない。

 救えるものなら救いたい。自分の手の届く範囲でなら手を差し伸べたい。ほんの少しの光を抱えて。

 だけど、本当はただ、とらわれていただけだったのかもしれない。そうしなければならない。許されたい。だからこそ自分をこのループに追いやった。

 もう二度と後悔はしたくない。自分の痛みに操られて生きてきた。その痛みに目をつぶった。

 見えない振りをしたまま力を振るい続けた。その先に希望はないと知っていながら。それでもやるしかないと。

 けれども、本当にそうだろうか。本当にそれ以外の道は残されていなかったのか。停まってはいけないものだったのか。

 この道は自分で決めた。ならば終わらせるのも自由だ。

 忘れ難い記憶の中へ手を伸ばす。脳に焼き付いて離れない映像。消したくて仕方がなかった過去。いまさら思い出すまでもなく自分は彼女のことが――


 瞬間、脳に稲妻のようなものが走る。視界とともに一気に視界がクリアに、冴えていく気配がした。

「もういいよ。ありがとう」

 ほのかな笑みを浮かべて彼女は言った。

 瞬間、心が激しく揺さぶられるような感覚がした。

「君は、やりたくないことを無理してやらなくたって、よかったんだよ。背負い込まなくても大丈夫。あなたは十分に頑張った。応えて、くれたんだから」

 柔らかな声音で彼女は伝える。

 ゆっくりと諭すような言い方だった。

「あなたは十分に頑張った。私の想いに応えて、くれたんだから」

 少女の顔からほほえみが溢れる。

 それは大きな花束を差し出されたようで。

 頑なになっていた心に温かな湯を注がれて、溶けていくような感覚がした。

 頭上の雲が晴れていく。

 その隙間から太陽が覗き、暖かな光が差し込んだ。

 ああ、そうだ。

 ずっと誰かに言ってほしかった。

 もういいと。

 誰もそれを許してはくれなかった。

 勇者であるのなら戦わなければならない。逃げてはならない。

 その間、彼は絶対的な正義であることを求められた。

 本当は逃げたかった。

 救いを求めたかった。

 助けられたかった。

 傍観者でいたかった。

 そうすればまだ平和に生きていられたのに。

 ああ、だけど、本当に許せないのは自分自身だ。

 自分は翻弄されていなければならない。大波に押し流されてもがくままでいなければなれないと。

 それでも、きっと。

 彼女がそう言うのなら――

 がんじがらめになった心が溶けていく気配がした。


 そうした中で気づく。世界が揺らぎ始めている。空の青がその端が白くかすんでいる。気がつくと家がない。民家が建っていた場所にはなにもない。外には一面の青空が広がるだけ。

 目の前にただ一人、白い少女だけが立っている。彼女だけが自分を見ている。

 目を細める。綻ばせた唇から歌うように言葉を投げかける。

「じゃあね。次の世界であなたを待ってる」

 それを最後に彼女は光に包まれた。

 同時、世界も無音で崩れていった。空の端から霧と化し、透明に溶けていく。視界が真白に染まる。

 その滝のような流れの中に雄二は一人、置き去りになる。

 そして気がつくと、元の世界に立っていた。そこには道路がある。青い空がある。だけど涼しくはなく熱がこもっていた。天から降り注ぐ太陽がまぶしい。生きている。実感が湧いた。

 ただ一言、心の中でつぶやく。ああ、これでよかったのだと。

 それからまた歩き出す。誰のためではなく、自分のために。


 以降、彼は世界からの呼び出しを食らうことなく、まっとうに日々を過ごしていた。

 また一つ、過去の出来事に思いを馳せる。その青く涼やかな世界のことを。

 それはいつか見た夢。希望に似た呪い。おのれが求めた幻想だった。

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