玉砕

 恋をしたいと思う今日このごろ。煤けた空の下、歩道の途中で足を止める。前方には横断歩道。信号機は赤を記している。周りにはキャーキャーと高い声。スカートを短くした女子高生だ。ブレザーについた校章は私たちの学校とは違う。第一こちらはセーラー服だし。

 はーとため息。皆、朝からテンションが高い。おまけにカップルで信号待ちをしている者もいる。

 私には恋人がいない。友達も少ないし、一人で学校に通う。だから周りの人たちは羨ましい。きっと学校でもイチャイチャしているんだろう。想像するだけでイライラとしてきた。少女漫画のような甘い展開なんかを想像すると、胸が焦げてしまう。

 どうせ彼氏なんてできないって分かっている。私は喪女だ。長く伸びた髪は枝毛だらけ。毛先はカールしていて、手ぐしは最後まで通らない。美容院に行くと強引に櫛を通されて、頭髪が引っ張られるような痛みを感じる。要はボサボサなのだ。スキンケアもしてないから、肌はガサガサ。毛はボーボー。だから夏はノースリーブを避けて、脚はハイソックスでごまかしている。スカートの丈は長めで、メイクや飾りなどもつけていない。校則を守っていて、真面目だ。そういえば聞こえはいいが、実際は地味なだけだ。オシャレをする気すらないから、女を捨てているとも言える。こんなものだからモテないのだ。別に言い寄られたいわけではないけれど。

 心の中で無駄な考え事をしている間に信号機は赤から青に変わる。私たちは揃って横断歩道を渡って、反対側へ。それから他校の生徒たちとは別の方向へ進む。嫌がらせのように急な坂を越えて、少し灰色がかった校舎へと向かうのだった。

 学校では無難に過ごした。授業はきちんと受けて、体育もほどほどに頑張る。昼は一人で弁当を食べて、歯磨きが終わったら、図書館に戻る。午後の授業を終えると、即座に帰る。部活には参加していない。帰宅部だった。

 機械のように淡々と日々を過ごす。休日もまた一人だった。友達がいないから外へ遊びに行くことはなくて、部屋にこもって、パソコンを開く。インターネットで検索をしたり、懇意にしているサイトに出入りしたり、動画を見て楽しんだりする。

 私にとっては自由で気に入っている時間の過ごし方だ。しかし、どこかむなしいのはどうしてだろう。一人、だからだろうか。

 季節はじき、夏になる。夏といえばイベントだ。季節の中で最も暑く、活動的な時期だというのに、私はエアコンの効いた部屋で涼んで、夏を終わらせようとしている。これでいいのか、本当に。少しは出会いを求めるべきではないのか。

 眉を寄せて、窓を睨む。外の景色はくすんでいるように感じた。ちょうど今の私の人生のように。

 私には好きな人がいない。恋をしたこともなかった。彼氏いない歴=年齢なのは言うまでもなく、私は男とまともに関わったことがない。「好きな人は誰?」と聞かれても、クラスで一番人気な子を答えてごまかすことしかできなかった。こんな自分が目的を達成することなどできるものだろうか。否、考えても仕方がない。臆しても駄目だ。今年こそ運命を変えるのだ。固く決意を固めて、拳を握りしめた。


 夏休みはバイトをする。選んだ先は飲食店だ。駅の前にある場所で、郷土料理を客に振る舞っている。面接は無事、受かった。今日から働くことが決まった。私は徒歩でそちらへ向かって、店に入る。エプロンをしめ、髪を縛る。さあ、真面目に働こう。気合を入れようとしたとき、急に横から声がかかる。

「君もバイト?」

 振り向いた瞬間、目を見開いて固まった。そこに立っていたのはアイドルと見間違うほどの美青年。艶のある黒髪を短く整え、肌は色白で、切れ長の目が涼しげだった。きれい。思わず見入って、挨拶を忘れた。

