第2話ー2 枯渇の如く(中)
炎が混乱を深めた次の瞬間、少女の口が顎が外れんばかりの勢いで開かれた。
そして風すらも裂く勢いで、何か黒い塊のようなものが少女の口からこちらに向かって飛び出してきた。
「うわあああああ!?」
リュウが悲鳴を上げてたじろぐ。当たり前だ。こんな事態に遭遇することなど一生に一度だってないぐらいだろう。しかし、炎にとってこの事態は日々身を置いている事態でしかなかった。
その場に凍り付くリュウを自分の後方にかばうようにかなり乱暴に突き飛ばし、飛び来る黒い塊をしかと視界に収めた。そして確固たる思いを持って、彼や彼らを護り、彼らの敵を害す力に呼びかけた。
「
炎の呼び声に応え、お
「――――――!!!」
聞くもおぞましい叫び声を黒い塊はまるで生物のように上げていた。炎は背後のリュウが身をすくめる声を聞いた。
「ひっ!」
「しっかりしろ! この俺に平気で相対してた癖に、この程度の火急護りにビビッてんじゃねえ! 身を護るためにも畏れるな!」
炎がそうリュウに叫んでいる間に、異臭がしてきた。炎には馴染みの薄い臭い。しかし、一般的なその匂い。記憶を辿る。これは、たしか。
「さかな?」
呟かれたリュウの言葉が正解だった。それは魚の焼ける匂い。人によっては空腹を感じるだろう香ばしい匂い。断末魔を上げた黒い塊の正体が、焼けていく臭い。
炎にとっては、苛立たしいことこの上ない臭い。
「死ぬの? それ」
恐る恐る炎の陰から勢いを削がれ地に落ちた黒い塊をリュウは窺う。
「いや、いきなりだったからな。表面を炙るので精一杯だった」
そもそも、いきなりであろうがなかろうが、炎には殺せやしない。それを胸にひしひしと感じながら、炎も黒い塊を窺う。
一応は行動不能にしたと言え、何かも分からない黒い塊への警戒は怠らない。少女と炎たちの間の地面では、黒い塊の全容が見え始めていた。
それは常識外れに巨大な魚だった。特徴的な口の形から見るに、鯉の一種だろうか。魚に牙はあるものだったか。リュウと炎に突如として牙を剥いたそれは、その代償のように全身をぐったりと地面に横たえ、力なく痙攣を続けていた。
「炎兄ちゃん、
「まあな」
お護り使い。それは人を護る力、お護りを行使する者。それ故に、人も人ならざるものも、害す者。人の力では容易に為せないことを、可能にする力を操る者。炎は、火のお護りと付き合うお護り使いになって、もう随分になる。
この世界にはお護り使いは無数にいる。何も珍しいものではない。
「それ以外に旅をするものなど、どれほどいる?」
「分かんないよ。ミズキのとこの父ちゃんも、どっか旅に行ったきり帰って来てないもん」
「父ちゃん、か」
リュウという名前だと言っていた。先ほどから話題に上るが、自分と同じ名前で、知人の父と言うのなら、気にするのも無理はないのかもしれない。
父親というのは、炎にとっても反応しづらい存在だった。心中に沸いたその気まずさを誤魔化すように、炎は問いを重ねた。
「お前の父ちゃんは?」
「いない」
問いに返ってきたのは、淡々としたそっけのない一言。
「顔も知らない」
「……そんなもんか」
俺もそうだった。
そこまでのことをこの少年に教える気にもなれず、炎はただ頷いた。
「ねえ、あっちの姉ちゃんが魚のお護り使い?」
「それはない」
リュウの言葉でようやく巨大魚の向こうにいる少女の存在を思い出し、そちらに目をやりながら炎は即答した。
「なんで?」
「倒れてる」
巨大魚を吐き出した後、少女はその反動のために気を失ってしまったらしく、土手の上で倒れ伏していた。今度は彼女のスカートも、炎の羽織と同様に風になびいていた。
