中間
今年の梅雨は雨が降らなかった
雨が降ってきた。空はどんよりと曇り、遠くの山は霧で煙る。冷たい風が吹く。スカートをはいた足では肌寒い。
プラットホームで一人、私は立ち尽くす。小さな雫がアスファルトを濡らす光景を、ぼんやりと眺めていた。
湿った空気がこちらまで流れ込む。気分は元から滅入っていたため、どうでもいい。問題は傘を持っていないことだ。電車に乗っているときならともかく、歩道に出てからはどうしよう。濡れて帰ろうか。
今は五月。風薫る爽やかな季節だ。ジメジメしてばかりいるのはもったいない。梅雨には早いというのに、なぜ降るのか。
そういえばあの日も同じ悪天候だったな。数日前――水を滴らせて帰ったときのことが、頭に浮かぶ。
その日の昼休み、私はイヤな目に遭った。
自分の席でノートを開いてペンを走らせていると、数人の女子がやってくる。着崩した制服の上からアクセサリーを身に着け、髪を派手な色に染めた者だ。彼女たちは私の書いているものを目にとらえるや、口角を釣り上げる。
「見てよ、これぇー」
金髪の生徒がノートを取り上げ、宙に掲げる。
ピンクのリップを塗った唇から、高い声が漏れた。
「こいつ、またこんなもの書いてるよ」
ショートヘアの女子も顔を笑みで歪めながら、ノートを指す。
「みんなで見てやろうぜぇ」
彼女たちが騒ぐと周りの生徒も反応を示す。皆は読書や勉強をやめ、会話を打ち切ってまで、こちらへ視線を向けた。
「ほら」
リーダーがノートを放り投げる。ロッカーの近くにいた者が受け取った。
みんなは本にワラワラと群がり、リレーする形で目を通す。そのうち話の内容を広めるように大きな声で、文章を口に出し始めた。
次の瞬間には豪快な笑い声が、教室に響く。
「なにこの文章。小学生が書いたの?」
「リアルでうまくいってないからって、こんなところで発散とか、惨めだと思わないのかな」
教室に残っていた全ての生徒の目に、私の物語は触れた。
「安っぽいんだよ、こんなハッピーエンド。なにもかも都合がよすぎる。努力すれば報われるとか、夢でも見てるのか?」
最後にノートを手にした生徒も、辛辣な感想を述べる。
相手は舌を鳴らして、読んだものを投げ捨てた。私は床に落ちた制作物を見下ろしたまま、硬直する。ショックだったし、傷ついた。胸がチクチクと痛み、鼻の奥がツンとする。窓の外は雲で覆われ、空いた窓から風が入る。いやな寒さが肌にしみ込んだ。
午後の授業が始まっても、彼らの興奮は尾を引く。板書を取る最中も両隣の席ではくすくすと、せせら笑う声が聞こえてきた。私は泣きたくなる気持ちをこらえて、勉強に集中し続けた。
***
結局は私が悪いのだろう。
見せつけるように、人前でペンを動かしていたのは、ほかならぬ自分だ。
そもそも私は自分の作った本を大衆に見てほしいと、願っている。もっともネットに投稿した結果、感想はゼロ件だった。リアルでは知人が絵本に対して、「絵がうまいね」と褒めたことはある。けれども肝心のストーリーにはノータッチだ。せいぜい作文に対して「長く書けてすごいね」とコメントする程度だ。私は常にモヤモヤとした思いを抱えていた。
過去に生み出した読み物の中には、一〇人以上のキャラクターが登場するものもある。その全てが平等に活躍して輝きを放っている自信があった。感動的な場面もあるはずだというのに、読者は一人もいない。せめて誰でもいいから、彼らの姿に気づいてほしかった。
「文章もストーリーも拙い」という批判なら、肯定しよう。いくら文章をつむいでも上達する気配はなく、ストーリーも王道なものしか、作れない。この間生徒たちがバカにした短編の内容は、『落ちこぼれの勇者が努力を重ねた結果、魔王を倒す』だ。ありふれているし、つまらない。
自作品を素直に褒められずにいるのが現状だ。それなのに「バカにされたくない」と嘆くのは、虫がよすぎる。作品を晒して傷ついても、自己責任でしかない。それでも一方的に罵倒された身であるため、受け入れがたかった。