「俺は隼人。よろしく」

 彼はすっと手を差し出す。

「あ、あわわ、よろしくおねがいします」

 慌ててこちらも手を伸ばし、握手を交わす。

 大変どぎまぎしている。出会いがあればと期待をしたが、まさか一発で当たりを引くとは思わなかった。もう、彼でいい。高揚する心と勢いに身を任せて、結論づけた。

 それはそれとして、自己紹介はきちんと行わなければならない。いくら興奮して緊張して、しどろもどろになったりしてもだ。

「や、山下こはるです」

 自分の名前を伝える。予想した通り、ぎこちない言い方になったが、思ったよりはうまくできた。

「そう、こはるさん。覚えたよ」

 緊張と恥ずかしさで余裕がない私に向かって、彼は爽やかな笑顔を向けた。途端にドキンと心臓が音を立てる。ハートを射抜かれたような衝撃が走った。ああ、これがモテる男か。

 いきなり下の名前で呼ぶだなんて、しかも「覚えた」とか。勘違いしてしまうではないか、もしかして気が合うんじゃないかって。でも、彼は見るからにモテる男。きっと素でこんな思わせぶりな振る舞いをしてしまうのだ。そう思うとずるい。でも、イケてる男だから仕方がない。許す代わりにこみ上げてくる熱い思い。ああ、彼と付き合いたい。


 バイトは全く集中できなかった。彼と一緒の空間にいるだけで気分が浮ついている。しばらくは顔を合わせるのも照れてしまい、顔が熱くなる。頭は彼との恋愛のことでいっぱいだった。まだ付き合っているわけではないし、出会ったばかりだというのに、先のことばかり考えてしまう。付き合える気になってしまう。気が早い。もっと関係性を熟成させてから行動に移すべきだ。まだ気が早い。待つんだ。様子見だ。

 心の中でブツブツと呟いている内に日は落ちて、空は黄昏の色に染まる。私たちは揃ってまかない飯を味わってから解散し、店を出た。薄暗くなってきた外を歩きながら、ふと思う。

 もう少しいい自己紹介をすればよかった……。

 頭を抱えたくなる。過去をやり直せないかとも考えて、歩道の真ん中で足を止めた。だが、焦る必要はない。初対面で好印象を得る努力を忘れたのは失態だが、あれは仕方のなかったことだ。いきなりの当たりを引いて大変ドギマギしていたし、緊張でそれどころではなかった。失敗したのなら挽回すればいいだけだ。また明日、バイトには行ける。休憩の時に話でもして自分をアピールすればよいだけの話だ。

 よし。両の肘を引いて拳を握り締める。私はまた足を前に出し、歩き始めた。

 それからのバイトは充実していた。今日はきちんと挨拶をしよう、彼の目を見て話そう。小さな目標を少しずつ達成していった。まだ彼の顔を直視するのは慣れないし、今もそばにいるだけでドキドキしている。それでも少しずつ接近してきてる。手応えを感じていた。

 彼と一緒ならどんなに退屈な作業も、頑張れる。平凡な日常が鮮やかに色づいたようで、イキイキとしてきた。それだけで彼と出会えてよかったと感じる。隼人のほうも実はこちらを意識しているのではないか。だからかっこいい姿を見せてくれるのではないか。などと、根拠のない妄想をしてみる。それでも、この調子で行けばうまくいくような実感が湧いていた。

 この調子、この調子。バイトに通っている今この瞬間だけは、誰よりも恋愛がうまくいっているという感覚があった。いつの間にか彼女は彼と接するのにためらいがなくなっていた。

 また日が沈み、世界は暗くなる。それでも彼女の心から光は消えない。夜が来てもすぐに朝がやってくる。彼女は前向きで歩き続けた。


 状況が変わったのは、次の日だった。その日は登校日だったため、制服を着て、外に出ていた。歩道を延々と歩いていたとき、あるものが視界に飛び込んで、視線を奪われる。反対側の道を美男美女が歩いている。共に夏服を着ていた。夏なのでブレザーはないが、ブラウスとカッターシャツに刻まれた校章は、確かに隣の高校のものだった。そして、男のほうは艶のある黒髪を短くカットした青年。隼人だった。

