霧 描写ラフ
薄っすらと眼の前の景色がかすむ。
まるで夢の中にいるかのような、幻想的な光景だ。
空気は湿っぽく、淡くベールをまとっているかのようでもある。
少女は永遠にそこをさまよい続ける。自身がどこへ向かうのか、その目的地すら分からぬまま。
夜の闇をさまよう。あたりは静寂で満ちていた。街灯の小さな光だけがほんのりと、あたりを照らす。
季節は秋。肌寒い。長袖を着ていても、寒気がする。
葉は赤く色づいているのに、自分はまだ青いままだ。
それが納得いかなくて、悶々とする。
この楓という名すら皮肉なように思えてくる。結局自分は紅葉になれぬまま、一生を終えるのだろうか。
***
「俺だけはやめておいたほうがいいぜ、絶対」
休み時間、不意にそんなことを告げられた。
「どうして?」
「どうしてもなにも、こいつは忠告なんだ」
そう、剣呑な雰囲気を漂わせた男子生徒は言い、席を立つ。
ぼうぜんとイスに座ったまま動かない少女に対して、ケラケラとした笑い声がかかる。
「振られたわね」
振り返るとそこにはウェーブのかかった髪をした少女がいた。
彼女は勝ち誇ったような顔をしていた。
「いっとくけど、あんたなんてゴミなのよ。薫くんにふさわしいわけがないじゃない。もしも恋人になろうものなら、公開処刑よ。顔面偏差値の差を突きつけられるだけなんだわ」
ショックを受けた。
まさか、自分が友人だと思っていた相手にこんなことを言われるとは、思っていなかった。
確かに自分は好意を抱いている。それでも、身の程はわきまえている。自分では無理だと分かった上で、それでも意思を伝えてみた。たったそれだけのことだったのに……。
「そう、薫くんはあたしのもの。それだけが事実なのよ」
自信を持って、彼女は告げる。
自分にもその程度の度胸があればよかったのに。むしろ相手には感心する。
薫は怪しげな雰囲気を感じる生徒だった。彼はその心の内を他人には明かさない。深く他者と関わり合う性格でもない。だけど、そのミステリアスな雰囲気は魅力的だったし、少女も惹かれていた。
彼女はずっと想いを秘めていた。
ずっと、彼のことが好きだった。
だけど、どうにもならない。自分ごときが前に出たところで玉砕するだけだ。
だからその想いを封じ込めた。もうなかったことにしよう。そのほうが誰も傷つかずに済む。
そう思って、その選択を選んだ。
弱者は強者の踏み台になるのみ。
戦う度胸もない輩はおとなしく去らねばならない。
だから彼女も泣き寝入りを決め込む。友人だと思っていた相手に対する反撃など、できるわけもない。
ただ、穏便を願う。平穏を望む。そうして彼女の人生は平坦なまま、下り坂に差し掛かるのだった。
根が暗いことは自覚している。
明確に彼女は暗い性格をしていた。闇を凝縮したと例えるには大げさすぎるかもしれない。だけど、普通の人よりは明らかに暗い。少なくとも、彼女を見て明るいと言う者は誰もいない。それこそ、この世界のどこにも。
なにしろ彼女のマイナスオーラは半端ではない。きっと、世界にいる全ての者を巻き込んで、暗くさせてしまうだろう。
そんなものだから嫌われる。避けられる。そういうものなのだと受け入れた。
友達ができたことはないし、誰にも心の中身を打ち明けたこともない。誰にも本心を伝えたことがなかった。
だからこそ、周りに人は寄ってこない。誰にも好かれない。
人に尽くすことはあるけれど、親切に接するくらいだ。決して嫌がらせはしない。それはなんて、当たり障りがないのだろう。なかば、感心するくらいだ。でも、その生活のほうがマシなのかもしれない。少なくとも下手に注目を浴びて厄介なことになるよりは、はるかにいい。だから彼女は現状を改善する気はなかった。それでいい。それ以上は望まない。それが正しいのだと決めつけていた。
自分はもう終わっている。こんな自分ではきっと、なに一つ報われないだろう。だから脇役は脇役らしく、さっさと地に沈んでしまえばいい。不思議とそんな感覚が湧いてきた。
涙があふれてきた。
そんなの違う。違うとなんども否定する。
だけど、心に刺さったトゲは抜けない。
そう何度も自分を肯定したところで仕方がないのだ。
自分はどうしようもない存在だと、そう認識しているせいで。
楓は昔から泣き虫だった。
自分になにかがあるとすぐに泣く。いじめを受けても泣くばかりで、反撃する機会もない。ただただやられっぱなし。
そんな弱い自分が嫌いだった。ほかの者たちならもっとうまく立ち回れたはずだ。それなのに、どうして自分は弱いのだろう。未熟なままなのだろう。それをずっと、嘆いていた。
放課後、家に戻ると、すぐさま同性の先輩に連絡をつける。彼女なら相談に乗ってくれると思った。だが、電話が繋がらない。
心配になって、家に駆けつける。扉を開けて、中に入る。真っ暗な廊下を渡って、部屋に入った。そこで、先輩は首を吊っていた。
それを見て、ぼうぜんとした。なにが起きたのか分からない。この現実を受け入れたく、なかった。
だけど、兆候はあったのだ。以前は明るくて笑顔を絶やさなかった先輩。それが急に突然雰囲気が暗くなり、いつか死ぬのだと言い出した。なぜかと尋ねても、先輩は曖昧に濁す。ただ、「知ってしまったから」と答えるのみだった。
先輩の身になにが起きたのだろう。
彼女は自分にとっての唯一の味方だった。常に孤立していた自分を気にかけてくれた。励ましてもくれた。彼女がいたから高校に通おうと思えたのだ。それなのに、なぜ……? 彼女を失ったら、自分はなにを頼りに生きていけばいいのだろうか。
友達に好きな人を奪われるという恐怖がかき消されるほどの衝撃。
絶望した。
もう、耐えられない。
なぜ自分ばかりがこんな目に遭うのだろうか。
自分以外だって、いろいろな目に遭っていてもいいのではないか。
そんなことを思ってしまう自分はきっと最低な人間だ。分かっている。だけど、他人に当たらなければ、やっていけない。なにもかも、自分のせいではないということにしなければ、自分を保っていられなかった。
もはや、なにもかもがイヤになる。
