蛇足編01 白紙に戻った
人智の及ばぬ土地を離れ、メアリーは二ヶ月ぶりに陽の光を浴びる。城にいた時は外に出ることがなかった為、太陽の下に出ることもなかった。
久々に陽の光を浴び、メアリーは言いようのない感情を覚える。それは懐かしさや嬉しさ、そしてリュウと別れた寂しさでごちゃ混ぜになっていた。
メアリーが元の生活に戻って一週間。
この日はアレクサンダーと交わした婚約を解消する為、父親と一緒にコーンウェル領に訪れていた。
コーンウェル邸に置いていた私物を、侍従たちがせっせと馬車へ持ち運んでいる。
その間メアリーはアダルバートから渡された、ある書類に筆を走らせていた。内容はじっくり確認していないが、今回の事を他言無用にする契約書だろう。
「あの、書き終わりました。どうぞ」
「ありがとう。これは私が大切に保管する」
そう言って、アダルバートは書類を受け取った。
なんせ彼は外交を任せられる辺境伯という身分、自分の地位を気にかけるのは無理もない。
ふたりが婚約を取りやめると報告した時も、アダルバートだけは説得するのに数時間かかった。
「メアリー嬢、あなたは本当の娘のように愛らしかった。どうかお元気で、それとこれを……」
そう言い、アダルバートは父親に小包を渡す。中身を確認しなくとも、それが何かは察しがついた。
婚約解消と書類にサインをしただけで、用事は案外早くに終わる。しかし荷物運びがまだ終わっていなかった。
「私、少し散歩してきますね」
「あまり遠くには行かないように、な。絶対に遠くに行くんじゃないぞ?」
「わかっています。庭園の中を歩くだけです」
やけに父親から念を押される。メアリーもその理由をわかっているため、苦々しい顔をした。
荷物運びが終わるまで、メアリーはひとりで庭園のなかを散歩する。父親は馬車に寄りかかり、遠くにいるメアリーを見守りながら葉巻を吸っていた。
花々の間でかすかに鼻歌が聞こえる。その歌はどこかの地に伝わる童謡で、歌っているのはメアリーだ。
メアリーが鼻歌を歌いながら散歩していると、偶然にもアレクサンダーと鉢合わせる。
「あ、メアリー。良かった、間に合ったようだね」
「アレクさん、どうしてここに?」
「今日は稽古の日だったが、弟子に無理を言って抜けてきたんだ。君と話したくて」
アレクサンダーはそう言い、メアリーの姿を見て安堵の溜め息を吐いた。そして庭園の中央を指さして「少し話さないか?」と口を開く。
中央にはテーブルと椅子があった。そして皮肉にも今日は清々しいほどに空が晴れている。
現時点で断る理由はどこにもなかった。
「急いで来たのですか?」
「まあね。そう遠くない距離でも、流石にきつかったよ」
心なしかアレクサンダーの息遣いが荒い。それほど大事な稽古の予定をずらし、メアリーに会いにきた。
ますます断りづらくなったのは言うまでもない。
「……わかりました。少しだけですよ」
「あぁ、ありがとう。すぐに終わるよ」
メアリーは時間潰しにちょうどいいと考え、アレクサンダーの誘いを渋々承諾した。承諾を受け、アレクサンダーは今までないくらいに穏やかな笑みを浮かべる。
彼のそこがまた憎らしいと感じた。が。メアリーがそれを口にすることはない。
「君にずっと聞きたかったんだ。彼との関係を」
「えと、彼とは?」
「とぼけないでくれ。メアリーをさらっておきながら、二ヶ月後にはとても親しげにしていたじゃないか」
椅子に座り、アレクサンダーは真っ先に気になっていたことを訊ねた。
メアリーは最初誰のことだかわからず、首をかしげる。
しかしそれがリュウであると気づき、メアリーは途端に恥ずかしそうに笑った。
「普通ならあり得ない。でも心理学的には、加害者と被害者が同じ状況にいると恋愛に発展すると聞いたことがある」
「なにが言いたいのです?」
「僕には君らがそういう仲に見えた。いや、もっと親密そうな仲に思える」
あのとき、アレクサンダーが目にしたふたりのやり取りは鮮明に覚えている。まるで恋人か、それ以上に親密な関係を築いた仲のように見えた。
それはこの短期間で可能なのか、アレクサンダーの心の中は疑問と好奇心で溢れかえっている。
「特別なことはしていません。ただ私が後先考えない性格だから、彼がお節介を焼いただけです」
「本当にそれだけかい? 僕にはふたりが長い付き合いのある関係に見えたけどね」
メアリーの口から出た言葉は、アレクサンダーの期待を裏切るものだった。ふたりの間にはなにもない、その事実は何にも変えられない。
だがアレクサンダーは納得していなかった。
「ふふふ、勘ぐりすぎですよ。確かにあの人には昔大切な人がいたようです、きっとその人と……この私が重なって見えたのでしょう」
「大切な人か……」
それはあながち間違っていない。リュウはメアリーに妹の影を追っている、いわゆる一種の現実逃避だ。
メアリーはそれに気づいている。前世の記憶を思い出したところで所詮は記憶、メアリーはメアリーでしかなかった。
疑り深い彼を横目に困り果てたように微笑む。彼をどう納得させるべきか、メアリーは思考を巡らせた。
「もう僕らの関係は白紙に戻ったんだ。隠し事なんて別にしなくていいんだよ」
「ふふ、隠し事だなんて。してませんよ」
ついには隠し事をしているとまで疑い始める。今まで我慢していたが、メアリーはそこであははと声をあげて笑った。
思ってもみなかった反応に、アレクサンダーはたちまちぽかんと口を開ける。
「ふふふ、本当に私とあの人の間にはなにもありませんよ。それは神に誓って言えます」
「そうか……本当に君たちにはなにもないんだね」
そこでようやくアレクサンダーも納得した。意地でも食い下がっていたが、ふたりにはなにもないのだと観念する。
ふと、ふたりの元へひとりの侍従がやってきた。侍従はメアリーに「ご帰宅の準備が整いました」と端的に告げる。
同時に遠くからメアリーを呼ぶ父親の声が聞こえた。そろそろ帰らねば、帰宅する時間が遅くなってしまう。
今晩は大事な晩餐があるのだ、決して遅れるわけにはいかなかった。
メアリーは席を立ち上がり、アレクサンダーに「それではお元気で」と最後はお嬢様らしくお辞儀をする。
アレクサンダーも「元気でね」と告げ、親娘が帰って行く様子を見届けた。
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