「お護りの原動力は人の認識だ。使い手が気絶しちまってんじゃ動くものも動かねえ。仮に自律型だとしたらここまでしょぼい威力な訳ねえから、これは遠隔型のお護りか、野良のお護りかのどっちかだろうな」
「ねえ何を訳の分かんないこと言ってんの?」
「独り言だよ。さて、どうしたものか」
会話になっていない会話をリュウと交わしながら、炎は少女に近付くため巨大魚の脇を通って少女に近づいた。炎の背中にすがりつくようになっていたリュウが引きずられるようにしながら、炎に続く。
もしこいつらが今回の炎の仕事に大いに関わるのならば万々歳。いや、もしもも何もないとしてもクチナワの名を口にした以上は何らかの足掛かりぐらいにはなってくれるだろう。
なってくれなければ困る。
そう思いながら、炎は少女の顔にかかった、その異人由来のものと思われる銀色の髪をかきあげて、リュウにその顔を見せた。
「この娘に見覚えは?」
「無い。小っちゃい村だし、村の人間ならすぐ分かるよ。そもそも異人の格好する人がこの村にはほとんどここにはいないし」
「だろうな。おい、しっかりしろ」
少女に声をかけるも返答はない。
「死んじゃった?」
「いや、息はある。おい、女!」
大声を出しながら、名が分からないとは言え乱暴に"女"と呼ぶのもどうだろうかと、炎が戸惑って、とりあえず少女の肩でも揺すろうと、手を伸ばした時に、炎は背後でリュウではない何かが動くのを感じた。
『無駄だ』
その感覚の示した通り、地の底から響くような声が彼らの通り過ぎてきた方向からした。
「おい、小娘! 起きろ!」
「ほ、炎兄ちゃん。魚が喋ってるよ? ねえ?」
無駄とせせら笑う声を無視して、少女に呼びかけを続ける炎の羽織の裾をリュウがぐいぐいと引っ張った。
「魚ぐらい喋るだろ。もう復活したか、無駄に図体のデカイ魚野郎め」
無視しようとしていた炎だが、怯えたリュウがしがみつくのに辟易して、渋々後ろを振り返った。
『ふん、こちとら伊達に長年、野良神をやっておらん』
巨大魚はあちこちに焦げ付いた跡を残しながらも悪態をついた。
「神のくせに移動ごときに小娘使ってんじゃねえよ、とんだお騒がせ野郎が」
「……神?」
リュウが聞き咎める。
「神様なの? こんなんが?」
『こんなん!?』
神を名乗る巨大魚を不遜にもぞんざいに指さしながら、炎に問い掛けたリュウにただでさえデカイ口をさらに開いて巨大魚は衝撃を隠すことなく戦慄いた。
「神といっても、へぼ神の部類だぞ」
『へぼ!?』
これまた不遜に言い捨てた炎に巨大魚は同様に怒りをあらわにし、大口を開けて威嚇する。
「へぼだろ、へぼ。どんな事情があんのか知らねえが、てめえの領域じゃねえところにひょいひょい出てくるな。ここは陸地だぞ、魚。おとなしく水ん中でゆらゆらしてろ、燃やすぞ」
『燃やしたところで燃やし尽くせんだろうに』
「ああ?」
炎は不機嫌に巨大魚を睨んだ。
『我には見えるぞ。貴様の額のその呪っ』
「
『きゃー!!』
炎の呼び声に応え、勢いの無い焔が魚の表面をなでた。まさしくそれは炙り火であった。焼け終わりには食べごろの魚が完成するだろう。
「……炎兄ちゃん」
『貴様! やめろ! やめろ! 滅ぶ!』
「聞こえん」
『そこの稚魚の人間、こいつを止めて! やめさせて! 助けて! 神様を助けて!』
「……炎兄ちゃん、へぼ神だってのはじゅうぶんに分かったから、もうやめてやろうよ。圧倒的有利に立っていてかつ話が通じる相手にむやみに危害を加えるのはどうかと思うよ、人として」
リュウはずいぶんと大人びた言葉で炎をなだめてきた。