 知らない女と彼が歩いている。たったそれだけで自分の世界が崩れ落ちるような衝撃が走った。体から力が抜ける。手のひらが開いてスクールカバンがするりと落ちた。

 それは美男子だから彼女くらいはいる。心の中では予想していたことなのに、いざその場面を見ると、ショックでならない。現実を疑いたくなる。てっきり彼がこちらに気があるのではないかと思ったのに。これでは一人で踊っていただけだ。恥ずかしい。なによりこんな喪女が男にモテるわけがなかった。モテ男という者は誰に対しても優しいものだ。自分だけが特別なわけではない。彼が優しいだけだった。そんなことにすら気づかずに調子に乗っていた。本当に恥ずかしい。

 なにもかもがどうでもよくなった。目を閉じ、現実から目をそらしたくなる。

 学校で自主学習をしている時も集中できない。頭の中は彼のことでいっぱいだった。問題集に目を向けている時も、ノートにシャープペンシルを走らせている時も、赤ペンで採点をしている時も。

 ひそかに想像していた恋人生活の情景が、音を立てて崩れていく。そんな現実は嫌で泣きたくなる。つい力が入って、シャープペンシルの芯が折れた。小さく細いゴミがノートに散らかる。手のひらで払って、きれいにしてから、はーとため息。

 盛り上がっていた自分がバカみたい。

 結局、問題集はまともに解けなかった。問題の内容は頭に入ってこないし、集中しようと意識すればするほど、頭では別のことを考えてしまう。もう終わったも同然のことなどに、往生際悪く、しがみつこうとしている。いい加減に諦めたらいいのに。今回は脈なしだったんだ。そう割り切れたらどれほどよかったことか。

 家に戻る途中でも、彼のことが頭を離れない。同時に会いたくないとも思った。一方的な失恋を経験して、どんな顔で彼と接すればいいのだろう。明日はまたバイトがある。そう思うことすら憂鬱でならなかった。


 玄関の扉を開けて、真っ先に部屋に入る。スクールカバンを机の上に押し付けて、制服のままベッドに寝転がる。曇った顔を隠すように腕を目の上に横たえる。明日、どうしよう。サボろうかな……。何度か考えた。でも、自分の恋心などのためにバイトを休むのは申し訳がない。いくら出会いのためとはいえ、働こうと決めたのは自分だ。それを途中で投げ出すわけにはいかない。

 でも、目的はすでに失われたも同然なのに、いったいなんのためにバイトへ行けというのだろう。彼と仲良くなっても、相手にはすでに想い人がいる。自分よりも優れた相手。今一度彼女の顔を思い浮かべる。栗色の少しウェーブのかかったロングヘア。スタイルはよくて豊満なボディがブラウスの下から主張していた。足はすっと長く伸びている。肌は白く、透き通っていた。

 嫌になるほどの美人だ。本当に彼にふさわしい。喪女では立ち向かうことすらできずに、敗れるだろう。

 勝てるとは思えない。それでも私は彼がほしい。欲求が胸を衝く。焦がれるような思いを持て余している。今は暴れたくてウズウズしている。押さえつけなければ部屋にあるものを破壊してしまいそうだった。

 恋をしてしまったのだから仕方がない。玉砕すると分かっても挑みたくなる。略奪愛でも浮気でもなんでもいい。どんな方法を使ってでも、彼を奪い取って見せる。なりふりかまってはいられなかった。

 目をカッと見開き前方を向く。その瞳がギラリと輝いた気がした。


 次の日、早朝から美容院に行った。かわいらしくなるようにオーダーすると、本当にかわいらしい髪型が出てきた。

 目を隠すほどに長く、普段は横に分けていた髪は、前髪の上で切りそろえている。いわゆるボブだ。腰のあたりまであったロングヘアは肩の上で内巻きにカールしている。全体の雰囲気は柔らかく、少し小顔に見えた。