何度思考を繰り返しても胸の中に広がるのは、砂の味。
例の短編を収めた本は道端に捨てた。ムシャクシャしてやった。後悔はしていない。とにかく黒歴史を手元に置いておきたくなかった。
もはや自信は失った。ようやく芽生えかけてきた芽を摘まれたような心地になる。
例の生徒たちは人を――作家としての心をなんだと思っているのだろうか。
物書きと名乗ることすらおこがましいとは、分かっている。だけど、なにもかもがむなしくて、たまらない。
鬱々とするのに涙が出てこないのが、不思議だった。悲しくなかったのが意外だった。それとは反対に心にぽっかりと穴が空いたような感覚に陥る。
なぜ、このようなことになったのだろう。こんなはずではなかった。昔はもっとよかったはずだ。絶対に小説家になれると信じていた。私には才能があると。あまつさえ史上最年少で賞を取れるとも。されども結果はこのザマだ。
イヤになる。書けども書けども、納得がいかない。常に底辺に沈んでいる。文章・構成・描写・セリフ――すべてが下手くそだ。けれども、仕方がない。今に至るまで無駄に時間が過ぎた――ただ、それだけなのだから。
本来なら『勇者と魔王の物語』は長編にする予定だった。より正確にいうと、短編は長編の土台である。登場人物を掘り下げたり、盛り上がるところに力を入れたり――想像するとワクワクする? いいや、バカバカしい。そもそも一〇万字以上の話を作る自信がなかった。
毎日毎日、創作活動に打ち込んでも、報われなかった。これからつらい思いばかりをして、なにになるのだろう。目的地が曖昧で視界に霧がかかっている。
ため息が出た。
誰かに褒めてほしい。
作品を認めて。才能を肯定して。物語に感動して。
できるのならそういう話を、私も書きたかった。
もはやダメなのだとは、実感している。
でも、やりたくて。
今さらやめられなくて。
本音はやっぱり書きたくて、やめたくなくて。
もう気にしなくてもいいのかな。
誰かが許してくれるのなら私も報われるのに。救われるのに。
だけど私には優しい言葉をかけてくれる者はいない。誰も彼も私の作品にまともに向き合ってくれなかった。
その嘆きは驕りなのだろう。自分の小説をこの世で一番面白い本だと勘違いしている。実質は滑稽なうぬぼれであり、ただ自分がかわいいだけだ。
もう、遅い。引き返せないのに、突き進むしかないのに。そうと知っていながら、それでもなお、足止めを食らう。立ち止まってしまった。
ツツジの花を思い出す。あれも
「ねえ、お姉さん」
不意に声がした。
変声期を迎える前の、高い声。少年が発したものであるとは、一発で分かった。
意識が現実に引き戻される。顔を上げてから視線を向け直す。声の主と目が合う。予想した通りの男子小学生だった。半袖短パンの、スポーティで涼しげな格好をしている。
「これ」
彼がなにかを差し出す。
ノートだ。牡丹色を帯びた表紙に題名と、おのれの名を記してある。まぎれもなく自分が落とした小説だ。
急に顔に朱の色が浮かぶ。すさまじい勢いで焦燥が全身を駆け巡った。
教室で聞いた笑い声が、耳の奥で再生される。あのときの光景がカメラのフラッシュのように、脳裏にちらついた。全身を熱が満たし、肌には汗が浮かぶ。
逃げ出したくなった。体の底から湧き上がる衝動とは裏腹に、体はついていかない。目を見開いたまま、ギュッと身を固めてしまう。
今回も同じ目に遭うのではないか。揺れる炎のような不安に、脈拍が高まる。山にかかった霧が心にも広がり、この身が闇にとらわれてしまうような気配があった。
だが、目の前の子どもは穏やかな顔をして、次のように述べる。
「ありがとう。勇気が出たんだ」
彼は明るい顔で笑う。
予想外の反応にぽかんとしてしまった。
「え……」
驚きと同時にかすかな安心感を得る。
しかし、解せない。彼は私をからかっているのか。そうでなければ私の拙作を褒めるわけがない。
