だからそっと、彼の手を離した
アングラなビデオをテレビで見た。
カーテンを締め切った部屋を真っ暗にして、映画館のような雰囲気に。
映像が動き出した。
密室に女が連れ込まれて、手錠で繋ぎ止められている。白い肌に艶のある黒髪を流した女だった。形のよい胸をしていて、ウェストは引き締まり、ヒップのあたりは柔らかな曲線を描く。
彼女に迫るのは強面の男。服を破り、肌に触れ、犯す。
気が済むと彼は金品を持って、逃げた。
はぁ……。
やることやって、結局は金目当て。
強盗犯なんて、嫌だ嫌だ。
よりにもよってこの罪状だなんて。
モヤモヤとした気持ちを味わいながらチャンネルを手に取る。ボタンを押して、テレビの電源を消した。
さあ、寝よう。
ベッドに横になるなり、布団を被った。
空が真っ青に染まった朝。
ギラギラとした日差しが校庭の樹に降り注ぎ、青葉はつやつやときらめいていた。
ブレザーの制服を着た生徒は団体で校舎に近づき、揃って生徒玄関から中に入る。
ワイワイとした会話を耳にはさみながら、私は一人、皆の脇を通り抜ける。抜いだローファーを下駄箱に押し込み、スリッパに履き替え、床を歩いた。通路を曲がった先には階段があり、上るとすぐに一年A組の教室にたどり着く。
ガラリと扉を開けると、教室のざわめきが止んだ。
机の周りに集まっていた生徒たちは入口のほうを向くなり、指をさす。
「盗人が来たぞ。隠せ」
「きゃー。リップが盗まれちゃう」
大げさに叫んで、所有物を隠す。
「やべ。俺、菓子持ってきてんだけど」
「えー。お守りとか消えると困るぜ」
わざとらしい声。
くだらない。
うるさいんだよ。
そんなに盗んでほしいのなら、奪ってやろうか。
口の中で悪いことを言いつつ、私は彼らには見向きもせず、自分の席へ向かう。
不躾な視線をかいくぐって着席し、静かにカバンを下ろした。
引き出しに教室やノートを入れてから、小説を机に出して、読み始める。
美少女のイラストが載った本だ。内容は軽くラッキースケベがやけに多い、男性向きの作品。俗に言うライトノベルだ。
趣味が変なのは自覚している。女の癖に破廉恥なシーンを許容するし、男の裸よりも女のエロに興味を示す。
実行に移さないまでも、女を汚すような輩と同じ思考をしていると感じる。
周りからおかしいと言われても、否定できない。
元より私の評判は悪かった。
父親が強盗犯で服役中でなくとも、忌諱の目で見られただろう。
でも、実際になにかをしでかしたわけでもないのに、同類だと言われるのは納得がいかない。
不満が胸の中で渦を巻く。あやうく吐き出してしまいそうだった。
苛立ちが爆発する前に、午前八時は訪れた。
朝読が終わって授業が始まる。
一時限目は国語だ。
準備をしようと引き出しに手を入れる。
中を覗き込み、固まった。
ない。
教科書が。
ノートと筆箱を出して困っていると、すっと横から本が差し出される。文庫本より薄い本だ。薄紅の表紙に国語と大きく書かれている。
「使う?」
さらりとした声。
呼びかけに応じて隣を向くと、一人の男子がいた。
整った黒髪に紺色の制服を校則の通りに着こなした、清潔感のある生徒だ。
彼は大きめの澄んだ瞳でこちらを見ている。
名は蓮。クラスの人気者である彼とは、隣の席の相手である。関わったのは初めてだった。
多少、気にはなっていた。
だけど、評判の悪い私と仲良くしても、相手の迷惑になる。
本当にいいのだろうか。この手を伸ばして、教科書に触れても。
萎縮し小さくなる私に、彼はそっと近づき、ささやくように言った。
「俺のことなら気にしないで。たまには助けを求めてくれよ」
柔らかな声音が硬くなっていた心に染み渡る。