 おおむね満足。料金を払って、外に出る。後は私服だ。芋っぽいジャージは封印して、スカートをはいて見る。服屋に赴いて色々と試してみる。デート用よりは気合を入れず、かといってだらしなくもない、絶妙な格好……。

 ホワイトのシフォンブラウスに、膝丈のスカートを合わせてみる。鏡の前の映る私の姿は魔法がかかったように見違えてみえた。フリルなどの装飾や派手な柄もないため、シンプルな印象を受ける。これくらいなら私も照れずに着れる。

 そうこうしている内にバイトの時間がやってきた。私はさっさと店を出て、飲食店に直行した。

「ずいぶんと気合が入ってるな。デート帰り?」

「もう……。私に付き合ってる人はいませんよ」

 厨房に入るなり、彼が笑って声をかける。冗談と言うような軽い口調だった。

 あー、本当はあなたと付き合いたいんですけどね。

 嫌味のような思いを飲み込んで、明るく接する。彼に恋をしているという本心はきちんと隠した。

「なら恋でもしたのか。頑張れよ、君ならやれる。応援してる」

 彼はさらりと告げると、お椀を持って、表へ出ていく。注文された料理を客に届ける彼の姿を見送って、重たく息を吐いた。

 恋をしているのは確かだ。その相手が隼人だと本人に告げたら、彼は引くだろうか。きっと困るだろうなと予想はつく。そして誠実に話を聞いた後に悩ましげな顔で頭を下げるのだ。「ごめんなさい。付き合っている相手がいるんだ」と。

 そんなことは知っている。彼に恋人がいることくらい分かっている。それを承知でアタックをしているのだ。今の恋人よりも魅力のある女になれば、可能性はあると思った。だが、現実はこの始末。まるで相手にされていない。ゲームで大人に負かされる子どもになった気分だった。

 次の日は花のヘアピンを髪に挿してみた。真っ赤なパンプスでバイト先に赴いてもみた。その度に彼は変化に気づいて褒めてくれた。その癖、なんのために彼女がオシャレをしているのか、気づいていない。分かってくれない。

 私はもどかしさでいっぱいだった。こんなにも彼を思っているのに、近づこうと努力を重ねているのに、彼はなにも分かっていない。私の気持ちなんて、なにも。隼人に褒められるのは嬉しいし、かすかなときめきを感じはする。

 仲は極めて良好で些細なことでも話し合えた。困った時は助けてくれるし、当たり前のように挨拶を交わし、気安く会話を続けられる。以前なら順調だと歓喜していたのに、今はちっとも嬉しくない。ひたすらに退屈だ。季節が冬に変わったように重苦しい。世界が色が失われ死んでいくようだった。

 なにが足りないんだろう。

 バイト帰りの道をトボトボと歩きながら考える。視線は下を向き、姿勢は猫背に曲がっている。今日はパリッとしたワンピースを着ていった。ムダ毛もしっかり処理してきた。日焼け止めをつけているため、色白さを保っている。着実にきれいになっていると実感が湧くのに、進んでいる気がしない。むしろどんどん階段を下りていっているような気がする。

 物理的に距離が縮まれば縮まるほど、精神的には彼が離れていく。隼人の心が自分ではない女に向いていると、分かっているからだろうか。どれほど彼に迫っても、きっと彼が求める女は一人だけ。好みの女に変身したとしても、彼には通じない。そう思うと自分の努力がむなしいものと思えてきた。

 以降もバイトは続く。私はノルマのように日々を消費していった。なにかを成す度にそのタイミングで消えるような感覚。ろうそくの火が消えていくようだった。

 ああ、悔しい。彼が振り向いてくれない。どうして彼は一途なんだろう。誠実でいいとは思うけど、少しはこちらを見てくれたっていいじゃない。本当は気づいているんでしょう。同僚の女が熱視線を送ってきていることに。その娘が想っているのは隼人という名の青年だって。

 どうして気づいてくれないんだろう。直接言葉で言わないと分かってくれないのか。もしくは言葉にしないと相手にしないつもりなのか。もしそうだとしたらなんて、意地悪。少しは察してよ。

 モヤモヤが募る。それでもなお、私は口をつぐんだままだった。思いは直接伝えない。ただ、彼だけを見ている。太陽を見つめる向日葵のように。そうすればいつかは振り向いてくれる。優しい彼なら察して応えてくれる。そう信じたのに……!