この首を裂いてしまいたいほどに。
とにかく彼女はこの世に絶望していた。もう、どうにでもなってほしい。その意思で、彼女はふらりと歩き続ける。
なにを見ても濁って見える。
あの日以来、彼女の景色から光は消えた。
こんな自分は醜いと分かっている。これでいいと思っていたとしても、きっとそれは間違いなのだと突きつけられる。いつか。その日が来ないことを祈ってもどうしようもない。彼女はすでにおのれの間違いを自覚しているのだから。
以来、彼女は引きこもるようになる。現実からも目をそらし、前に進むことをやめた。
いろいろなことが起こりすぎて頭が混乱している。
もはや自分がどこに進んでいけばよいのかすら分からない。
そうして彼女は、現実から目をそらすように、まぶたを閉じた。
***
視界が悪い。霧が立ち込めていて、周りが見えない。自分がどこから来て、どこへ向かっているのかすら、分からなくなる。
そもそも自分はいったいなにをしていたのか。なんのために歩いていたのかすら、忘れてしまった。
もはやこの行動に意味はない。だけど、ただ、歩みだけは止めてはならないと、なんとなく、そんな気がしていた。
だから、歩き続ける。この森を、乳白色に覆われ、視界を遮られた、この森を。
そうでなければ死んでしまう。自分が自分である意味すら見失ってしまう。それだけはイヤだ。イヤだから、歩き続けるしかなかった。
自分はなにをすればいいのだろう。
霧の中をさまよっているかのように、落ち着かない。
なにもかも、自分が進むべき方向すら見えてこない。
自分は果たしてなにを間違えたのか。この選択肢は意味を持たないものだったのか。
頭が悶々とする。
これではいけない。このままではならないと、そう何度も自分に言い聞かせた。しかし、それでも、納得がいかない。自分は間違っている。そう思うと、もはやいてもたってもいられなくなった。
少女は歩き続ける。
霧の中を。
意味もなく。
その最中、急に視界が晴れる。
思い切って、踏み込む。
すると見えてきたのは幻想的な風景だった。
ここは現実か否か。仮にそうだと仮定しても、あまりにも現実感が薄い。まるで白昼夢の中にいるようだ。
この世界がどのような場所なのかは分からない。だが、もういいではないか。彼女は投げやりながら、そう思った。
なんせもう何日もさまよっている。自分が生きているだけ、ありがたいというものだ。それはそれとして、自分は元の世界に戻れるのだろうか。不安が募る。
それでも、なんとかなる。そう自分に言い聞かす。
この自由に動き行動ができるのにどうにもならない感覚は、明晰夢によく似ていた。
自分はなにをすればいいのだろう。
目的が見つからない。
なにより、自分でも分かる。もう、どうでもいいのだと。
人生に希望を見いだせない。このままでは浮遊するばかりだ。それでは、なんの意味もない。だから、いっそ、ここで人生を終わらせるのもありかもしれない。できるのなら美しいままで死にたい。老いて苦しみながら死ぬなんて、まっぴらごめんだ。
それでもなお、現世に対する未練はある。家に帰りたい。そんな気持ちだけは湧いてくる。不思議と。自分でも分からないけれど、とにかく心細くて仕方がなかった。
それもあって、もう考えたくないという気持ちも湧いてくる。
ああ、どうすればいいのだろう。
彼女の頭はパニックに陥っていた。
そうした中、不意に雲の流れが怪しくなる。雨が降りそうな気配がする。
いや、それよりもおのれの身に危険が迫りつつあると表現したほうが、正しいか。
とにかく、イヤな予感が拭えない。少しでも警戒を解けば即座になにかが起きる。死亡フラグを回収してしまうかもしれない。
そんな恐怖感を抱きつつ、楓は気を引き締めるのだった。
気持ちが落ち着かない。
心の内側に波が立つ。
どうにもソワソワしてしまう。
それはなになのか、胸騒ぎなのか。
ただ霧の中を歩いているだけだというのに、イヤな予感だけが雪のように降り積もる。
ああ、終わりだ。
ここで人生が終わるかもしれない。
悲観的な想像ばかりが頭をかすめる。
終いには瞳から光が消える。
終わった。なにもかも。
少女は勝手に人生をあきらめて、全てを終わらせようと、考えた。
逃げ出す。
怪物が追いかけてくる。棍棒を振り回して。
ビュンビュンと。風が空を切る音がした。
恐怖で視界が揺らぐ。振り返れない。あまりにも恐ろしすぎて、ここが現実かどうか疑うほどだ。
どうかなにごともなかったことにしてほしい。あの怪物も、なにもかも。
これが夢であってほしいと願い、彼女は走り続ける。
自分はこの世界で死ぬのだと思った。
不思議と恐怖は沸かない。なんせ、当たり前すぎるからだ。
自分のために神が舞い降りてくれるわけではない。自分を救ってくれる者など、現れない。いつだってそうだった。彼女には味方がいない。両親すら見放した。ブスだなんだと、罵倒する。テストの成績に関しても、どれだけの点数を取ってもダメ出しばかり。
これでは愛情を受けたとは言いがたい。
自分はいったい、なにのために生まれてきたのだろうか。
そんな感覚が湧く。
もういいや。
意識を手放したくなる。
どうせなら楽に死にたい。生にしがみつくのも義理ではない。どうせなら、そう、どうせなら。
目を閉じる。
いっそ、楽にしてほしい。
痛みも感じる暇もないくらいに、楽に。
いっそ、殺して。
倒れる。
ボロボロになった。
自分はもはや助からない。
そう思った。
するとそのとき、影が差す。誰かがいる。顔を上げた。
それはいったい、何者か。顔にもやがかかっていて、見えない。だがそのシルエットから女性であることはうかがえる。
「保護してあげようか」
彼女は言った。
手を伸ばす。
その手を受け取る。
かくして楓は椛の元に引き取られるのだった。
それはありがたい申し出だった。彼女が協力してくれるのなら、願ってでもない。むしろたった一人で見知らぬ場所に放り込まれて、そのまま生きていけと言われるほうが酷だ。だから彼女はあっけなく椛と名乗った女性の口車に乗った。
かくして二人は行動を共にする。