少し驚いて目が震えるのが分かったけれど、すぐに気が緩んで、肩から力が抜けた。
と、ドアが開く音。
国語の教師が入ってくる。
教室のざわめきは止んで、教室に緊張が満ちた。
授業が始まる。
教科書の件で張り詰めていたものが切れたのか、私はつい彼に気を許し、関わり合うようになった。
最初は相談だった。
自分はどうしたらいいのかとか、面倒な相手がいるとか。
こちらに嫌がらせをしてくる女子がいる。机に『死ね』『バカ』など子どもじみた落描きをしたり、学校中に盗人だと言いふらし、謎の罪を着せたり。そういったことを告白すると、彼はすぐに動いてくれた。
意地悪な女子はすぐに私の元にやってきて、反省文のような言葉を並べて、頭を下げた。
「もうしません」
泣きべそをかきながら謝って、逃げるように去っていった。
以来、相手はこちらに近づかなくなった。
彼は常にこちらの味方でいてくれる。裏切らないというだけで安心したり、信頼も高まっていった。
だから、彼ならいいかと思ったのだ。
「付き合わない?」
「いいよ。君が望むなら」
休み時間の廊下で、世間話のように繰り出すと、あっさりと彼は答える。
七月八日の昼、私たちは恋人になった。
付き合うといっても最初は遊びのつもりだった。遊びといってもセフレなどではない。浮気をするほど不誠実なわけでもなかった。
ただ、結婚なんて遠い話だし、なにより私たちは高校生。甘酸っぱい関係のまま日々を過ごそうと、話し合った結果だ。
恋愛をしているという自覚はなかった。私たちの関係はあくまで、友達の延長線上にある。
それでも特別であることに代わりはない。彼と見えない糸で繋がっていると思うだけで心が弾み、体が熱くなった。
学校には二人で通い、下校の際も一緒。二人でひっつくように動いていると、周りでも噂をされるようになる。公言してはいなかったけれど、互いの関係は周知のものとなる。それが快感を誘い、ますます気持ちが盛り上がった。
休日にはデートへ行く。普段、制服以外はスカートを着ないのだが、その日は淡紅色のワンピースを着て、髪を二つに分けて結び、出かけていった。私の目一杯のオシャレを彼はごく自然に褒めた。
「センスあるね。ファッションモデルになったら?」
ただのリップサービスでも彼が口にするなら本当のことのように思えて、照れてしまう。
思い出すだけでかあっと顔に熱が上って、真っ赤になった。
私たちの相性はよく、学年が変わってからも、関係は続く。
そして、七月八日――交際の記念日を迎えた。
その日は日曜日。デートの帰り、彼はある箱を差し出す。細長い形をしていた。蓋を開くと、クッションの中に銀色のネックレスが光る。チャームはハート型で、きらりと揺れた。
「あなたが選んだの?」
「ああ、君にしか似合わないものを選んだんだ」
「さっそく着けていい?」
「ああ」
彼に言われて喜々としてネックレスに首を通す。
胸元で光るチャームを、店のガラス越しに確かめて、ニヤニヤとする。
まるで大人が身につけているアクセサリーみたいに、高級感があった。
彼には感謝をしている。
蓮が守ってくれるから、私には誰も触れられない。名誉の言葉も、私を傷つける言葉も、全てがシャットアウトされる。
そもそもの話、犯罪者の娘に偏見を持たないのは、蓮だけだ。彼だけが私の居場所だった。
だからこそうずく。過ちを犯したい。堕ちてしまいたかった。彼にこの身を預けて重なって、一つになりたい。
愛に似た欲が胸の底から出てくる。
しかし、彼は一向に振り向いてくれなかった。
手で触れ合うことはできても、奥には入り込めないようで、もどかしさを抱く。