 結局、その日は訪れなかった。なにも起こらないままバイトの期間は終わり、秋を迎えた。


 影でこそこそと勉強をしていたため、宿題は終わっている。テストの成績にも自信があるし、不安はないはずだった。それなのに、気分が盛り上がらない。夏休み前よりも白けたような感覚があった。

 一人で登校して、一人で教室に入って、席につく。周りではキャーキャーと女子生徒たちが盛り上がっている。海でも行ったのだろうか。皆、こんがりと焼けている。その口で楽しげに思い出を語っている。中には土産物だと言って、キーホルダーを机に出す者もいた。

 和気藹々とした生徒たちを尻目に本を取り出し、読書を始める。また、つまらない日々が始まる。

 あんなにも気合を入れて臨んだのに、なにも得られなかった。下手をすれば夏休みに入る前よりも、充実していないような気がする。ああ、なにをやっても無駄なのだ。なにもかもが嫌になる。私はなんのために覚悟を決めたのだろうか。

 ぶつぶつと思っていると、教室のドアが開く。担任の教師が入ってくる。メガネをかけた中年の男だ。スーツを着ている。彼は教卓の前にすっと立つと、ホームルームを始めた。


 体育祭を超えて、文化祭の準備に取り掛かる。そのころになると隼人への想いも落ち着いてきた。とはいえ完全に消えたわけではない。どんなに想っても無駄だと分かっているのに、まだ諦めきれない。彼に手を伸ばしたくなる。本当に往生際が悪い。自分で自分に嫌気がさす。

 しかし文化祭……文化祭か。教室の席に座りながら、ぼんやりと視線を上げる。天井のあたりを睨みつけながら、ある考えを脳内で巡らせる。

 隼人の高校でも文化祭は行われる。いちおう彼の学校を知っている。他校と日は確実にかぶるだろうが、学校をサボればいいだけの話。真面目に祭りを盛り上げようとしている人たちには申し訳ないが、シフトだけ守っていれば許されるだろう。こっそりと抜け出して、他校に忍び込もう。

 私にとっては最初で最後のチャンスだ。文句を言ったり、偏見の目で見ないでほしい。いいや、いっそ、蔑んでくれて構わない。誰に罵倒されてもいい。バカにされたって許せる。これは私だけの戦いだ。

 バイトの期間中になにもできなかったのなら、文化祭にすべてを賭けるしかない。そう思いを定めると気が引き締まる。頭がすっきりとして、視界が晴れる。また前を向いた。


 いちおう準備はきちんとやった。自分の学校の祭りにもきちんと参加する予定だった。それはそれとして私情を優先するだけである。ちょうど、友達がいないから、集団で店を回る必要はない。影も薄いからこそこそと動けば、誰の目にも留められないだろう。それで誰かに責められるとしたら、そのときはそのときだ。覚悟はできている。それでもやると決めた。それだけだ。

 そして当日、予定通りに私が学校を抜け出して、外に出た。アスファルトの上を通り、坂を下る。信号の前にやってくると横断歩道を渡らずに、横に伸びた道を進む。走行する自動車に見られながら駆け足で道を通った。

 校庭が見えてくる。駐車場には色とりどりの自動車が停まっていた。体育祭を思わせる並びだ。校舎は旗や折り紙で作った輪っかなどで飾られている。本当に祭りなのだと実感が湧いた。

