第66話 (第3章)「後戻りできない事態」(七月七日)(1)

(七月七日)


 すぐにも奈理子たちが指輪を取り返しに来るかと思われたが、動きがなく一週間が経った。祇園祭の行事が近くの八坂神社で続き、花街全体が湧きたっている。その影響もあって、豆初乃は地に足がついていないような気持ちで過ごしていた。

 よく晴れた七月七日の晩は、そこかしこで七夕の笹が出ていた。花街は旧暦に従って八月に七夕をするが、お座敷に向かう途中で笹を見かけるのは風情があった。

「豆初乃はん、空を見上げてへんと。急いで、次のお座敷、押してるし」

 三味線の寿々佳お姉さんに急かされながら、豆初乃は御茶屋の松茂家へ上がった。痩せぎすと言っていいほど細い寿々佳お姉さんは、普段は組まない人だった。体があまり丈夫じゃないので休みが多いと聞いたことがある。その程度しか、豆初乃は寿々佳お姉さんのことは知らなかった。祇園祭で忙しい時期なので、人手が足りないのだ。

「おや、豆初乃さんやないか、また松茂家さんで会うとは幸運やなあ」

玄関に上がった豆初乃に、柔らかい声が降って来た。

「へえ、おかげさんでおおきに」

豆初乃は急いでいても、満面の笑みを作って振り返った。

「あ」

 と豆初乃は言ったとたんに、真顔になって前を向いて先を急ごうとした。

「おいおい。破顔一笑、愛嬌一番の豆初乃さんや、って話ちゃうんか。真顔になるなんて、ひどいやん」

相も変わらず、何を考えているのか分からない笑顔で観月若師匠は、ふざけてくる。

「あら、観月の若師匠はん。この前、テレビ拝見しましたえ。変わらず男前ですなあ。うちもお座敷に呼んどくれやっしゃ」

寿々佳お姉さんが、観月若師匠に声をかける。

「僕、自分でお座敷かけられるほど金ないしなあ。そやけど、僕がお金稼いだら、いの一番に寿々佳お姉さんに声かけてさせてもらいますわぁ」

(また、調子のええことを言うてる、紅乃お姉さんとはどないなってんねや)

心の中で毒づきながら、豆初乃は横を通り過ぎた。二階のお座敷に急ぐ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る