だけど、本当にいいのだろうか。ためらう。
相手を信用したとしても、自分がきちんとそこへたどり着けるのか分からない。なにより自分は他人を信じられえない性格だ。別に人類全てに失望したわけじゃない。ただ、なんとなく、誰にも心を開いてはならないような気がするのだ。
自分のことは自分だけが知っていればいい。その悩みを決して打ち明けてはならない。そう勝手に決めて生きてきた。だから彼女は協力に従うか否か、決めかねていた。
「名前かい? そうだね、ここはあえて椛と名乗ろうか」
名を伏せた。
あえてということは本名があることを指す。それはいったいなになのだろう。
気になる。
あえての椛。椛といえば、赤。秋。今の季節は秋だけど……。
分からない。
何度も考えた。考えたけれど、やはり正答は導き出せそうにない。
やがて彼女は思考を放棄した。結局はあきらめが肝心だ。そう自分に言い聞かせるのだった。
今の状況は楓にとっては好都合だった。
二人で行動を共にしているというだけで、希望が溢れてくる。たった一人だったころと比べると、随分な違いだ。
それから時間は流れた。
順調に道を進む。なにも、おかしなことはない。本当にない。このまま順調に事が運べばいい。彼女はそう願った。
ほどなくしてたどり着いたのは、ほの暗い雰囲気の町だった。
建物は皆、廃墟だろうか。人っ子一人いない。それは田舎でも同じだけど、それにしても閑散としすぎではないだろうか。まるで人がいない。気配すら感じない。代わりにただようのは幽霊の気配。今にも心霊現象は発生しそうだ。
空はどんよりと曇っている。いつまでこの調子なのだろうか。いい加減、晴れてもいいだろうに。
いいや、別に晴れてほしいわけでもなかった。暑いのはご免だ。だけど、今の季節なら晴れるくらいでちょうどいいのかもしれない。それでも青空の鮮やかな色とそのまぶしさは自分にとっては毒だった。どうせならもっと薄暗く、閉ざされたところにいたい。自分には、そこがお似合いだ。
どうしても、外が嫌いだった。世間の目が怖い。自分がまだこんなことをしていると思われたくない。
仕事をする振りをしていたかった。
だけど実際のところは甘やかされている。一歩も前に進めない状態のまま、怠惰を決め込んでいる。それではダメだとは分かっている。だけど、どうしても、前に進む気にはなれなかった。そこから先へ向かう気には、なれなかった。
空き家に入る。
椛は構わず、そこで泊まると言い出す。
その日、楓は自分が死ぬ夢を見た。
なにかを知ってしまった。知ってはならないことを知ってしまった。
だから闇に突き落とされる。それは理不尽だ。理不尽で仕方がない。でも、なんでなのだろうと彼女は疑問に思う。自分はなんいを知ってしまったのか。
それが分からぬまま、目を覚ます。そこはいつも通りの不思議な世界だった。
なにやら怪しげな雰囲気がただよう。やはり、この世界にはなにかがある。なんとなく、そんな気がした。
元よりなにかがおかしかった。特別な真実が潜んでいるとしか、思えない。
それでもそのなにかが分からない。霧で覆われてでもいるかのように、核心に降れられない。真相はすぐ近くまで来ているというのに、モヤモヤする。
この世界がなになのかは分からない。ただし、楓は消極的だった。彼女自身は世界の謎を解き明かすような真似はしない。ただ純粋に疑問に思う程度だ。だから、深く詮索するような真似はしなかった。もはやなにもかもがどうでもいい。ただ、生きているだけでいいのではないか。そう思うことにした。
やるのなら簡単なほうがいい。誰だってつらいことはしたくない。楽に全てを終わらせられるのなら、それに越したことはない。だから彼女は危険から逃げた。恐ろしいことは避け、安全な道だけを通す。それが最善だと信じていた。
空を見上げる。
この世界の空は常に曇っている。
いつになったら晴れるのだろうか。
そんなことを思いながら空を見上げ続ける。
同じく彼女の心も曇ったままだ。その雲はきっと、永遠に晴れないだろう。そんな絶望感があった。
これから先、どうなるのだろう。
予想もつかず、不安になる。
できるのなら、苦しみたくはない。だけど、そうもいかないのだろう。
悲観する。
わざと悪い予想をすることで、逆におのれを奮い立たせる。もしもひどい結末を迎えると分かったとしても、ショックを受けないように。それはそれとして、やはり衝撃は受けるのだろう。いくら身構えたところで、つらいのはつらいのだから。
だから彼女はマイナス思考のまま、ため息をつく。どうせおのれはろくな結末を迎えないだろうと。
自分がなにをしたいのかなんて、分からない。これからどうなるのかすらも分からない。それでもなるようになれと言うしかない。そうすることしか、自分を励ます手段を持たなかった。
だから、祈り続ける。
どうか、誰かが打開してくれますようにと。自分を救ってほしい。この不透明な未来から。
「鍵を持っているかい?」
首を横に振る。
「やっぱり、そうか」
椛は納得したようにつぶやいた。
「でも、どうして今頃尋ねたの?」
「それはね、鍵が重要な意味を持つからなんだよ」
椛は解説を始める。
「鍵を手に入れること。それが、元の世界へ戻る鍵でもある」
だが、どうだろう。自分がそれを拾ったところで、なにになるというのか。
なかば、絶望を感じている。現世へ戻ったところでどうにもならない。ただ野垂れ死ぬだけではないのか。
そう思うとなにもかも、やる気がなくなってしまった。
それから出発して、廃都を出る。
霧に覆われた森に突入する。
湿り気を帯びた空気。
梅雨のような気配。
それが彼女にとっては心地よかった。まるで自分自身が町に、空気に溶けていくかのような雰囲気がする。
少なくとも暑くて乾いた空間よりはいい。だからずっとこの湿った空間に身を置いていたい。彼女はそう思った。
「目を閉じて」
椛の声が聞こえる。
暗闇の中、水っぽい音が響く。鉄の臭いも一緒に。
なにだろう。なにが起きているのか。彼女には分からない。だけど、やっぱりこの気配には見覚えがある。誰なのだろう。彼は。