 改めて見上げて深く息を吸う。他人の領域に足を踏み入れるようで、緊張する。それでも思い切って、足を踏み出す。校門をくぐって、校舎の中に入った。保護者やOBの大人にまぎれて、店を巡る。もっとも、見るだけで売り物には手を出さない。部外者なのに誰からもツッコミを受けずに、廊下を進めた。やっぱり私は影が薄いんだ。軽くショックを受けながらも、目的を果たすために、歩き続ける。

 と、隼人を見つけた。ブレザーを着た彼は夏よりもずっと知的に見える。そして隣には同じくブレザー姿の女がくっついている。整った顔立ち、華のある二重まぶたにぽってりとした唇。ブレザーを押し上げる大きな胸に、ミニスカートから伸びた細い足。悔しいがお似合いだ。視界に入れるだけで胸が痛む。やはり、自分はそちらへは行けない。彼らの間に入ることすら敵わない。

 そう思うと胸が震える。思いがこみ上げてきて鼻の奥がツンとした。ああ、自分はなんのために他校の校舎にやってきたのだろう。彼に会いに来たのではないのか。覚悟は決めたはずなのに、遠巻きに彼らの姿を見ただけで、体の中心にあるものがポキっと折れた。

 覚悟なんて意味はない。こんな不確かなものに思いを賭けるなんてバカみたい……。

 悔しくて情けなくて、泣きたくなる。私はバカだ。どうしようもないほどに愚かものだ。こんな儚い思いを託してもどうせなにも敵わないのに。いったいどうして、すがろうとしているのか。彼に恋なんてしているのか。

 気がつくといつまでもそこに突っ立っていた。そろそろ帰らなければならないのに、どうしてか帰る気になれない。いっそ家に帰りたい。そう思うのに、こんな自分に帰る場所なんてなくて、いつの間にやら公園にいた。

 ベンチに座り込んで、時間を潰す。

 ずいぶんと無駄な時間が流れた気がする。恋をしようと唐突に思い立ったことも、思いを果たすために彼女持ちの男を狙ったことも、気を引くために自分を磨いたことも、なにもかもが無駄だった。私はなにも得られなかった。それなのに。

 むなしさが胸を浸す。頭上に広がる空もすっかりたそがれて、空が淡い色を帯びている。その藍はどこまでも透明で、なにもないように見えた。私の心に似ている、。

 いっそこのまま闇に染まればいいのに。ベンチの上でじっと待つ。凍てつく風が吹きつけ、身震いする。手がかじかんでなお、その場から動かない。ちょうどそこへ濃い影が伸びる。

「こんなところでなにやってるんだ? 風邪引きたいのか?」

 聞き慣れた声。

 やや低く、澄んでいる。嫌味はなくて、爽やか。

 ゆっくりと顔を上げる。丸くした目で相手を見つめた。そこに立っていたのは隼人だった。ブレザーをびしっと着こなして、真面目な顔つきで立っている。

「あなたどうしてここに? 彼女はどうしたの?」

 思わず素の声で話しかけてしまう。

「どうしてって、それはこっちの台詞だよ」

 彼はさらりと言って、近づく。

「彼女って知ったんだな」

 口を動かす。

 やはりと言いたげな声音だった。

 こちらもやはりという気持ちを抱く。

 やはり気づかれていたんだ。私が恋人のことを知っているって。

 それを言葉にすることはできなくて、私は無言でうなずいた。

 互いになにも話さない。風の音だけがビュービューと吹き付ける。まるで台風のよう。涼しさは感じるけれど、不思議と凍てつくような雰囲気ではなかった。彼と一緒にいると少し寒さが緩和される。

 だけど沈黙には耐えきれなくてついに口を開いてしまった。

「ずるいわ、あなたは」

 ぽつりとこぼす。

「確かに知ってた。あなたに恋人がいるって。でも、諦めきれなかったのよ。あなたに振り向いてほしかった。少しくらい私を見てほしかった。それなのにあなたは気づかない振りをしている。普通のバイト仲間として接し続ける。その癖、どこまでも優しくて、よくしてくれて、どんなときもそばにいてくれた。ずるい、ずるいわ……。あなたなんて、出会いたくなかった。他人のままでいられたらきっと幸せだったのに。こんな思い、することなかったのに」