それに刃向かうのは子供じみた行いに思えてしまう言い方をしていた。
「ちっ」
舌打ちを返しながらも、炎にはこの場で魚を殺してしまう気はもちろんなかった。渋々と炎は魚に手をかざす。
「……
炎の呼び声に応え、火が熱を失い沈黙する。
「便利なんだね、お護りって」
「まあな」
炎にとってみれば、ほんの序の口程度のお護りも、リュウを感心させるには十分だったようで、その目には尊敬が色濃くあった。
短時間の内に現金な奴である
そんな二人のやりとりを、魚は苦々しげに見上げていた。
『まったく、最近の人間は敬いや畏れを知らなすぎる……昔は威厳溢れる我の姿を見れば、腰を抜かして引っくり返って上を下への大騒ぎをしたものだというのに』
「この俺がそんなまぬけに見えるか?」
『やれやれ、そういう受け応えではな。貴様、我が何故直々にこんな乾ききった村にまで降りてきたと思うておるのだ』
「逃げて来たんだろ? 見たところ、土地神ほどの大物でもないらしいし」
『如何にも、我は土地神では無い。しかしだからと言って、住み慣れし山から逃げてきたわけでは断じてないぞ』
「あ?」
『我は忠告に来たのだ。小さく幼くか弱きものどもよ』
「忠告……?」
「………………………………」
リュウが首を傾げ、炎は黙った。黙って、続く言葉を待った。神を名乗る者の宣託に耳を傾けた。
『この度の障り、最早、水だけに及ぶものではない。すでに山を揺るがしている。やがては下ってくることであろう』
「どこまで?」
『どこまででもさ』
「……そうかよ」
「どういう意味?」
神の宣託を受けた遣り取りに、不安そうな面持ちでリュウは炎を見上げた。
「まだまだ時間はあるってことだ」
炎は強いて気の無い風を装って答えてから巨大魚に向き直った。
「しかし魚野郎、この小娘はなんなんだ?」
『わしも川が枯れたせいで行き場をなくしてな。そのとき一時的に身を寄せていた山中の水溜まりで行き逢った。その娘が山を降りたがっていたので道案内をしてやっただけのことだ』
「なるほどな。で、駕籠代わりにした訳か。リュウ」
「な、何?」
「この村の医者の家では寝床を借りれそうか?」
「ううん。お医者先生んとこは狭いから、寝床を確保したいなら村長ん家の方がいいと思う」
「分かった。案内しろ」
「うん!」
自分にどうにかできる範囲の炎の指示にリュウは元気を取り戻したようだった。
そんな彼に軽く頷いて見せながら、炎は少女を担いだ。風のように軽い彼女は、相変わらず目を覚ます様子はなかった。
「大丈夫かな、その姉ちゃん」
土手と魚に背を向けて、炎の先導を務めながら、リュウは少女の心配をした。
「やつれちゃいるが呼吸も心拍も安定している。きちんとした医者に見てもらえばなんとかなるさ」
「よかった……」
「村長の家にこの娘を運んだ後は、悪いが、その足でお医者先生とやらを呼びに行ってくれるか?」
「もちろん」
『こら、お前ら、我を置いてく気か』
「ああ」
「うん」
淡々と打ち合わせを済ませ、巨大魚を振り返りもせずに炎とリュウは頷いた。
『血も涙もない奴らだな!』
「うるせえ」
炎は乱暴に切り捨てた。
「涙で流す水がもったいないよ」
リュウは現実的なことを言ってみせた。
涙で流す水。リュウの言葉に、炎はそんなものはとっくの昔に枯れたのだと思い出す。あの真っ赤な炎の中に、炎灯理は血も涙も置いてきた。炎はそう思っている。
『祟るぞ……己ら』
魚の弱々しい呪詛の言葉を背中に炎とリュウは土手から立ち去った。
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