021 乙女の拳

 地面に倒れこんだ父親を仰向けにして、リュウは彼の頭上に手をかざす。そして今まで彼がなにを見聞きしてきたのか、頭の中を覗き込んだ。

 メアリーを連れ去ってから今までの二ヵ月間、なにがあったのか記憶のなかを旅する。

 最初の数日に彼が見せた行動は父親らしく、娘を心から大切に想っていると伝わってきた。それから慣れない生活に戸惑いつつも、夫婦仲を保とうと努力する日々の光景が続く。

 そしてメアリーを連れ去って数週間が経ったある日、父親に異変がおとずれた。そこから彼の記憶もおぼろげになり始め、断片的な記憶しか見れなくなる。

 父親が最後に見た光景に行きついたとき、そこにはリュウの姿があった。先ほどと同じように酷く混乱し、リュウに一撃を与えられてから記憶が途切れている。


「どうでした?」

「……なにか知ってそうなアレクサンダーから話しを聞こう」

「え、なにかあったんですか?」

「わからん。ただひとつだけわかってるのは、奴が親父さんにかかってる呪いに一枚噛んでるってことだ」


 父親の見聞きした記憶がおぼろげになる直前、目前にアレクサンダーの姿があったのをリュウは確かに確認した。

 直感でアレクサンダーが関わりを持っていると睨み、もう一度巨大な蛇を呼び起こす。呼び出された蛇は途端にえずき出し、ふたりの前で巨大な塊を吐き出した。

 巨大な塊は黒く、ねっとりした液体がこびりついている。しかし、蛇が姿を消したことによって液体も蒸発していった。


「アレクサンダー……」


 液体が完全に蒸発し、メアリーがぽつりとその名を呼ぶ。ふたりの目の前には気を失ったアレクサンダーがいた。

 握っていた剣も手放し、ぐったりしている。顔だけは端整のため、まるで王子が眠っているように見えた。


「うっ……ここは、いったい……」


 外の空気に触れ、アレクサンダーは息を吹き返したように意識を取り戻す。

 険しい顔をしながら、目の前にいるふたりへ目線を向けた。途端にアレクサンダーが硬直したのは言うまでもない。


「め、メアリー……どうして君がここに」


 不穏で気まずい空気が流れ始め、メアリーもアレクサンダーもつい黙り込んだ。

 が。そんなこともお構いなしにリュウが「お前に話しがある」とアレクサンダーに話しかける。どんなに空気が気まずかろうとリュウには関係なかった。

 どんなに察する能力が高くても、今ここで合わせる優しさは持ち合わせていない。必要性もなかった。


「メアリーの親父さんに呪いがかかっていた。あれは生半可の技術でできるようなもんじゃない、なにか知ってるだろ」

「なんだいきなり、言いがかりはよしてくれ」

「言いがかりねえ。おっと、俺の手元にあるこれはなんだ?」


 そう言って、赤い液体が入った瓶を見せる。

 それを見たアレクサンダーが焦ったように自身のポーチに手を伸ばした。腰元にはたしかにポーチがあったはずなのに、どこを触ってもない。


「俺は昔占い師だった、医者の真似事で妖術系にも手を出していた時期がある。だから大体のことはわかるんだ、これがなんなのか」

「それは……」

「言え。親父さんに呪いをかけたのはいったい誰だ? また飲み込まれたくないなら答えろ」


 先ほど蛇がアレクサンダーを吐き出したとき、蛇が秘密裏にリュウへ瓶を残していっていた。リュウが瓶の正体について触れないのは、彼なりの配慮だろう。

 アレクサンダーは地面に拳をうちつけ、観念したかのように話し始めた。


「呪いかは僕にはわからない。彼女が、カーラが今回の話を進めやすいようにと特別な芳香を僕に作ってくれたんだ」


 もともと呪いはひとつの芳香に込められており、なにも知らなかったアレクサンダーは議題室に勧められたまま置いたに過ぎない。それがどんな効能を発揮していたかは、父親の記憶で見た光景で把握済みだ。

 アレクサンダーはただカーラの言葉に従い、そして実行に移しただけらしい。


「カーラって、だれのことだ?」

「私が騙された哀れな婚約者の位置なら、カーラは存在も認めてもらえない哀れな女といったところでしょうか」

「こら、そんなこと言うんじゃありません」


 言い方は酷いがメアリーの言い分はあっている、カーラとはアレクサンダーと親密な仲にある女性の名前だ。


「メアリーの言い分はあってるよ。母親がまだ生きていた頃にカーラと出会ったが、交際を認めてもらえないどころか出会ったこともうやむやにされて……また会わないように監視されてすらいた」