近くでは女性の悲鳴。助けを求めている。だけど、知らない。自分は知らない。
逃げた。
逃げて。
彼女はまた、声の聞こえなくなる場所までやってきた。
「あれ、あの人……」
どこかで見たことがあるようなと思った。
あれは、誰だっただろう。霧で隠れて見えないけれど、シルエットに見覚えがある。あの雰囲気は確か。
「気のせいだよ」
椛が声をかける。
それは確信を持った言葉だった。
「早く行こう」
彼女が手を引く。
楓も「うん」とうなずいて、先へ進む。
だけど、先ほどの女性が妙に気になって仕方がなかった。あの彼女は泣いていた。ずっと、誰かを求めるように手を伸ばして。それでもその手を取ってくれる者は誰もいない。そうして彼女は一人になる。
楓と椛の姿も消え、本当に、一人に。
森を抜け、通過点の一つにたどり着く。
その町は繁栄していた。
色とりどりの花が咲き乱れ、たくさんの人々が行き交う町。
市場も賑わいを見せ、商品が飛ぶように売れていく。その光景に、楓はただひたすら圧倒されていた。自分はこの中に混じってもいいのだろうか。こんな田舎者でしかない自分が……そんな気持ちが湧いてくる。
店には魚やフルーツが並び、人で溢れている。
誰も彼も活気で満ちている。ここは繁栄しているのだ。なんとなく、そんな雰囲気が漂っている。
その中で彼女は一人、不景気顔。その通り、一文なしであるため、なにも買うことができないのだ。
迷っていると、椛が近づいてくる。
「どうだい?」
彼女はりんごを一つ、差し出した。
「どうも」
楓はそれを受け取った。
りんごをかじる。
甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。
果実にかぶりつく。瑞々しい香りと一緒に、水気が口いっぱいに広がった。味は甘酸っぱい。しつこくない美味しさで、これなら何個でも口に入れられる。そう思うよりも先に彼女はほかの果実に食らいついていた。久しぶりの食事だ。しかも美味しいとなると、いくつでも食べられた。
「おいしい」
素直な感想が口から漏れる。
その甘味を味わいながら、かじる。また一口二口と。そうしていると、あっという間に実はなくなってしまった。
「食いしん坊だね」
彼女は言う。
それからさらに、しずく型のお守りを貰う。それはキーホルダーのような見た目をした代物だった。翡翠のようなとろみがあって、神秘的だ。アクセサリーにしてもいいかもしれない。
とにかくこれで亡霊は寄ってこない。後は目的地を目指して進むだけだ。
楓は気持ちを新たに前に進むことを選んだ。
それからさらに道を進む。その折、ふと椛は立ち止まる。
「そこで待っていて」
そう言い残して、先へ進む。
なにも口に出さずに、指示に従う。
ほどなくして、椛は戻ってきた。
「なにがあったの?」
楓は尋ねる。
だが、椛は口を濁した。
「いいや、なにも」
なにかを隠していると思った。それはあからさまなくらいにはバレバレだった。それでも追求はできない。隠したがっていることに触れるのはよくない。そこに土足で上がるような真似はできないのだった。
彼女はなにをもみ消したのだろう。
分からない。
分からないけれど、なにか、見落としている点がある。
普通なら気づかない。気づかないけれど、あまりにも彼女がなにもかもを隠したがるから、そこになにかがあると分かってしまう。彼女はいったい、なにを隠したがっているのだろう。いったいなにを、その真実から遠ざけたがっているのか。
分からない。
分からないけれど、知りたい。
それを知らねばならない。
なんとなく、そんな気がした。
彼女が内包している感情はいったいなになのか。
なにもかもを見せてくれない。ちらつかせるだけで確信には至れない。そこが妙にモヤモヤする。
彼女はいったい何者なのだろう。
自分とは正反対の存在。だが、その根幹にあるものだけは同じような気もする。それが不思議な感覚がして、どうにもすっきりとしなかった。
彼女には恩義を感じる。
たった一人で困っているところを救われたのだ。性別が逆であったのなら、惚れていたかもしれない。
いつかきちんと礼を言わねばならない。いいや、なにかを返さなければならない。その日がいつか来たのなら、精一杯のことをやるのだ。
そう彼女は心に決めた。
歩く途中、いろいろな話をした。
自分の身の上話だとか、いろいろな内容を。
「そうだね、君は確かに立派な人だ」
それは意外な言葉だった。
「だって君は、友人に譲る気ではいたんだろう? それは正しい選択だったよ」
なにやら、意味深な言い切り方をされた。
だけど、褒められたことは事実だ。
心という名の器に水を注ぎ込まれたような気分になる。
自分が認められた。その努力を信じてくれた。そして、それが報われるとも。
それ以上はもう要らないと思わせるなにかを得た。
それだけで彼は満足してしまった。
いままで生きてきてよかった。
いままで頑張ってきてよかったと。
とにかく、今、この瞬間、彼は確かに報われたのだ。
ただひたすらに豊かな気持ちになった。
そんな満たされた感覚は生まれて初めてで、感激してしまう。
そして、ついにたどり着く。
最果てに。
いわく扉の間がある。そこへ行けば、脱出が叶うらしい。いったんはそれを目指して先へと進む。
ここで、いったんの別れ。
だがその前に気になることがある。
「なぜあなたは、私に協力してくれたの?」
答えない。
「じゃあ、あなたはいったい、何者なの?」
かねてより気になっていた話。
このままなんの交流もないままであれば、一生知ることのなかった話。だけど、彼女とは長らく一緒に過ごした仲だ。少しくらいは知ってもいいだろう。そう、無関心から好感を抱くまでに変化した関係だからこそ、彼女は問いかけたかった。
「あなたはいったい、なにを隠しているの?」
いままでの出来事を思い出す。
椛はずっと、この世界で起きた不思議な出来事から、目をそらさんとしてきた。おまけにずっと、なにかを知ったようなことを言って。
