☆紅雨

 あんなに求めた彼は、もういない。

 私の心は渇いていた。

 かろうじて残してくれた愛の言葉。

 熱くもどかしい想いだけが、ポツポツと胸に染み込む。

 それはまさしく雨のようで。

 悲しくて、嬉しくて、切なくて。

 全てがこみ上げてきそうで、たまらなかった。


 ***


 時計の針が一定間隔で動き続ける。真っ白な空間に硬い音だけが鳴る光景は、時を刻んでいるにも関わらず、世界が凍りついたかのようだった。

 窓の外の景色は霧によって烟っている。雨が斜めに降っているが、風の音がしない。

 広々としたテーブルの、楕円のテーブル。対の席は空っぽだ。本来座るだったはずの人は、もういない。

 薄型のテレビの足元には埃被ったゲーム機。最新型のカセットが本棚のように整列してあるけれど、今の私は触れられない。

 リビングの隅には彼がよく育てていた観葉植物があり、あまりにも水を与えていなさすぎて、今は枯れ、色褪せている。


 一緒に暮らそうと決めた大きな家も、今や広いだけのがらんどう。

 かつてのぬくもりはとっくの昔に失われている。


 私の心は渇いていた。

 かろうじて残してくれた愛の言葉。


 病で先が短い中、恋人と出逢えたのは奇跡だと彼は語る。

 薄暗がりの中に差し込んだ光。

 この短い人生でともに過ごせたことが、なによりの幸福だと。

 黄昏に沈んだ病室で、彼はやわらかな顔をして訴えかけた。

「俺が死ぬならどうか忘れてほしい。幸せに、なってくれ」

 闇夜に散らばる淡紅色の花びら。

 かつての思い出が過去に置き去りになる度に、あの人の姿がより強く胸に刻まれる。

 デートに出かけた華やかな街並みも、ともに歩いた並木道も。

 笑いあったあの日も霞のように消え去るのみ。

 今は冷たい雫が落ちるだけ。


 彼が好きだった桜の香りのするお茶を飲みながら、またかつての追憶に浸る。


 愛してる、愛してる。

 忘れられない、忘れたくない。

 ありがとう。

 どうして、あなたは遠く、離れてしまったの?

 行かないで、行かないで。

 まだ彼を想っていたいのに。

 まだ彼を愛している。


 胸を締め付けられるような想いだけが、ポツポツと胸に染み込む。

 それはまさしく春に花を濡らす、しっとりとした雨のようだった。

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