 アレクサンダーはそう言うと自傷気味に笑った。アレクサンダーとカーラが出会った事実は母親の手によってないことにされ、その事実は父親も知らないままでいる。

 が。最近は感づき始めているのだろうが、母親と同じようにいい顔をするはずもなかった。


「全部母親の差し金だった。けど母親の死後、彼女とまた会う機会があった……それから親密な関係になったが、誰よりも厳格な父様に言えるはずもないだろう」

「どうして?」

「どうしてって、彼女の家系は代々人を呪ってのし上がってきた貴族だからだよ」


 そんな彼女が芳香を作ったというのだから、カーラはただ隣に座り涙ぐむだけの女性ではない。おしとやかそうな仮面の内側に秘めたカーラの素性を知り、メアリーは身震いした。

 カーラの家系は呪術を得意とし、そして彼女自身も呪術を自在に操っている。彼の亡くなった母親が再び会わないように監視していたのもうなずけた。


「親父さんの見聞きした記憶と照らし合わせると、芳香を嗅いだ者の正気を奪うのか。じゃあなんで近くにいたお前は正気でいる?」

「吸ってしまわないようにあらかじめ栓を鼻の中に詰め込んでおいたんだ。きっと彼女なりの優しさだろう」

「ふむ、まあいい。じゃあこの赤い液体はどうしたんだ? どこで手に入れた」


 芳香の次は、瓶に入った赤い液体の話題へ切り替える。アレクサンダーは瓶を見た途端、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。

 そしてもごもごと言葉を濁しながら話し始める。


「それは、彼女から手渡されただけだ。それでメアリーを眠らせて連れ帰ろうと」

「本当にそれだけだったのか?」


 リュウの疑り深い質問に、アレクサンダーは反射的に「僕はなにも知らない!」と答えた。実際にアレクサンダーはなにも知らなかった、ただ察しがついているだけのことで。


「もうお話しは終わりましたか?」

「んーまあな。煮るなり焼くなり、メアリーの好きにすればいい」

「そうします」


 話しについていけず、置いてけぼりを喰らっていたがメアリーは彼に歩み寄った。そして華奢な手を差し伸べ、にっこりと微笑みかける。


「アレクさん、どうか立ち上がってください。地べたにへたり込んでいては、騎士という威厳も廃れてしまいます」

「しかし」

「どうか、立ち上がって」


 メアリーに促されるまま、アレクサンダーは重い腰を持ち上げた。鎧についた砂埃を払いのけ、メアリーに目線を向ける。

 彼女は初めて会ったときの幼さを秘めたまま、アレクサンダーの顔をまっすぐに見つめていた。


「アレクさん、カーラの家系が代々呪術を扱っていても彼女が好きなんですね」

「もちろんだとも、誰もが彼女を忌避しても僕だけは違う。彼女の笑う素敵な顔も優しさだって、誰も知ろうとしないのが許せない」

「そうですか。……ではこの日をもって、私はあなたに婚約破棄を申し込みます」

「え、メアリー? それは、本当なのかい?」

「もちろん」


 アレクサンダーがカーラのことを語っている瞬間の表情を見たとき、メアリーは彼女には敵わないと悟る。

 どう足掻いたところで、アレクサンダーはずっと一途のままでいた。

 それは誰にも変えられない事実だろう。メアリーは潔く身をひくことにした。


「じゃ、じゃあ早く邸にもど……」

「ただし」


 アレクサンダーの表情に光がさした時、彼の顔面に大きな衝撃が与えられる。視界はたちまち反転し、地面に倒れ込む衝撃も加わった。

 意識が朦朧とするなか顔面に強烈な痛みを感じ、手でおさえると生暖かい液体が鎧の隙間にある生地をつたっていく。


「正式な手続きをしてくださればいいです、最近流行っている慰謝料なども必要ありません。私は優しいからこのくらいで勘弁してあげます」


 メアリーはそう言うと、赤くなった片手の拳をひらひらと振った。

 リュウが面食らった顔でふたりを交互に見ている。なにしろ、メアリーは華奢な腕と拳で大の男を殴り飛ばしたのだ。

 さすがのリュウもなにが起きたのかすぐに理解できず、すっかり混乱したのは言うまでもない。


「後日アレクさんのお邸に書類を送りますので、かならず記入してくださいね。絶対に、ですよ! わかりました?」

「わ、わかった……」


 アレクサンダーは愛らしく、かつ抜け目がない容姿にすっかり騙されていた。流れる鼻血を押さえながら、メアリーの念押しに気圧される。

 あまりに横暴で少女らしからぬが、これはメアリーなりの優しさだと受け止めることにした。

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