たとえば、鍵のことを知っていた。自分の行動は正しいと断じた。
それは、知ってなければ言えないことだ。知らなければ、断言はできない。
まさか、彼女は――
目を大きくする。
そんなはずはないと思っていた。
だけど、彼女は見てしまった。
その、森で泣き崩れた女性と、刃物を振り回す男。
その二人を知っている。彼女は彼らの正体に思い当たる節があった。
「女性のほうは私の友人。あの男の人は、私がかつて、好きだった人。じゃあ、あなたは……あなたはいったい、何者なの?」
震える唇で問いを投げる。
彼女は名を伏せていた。だが、その本当の名は、なんというのか……。なぜ、名を伏せたのか。その答えは、本名を伝えてしまえば、全てが露呈するからではないのか。
「できればそれは、知られたくなかった。私が君の未来の姿だとね」
本当は椛ではない。楓。それが彼女の本名だ。
だが、違う。彼女は楓などではない。断じて。
なぜなら彼女はすでに完成し切っている。自分が辿るはずのない道をたどった存在。そんな彼女はすでに自分ではない。
だから別人なのだ。そう、楓は受け入れた。
さて、問題は彼女の正体だけではない。
椛が至った結末だ。
「私が断じたのは、私があのような未来をたどったからだよ。そう、君の愛した男はひどい男だったんだ。たとえ両想いになったとすても捨てられる。ついには殺されてしまう。その命を捨てる羽目になる。だから別れて正解だった」
夢が叶ったところで、自分には未来がない。
その絶望感に胸が打ちひしがれる思いになる。
そして、本当に知りたくなかったのは、彼の正体だった。このまま彼から離れてなにもかもを関係がなくなったら、なにも知らずに済んだのに。そしてよりにもよって幽霊と化した彼女を見て、自分が辿るはずだった末路を知るなんて。
「私は君よりも、うまくいった姿だ。だけど、未来はこうなった。そして今、未来はたった一つに絞られる。結局君はなにも実らずに終わるんだ。たとえ今後、どのようなことが起きたとしても」
頭をガツンと殴られたような衝撃が走る。
椛からではなく、運命からそう申告を受けたような気がしてならなかった。
「そして、理解した?」
淡く、笑みを浮かべる椛。
その青白い光を浴びた彼女を見て、楓は息を呑む。
秘密。
それは彼女がすでに死んでいることだった。
その肉体は透けている。死人。幽霊。そんな単語を連想した。
とにかく彼女は死んでいるのだ。
そう何度も受け入れようとする。
だがぼうぜんとしてしまって、頭が働かない。
なにもかも、信じられなかった。
「知らないほうがいい真実もある。だから封印したんだよ」
正直に、椛は打ち明ける。
そう、彼女は封印したのだ。
おのれの秘密を。なにもかもを。彼女が傷つかないように。そして、真実に至らないことで、楓を守るために。
そうと知ってもまだ、ついていけない。この展開に。この真実に。なにもかも、打ち払いたくて仕方がなくなる。だけど、これが現実なのだ。そう受け入れるしかなかった。
事実を偽る。それができるのなら、嘘をつく。全てを隠し通せたのなら、こちらの勝ちだ。そう椛は考えたのだろう。だがあいにくと、彼女の考えは失敗に終わる。なぜなら楓は知ってしまった。自分の未来を。それがやがてくるかもしれないということを。
「本当は君を守りたかった。ただ、それだけだったんだよ」
椛は眉をハの字に曲げて、笑む。
その表情にはどこか無念さが滲んでいるように見えた。
彼女は楓を傷つけたかったわけではない。騙したくて騙したわけではない。ただ、真実に蓋をしただけだった。それしか策がなかったからだ。それを受け入れて、やはりそうかと腑に落ちた。それでもまだ、受け入れられない。自分がいつか死ぬ身であることも。彼女の正体も。なにもかも。
彼女の本心はそれだった。
薄いベールに真実に隠して、彼女を守りたかった。
真実なんて知らなくてもいい。知らなくてもいいことだってある。そう彼女は言いたかった。だけど、楓は知りたかった。ここがどんな場所なのか、自分は未来、どんな目に遭うのかを。
「だけど、君を生かす方法なら、ある」
「それは……!」
楓が目を大きくする。
「ああ、そうさ」
彼女が見せつけたのは鍵だった。
そう、それこそが脱出のキーでもある。
ずっとそれを隠し持っていた。
そしてそれは彼女がいつか拾った代物でもある。それを肌見放さず身につけた。その結果が今というわけだ。
身につけていたネックレスは鍵だった。
それは自分がかつて失ったもの。友人だと思いこんでいたものに奪われたものだった。
それを今、椛は開放する。
瞬間、あたりに激しい光が生み出される。
楓はまぶしさに目をつぶった。
「この世界で一つの可能性を見てしまうと、その人の人生はその一本に縛られてしまう」
繰り返し、呪文のように言の葉をつむぐ。
「私はそれを許せなかった」
低い声で、言葉をつむぐ。
「私が消えれば、この未来自体も消える。ただ一つに繋がることはない」
ハッとなる。
言われてみると、確かにそうだ。
だけどそれは、彼女自身が存在すらしなくなってしまうことを指す。
「きっと私という存在が、君を呼び寄せてしまったんだね。その、せめてもの償いだ」
その選択をしたら、今度こそ椛と楓は離れ離れになる。楓はそれを許すことはできなかった。
いままでここまでこれたのは、椛がいたからだ。彼女が守ってくれたし、導いてくれた。いまさら一人になることなんて、できやしない。だから必死の思いで抵抗を示す。
「待ってよ。私、ここで離れるくらいなら、消えてしまいたい!」
心中してやる。
一緒に消えてやる。
それが確固たる彼女の意思だった。
それでも、椛は首を横に振る。
眉をハの字に曲げて、口元に苦笑いを浮かべながら。
「それでも、君は生きなければならないんだよ」
諭すように彼女は言う。
「それが君の義務なんだ」
それを聞いても、納得がいかない。
「でも、私は――」
「君は一人でも、生きてこれたじゃないか」
それを聞いて、ハッとなる。
そうだ、結局自分は常に一人だった。ならばいまさら一人になったところで、なにも変わらない。
