第一幕

子守唄のように。――零

「大切なものは失ってから気づくんだって、いうよな」

 そうだ。

 そいつはそんなことを、漠然と語り始めたんだった。

「俺からすれば……、失ってから気づけるものなんて、かつて大切に思っていたものだけ――そう言うべきだな」

 お互いに学生服のまま。

 下校途中の寄り道、街角の公園。

 四人は座れるベンチに、間を開けて二人だけ、腰かけて。

「実際、俺たちは常日頃から失い続けているだろ。会話をするだけで舌から、呼吸をするだけで肺から、物を見るだけで眼球から、どころか何もしなくても皮膚から、水分が蒸発し、失われてゆく。だが、そのことを認識なんてしやしない。気づきなんかしないのさ」

 独白のように台詞が続く。

 話に飽きたかのように、僕は姿勢を崩した。

 両手をポケットに突っ込み、足を前へ投げ出し、空を仰ぐ。

 もはやお決まりの、白く甘い香りのする棒切れを、咥えた唇でゆらゆらと、弄びながら。

「水分は大切で必要不可欠なものだが、俺等はそれがかけがえのない物だとは思っていない。認識していても実感していない。だから失われつつあっても気がつかない。何事にもそれはいえるわけだぜ。まったくもって、同一のまま持続される物象なんざ無い。獲得した瞬間から、全てが失われる。その中で気づけるものの、なんて希少なことだろうな」

 空は朱色がかっていた。

 降下の速度を増す気温、明日を意識し出す人々。

 家に帰りたいと思いもしない、思春期染みた我等、高等学校の男子生徒二名。

 緩やかな風、遠く騒がしい音、夕暮れの雰囲気、世間からの隔離を幻想的に感じる時間。

 隣を見やると、そいつの横顔、それも綺麗な側が映るが、目など合わされずに、言葉が連なる。

「俺は自分のことを人並み以上に特別扱いする癖は持っていないが、現代日本社会の一般男子高校生としては珍しく、明らかに大切だったものをあらかた失ったって経験を持っていやがる。自惚れなんかじゃなく、多分常識的な判断としてな。自己、人格を形成するのは、勿論いうまでもなく過去という経験なんだろうが、その過去に俺はいつも怯えさせられている。――すなわち、また失うんじゃないだろうか、いつか失くしてしまうんじゃないだろうか――、そんな風に恰好悪くみっともなく、怯えきっちゃってんだな。おかげで最近じゃ、大切そうなもの……んなもん全部が全部、嘘で偽物で夢で幻なんじゃねぇか、否、そうであったらむしろ嬉しい……とすら、感じてしまってる。どうせ失うんだったらよ」

 僕はポケットから手を出した。

「――トラウマかい?」

「そんな大層なものじゃない」

 手をベンチにつき、ずり落ちた体を起こす。

「トラウマだろ。精神的外傷さ」

「決めつけるなよ」

「教えてあげているんだよ」

「偉そうだな。じゃ、それでも構わねぇぜ」

 すっかり短くなった棒切れを、唇から外し、右手に取った。

「で。続きをどうぞ」

「……泡ってあるだろ」

「あるね」

「のぼって、臨界に達し、やがてはじける。価値観やら命やら――そいつらも同じなんじゃないかってな。詩人なら誰でもいいそうだけどよ」

「はじけて、失われるって? だけど君は詩人じゃないだろう」

「当たり前だ。俺は詩人なんかじゃない。詩はおろか、日記さえつけたことがない。小学校の夏休み、絵日記なんか全部親に書いてもらった。記録は要らない、表現は拙い、何故なら俺がいるし、体もここにあるからな」

 まるで青い。

 若い台詞を懸命に、恥ずかしがりもしないで。

 そいつは語るし、僕は聞くし、しかも互いに響いていた。

 眉ひとつ動かさずに、照れ隠しみたいに、右手の物を僕は眺めて、言う。

「だから、何を言いたいのかな。悪いけれど僕は、君の持論にも君の人生にも、大した興味は持ち合わせていないんだよ。多忙な中わざわざ時間を割いてまで、君の妄言に付き合ってあげているこちらの身にもなって欲しいね」

「いやはやそれは悪いことをしたな。てっきり俺は、お前が俺の持論と人生観を聞きたくて聞きたくてたまらなくて、静かにご静聴してくださってるのかと思ってたぜ。だったらこっちもしっかり話してやらねぇと、って思ってな」

「まさか。そんなこと、あるわけがないじゃないか」

「そうかよ」

「そうだよ」

 苦笑いのような含み笑いを、共に浮かべた。

「つまり、あれだよ」

「どれさ」

 ここでそいつは、やっと僕の方を見た。

 目が合い、顔が向かい合う。

 そいつの顔の右側面は、かつての火災の痕が広がっていた。

 醜く爛れた皮膚、まばらな髪、涼やかな瞳、されどにこやかに微笑む。

「また話そうぜ」

「To be continued……、今日はもう帰るかい?」

「おう」

 颯爽とベンチから立ち上がり、カバンを肩に担いで、軽くそいつは手を振った。

「じゃあな」

「続きを楽しみにしないでおくよ」

「頼むぜ、謡依うたい

 君は僕の親友だよ。

 そしてそれは、失われはしないさ、しきみ

 なんて、口に出せないまま、僕は握っていた物を口に放り込む。

 ココアシガレットはずっと好きなままだ。

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