相手のリアクションを疑う私だったが、男の子の瞳はきれいに澄んでいた。
「勝手に読んだことは謝るよ。だからこうして返しに来たんだ」
彼の態度は誠実だった。
私も怒るに怒れない。
それはそうと、なぜノートが私のものだと分かったのだろうか。疑問に思っていると、坊やは素直に答える。
「あやめさん、だっけ? カバンに書いてある名前と同じだろ? だから、分かったんだ」
「ああ、そういう」
ノートだけでなくカバンにも名前を書いていたのだった。全ての持ち物に書かなければ、校則違反になる。それをいままで忘れていた。
納得はしたけれど、釈然としない。
煙った空気の中、小学生は私に背を向けた。
「じゃあな、応援してるぜ。頑張って」
彼はホームの外へ飛び出す。手を振りながら去っていく。
遠ざかっていく後ろ姿を見届けて、ようやく気づいた。雨が止んでいる。
日の光は激しく大地を照らし、明かりをもたらす。近くでは学生たちの笑い声も響いた。その声音は教室で聞いたものとは異なる。無邪気で、明るい響きを持っていた。
澄んだ風が爽やかな花の匂いを運んでくる。皮膚はかすかに熱を持ち、心が温かくなったような気がした。
精神に負った傷は簡単には癒えない。なかったことにもならない。
でも、いいや。気持ちの整理はついた。
だから、立ち上がらないと。
いままで私は何度くじけても、立ち上がってみせた。意地でも書き続けた。その努力と根性を、私だけが知っている。
たとえ自分自身すら否定しても、今までの努力は否定できない。
ほどなくして電車がやってくる。開くドアから乗り込んで、車両は発進。自宅の建つ地域まで帰ってくる。そのころには空は青一色に澄んでいた。小鳥のさえずりを聞き、新緑の匂いを鼻で感じながら、歩き出す。
結局、あの児童はなにだったのだろうか。彼のことは分からない。それでも一つだけは言える。
彼は唐突に現れるなり私に光を与えて、嵐のように去っていったのだと。
その折、教室での出来事が脳裏をよぎる。
いっそう忘れてしまおうか。クラスメイトたちによる笑い飛ばしは、いままでの批評とは違う。一方的にバカにしただけに過ぎず、なんの参考にもならない。
されども抱いた感情を覚えておくのは、ありだ。私はこの記憶を糧とする。悔しさが成功に繋がるのなら、その過程でどれだけ傷ついたとしても構わない。
いつか目標に届くのなら、必ず夢が叶うと証明してくれるのなら、何度だって立ち向かえる。
自信はなくても構わない。どの道やることは変わらない。ならば、言い訳はしなくてもいい。落ち込まないでいいのだと、思わせてほしい。
たとえ終わった夢だとしても、どうあがいても叶わないものを見続けているのだとしても、執筆は続けたかった。それでよかった。それがよかった。
正直、創作活動は惰性になっている。「やめたい」と現在進行系で思うような有様だ。
仮に一〇万字の作品を生み出すとする。最初の一万字まで消化した。残りの字数を考えて、残りのエピソードの数を思い浮かべる。絶望感しかない。
それでも、やるのでしょう。時間をかけてでも話をきちんと、終わらせるのでしょう。
ならばあきらめないでいい。残りのことは数カ月後に私に任せよう。二ヶ月に一話、それならいい。それくらいなら、耐えきれる。どうだっていいのだ。誰にけなされたとしても。
悲しんだ振りなどいらない。誰も私を止められない。それは知っている。私は、私だから。
たとえ誰にも認められなかったとしても、あきらめてはいけない。負けてはダメだ。
あんな人たちの思い通りにはなりたくない。
「これでまた一歩、夢への道が潰えた」
「お前なんて一生、泥にまみれるだけの人生だ」
彼らはそのように考えているのだろう。
たとえバカにする者たちの言うように、永遠に泥の底をさまようとして、それでも私は文章をつむぎたかった。