また一人になるだけ。そんな違いでしかなかった。
だけど、それでも、ここからまたなにかを失いたくはない。
もう、全てを失ったのに、これ以上なにを奪われれば気が済むのだろう。
彼女は理不尽さを心の内側から吐き出した。
「待ってよ」
震える声で訴える。
「あなたは私の完成した姿なんでしょ? それなのに、なんであなたのほうが消えなくちゃいけないのよ?」
それはあまりにも理不尽すぎて。
涙声になる。
対する彼女はただ穏やかに告げる。
「だって私は、終わってしまったから」
その言葉に息を呑む。
その事実はあまりにも残酷で、言葉が出てこなかった。
自分は十分に恵まれている。普通の暮らしができ、誰かに命を狙われることもない。健康で、才能はないながらも、まともに生きていける。少なくとも、ほかに望むものなんてなかったはずだ。だから、こんな自分が叶えるべき願いもない。もしあるのだとしても、それは他人に譲るべきだ。
自分はいい。もう十分に満たされた。
彼女と出会えた。自分の価値を認めてもらえた。それだけでもう、十分だった。それこそ、今この場で自分の人生を投げてもいいくらいには。だけど、椛はそれを否定する。
「ダメだよ。君にはまだ続きがあるじゃない。私は紅葉。後は枯れるのを待つのみ。終わってしまった身だ。だけど、君には」
そう楓には先へ進める道がある。
だからこそ、託した。
そう、当たり前のように告げるのだった。
そうだ。未熟だからこそ、伸び代がある。逆にいうとそこで終わってしまえば、自分が未熟なまま、終わってしまう。未完成なまま。
それだけはイヤだ。それだけは消化不良だから。
だからこそ、彼女は生きねばならなかった。
「どうしてそんなことを言うの?」
彼女は泣き叫ぶように問いただす。
「私はもう、一歩も前に進みたくないのに」
それはあきれるほど情けない、泣き言だった。
「それでも、行かなければならないんだよ」
相手は冷静に指摘する。
「だって君にはそれをする資格があるじゃないか」
「私は無理だよ」
どうあがいても失敗する。結果は見えている。だから、現状に満足したのだ。
「できるんだよ。それは、私が証明している」
ハッキリと、彼女は断言した。
それによって、目の前が霧が晴れたような心持ちになる。だけど、それは目の前で椛が消えることが正しいと裏付けられているようでもあった。ゆえにこそ、否定したい。
それでも相手はそれを許さなかった。許して、くれなかった。
「元は私も君と同じだったんだ。だけど、私はきちんとここにたどり着いたよ。だから君もそこへ行かなければならない。私が終わった場面の、その先へ」
鍵が太陽のような光を放つ。
見えない鍵穴に差し込まれる。
空間が破壊されていく。
当然、その中心に立っている彼女も。
その姿が淡く消える。
楓は手を伸ばす。
「待って。お願い、お願い……!」
声を震わす。
だけど、彼女は聞いてはくれない。
元よりすでに鍵の効果は発動されている。
もう誰にも、止めることはできなかった。
彼女の印象が薄れる。
消えてしまう。
もう自分の目で見れない。
終わった。なにもかも。
手を伸ばす。
彼女の姿を目で追った。迫ろうとする。だけど、もう、そのときには、彼女の気配すら感じなくなっていた。その様はまるで、椛自身が空気に溶けて、消えてしまったかのようだった。
ハラリと紅が散る。
目の前で紅葉の葉が揺れた。
パラパラと目の前に降ってくる。
楓が目を見開く。
紅葉が笑む。
そして彼女はそれを最後に跡形もなく、その身をちらした。
その光景を楓は信じられないという目で見つめていた。
自分自身を取り戻したはずなのに、今が全てがむなしく思える。ああ、どうしてこうなのだろう。なぜ、人は前に進むときに大切ななにかを失わなければならないのだろう。理不尽でならない。どうしようもないほど悔しくて、たまらなかった。
瞬間、それは目の前で霧散した。
手を伸ばす。
間に合わなかった。
少女はぼうぜんと立ち尽くす。
言葉を失い、ぼんやりとしてしまう。
空間はもう粉々だ。
楓も自分という存在を維持できない。もう限界なのだ、色々と。
そんな彼女へ、椛が迫る。
「頑張って。私は、信じてるから」
その言葉を聞いて、ハラリと頬を雫が伝う。
彼女に期待をかけられた。
それだけで救われるものも、ないわけではない。
だけど、それはあまりにもつらすぎる現実だった。
もうお別れだという感覚が、ひしひしと伝わってくる。
それはもはや止められない。
自分ごときの力では、なにもできない。
そう、決まってしまったのだ。なにもかも。
それでもせめて、抵抗をしたかった。
彼女に自分の気持ちを分かってほしかった。
そうであったのなら、彼女もあっさりとその命を手放さなかっただろうに。
だけど、現実的に、そうした方法しかなかったのだろう。
きっと、そうしなければ、自分は死ぬ。
楓は紅葉にはなれる。だけど、その命は失われてしまう。一つの可能性につながってしまう。それ以外の可能性は切り捨てられる。
だから、紅葉は死を選んだ。
もう一人の自分を生かし、異なる可能性を見るために。
世界が崩壊する。
それはもうガラスのように砕け散る。
手を伸ばす。
だが、それはもはや届かない。
全てが崩れ落ちていく。土砂崩れのように、雪崩のように。
その勢いは誰にも止めることはできない。
その壊れていく景色の中で、彼女は絶望を噛みしめる。
頭の中が真っ白になる。
自分自身の存在すら、今は不確かに過ぎない。
終わった。
なにもかも。
そんな気持ちがあふれてくる。
これでもう、なにもかも崩れ去ってしまった。
自分はもはや、元の自分には戻れない。そう考えると、泣きたくなってきた。
彼女の姿はもはや見えない。細かな粒子は空気に溶け、姿を消した。
その様はまるで真実ごと自分をこの世から消し去ってしまったかのようだ。
なんともいえない切なさが心を満たす。
どうしようもないほど、やるせなかった。
ああ、ああと。
何度言えばよかったのか。
少女は立ち尽くしたままなにもできない。