 口に出しているとまたつらくなる。

 言葉にする度に心が震えた。唇も震えていた。うまく、言えない。言葉に出せない。

 私は両手で顔を覆って、うつむいた。

「出会わなければよかったなんて、言わないでくれよ」

 悲しむように彼は告げる。

「誰のせいだと思ってるの?」

 勢いよく顔を上げて、彼を見る。

「俺のせいだよ」

 彼はきっぱりと答えた。

 意外だ。ごまかすと思ったのに。

 私が目を丸くしていると、彼はポツリと語りだした。

「俺は中途半端だったよな。恋人がいるし彼女のことは本当に愛してる。だから君の思いには応えられない。たとえちゃんと好きと言われても、断ったよ」

 また風が吹き抜ける。

 互いの境界線を作るように。

「ずっと続けたかったんだ。恋人同士にはどうあがいても発展しないような、絶妙な空気感を。君にはなにも言ってほしくなかった。俺への好意も本当の思いも、なにもかも」

 彼は笑う。

 苦々しく崩れかかったような表情で。

「言ってほしくなかったんだ。君を泣かせたくない。振りたくなかったんだ」

 青年は静かに言葉をつむぐ。

 まっすぐに私を見つめた。

 すると胸の奥から熱い気持ちがあふれてくる。ようやく聞けた、彼の意図が本心が。悲しくて切なくて、やるせなくて。どうしたらいいんだろう。私は彼になんと言えば、応えたら。

 一つ言えるのは彼が私のことを女として見ていなかったこと。振り向く気が微塵もなかったこと。それなのにあの地獄のような関係を望むなんて、どうかしている。

「泣かせてよ」

 気がつくとそんな言葉が漏れていた。

 本当は抑えなければならないと分かっている。伝えてはならないこともある。だけど、私の唇は勝手に動いていた。言いたくてたまらない。いままでずっと抑えつけていたものを解放したくてたまらなくなっていた。

「ちゃんと泣かせてよ。あなたは逃げている。本当は私の気持ちを知っていたのに、振ると決めているのに、それなのに、泣かせたくないだなんて。振りたくないだなんて、ずるいわ」

 ずるい。

 本当に。

 強調するように繰り返す。

「ごめん」

 彼は視線を落として、つぶやいた。

「ねえ、聞いて」

 私は彼を見つめたまま、一歩踏み出す。

 彼は一歩も動かない。

 迫る私を突き放さずにじっとしている。

 私は勢いのままに口走った。

「応えなくてもいい。受け止めて。そして私を振って」

 その瞬間を恐れていた。

 私の思いが玉砕する瞬間を。

 なにもかもが無駄だったと証明されることが。

 そんな勝負、最初から勝ち目がなかったのに。

 なにをしても意味なんてなかった。

 私は負ける。

 分かっている。

 それでもなお、私は言わざるを得なかった。

 退路はふさがり、前に進む以外の選択肢を失った。

 一度、目を伏せる。

 息を吸う。

 吐いて、また、唇を開いた。

 顔を上げる。

 ぱっちりと開いた目を前に向ける。

 青年の顔を瞳に映す。彼はしばらくの間眉を寄せていたが、やがて覚悟を決めたように表情を引き締めて、こちらを見た。

 私たちの視線が交錯する。

 向き合って、互いの顔を瞳に映した。

 このタイミングを見計らって、ついに言う。

「あなたが好きです」

 ハッキリと、彼だけに。彼のためだけに。

 また、風が吹く。潮をふくんだようにぬるい感覚が頬を撫でる。足元で草木が揺れ、乾いた葉がひらひらと宙を舞い、地に落ちた。背景では日が完全に沈みきり、すっかり真っ暗になっていた。公園には明かりが灯る。真っ赤な光が二人の顔を照らした。

