第68話 第3章「後戻りできない事態」(七月七日)3
「元田!」
明山が怒鳴ると、部屋はしーんと静まり返った。
「お言葉ですが、うちらがお売りできるのは芸のみです。それ以外は何一つ売っておりません」
豆初乃は、静かに繰り返した。
「な、なんだと」
まだ何か言い返しそうな元田を、明山が制して言った。
「元田、お前の話とはえらい違うじゃねえか?この姉ちゃんはずいぶん肝が据わってるなあ。腰抜けのお前よりずいぶん気が強え」
「違うんです!友世は―――この舞妓は、ほんとうはこんなんじゃなくて、こいつの母親は俺の親父の愛人で、こいつは逃げたんです」
必死に言いつくろう元田は、豆初乃から見ても滑稽に見えた。元田は、明山からも、そこにいる誰からも軽んじられていた。三年前、こんな男に傷つけられて、自分は京都に出てきたのだったか、と豆初乃は胃の底が冷たくなるような気持ちで見ていた。
「この舞妓–––このおぼこそうな姉ちゃんが、奈理子から大事な指輪を盗んだって話が出たときに、『俺、知ってますよ、この女、俺が絞めたらすぐいうこと聞きますよ』って言うたわりには、えらい話が違うやないかあ?ええ?」
明山は、元田に言った。
(奈理子―――あの人の名前や。あの人は今日はいてはらへんのか。それに、うちが、あの人から指輪を盗んだってことになってんの?)
豆初乃は事態の展開に驚きながら、濡れ衣を着せられないように、口を開いた。
「ちょっとお待ちください。うちが指輪を盗んだって、どういうことですか。うちは今まで人様のものを盗んだことなんかあらしまへん」
豆初乃は膝に手を置いて背筋を伸ばして、まっすぐに明山を見て言った。
「へっ、俺の親父をお袋から盗んだ母親の娘だろうが。お前も、きれいな着物を着ては、人様の旦那を盗んでんだろうが」
横から元田が口をはさんで、豆初乃を罵る。自分の失態をカバーしようとしてのことだろうが、それが豆初乃に火をつけた。豆初乃は勢いよく立ち上がる。
「今、なんと言わはりました?うちのお母ちゃんがあんたの親父を盗んだって?あんたの親父は自分の意思もない物なんでっか?よう、耳をかっぽじってお聞きやす!あんたのお父さんが、自分の考えて選んだこととちゃいますのんか?」
着飾った舞妓が、仁王立ちで怒鳴る迫力は相当なものだった。
「うちが、人様の旦那さんを盗んだって?そんなことしたことは一度もおへん。そんなことのためにうちらは厳しい修行をしてんのとちゃいます!うちのさっき言うたこと、聞いてはりましたか?もう一回、言うてさしあげまっさかい、よう、耳をかっぽじってお聞きやす。うちらは芸しか売ってまへん!」
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