今日は蓮の家に遊びに行く。
泊まりはしない。
だけど、もしかしたらと、そんな期待を込めて、彼の家に向かう。
そのころの私はすっかり気を抜いて、カジュアルなパンツルックになっていた。髪はくしが通っておらず、ボサボサ。そもそも、染めている影響で、傷んでもいた。そんな私に対して、彼は苦言を呈しなかった。
だけど。
「その趣味はやめたほうがいいと思うよ」
え? と顔を上げる。
私の手には官能小説。
エロオヤジのような顔でそれを読む耽る少女を見て、彼は真面目に指摘をする。
別に変な話でもないのに。官能的な部分だって芸術を表現しているだけ。エロいと思うほうが変なのだ。開き直ったように断言し、頬をふくらませる。
だけど、彼が言うのなら仕方がない。バタンと本を閉じて、彼を見上げる。
蓮はため息をついた。
本当に嫌だったのだなと分かって、少し傷つく。
彼はどこまでもきれいだった。
私は汚い。
決定的な違い。
二人の間に横たわった溝は、どうあがいても埋められなかった。
ぎこちなさを感じながらも、関係は続く。
夏休みも二人で祭りに行く約束をした。
当日、浴衣を着て出かける。木綿の生地に刻まれた朝顔が、涼やかに私を彩る。蓮は紺色の地味な浴衣だったけど、見た目がいいから雅で、魅力的に見えた。
私たちは手を繋いで、歩調を合わせて、屋台の隙間を通り抜ける。
最初に金魚すくいをした。
すくい取った金魚が透明な袋の中で泳ぐ様を、ぼんやりと眺めた。
その折、周りがぱあっと明るくなる。
反射的に顔を上げると夜空に大輪の花が咲いていた。
花火は星よりも激しく輝いたかと思うと、溶けるように消えてしまう。
だけど、またすぐに次の花火が上がって、空を照らした。
一生、続けばいいのに。
二人だけの時間も。
鮮やかな光景も。
祈るように天を見つめ、彼にすり寄った。
弾かれたように彼が間近で、私を見る。顔に汗をかき焦ったような目をしていた。
構わず顔を近づき、唇に触れかける。
すると彼はいきなり両手を前に出した。
勢いよく突き飛ばす。
私は一歩下がって、体勢を立て直した。
ゆっくりと顔を上げて、丸い目で彼を見つめる。
「ごめん」
しゅんと眉を垂らし、小さくこぼす。
蓮は気まずげに目をそらした。
「そういうのは駄目なんだ」
申し訳なさそうに口に出す。
その言葉は頑なな響きも持っていた。
「君とは精神的な関係だけでいたいんだ。よろしくお願いできるかな?」
目を合わせ、真剣な顔で訴えっ帰る。
大きく澄んだ瞳が揺れていた。
私は悟った。
決定的ななにかを。
刹那、頭を巡ったのは、まだ彼と付き合って間もない日の出来事。
放課後、ひっついて歩いた。
丘の上にやってきて、夕焼けを見上げる。
太陽がまぶしく、空が燃えるように赤かった。
「ねえ、怖い。なにか起きそうな気がする」
世界の終わりを連想する光景が恐ろしくて、鳥肌が立った。
すがるように手を握り込んだ私に向かって、彼は優しく声をかける。
「大丈夫だよ。この手はきっと離さない」
ああなんて――走馬灯のように。
瞳が震えるのが分かった。
心に淡い感情が流れ込み、ぐちゃぐちゃにかき乱される。
哀しいような、悔しいような。
拳を強く握りしめながら、私は口を開く。
唇を震わせて。
「私はあなたの想いに応えられない。きっとあなたを追い詰める」
彼も私の全てを受け入れてくれるわけではない。
だからこうして私を拒む。
理解した。
自分の理想に恋をしても、仕方がない。
これ以上を求めても押し付けるだけになる。
だからそっと、彼の手を離した。
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