「ありがとう」

 ようやく彼が告げる。

 薄く唇を開いて、言葉に出す。

「俺は今の彼女と共にいる。ずっと。だから君を突き放すし、一人にする」

「それでもいいわ」

 元から私はそんなもの。報われることなんてなかったんだ。

 でも、寂しくはなかった。敗北する未来が見えてなお挑んだからだろうか。むしろ達成感がある。清々しい心境だ。

 肩から力が抜けて、息をつきたくなる。

 後悔はなかった。きっとこれでよかったんだ。心の中でひとりごちる。

 後は帰るだけ。彼に背を向けて、暗い場所へと進むだけ。

「待つんだ」

 踵を返そうとしたとき、焦ったような声がかかる。

 顔を上げて、そちらを向いた。

 彼は一度口を閉じてから真剣な顔になり、ふたたび口を開いた。

「花火、あるんだ」

「花火?」

 きょとんと首をかしげる。

「最終日だろ。打ち上げるんだ。見に行く?」

「このタイミングで?」

 苦笑い。

「このタイミングだからこそだよ」

 彼も苦笑いで応えた。

 相手の考えは読めない。私なんかにかまってもいいことはないだろうに。でも、少しくらいはいいかもしれない。この余韻に浸るように、私はすっと口元を緩めた。


 公園を出て、街灯の明かりに従って、道を歩く。無言で足を動かし続け、校舎に戻る。

 花火はすでに上がっていた。弾けるような音が鳴り、漆黒の空に大輪の花が咲く。校庭の端っこで足を止めて、見上げる。

 きれい。

 月並みな感想を心の中で述べる。

 しばらく鮮やかな光に見とれていると、不意に彼が口を開く。

「嬉しかったよ。君の言葉が聞けて」

 チラリとそちらを見る。

 私の頭には先程の出来事がよぎっていた。

 思えば勢いに任せて言ってしまったのだった。告白を。彼への恋を。思い出すと恥ずかしくなる。あれは本当は隠し通すつもりだったのに。他校の文化祭に遊びに来た事実すらなかったことにする予定だったのに。

 酔った勢いに似た感覚でやってしまった。急に現実に戻って、恥ずかしくなる。

「君、今でも俺のことは」

 彼が目をそらす。

 様子を伺うような態度だった。

 私はまた恥ずかしくなる。体が熱く、発汗し、顔が赤くなるのが分かった。

「言わせないでよ、そんなこと」

 心の声なんて簡単に他人に打ち明けるものではない。相手が思いを寄せる男の子だったらなおさらだ。

「嫌いじゃなきゃ、いいんだよ」

 なにかをごまかすように、彼は言う。

 そのはっきりしない態度にモヤモヤする。もどかしさを抱きながらも、そんな彼も嫌いではないと思った。今見えているか隼人が彼なのだから。そのすべてを受け入れてもいい。愛してもいい。でも、恋は終わった。

「冬休み、またバイトに行くんだ」

 彼が口を動かす。

 私は少し眉を寄せて、耳を傾けた。

「来てもいいんだよ」

 隼人が視線を上げる。

 なにか、願うような目つきだった。

「本当に?」

 きょとんと声に出す。

 私たちの関係は終わってしまったのに?

 完結した物語の続編を求めるように、そこから目をそらすように。

「君が俺を想ってくれているのなら」

 彼が言葉をつむぐ。

 それが答えだというように。

 聞いて、口元が緩む。

 そう、本当は終わりではない。ここからまた新たな物語を始めてもいいはずだ。そう思うとまた新たな勇気があふれてきた。

 次こそは彼を振り向かせる。以前の私ではできなかったことも、今の自分ならできるはずだ。

 空ではまた花火が上がる。大輪の花が光を撒き散らしながら、消えてゆく。

 世界はまた暗くなる。それでもなお、彼女の心には炎が灯り続けた。

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