そうして、時間だけが流れていく。
なにもなかった世界で取り残された。
彼女は崩壊に巻き込まれるでもなく、ただ一人その空間から浮き出るような形で、立ち尽くす。
そして次の瞬間、目の前の景色は一変していた。
椛は自分自身を殺すことで、楓をその世界から逃した。
それは楓の目からするとイリュージョンのようだった。
実際に世界が消えたのではなく、彼女が世界に置いてけぼりを食らった。ただ、それだけのこと。
だから今はその幻術が解けた状態でもある。
***
ハッと目を開ける。
ベッドから起き上がる。
空はまだ薄暗い。だが、寝る前に聞いていた雨音はなくなっていた。
いまだに息が荒い。
悪夢を見て無理やり目を覚ましたような心持ちだ。
果たしてここは現実なのか。まだ、夢の世界にいるのではあるまいな。
疑ってかかる。
ひとまず、頬をつねる。かすかに痛む。
夢の中にいるような鈍い感覚とも違う。しばらくの間触れた痕跡が残るような、痛みだ。
やはり夢ではない。
それを受け入れたのはよかったものの、心はまだ現実に追いつかない。
心はまだ波立っているかのようだ。
しばらくして、落ち着いた。
無言のまま、立ち上がる。扉を開けて、廊下を通る。玄関までやってきて、その扉を開けた。
真っ直ぐに外に出る。
あの世界での出来事が蘇る。
だけど、それは曖昧だった。まるで夢でも見てきたかのようだった。
そして心には妙な喪失感がある。自分は大切なものを失った。そんな感覚をひしひしと感じた。
なにが悲しいのかといえば、当然彼女のことだ。
自分の代わりに消えなければならなかった椛のことを思うと、やるせなくなる。
それでも、彼女は自分だった。確かに自分だった。成功した彼女だけど、その人生はそこで幕を下ろしてしまう。対する自分はどうだ。まだ途中だ。未熟で仕方がない。だけど、まだ生きている。ならば、成長する余地はある。
前を向いた。
どうしようもないほどの悲しみを越えて、また、その潤んだ瞳で空を見上げる。
瞳が潤んでいた。
その瞳に水分の薄い膜を張る。
まさか、このような結末に至るなんて、思ってもみなかった。
どうしてこんなことになるのだろう。理不尽だ。理不尽で仕方がない。誰か、嘘だと言ってほしい。なにもかも、今までに起きたことすら、全て。そうでなければ報われない。なによりも、自分自身が。
こんな人生、台無しだ。どうしようもないのに、なぜ自分は歩みを止められないのだろう。
手で片目を覆う。
ああ、嫌だ。イヤすぎるのに。どうしようもなく、立ち止まる気にはなれなかった。立ち止まってしまったら、それで全てが終わってしまう。そんな気がした。その結果こそ、なにもかもが台無しだ。だから彼女は今の気持ちを背負って、ただひたすらに足を動かすことしかできなかった。
湿っぽい空気が体の内側を充満する。
なんだか、立ち上がる気力すら沸かない。ぼうぜんとしてしまう。
お通夜のように沈痛な思い。実際のところ、彼女にとってはそれに等しい。なぜなら、自分の半身を失ったのだから。
心が砕かれ、肉体も二つに割れてしまったかのようだ。そして割れたほうの半身はもう遠くへ行ってしまっている。それを追いかけようにも見失った後だ。そして、仮に手を伸ばしたとしても、その手は空を切る。彼女は手を取ってくれないだろう。
ああ、双子もしくは二重人格者が半身を失ったときって、こんな気持ちになるんだな。
そう思いながら、彼女は空を見上げる。
椛の気配を追った。
だけど、それはすぐにかき消えてしまう。いくら追いかけようとしたところで、意味はない。彼女の姿は風にでもなってしまったかのように、見えてこない。彼女なんて、最初からこの世にはいなかった。そんな当たり前の事実を、まざまざと見せつけられる。
それはまるで、幻の友達を探しているかのような有様だった。
廃墟のような心を、冷たい風が吹き抜けていく。
そこにはなにもなかった。あるのは、ただ、廃棄された空間のみ。かつて遊んだ場所も、今はもぬけの殻だ。いずれは腐敗し、土に還る。
それは人間とて例外ではない。それが遅いか早いかの違いでしかない。だが、今はまだ、そのときではない。
もう帰ろう。
ため息をつきながら、廃墟に背を向ける。
もうここに用はない。
椛がいた痕跡はきれいさっぱり消えていた。当然だ。もとより彼女はこの世界の住民ではないのだから。
今となっては、彼女の存在は不確かだ。まるで夢でも見ていたかのような心地でもある。だから、実感が沸かない。今、自分に残っているものは何一つないのだから。
それでも、変わった自分がいる。まだ生き残っている自分がいる。自分は今、自分の足で立っている。ひとえに彼女のおかげだ。彼女が生きろと言ってくれたから、自分はまだ生きようと思えた。彼女の変わりに新しい結末へ辿りつくための努力を始めた。
だから明確に、彼女はいたのだ。確実に。
だけど、どうにも曖昧に終わってしまった。ああせめて――その痕跡の一つでも探し出せたのならよかったのに。それだけが唯一の心残りだった。
生存の余地はない。
彼女とふたたび巡り合う可能性はない。なにしろ、自分は自分だからだ。もし会えるとするのなら、自分が彼女のように完成した瞬間だろうか。
だけど、今回は彼女のような死は訪れない。それを椛が自分もろとも、消し去ってしまったからだ。
もう二度と会えない者に会うために、彼女は自分の完成形を目指す。それになろうと決めた。一度憧れた人。それになり、それとまた違った結末に至るために、少女は歩を進めた。
なにもかもがリセットされたような気分になる。
まさに生まれ変わったようなだとでも表現すればいいのだろうか。
それくらい、きれいさっぱり洗い流された。
もはや昔の自分とは異なる。全くの別人だ。
根っこの部分は変わらないだろうが、それでも変われた。成長できた。その事実になによりの喜びを覚える。
過去の自分とは決別しよう。
そう明確に、彼女は決めた。
いままでの自分はひたすらに消極的で、傷つくことから逃げていただけだった。そのおかげで助かった面もあるけれど、これから先はそれだけではやっていけない。