彼らの思った通りの結果にはならない。意地でも高みを目指す。書きたい。書きたい。書いて、認められたい。いままでの恨みを晴らしたい。そのためのエネルギーなら溜め続ける。
私を嘲た者のためだけに、小説家になる夢を目指す舞台から、降りるわけにはいかない。
冷静に考えると彼らのせいでトラウマを背負うなんて、ご免だ。その言葉が私の心に爪痕を残すこと自体、我慢ならない。
絶対に見返してやる。この気持ちを忘れてたまるか。
怒りとは違う。激昂とも違う。確固たる決意。それを抱いた。抱けた。これでよかった。
もう、悲しむことはない。私は勝つのだ。そのために戦う。そのための努力ならし続ける。
たとえどれだけ時間がかかろうと、なんでもいい。書きたいから。いつかきっとたどり着けると信じてる。それでいいと言ってほしい。誰に認められなくても書き続ければ、私の勝ちだ。
ふと、顔を上げる。
太陽は赤く輝き、炎の色に染まった空が、私を出迎えた。
先ほどまでの涼しさとは打って変わり、むわっとした暑さが肌にまとわりつく。
時刻はすでに夕食時だ。ピリッとスパイシーな匂いがただよう。さあ、帰って熱々の料理を口に運ばなければならない。
前を向いて、自宅を目指す。足を早めた。
***
数週間が経っても、あの日のことを思い出す。
メンタルがズタズタになって、創作をやめようと思った。だけど例の少年と会えた。それだけで報われた気分になる。九九人の読者が低評価をつけたとしても、誰か一人の心に響くものを書けたのなら、それもありだ。それだけで満足できる。
今の私にできることがあるとすれば、少年から受け取ったノート――あの話の完成形を作ることだ。
賞でも取る日がきたら、周りの者は度肝を抜く。「え……」とショックを受けるに違いない。皆が驚く様を見られるのなら、その表情を糧としよう。なればこそ、創作を捨てる必要はなかった。
私は書く。一度捨てた話を最後まで、ギリギリまで煮詰めて、書ききって見せるのだ。なにがいけなかったのかを反省して、自分の信じた道へ突き進んでみせる。
中途半端なところで終わるわけにはいかない。
そうだ、そうだよなと心の底から思った。
ならばもう行かなきゃ。コーヒーを飲んで、気持ちを切り替えてから執筆へ取り掛かろう。
立ち上がる理由がある。退く理由はなかった。
今、全てを投げ出そうものなら、相手の思うツボになる。
敗北は認めない。あの日に誓った。必ず見返すと。
過去に作品をこき下ろした者たちへ、言ったことがある。
「ここで終わると思わないでください」と。
なお、返ってきたのは冷たい言葉。
「自分には関係ないので」
その目は蔑みに満ちていた。
まるで相手にされていない。それがなによりも悔しかった。ショックを受けて、心も折れた。
それでも、逃げない。立ち向かう。私は勝つ。そのために書き続ける。意地でも見返してみせるのだ。いつか自分の作品が遠くへ広がる日のために。
私の功績は私だけが知っている。それでよかった。それだけでよかった。
いつか遠くへ羽ばたいて見せる。そのときになって言ってやる。
「ざまあみろ」
お前の思う通りにはならなかったぞと。
今思えば、けなすばかりでろくにアドバイスを繰り出さない輩に、操られているだけだった。この言い方は、言い得て妙だ。拙い作品を見下す者は、応援もせずに去るのみ。つまらない小説を書く者のことなど、気にしない。眼中にもない。だけど、それでもよかった。
私の本心は一つだけ。絶対に書く――それだけだった。
ならば二度と振り向くわけにはいかない。あんなやつらのいいようになんて、なるものか。そう決めたからこそ、折った筆を何度でも、私は取る。
そこで、ふと思い出した。
窓の外――青や紫色に染まったあじさいが、咲いている。雨の匂いを感じる光景とは対照的に、空は鮮やかに晴れていた。
そういえば、今年の梅雨は雨が降らなかったな。
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