問題はここからどのように話が進むのかだ。
きっと、思い通りにいかないことも多いだろう。危機的状況に陥ることもあるだろう。
それでも、前を向いてやっていかなければならない。
きちんと前に進まなければならない。
なぜならそれが、彼女が唯一託してくれたことだからだ。
なにもかもを吐き出すと、スッキリした。
自分の気持ちは分かった。結局は怖がっているだけなのだと。
自分はこの世にはいてはならない人間だと思っていた。それは、今だってそうだ。彼女は自分自身を肯定できない。だけど、そんな自分は確かに自分であり、椛でもあった。そんな自分を否定することは、椛を否定することにも繋がる。
だから、彼女は受け入れた。ありのままの自分を。
迷いはない。
自分の選択は正しかった。
それを証明してみせる。
必ず成功させてみせる。それができるのが自分だと、彼女は言った。ならば、その期待に答えなければならない。
楓は確固たる決意を持って、歩を進める。その瞳は未来を見据えていた。
爽やかな気分になる。
まるで、ミントの香りでも嗅いだかのようだ。
どうしようもないほど、愚かしいけれど、そんな自分でも生き残る価値はある。そう言ってくれた人がいた。ならば自分も、今からでも胸を張って生きていこう。そう気持ちを新たに、歩を進めた。
心は平穏を取り戻した。
世間では特に事件も起きない。
自分のことはなにもない。相変わらず空っぽのままだが、明確に生きる意思を持った。
そうだ、自分には目標がある。それを達成しない限りはまだ、死ぬわけにはいかない。
だから彼女は立ち上がった。理想とする自分になるために。
そこにはなんの跡形もなかった。
かつてあったであろう世界への入り口も見当たらない。
自分は本当に現世に帰ってきたのだ。
そうした実感とは裏腹にあのときの出来事が全て夢のように思えてきた。あの日あの場所で自分はなにをしてきたのか。なにもかもが曖昧で、淡く霞んでしまう。
だけど、それでも、前に進もう。
彼女の足は自然と力強く、学校へと向かっていた。
雨が降る。
ここは果たして現実なのか、否か。いいや、現実だ。それだけは確かだった。
その雨は心に染み込んでいく。
そして、その淡い感情は雨に溶けて、消えていった。
いまだに心に、頭の奥にこびりついて離れない、あの世界での記憶と一緒に。
もう戻れないのだと実感する。
否、戻ってはならないのだ。
ここは現実。ならば、そこへは二度と踏み出してはならない。振り返ってはならない。
そう、彼女は自覚していた。
自分は自分の人生を歩まなければならない。そのためにはもう、迷ってなどいられなかった。
雨が全てを洗い流していく。
足を踏み出せば踏み出すほど、記憶が薄れていく。
ああ、全てを忘却してしまう。
忘れてしまう。
それはイヤで、まだすがっていたくて、見えないものに手を伸ばす。だけど、その手は届かない。
彼女が本当に求めていたものはすでに遠く、遠ざかっている。
だからもう、二度と触れることはできない。今、自分はあの世界と乖離した。完全に離れてしまった。それが痛いほどに分かって、切なく思う。だけど、もう二度と戻れない。それは分かっているからこそ、あの日々が大切に思える。あんな霧しかない場所だというのに、不思議と、あの世界が宝物のように思えてきた。それは、彼女がいたからだろうか。
椛。
彼女の偽りの名を思い出す。
彼女がいたから自分は生き残れた。
だけど、もう彼女はいない。
立ち上がれるだろうか、ふたたび。
いいや、立ち上がらなければならない。それこそが、彼女の望んだものだからだ。
全ては遠い記憶。だけど、それでもよかったのだと思えた。たとえこの記憶が空っぽになったとしても、自分の心が覚えている。たとえ全てを忘れてしまっても、変わった自分がいる。そんな自分が彼女がこの世に存在したという、なによりの証拠になる。
だから、胸を張って進もう。
彼女はふたたび足を踏み出す。堂々と、今度こそ、踏み外さないように、決意を固めながら。
ヒラヒラと紅葉が散る。
その様はまるで壮大な花吹雪のようだった。
あたり一面の紅色の嵐。
そこにたった一人、少女は取り残される。
もうなにもない、消えたはずの空間なのに。
それなのに、そこに少女の心は置いてけぼりになる。
そこにはもはや、大切なものなどありはしない。拾いにくるべきものなど、ないというのに。
静かに頬を涙が伝う。
少女はうつむいた。
奥歯を噛む。
深く息を吸った。
それでもまだ、そこに未練がある。
もはやなにもかもを忘れてしまっても、そこにはまだ、大切なものが残されているような気がした。
気がするだけ。
本当に、そうだった。
そこはただの公園でしかないのに。
そこにいると懐かしさに触れられるような気がして、いつまでもそこに突っ立ってしまいたくなる。
雨上がりの空はからっと晴れている。色は青色で深く透き通っているのが分かった。その雲の去った後の空には虹がかかる。その七色のパステルカラーは楓の新たな人生を祝福しているように見えた。
彼女はまた歩き出す。レインコートも長靴も要らない。このままでいい。そのまま、まずは自宅へ向かって、歩みを進めた。
晴れ間が覗く。
まぶしい太陽に目を細める。
腕でそっとカバーして、ふたたび前を向く。
彼女は歩き出した。
快晴の空が広がっている。
それは青一色の世界。雲ひとつない空は無限を連想するほど、深く澄んでいる。あまりにも清々しくて、見ているこちら側の気まで晴れてしまう。
これほどまでに晴れた空を見たのは何年ぶりだろうか。否、それくらい顔を上げていなかっただけかもしれない。なんせ、いままでずっと下ばかりを向いて歩いていたものだから、空がこれほどまできれいなものとは知らなかった。
たまには快晴の下を歩いてみるのもいいかもしれない。楓はそう、思った。
青空の下、明るい色をしたアスファルトに影が伸びる。その足取りは軽く、希望に満ちあふれていた。
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